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およそ80年の歴史を持って、移転した築地市場。世界でも最大規模の魚のマーケットであり、この場を作り上げるものも、多くの人である事が鮮明に伝わって来るものがある。本来、築地を舞台とするならば、その働き手、つまり、販売業者や職人にスポットを当てるものである。それも、無論、ストーリーとして成される展開ではあるが、本作は、その人に対する描写というよりは、本質的な追求、があるように思える。ただ、食を貪るのは、消費者目線ではあるが、その裏には、漁業、物流、販売、料理の多くのプロが関わって居る。そこにライトを当てるという事は即ち、主客逆転であり、今まで、観えて来なかった物語が観えて来る。

良質なドキュメンタリーである。まず、主人公は皆であるので、分かり易い役者は築地に入って居る業者であるが、テーマが非常に膨大であり、食文化そのものを照らし出している。だから、主人公は築地を訪れる客であり、魚を愛好する消費者であり、それは、日本人の国民食でもあるので、そのワイドスクリーンへの広がりは、築地市場のキャパシティの大きさをそのまま示すものである。これを、誇りに思って居るのが、市場を支える人々だという事。

構成としては、登場人物が多いし、150人のインタビューを交えているので、誰か、抜きん出た主人公が居るわけでは無いのである。だが、映画としては流れがあるので、何処かで光る部分があって、その傾きに対するバランス感覚が、ストーリーの調和を生み出すと思うのだが、そこは、多部構成と言うべきか、売り場から、飲食店、場外、事務所などの、現場撮影の多面化によって、上手く、管理が成されている。だが、この公正さが、築地のイメージであり、顔役でもあるマグロの競りとか、場内にひしめいた鮮魚店の現場といった、大きなプライドの宿るシークエンスを薄める事は無く、むしろ、構成の中でちゃんと目立つように考えられている。

つまり、映画における創造主、としての権威、というよりは、極めてリアルタイムに近い活きの良いドキュメンタリーがあって、物語の展開や成熟、というよりは、これは、現場の運営という明確な視点があると思う。どういう事かと言うと、長いスパンを持って、築地市場の早朝から夕刻にかけてのルーティンを描いている、と思いきや、その時間の密度にマジックがあって、それは、一日の出来事のようであり、また、一年の集約された物語のようでもあるのだ。この手法は、創作、というよりは、現場にオリジナリティの源泉を求める事によって、引き出されるリアリティの事だろう。

インタビュワーも秀逸であり、中には、道場六三郎、服部幸應といった料理の筋金入りのビッグネームも登場するが、その存在感は公正な演出の中では、150人の中のワンオブゼムとなり、或いは、日本人の中のオーディエンスでもある、というバランスの中で生きているのだ。これは、働き方と言うだけで無く、もっと、高尚な人物観や職業が生むコミュニティの大切さがあって、その和を乱さない事が御猿裸足であって、和の一員になって行く事が一人前の証だと思う。

魚を食べろ、とか、健康食における、色々な道徳とか常識があって、職業がそのカラーを個々の社会人とか、学生インターンなどに形成して居る事は間違い無いと思う。笑顔の裏にある競争意識とか、商売人としての本心、或いは、ビジネスライクな関係性とは、映画の王道の中では、包み隠されたり、演出の中でミストを掛ける事が多い、つまり、エピソードとして優先順位が低いという事であるが、この映画は新たなキングの胎動を、凍結された氷の中から溶かし出し、新発見して居る。それは、王道に対する「逆転」であり、その演出こそが、マーケットでひた向きに働く人々を地味な存在とせず、主人公に昇華させる。

このストーリーが描きたかったもの、理解したかったものとは、現場における横軸だけでなく、時間の経過と歴史としての縦軸もあって、市場を中心の場として、何が人間の求心力となって居るか、を、築地そのものが放つカリスマとしてのイメージを大事にしながらも、始まりとしては、生命を獲らえ、捌き、売るとして、最終的には、料理し、飾り、頂くという、プロが生み出す「美味」が、魚肉のクオリティの仕分けであったり、保存方法による成熟をもたらし、消費者の口に入るという全体の流れの言及には、食の美における真実の姿がありはしないだろうか。豊富な魚の陳列や捌きの場はカラフルであり、料理に移される過程の描写も、まさに、ワンダフルだと思う。

