2024年10月01日 23:58
生きるなら、最高。
『101匹わんちゃん』(ウォルフガング・ライザーマン ハミルトン・ラスク クライド・ジェロニミ 監督 ビル・ピート 脚本 ドディー・スミス 原作)では、犬好きには「最高の映画アニメ」です。さすがに多産でも、101匹の犬は多すぎですから、これが、何処から集まって来たのか、誰が、何のために、であって、悪事の匂いがします。しかし、クリスチャンの世界観であって、悪に染まった神、或いは、異形の存在として、クルエラがヒール役なんですが、彼女は、妻アニータの学友であって、ファッションデザイナーという設定ですが、これが、はまり役で、『プラダを着た悪魔』のボスの女性のモデルでもある気がします。そして、実際には、アパレル界のリーダーというよりは、「魔女」を地で行くキャラが立ちまくって居ます。
つまり、人という通常の存在を越えているのが、アシュラ男爵のような白と黒とのシンメトリーのクルエラで、犬の毛皮を剝いで、101匹もの愛くるしい子犬を殺す事を公言して憚らないから、”デビルのよう”ですが、そうは”ならない”。何故なら、「クリスチャンの物語」だからで神は不可侵だという事を体現して居る、異端の神がクルエラだからだと思う。ポップなディズニー・アニメだから、宗教色が無い、ようで居て、実際には1961年の古い作品だけあって、モラルが当時における保守的なキリスト教の影響を受けている、のだと思う。
だから、白と黒とは、善悪付けがたい、という存在だという事です。そして、痛快劇というと、そういう神をしり目にして、ラドクリフ夫婦、そして、主人公の愛犬ボンゴの夫婦におけるおしどり振りが、絶妙であって、また、コメディ色としては出逢いからしてユーモアがある。だから、これは、如何にすれば、ユートピアで生きられるか、という「リアリティ」があって、そこはクリスチャンと世俗的リアリズムとのせめぎ合いがあって、また、共存の希望として人の愛、と、犬の愛、とがある。
そして、そのシンメトリーのような比較のストーリーは、ラドクリフ家とクルエラ一派にも置き換えても、ハマるものがあって、つまり、ヘイトの応酬でしかないディストピアで生きる人は、知らず知らずそうしているが、不幸が好きな訳では無い。幸福とは、101匹の子犬の群れにとっての廃墟であり、”プリズン”であるのが、クルエラ一派のアジトですから、そこは、”ブレイク”して良いのです。だから、これは、稀なことにディストピアを破壊をする痛快さと、その為には、人も子も、赤子も、そして、ペットですら愛されて、愛し合える絆が肝心だ、という事だと思います。
『恋のデ・ジャブ』(ハロルド・ライミス 監督・脚本 ダニー・ルビン 原案)では、多彩な要素が入り混じって、出来上がって居る不思議なSFラブコメディです。タイムトラベルよりも敷居が高い、と思います。何故なら、主人公のフィルが、いつまでも同じ1日しか送れない「ループ」に落ちているからで、それは、”異次元”なのかも知れませんし、何をしても、翌朝には、昨日の朝6時に還って来るのです。それが、どんどんエスカレーションを起こして、フィルは、好き放題に放蕩を尽くしたり、或いは、禁断の死の快楽、という、「闇落ちループ」を往ったり来たり、とにかく、大事にはなっても、目が覚めると生還して居る演出は飽きがこないです。
そして、何が奇抜かと言うと、ループとは「永遠の生命」を意味するものですが、フィルは不死身、必ず奇跡のスタントからも生還する自分を神さまだと思い込んだり、ちょっと首をひねるような展開もあるが、それは、同じ演出が続きながら、彼自身が迷い、欲望と哲学との間で四苦八苦して居るからです。普通なら、何をしてもループするから、リセット症候群とか中二病にもなるかも知れない。果たして、フィルが何をするか、そして、何が変わって行くかなのです。だから、永遠ループ地獄とは、生きようによっては、本当に地獄になる可能性がある、同じ出来事、「オチ」から抜けられない、という事だから、芸人殺し、とも言えるかも知れません。