ドキュメンタリー映画としては、ストーリーの深部への導入や成熟といった営みは、現場のもの、つまり、主人公達のキャスティングボートにあるので、そうした事から、背景にあるバッグボーンの読み、では無く、あるがままの描写を愉しめる映画作品ではある、と思う。

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普通じゃない、何もかも異常なファミリー。アダムス一家は、墓場の上に不気味さと瀟洒さをあわせ持つ黒い屋敷に住んで居た。お化け一家と呼ばれるにふさわしい、異常な人々ではあり、特に、フランス語をも操る、饒舌だが、何処かおバカな夫妻のエクスタシーは貴族への拷問をすら快楽に感じるほどの、癖があった。実は、大富豪であって金庫には莫大な金貨や財宝が納められている。そこを狙ったのが、強欲なクレイブン母子であって、その執念の策略によって、この時代錯誤でエキセントリックな「貴族の一家」は窮地に立たされる事になる。果たして、観るも不快なアダムス一家は強欲な詐欺師とどのように戦うのであろうか。

はっきり言って、ハチャメチャだが隙だらけなのが、このアダムス一家であり、特に、その原因は頭のいかれた当主ゴメズが駄目男である事にある。彼は一家の安泰をすら保つ事が出来ないので、とても弱い存在だと言える。ほとんど憎めないキャラであるのは確かだが、この不快な異様家族としては、まるで、ミスター・ビーンが家族を持ったら、恐らくは、このように大迷惑な家族が出来るだろう、というぐらいの、ある意味での千両役者ぶりなのである。

だから、平凡な感覚でこの家族を批評するのは野暮というもので、そもそも、銀幕の世界は異論を排除しないのであるが、それでも、心からエンターテイメントを楽しむのであれば、常識とは一度、おさらばする必要があるのは確かだろう。貴族とか、特権階級は嫉妬の対象となる事が多々あるから、おとなしく暮らすかと言えば、そんな自己保身は全くなく、彼らは、独自の人生を強烈な個性に恥じることなく、堂々たる生き方をしている。

このように、好意的に彼らを観ていると、このアダムス家の不気味な館は、敵から家族を守る城、というよりは、アイデアの宝庫だと観えて来るのであって、それは、小説とも映画ともなった某魔法学校の物語における、荒ぶる魔や闇の存在が、遡る事、20世紀の作品において、すでに、表現されているのである。彼の大叙事詩を彩った魔法の数々が、こんな一家が住まうぐらいの大きさの館に集約されて居れば、どうなるか、お分かりだろう。すなわち、これは、テーマパークのストーリーなのである。

貴族とは、愚かな子弟や深窓のご令嬢を生む事もあるから、普通の市民階級からは嫉まれる事もあるし、その代表格として、財産を掠め取ってやろうとする強欲の塊がクレイブン夫人であり、その手法は詐欺である。だが、ここにおいて、武器とか悪意に対して無防備なアダムス館が、その本領を発揮する。つまり、テーマパークとは、怒りや悲しみを中和すると同時に、笑いや驚きといった癒しを生み出す源泉の場である、と言う事である。

それゆえに、ストーリーとか舞台仕掛けとしては奇想天外なるも、感情的には、貴族に対する、或いは、大迷惑なホラー家族に向けられる感情的なリアリティは、ほぼ満たされている。だから、それにも関わらず、ファミリーは多くの人々を招いたり、独自の悪戯を交えた持成しをしたり、そういう善性が世の毒を解毒して居るし、めちゃくちゃ面白いのに、彼女は唯一人、強欲である猛毒を保ち続けるのである。これは、観方によっては、誰も彼女を救えないという事になり、大変、哀れではある。

それと同時に、不快に観えるアダムス一家が、本当は快楽を求めている事が対比的にとても際立って、彼らのエクセントリック性が、一種の毒の暗さに対する救いともなるのでは無いか。いずれにしても、快楽家族が世人からのリスペクトなどを受ける事は無いのだが、そもそも、偉大な人物であっても、二枚舌の大詐偽師であっても、同じ事なのでは無いか。当主のゴメズは愚かで、騙され易いが、子供たちは案外しっかりして居るというか。

面白い、破格のコメディではあるので、大変批評し易い内容ではあった。逆に言えば、批評を生む源泉としてのテーマパークには、如何なる恩恵があるか、との事を今一度、熟慮したいものである。

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スイーツ作りには、レシピはあっても、バイブルは無いのか。1959年のフランス。ある村は教会と、キリスト教を熱心に信仰するレノ伯爵の導きの下、平和が保たれていた。古い時代であるが、村の伝統的な暮らしは、さほど窮屈でも無く、それなりに幸福に観える。そこに、チョコレートを作って生計を立てる流れ者ヴィアンヌという女性がやって来る。そのチョコレートには、一粒万倍であって、元気の源となり、村人達を不思議に元気づけて、何が本当の幸せか、と言う事を村人達が考えるようになる。レノ伯爵はこれをまるで魔女、と見なして、強硬に反感を持ち、弾圧しようとする。美魔女がもたらした「小さな戦争」の武器は、ペンであり、バイブルであり、チョコレートである。不思議なチョコレートのように小粒なれど甘く成熟して行くと良いのだが。

まず、性悪説の物語とは、リアリティがあるが、救いの無い世界観である事もあると思う。自分が善いと思ってやって居る事が、必ずしも、誰か、万人受けするとは限らない。いわば、ヴィアンヌの作る幸せのチョコレートが、村のそれまでの絆や人間関係を破壊する、という、思いも寄らない反動となって発破を起こす起爆剤にすらなるのは、変化に対する過剰な警戒感のせいだ、と言えるだろう。

その基となっているのがレノ伯爵だが、小さな村ながら、瀟洒で立派な教会の責任者であるから、それまで、村が平穏無事に収まって来たやり方を変えたくは無い、のだろう。甘いもので人を幸せにする、と言う願いの為には、チョコレートがどれだけ美味であるか、による。つまり、パティシエの技術によって、味は大きく変わるけれども、村の空家となって居た古民家に、お洒落なスイーツ店をオープンさせるヴィアンヌの力量たるや、本物であって、これは、固陋な村にとって都市のポップカルチャーが一気に流入して来た事に比肩するだけの大きな変化だと言える。

どれだけ美味しいものを求めるか、と言う事が、生活を変えるのだから、村の生活に恵まれている、と考えられて来た事も十分に幸せだった、と思うが、そこに、新たなチョコレートによって、豊富な選択肢が、一つや二つでは無く、広がって行くのは、まるで、パラダイムシフトの前夜祭のようではある。パティシエとしてのヴィアンヌの腕前は申し分ないし、店も人もお洒落で当たりが良い、居心地の良い空間が村の一角に聳えるのであって、この茶色く光るスイーツが、敵対者にとっては、悪魔の誘惑にすら観えるのはいささか滑稽だ。

そこにある理由も取るに足らないが、純粋な好き嫌いで、社会的に立派であり、栄誉職である伯爵風情が、村と宗教が結び付いたアジールで長命に生き延びて行く、という、トリックがある。つまり、彼は貧乏貴族に過ぎないが、流れ者、フリーマンであるヴィアンヌにとっては、エスタブリッシュメントの側にある、一翼を担う大きな存在であり、宿命をつかさどる壁でもある。何故なら、伯爵こそが、自守の為だけに、優れたチョコレートの匠の技を、村人を誘惑する、悪魔の実、だと誇大妄想を吐くからである。だが、それは、悪魔の実、が村人達を変える薬となって居る真実の前では、正義崩れ、という思わぬ自傷となって行く。

ほとんど、これは、一方的な善と悪であって、正義の反対にあるのが悪とは限らず、異なる正義である事がほとんどであるから、その法則、をバイブルのように金言として一言一句を咀嚼するのであれば、それは生きる糧になる。まさに、バイブルを精読する為に、脳の栄養となる副産物が豊富に滋味を持った美味しいチョコレート、である事は言を俟たない、と思う。だから、ヴィアンヌがもたらした新たな選択肢は、伯爵の「ヴィアンヌが嫌い」という感情と保身だけでこきおろされ続けているロジックがあるのであって、この構図化された偽りの正義と悪との戦い、は果てが無いし、人間が秘めている生き伸びる本能の部分と、嗜好品としてのカルチャーとの対立だと思われるのであるから、伯爵もまた、生身の人間なのであって、ヴィアンヌの側が役不足、だという事だ。