しかし、素晴らしいのは、彼の中にある何か美しいものが勝つ事を模索して行く展開があるからで、これは、演出として欲望に絡め取られるし、死にたくもなるし、時の牢獄の中で自暴自棄になるのも、凡人として共感出来るものがある。しかし、その舞台の天井を突き破って行く、というか。彼は神さまだと豪語しました。それは、個人主義的な感覚に過ぎないが、何かの変化があるかも知れない。これは、「人生パズルゲーム」のような、SFコメディとしては稀な、哲学的なリアリズムがあって、つまり、フィルは生き方を真剣に考える、ようになることで、プリズンのような「時の地獄」からの逃避行よりも、その無限の住人となって、自分の中にこそある異端の神さまを豪語するエゴや、やけっぱちの人生に何かの変化を起こすのでは無いでしょうか。
『101』は、生まれたての赤ちゃん犬たちが生まれてすぐに襲って来る冒険であって、フレッシュで飽きの来ない古典アニメだと思います。決して古びては無くて新鮮です。人もペットもアオハルのようだし、犬の世界観を垣間見る、というよりは、浅い海面から彼らのワールド、をなぞる感じです。しかし、それがエンターテインメントの限界であり、また、泳ぎを楽しめる浅瀬、チルドレンも容れる「居場所」では無いか。
『恋のデ・ジャブ』は、コメディとしての「IFの界隈」であったり、永遠の生命としては、神さまを豪語するというよりは、本当は”神さまに遊ばれている”のがフィルの孫悟空張りの役者っぷりだと思う。これが、ディストピアに触れると『マトリックス』となるし、ユートピアだと『アバウト・タイム』に肉薄すると思います。しかし、天国と地獄、に対して、哲学があるし、その苦悩とは聖人君子でも無い、普通の人が恋人だけでなく、人恋しくなる、それが地獄でも萎える事のない、しぶとい、根っ子の欲望に対する処方箋、だと思います。
『101匹わんちゃん』(ウォルフガング・ライザーマン ハミルトン・ラスク クライド・ジェロニミ 監督 ビル・ピート 脚本 ドディー・スミス 原作)では、犬好きには「最高の映画アニメ」です。さすがに多産でも、101匹の犬は多すぎですから、これが、何処から集まって来たのか、誰が、何のために、であって、悪事の匂いがします。しかし、クリスチャンの世界観であって、悪に染まった神、或いは、異形の存在として、クルエラがヒール役なんですが、彼女は、妻アニータの学友であって、ファッションデザイナーという設定ですが、これが、はまり役で、『プラダを着た悪魔』のボスの女性のモデルでもある気がします。そして、実際には、アパレル界のリーダーというよりは、「魔女」を地で行くキャラが立ちまくって居ます。
つまり、人という通常の存在を越えているのが、アシュラ男爵のような白と黒とのシンメトリーのクルエラで、犬の毛皮を剝いで、101匹もの愛くるしい子犬を殺す事を公言して憚らないから、”デビルのよう”ですが、そうは”ならない”。何故なら、「クリスチャンの物語」だからで神は不可侵だという事を体現して居る、異端の神がクルエラだからだと思う。ポップなディズニー・アニメだから、宗教色が無い、ようで居て、実際には1961年の古い作品だけあって、モラルが当時における保守的なキリスト教の影響を受けている、のだと思う。
だから、白と黒とは、善悪付けがたい、という存在だという事です。そして、痛快劇というと、そういう神をしり目にして、ラドクリフ夫婦、そして、主人公の愛犬ボンゴの夫婦におけるおしどり振りが、絶妙であって、また、コメディ色としては出逢いからしてユーモアがある。だから、これは、如何にすれば、ユートピアで生きられるか、という「リアリティ」があって、そこはクリスチャンと世俗的リアリズムとのせめぎ合いがあって、また、共存の希望として人の愛、と、犬の愛、とがある。
そして、そのシンメトリーのような比較のストーリーは、ラドクリフ家とクルエラ一派にも置き換えても、ハマるものがあって、つまり、ヘイトの応酬でしかないディストピアで生きる人は、知らず知らずそうしているが、不幸が好きな訳では無い。幸福とは、101匹の子犬の群れにとっての廃墟であり、”プリズン”であるのが、クルエラ一派のアジトですから、そこは、”ブレイク”して良いのです。だから、これは、稀なことにディストピアを破壊をする痛快さと、その為には、人も子も、赤子も、そして、ペットですら愛されて、愛し合える絆が肝心だ、という事だと思います。