扱いよう次第で、チョコレートが美食によって、生活の質を改善して、村人達を幸福にする事は言を俟たない。フリーマンであるヴィアンヌにとっては、ただチョコレートを調理し続けるだけの平穏な、木漏れ日のような暮らしがあるだけだが、伯爵には、これは、古いものを代表して背負って居る、聖戦ですらあって、そのミスマッチが最大化された事から、誇大妄想の聖戦が勝手に彼の脳内で始まって居て、それは、リアリティの視点からしても、奇妙極まる、被害妄想であり、実際には、ヴィアンヌへの加害行為であるから、狂信、の歪な感覚とは、村人達一人一人も向き合うべきで、そこには、人生を好転させる為の、権利としての選択肢があって、義務としての転換点、があるのでは無いか。

ヴィアンヌがチョコレートを作り続ける限り、伯爵の戦いは終わらないが、実に間抜けな被害妄想からの杞憂である事は明らかでは無いだろうか。そして、生活の質、の改善然り、ヴィアンヌの生産たる生きる基、というのは、多くの人の将来への航路に繋がって居るのであって、彼女一人のものでは無いのである。そして、それを敵視する伯爵の側も、酷い、感情的な烙印であるが、根本的にはフェアプレーの人であり、互いに異なるプロフェッショナルとしての最低限のマナーは持って居る。両雄並び立たず、という極限状態を物語における小さな村の問題として客観視出来る。逆に言えば、この物語はエンパシ―が少なく、少々、盛り上がりの波に欠ける「平凡な作品」だと思う。

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アメリカ国民の中でも、最大の反逆児とされるマルコムX。何が彼を英雄へと駆り立てたのか。それとも、人であったのか。そのカリスマの真相は、ストーリーの中で明らかにされて行く。どん底を味わった青春時代。熱心な牧師であり、黒人の為に働こうとした活動家の父は殺されているが、これに対して、幼少児であったマルコムは何を想っただろうか。彼は現実に絶望し、また、父とは違う自分なりの道を歩もうと四苦八苦する。果たして、マルコムはどうやって、英雄「X氏」に成ったのだろうか。

だが、彼の生き様から想われる所というのは、彼は、必ずしも、ただの不器用な不良少年では無く、悪い中にも愛されるべき気質があるのであって、そこを、見抜いた人々、大人達との出逢いに、プライドの高い彼は、徐々に気付いて行く。むしろ、彼は才のある黒人であるがゆえに、職業差別などがある現実に直面して、その中で、理想というリアリティに適応しただけでは無いか。つまり、リアリティとは戦い方の変更であり、新たなシフトを敷くという事であり、その意味で、彼の生き方は正しいと言えるのでは無いだろうか。

何故なら、彼は孤児院から始まって、鉄道の給仕、ギャング、泥棒に10年の刑務所行き、という、あらゆるどん底を知って居るからであり、これを、若さ故の剛腕だけで乗り切ったという事では無いし、力ありきゆえに、より、厳しく暗い闇に堕ちる事があるからである。彼は、何によって自分が生き延びる事が出来るか、を、慎重に本能によって見極めて居るように思われるのである。だから、厳しい渡世も、マルコムにとっては揺りかごであり、彼は、父親を白人過激派によって殺され、福を奪われた事によって、確かに一度は白人全体を恨んだ。

それは、イスラム教との出逢い、によって、熱心なムスリムとなる事で、正論のアジールがあった事で、彼は、ギャングスターの大物にも、危険なテロリストにも成らずに、生き場を得る事に成ったのでは無いか。この根底には、社会の多様性があり、シェルターとなる明確な安全地帯も必要であろうが、それよりも、アクティブに、ジャイアントに挑む事が出来る対象が居て、それに対して、フェアプレーによって対峙するチャンスを得た事が、彼を救ったのでは無いだろうか。つまり、巨星というのは、自他を磨き上げる対象であり、ここに、存在性を軽んじる事は、例えば、モラルの不毛を招く意味に成る。