『恋のデ・ジャブ』(ハロルド・ライミス 監督・脚本 ダニー・ルビン 原案)では、多彩な要素が入り混じって、出来上がって居る不思議なSFラブコメディです。タイムトラベルよりも敷居が高い、と思います。何故なら、主人公のフィルが、いつまでも同じ1日しか送れない「ループ」に落ちているからで、それは、”異次元”なのかも知れませんし、何をしても、翌朝には、昨日の朝6時に還って来るのです。それが、どんどんエスカレーションを起こして、フィルは、好き放題に放蕩を尽くしたり、或いは、禁断の死の快楽、という、「闇落ちループ」を往ったり来たり、とにかく、大事にはなっても、目が覚めると生還して居る演出は飽きがこないです。
そして、何が奇抜かと言うと、ループとは「永遠の生命」を意味するものですが、フィルは不死身、必ず奇跡のスタントからも生還する自分を神さまだと思い込んだり、ちょっと首をひねるような展開もあるが、それは、同じ演出が続きながら、彼自身が迷い、欲望と哲学との間で四苦八苦して居るからです。普通なら、何をしてもループするから、リセット症候群とか中二病にもなるかも知れない。果たして、フィルが何をするか、そして、何が変わって行くかなのです。だから、永遠ループ地獄とは、生きようによっては、本当に地獄になる可能性がある、同じ出来事、「オチ」から抜けられない、という事だから、芸人殺し、とも言えるかも知れません。
しかし、素晴らしいのは、彼の中にある何か美しいものが勝つ事を模索して行く展開があるからで、これは、演出として欲望に絡め取られるし、死にたくもなるし、時の牢獄の中で自暴自棄になるのも、凡人として共感出来るものがある。しかし、その舞台の天井を突き破って行く、というか。彼は神さまだと豪語しました。それは、個人主義的な感覚に過ぎないが、何かの変化があるかも知れない。これは、「人生パズルゲーム」のような、SFコメディとしては稀な、哲学的なリアリズムがあって、つまり、フィルは生き方を真剣に考える、ようになることで、プリズンのような「時の地獄」からの逃避行よりも、その無限の住人となって、自分の中にこそある異端の神さまを豪語するエゴや、やけっぱちの人生に何かの変化を起こすのでは無いでしょうか。
『101』は、生まれたての赤ちゃん犬たちが生まれてすぐに襲って来る冒険であって、フレッシュで飽きの来ない古典アニメだと思います。決して古びては無くて新鮮です。人もペットもアオハルのようだし、犬の世界観を垣間見る、というよりは、浅い海面から彼らのワールド、をなぞる感じです。しかし、それがエンターテインメントの限界であり、また、泳ぎを楽しめる浅瀬、チルドレンも容れる「居場所」では無いか。
『恋のデ・ジャブ』は、コメディとしての「IFの界隈」であったり、永遠の生命としては、神さまを豪語するというよりは、本当は”神さまに遊ばれている”のがフィルの孫悟空張りの役者っぷりだと思う。これが、ディストピアに触れると『マトリックス』となるし、ユートピアだと『アバウト・タイム』に肉薄すると思います。しかし、天国と地獄、に対して、哲学があるし、その苦悩とは聖人君子でも無い、普通の人が恋人だけでなく、人恋しくなる、それが地獄でも萎える事のない、しぶとい、根っ子の欲望に対する処方箋、だと思います。
2024年09月27日 23:50
ナチュラルに構え、生きる。
『DUNE/デューン 砂の惑星』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ 監督 エリック・ロス ジョン・スペイツ 脚本 フランク・ハーバート 原作)では、宇宙の時代、フロンティアとなった惑星での戦争がメインテーマです。しかし、不毛でドライなだけに見える砂の惑星には、砂の民が根付いて居て、彼らは独特の文化を持って居ます。デューンの支配権や香料の富を巡って、争っているのが帝国ですが、彼らはソトからやって来た異星人です。しかし、植民地の支配権は武力による勝利、によって決しますから、砂の民もまたデューンの大自然ー砂しかないですが、、味方に付けて強かに生きています。
帝国は艦隊や軍団を持って居ますから、その陣容からしても、砂の民を敵視して居るだけでなく、砂の大地そのもの、或いは、裏ボスである砂虫ーサンドウォーム、なども”ただのモンスター”と見なして、狩りの対象と観ている。しかし、その砂の海の正と奇が引っくり返ったらどうなるでしょうか。善だと思っていたもの、悪だと敵視して居るものもまた、「思い込み」であるのかも知れない。