だからこそ、マルコムは自らが大きな存在に成ろうとしたのであって、ここに置いて、ストイックで頑迷潔癖である宗教家の強靭さが、心に響き、また、大きなアイコンとなって、腑に落ちるのである。彼にとっての目標とは、遺伝子的にジャイアントそのものであって、手負いのビーストでは無いし、また、それが立証される事に、パトロンと言う意味で恩人でもあるギャングのボス、アーチーは彼にとっての目指すべき巨星では無かったのでは無いか。

彼は、欲望を否定するような聖人では無かったし、宗教性は父が牧師である、というだけで、彼は、唯一人の自分自身には正直に生きて居たと思う。この、英雄色を好むは、多くの人物に共通するものであって、また、何を信じているか、も、憎んでいるかも、大事の前では些事では無かろうか。常識的だとか、モラルが才人の生き様を投影して、スクリーンに映し出す事は出来るだろう。だが、現実に存在したXと、理想の世界で描写されるマルコムとは、唯一人であり、その個こそが、銀幕世界を超える大銀河の漂流者ではあるまいか。

だから、彼は、ストーリーの中で美化されているとは思わないし、だが一方で、彼の遍歴からの劇的な変化とか成長といったものも、リアリティに対応した行動の産物であって、その全てが、聖人君子のような善意によるもの、とは、さほど真実と思われないのである。つまり、彼にとっての「生きる」の意味とは、英雄の道、であって、その過激派とも観える活動を通して、自然発生的に起こったような、善と悪。つまり、彼は邪魔立てするに過ぎないものは諦観して、華麗にスルーしつつ、その受容者となるべく器があってこその、Xでは無いだろうか。それが、彼の異常なる愛と遍歴の拠り所では無いだろうか。

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王道の光と闇との戦い。呪い、という人生をゆがませる力、に対して、闇祓いをする若い呪術師達。乙骨憂太には、最強の怨霊がついて居り、様々な破壊をもたらした。呪術高専への入学とは、そんな危険を孕んだ憂太を助けるものであったが、テーマのシリアスさに対して、ストーリーのモラルは緩い。皆、自由であり、クールでキャラ立ちをしている。五条悟とか術師の教員も、義務感というよりは、自分の想うままに生きているようであるが、憂太にはそうした自由が無い。それは、彼の若者としての魅力を損ねるものだが、同時に、優しさでもあって、奇妙な事に最強の怨霊に、骨の髄まで惚れ込まれているのが、乙骨憂太という人の不思議であり、カリスマでもあった。果たして、彼は呪術高専にて何を学び、生き延びて行くのだろうか。

まず、怨霊とは、必ずしも、媒体を傷付けたり、命を奪うものでは無いようだ。憑りついて居る事でもあり、また、守って居る守護霊のようでもある。その正体は、憂太にとって何より大事な存在であり、幼くして出逢ったフィアンセであり、死せる折本里香という少女なのだ。この2人の関係は複雑である。何しろ、特級に類されるこの怨霊は、恐ろしい力を秘めており、あらゆる邪を破壊し尽くすからである。

ただ、憂太の素晴らしい事は、彼は呪いを受けているせいか、とても虚ろで、影のある存在であり、同級生からの苛めも受けているが、それを、最強の怨霊が全力を持って返り討ちにするのだから、まるで、赤子の手をひねるように簡単に守護をやってのけるのである。その破壊力とは、いつ、憂太にも降りかかるかは分からないから、この、修羅雪姫のような畏怖すべきフィアンセを、憂太は、心の底から信頼しているのである。それは、小心の裏にある彼の素晴らしい本質が明らかになる前から、分かる事である。

呪術高専に入って、憂太は自らを井の中の蛙、であった、と悟る事に成る。何故なら、そこには、先輩や同級生たち然り、呪いを武を持って抑える、能力と訓練を積んだプロフェッショナルに出逢い、思い知らされるからである。だが、それは、リアルタイムでの彼の弱さの二次証明に過ぎず、彼が絶対的な弱者だ、と言う事では無い。更には、その猛者たちの常識をすら、簡単に突き破り、徹底的な破壊をもたらす、里香の怨霊のインパクトは少しも陰らない。それどころか、天下に届く、その真の力、価値とは、実際に経験を積む事で、いよいよ、「本物である」と言う事が明らかになって行くだけだから、なのだ。