デューンは危険な惑星で、帝国から派遣された諸侯が治めていますが、白い肌にスキンヘッドの彼らの軍団こそが、モンスターでしょう。凄いスケールの艦隊は『スターウォーズ』の帝国軍のようでデススターのような強大な兵器も持って居ますが、面白いのは、SFでの”未来と古代が共存”して居ることです。つまり、古代とは公共事業もする事の無い砂の民の界隈ですが、「流砂の土地」を犠牲とした彼らには物は無い代わりに、戦闘技術や砂虫と共存するノウハウが素晴らしいものがあって、SFにミスマッチな剣闘士のような部隊が戦うのは、戦争を通した「対立と対話」とが両立して居るからだと思います。
これは、武に優れた精鋭の砂の民と戦う歩兵の消耗が激しいですから、圧倒的な帝国軍はデューンを空爆すれば済むのですが、全面的に砂に覆われた砂の大自然は、攻め処が無いのでしょう。公共事業で城砦も神殿も作らない地下の民である彼らを屈服させるには、地上戦が分水嶺になって居て、実際に大きなコストを負うのが「侵略側」の悲哀で、相手国のルールに従うバイアスが働くのだと思います。
『そして、バトンは渡された』(前田哲 監督 橋本裕志 脚本 瀬尾まいこ 原作)では、家族のストーリーであって、自由奔放な母・石原さとみに、夫である男性陣が翻弄され放しです、一見”悪女”と言えると思います。しかし、それは間違いで、演じているだけであって、本当は娘を愛する女性です。セレブ風を吹かせるキャラ立ちが見事で、それは、ごく自然な石原さとみの日常が見える強い個性なのですが、物語で結婚を三度もします。そして、そのいずれもが石原女史が好みそうな、従順で紳士である父親、大森南朋、市村正親、田中圭で、高校生になった頃の娘は永野芽郁です。
この女優である両人は、ビッグネームですから、その「どちらも主人公」という事です。だから、石原さとみは母として三度の結婚の理由を、その奔放な性格をキャラクターが具現します。幼少期の娘はまだかわいいだけで自我が弱いですし、男性陣は大人しめですから、彼女の一人舞台です。誰も敵いません。そして、娘は高校生となると美少女に成長して居ますが、それも、セレブを地で行く母とはちょっと違うキャラで、純朴な主人公という事で、これはつまり、ダブルプロットで時間のズレを巧みに演出とタイミングの操作によってオブラートに包みつつ、その煙幕を飾り立てるようなド派手な石原さとみの好演と、母と娘の真の姿、が重なり合って居ます。
高校で出逢った彼氏である岡田健史は、ピアノの物凄い才能の持ち主ですが、母親がストイックなだけで教育熱心ですが、実際には愛情不足であるという、一見賢母ですが、これは、石原さとみのキャラクターと正反対です。何が、本当は子供や家族の幸福に繋がるのか。その鍵はやはり、自由奔放な母が、「何か重大な事を演じている」という不都合な真実に鍵がありそうです。つまり、これも、ドライとウェットとの発想の転換があって、遊び好きなだけに見える母が、本当の姿を現す、という事で、これは、大逆転と言っても良い、キャラ立ちからすると意外性のある強い芯のある物語がやって来ます、これは真似できない人間のリアルだと思いました。
『DUNE/デューン 砂の惑星』では、宇宙時代の戦争と、征服し切れない砂の惑星の興亡劇を、帝国が抱えた矛盾へのレジスタンスとしての、人間の繋がり、秘めたる地下の英雄たち、人々の信仰心の糧があり、不毛であり豊かでもある砂の海、からしたたかに芽生えて来ます。
『そして、バトンは渡された』では、本当の姿は誰にも分からない。家族に恵まれた母親と娘の、両方の主人公が瑞々しく自由奔放に育って行くプロセスに、陽の光を当てて、その輝きの角によって観方が変わる、より深みも増す宝石があります。実は味わい深い作品だと思います。
『DUNE/デューン 砂の惑星』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ 監督 エリック・ロス ジョン・スペイツ 脚本 フランク・ハーバート 原作)では、宇宙の時代、フロンティアとなった惑星での戦争がメインテーマです。しかし、不毛でドライなだけに見える砂の惑星には、砂の民が根付いて居て、彼らは独特の文化を持って居ます。デューンの支配権や香料の富を巡って、争っているのが帝国ですが、彼らはソトからやって来た異星人です。しかし、植民地の支配権は武力による勝利、によって決しますから、砂の民もまたデューンの大自然ー砂しかないですが、、味方に付けて強かに生きています。