憂太のような普通の高校生が、何故、このような負荷を背負って居るのかは、明らかになって行くが、彼はアキレウスの腱である、最後の弱点であるのかも知れない。つまりは、里香の怨霊の強さに対して、憂太はその唯一の弱点に成るかも知れないのであって、実際に、その矛盾を見付け出して、ほくそ笑み、その「力」だけを欲したのが、ヒールである夏油傑である。力の信奉者であり、テロリストでもある。

だが、憂太は自身の力に対する迷いもあって、まず、「心」を求めて、求道へと歩を進めるからである。これは、一見、遠回りだが、その本質は、里香に対する純愛と一致しており、彼にとっての生命とは、まさにその愛と呪いの絆にあるからである。だから、力と心、とが必ずしも、反撥し合うとは限らないが、それでも、危険な我道に憂太が闇堕ちする事は、今となっては考えられないのだ。だから、彼が武、を発動して、生きる場を求めて行く事は、暗雲の垂れこめる策略を夏油が仕掛けて来る事に対する、生きる意志を開眼したと言えよう。

圧巻の戦闘シーンも、ロック音楽とリンクして、アクロバット満載であるが、リアルにこれは、無双状態であって、リミットが振り切れたような凄いアクションが目白押しである。憂太の守護をする里香とのシンクロは、よくあるような格ゲーの攻撃方法であり、コンビネーションだが、ジョジョのスタンドが最も近いだろうか。様々なケミストリーが垣間見えるが、この見るも恐ろしい怨霊と、美少女である里香との外見の違いは甚大に観えるが、2人のケミストリーには何の矛盾も無い。

美的なメンタリティが重んじられる求道であり、武士道のようでもあるから、このストーリーが古い世界、を基盤として居て、ナチズムの親玉のような夏油が新しい世界のラディカルで、古い世界を破壊し尽くそうとしている。

だが、新と旧、というのは、この主人公の相互的に守り合うパートナーシップにも共通しており、憂太が新、だとすれば、いわずもがな、怨霊は旧であり、現実の死を認めない、生前への未練によって呪い化して居る、と言う事であろう。そして、新と旧との融合とは、マスターピースにも観られ、映画「ラストサムライ」にて、心を呪われたオルグレン大尉が、命を張って時間を掛け、対話の努力を重ねた、その経験によって、熟して木より落ちる果実のような到達点があるのでは無いか。それを、リアリティとして具現するのは、対極の理想であり、その部品に過ぎない美的感傷とか、気の充実にあるのでは無いか。だから、本作における新と旧とは、必ずしもミスマッチでは無いのであって、むしろ、その融合こそが新たなる希望、だと言えるのでは無いだろうか。

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戦後間もない1949年のフランス。「池の底」と呼ばれる寄宿舎があり、そこでは、様々な問題を抱えた問題児たちが教育を受けていた。障害者の学校のような学びの舎であり、多くの児童らは権威的な校長を始め、寄宿舎そのものを憎んでおり、それは、舎監ら大人達への度を超えた悪戯、として、暴力にも及ぶ事があった。児童らはまだ小中学生ぐらいであり、あどけなさの残った紅顔に染まる、笑顔のまぶしい子らでもある。舎監として赴任して来たクレマン・マチューは、そうした心の面の荒廃した池の底の児童らに対して、献身的な教育を推し進める。そんな彼の最大の武器が、音楽、であった。

正直、この寄宿舎は、吹き溜まりのようであり、最悪だと言える。マチューが赴任して来たその日から、問題は始まる。校長の方針はスパルタ教育であり、目には目を、歯には歯を、と言う事で、倍返し、のような事ですらやってのける。対する、マチューは、教育者として、彼らの倍どころか、将来の指針を付けるアドヴァイス、指導をして、個々と向き合う方針を取る。

学校側とは、教育的な権力を担って居るという自覚がある場合は良いが、そうでない場合、この最悪の校長の支配する池の底では、このまま、最悪が順調に進んで行けば、愚連隊になりかねない、問題児揃いなのである。彼らは常に騒いで居て、喧嘩に悪戯、たばこは日常茶飯事だ。これは、観方によっては、寮生活が日々、キャンプのようであり、冒険に事欠かないという事だ。だが、冒険とは危険が伴うから、児童らは互いを守り合い、しばしば、横並びになって、大人から観た教育のシステム性に利用されがちなのである。

牢獄を彷彿とさせる反省室、があり、また、一糸乱れぬ支配に下に置かれた児童らは、軍隊のようである。だから、互いに戦う。しかし、それは、見せかけのモラル、忠誠心であるから、彼らが兵隊として戦う相手、悪戯の標的は、他ならぬ寄宿舎の大人達で、校長は特に嫌われている。これは、安定と平穏との間にあるイカサマのパラドックスであり、強権的な支配とは憎しみを買う事が表れている。だから、マチューが考えたのは、そんな彼らの不満の矛先を変える事で、アオハルの無駄遣い、人生の隘路に陥って、不良となり人生の迷路に堕ちないように、一つ一つの才能を見付け出し、伸ばす事によって、救済をする事。

自らを、夢破れた音楽家、と自負して居るマチューの授業は、思いの外に素晴らしいが、それは、児童らのやれば出来る、という、引き出された、若者としての潜在力であり、可能性であると思う。マチューの手に負えない存在として、モランジュやモンダン、といった、暴力も辞さない悪戯大好きな問題児があるが、鉱脈とは深いほどに、そこには、眠れる天賦の才能、もあるのだ。音楽と暴力とでは、正反対で美と醜である、とも言える。しかしながら、剛腕で強いモンダンに対しても、下と上、として、才能を見下し、美と醜とには分けないのがマチュー一流のやり方なのだ。

彼の教育方針は至って現実的であり、「草の根」で児童らをしっかり学べる普通の集団にする事だ。校長やマチューらに対してすら、叛旗を翻すカオスの軍隊のようであった吹き溜まりの児童らは、普通とは何か、に立ち返る事によって、友好的な大人達や、同輩の仲間達と協力する意味を、最後の繋がりの部分で知る。つまり、他者へのお茶目な悪意を持った攻撃する集団から、戦うのは自分とであり、内省的に普通に生きて行く事を真面目に考えられる児童らにする事を目指して行く。このプロセスが非常に面白い。

教室で指揮を執るマチューと、唄って叫ぶチームと言うべきか、児童らが美声を奏でる間は、寄宿舎を吹き溜まりだと忘れられる、木漏れ日が差すような太陽の真下、理想郷のように思えて来る。そこは、マチューの指導によって、草が芽生えて白樺の樹が生えた涼し気な大地のようにすら感じられる。そこで培われた、荒廃した想いを抱えて来た児童らが、初めて、自分達の生命の美しさに気付く。ここが居場所と、学びがあるに違いない。

コーラスでは、モランジュの天使の美声が素晴らしい。彼は、音楽家として大成出来なかったマチューが、自分の代わりに夢を叶える、希望を持って生きて欲しい、との強い願いを託された児童ではないか。ただ、彼には克服すべき深刻な欠点がある。

池の底は、映画「ハリー・ポッター」のように恵まれた育成校では無いし、それゆえに、トム・リドルのように抜けたようなエリートの卵も居ないのである。だから、そこでは、雑草ばかりの寒々しい高原から、天使の卵、を発掘したマチューの奇跡に対する感激のほど、大きな運命を感じた僥倖は、論じ切れない幸運では無いだろうか。マチューは彼への教育に特に熱を上げ、ここに、本物の信頼関係が芽生えて行く。

こうした数多の試練を乗り越えて、本物の仲間意識が芽生えたのは、児童らも同じであって、無縁という異常が溶けて行き、春の季節がやって来る。モランジュは家族にしか心を開かなかった、池の底では随一の悪質な悪戯っ子であったから、彼の将来が開けて行く事は奇跡に等しい。池の底、の誇りと成るし、また自己を卑下する音楽家崩れのマチューにとっても、生きた証を立てる幸運だ。その幸運を試す星屑は、常に自分達の小さな手中にある。寄宿舎の窓ガラスを割る為に投石を持つのではなく、足元にある大切なものを拾い集めるのである。

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