帝国は艦隊や軍団を持って居ますから、その陣容からしても、砂の民を敵視して居るだけでなく、砂の大地そのもの、或いは、裏ボスである砂虫ーサンドウォーム、なども”ただのモンスター”と見なして、狩りの対象と観ている。しかし、その砂の海の正と奇が引っくり返ったらどうなるでしょうか。善だと思っていたもの、悪だと敵視して居るものもまた、「思い込み」であるのかも知れない。
デューンは危険な惑星で、帝国から派遣された諸侯が治めていますが、白い肌にスキンヘッドの彼らの軍団こそが、モンスターでしょう。凄いスケールの艦隊は『スターウォーズ』の帝国軍のようでデススターのような強大な兵器も持って居ますが、面白いのは、SFでの”未来と古代が共存”して居ることです。つまり、古代とは公共事業もする事の無い砂の民の界隈ですが、「流砂の土地」を犠牲とした彼らには物は無い代わりに、戦闘技術や砂虫と共存するノウハウが素晴らしいものがあって、SFにミスマッチな剣闘士のような部隊が戦うのは、戦争を通した「対立と対話」とが両立して居るからだと思います。
これは、武に優れた精鋭の砂の民と戦う歩兵の消耗が激しいですから、圧倒的な帝国軍はデューンを空爆すれば済むのですが、全面的に砂に覆われた砂の大自然は、攻め処が無いのでしょう。公共事業で城砦も神殿も作らない地下の民である彼らを屈服させるには、地上戦が分水嶺になって居て、実際に大きなコストを負うのが「侵略側」の悲哀で、相手国のルールに従うバイアスが働くのだと思います。
『そして、バトンは渡された』(前田哲 監督 橋本裕志 脚本 瀬尾まいこ 原作)では、家族のストーリーであって、自由奔放な母・石原さとみに、夫である男性陣が翻弄され放しです、一見”悪女”と言えると思います。しかし、それは間違いで、演じているだけであって、本当は娘を愛する女性です。セレブ風を吹かせるキャラ立ちが見事で、それは、ごく自然な石原さとみの日常が見える強い個性なのですが、物語で結婚を三度もします。そして、そのいずれもが石原女史が好みそうな、従順で紳士である父親、大森南朋、市村正親、田中圭で、高校生になった頃の娘は永野芽郁です。
この女優である両人は、ビッグネームですから、その「どちらも主人公」という事です。だから、石原さとみは母として三度の結婚の理由を、その奔放な性格をキャラクターが具現します。幼少期の娘はまだかわいいだけで自我が弱いですし、男性陣は大人しめですから、彼女の一人舞台です。誰も敵いません。そして、娘は高校生となると美少女に成長して居ますが、それも、セレブを地で行く母とはちょっと違うキャラで、純朴な主人公という事で、これはつまり、ダブルプロットで時間のズレを巧みに演出とタイミングの操作によってオブラートに包みつつ、その煙幕を飾り立てるようなド派手な石原さとみの好演と、母と娘の真の姿、が重なり合って居ます。
高校で出逢った彼氏である岡田健史は、ピアノの物凄い才能の持ち主ですが、母親がストイックなだけで教育熱心ですが、実際には愛情不足であるという、一見賢母ですが、これは、石原さとみのキャラクターと正反対です。何が、本当は子供や家族の幸福に繋がるのか。その鍵はやはり、自由奔放な母が、「何か重大な事を演じている」という不都合な真実に鍵がありそうです。つまり、これも、ドライとウェットとの発想の転換があって、遊び好きなだけに見える母が、本当の姿を現す、という事で、これは、大逆転と言っても良い、キャラ立ちからすると意外性のある強い芯のある物語がやって来ます、これは真似できない人間のリアルだと思いました。
『DUNE/デューン 砂の惑星』では、宇宙時代の戦争と、征服し切れない砂の惑星の興亡劇を、帝国が抱えた矛盾へのレジスタンスとしての、人間の繋がり、秘めたる地下の英雄たち、人々の信仰心の糧があり、不毛であり豊かでもある砂の海、からしたたかに芽生えて来ます。
『そして、バトンは渡された』では、本当の姿は誰にも分からない。家族に恵まれた母親と娘の、両方の主人公が瑞々しく自由奔放に育って行くプロセスに、陽の光を当てて、その輝きの角によって観方が変わる、より深みも増す宝石があります。実は味わい深い作品だと思います。
2024年09月20日 21:04
何者とともに生きるべきか。
『アナログ』(タカハタ秀太 監督 港岳彦 脚本 ビートたけし 原作)では、純粋な愛情のストーリーです。シティライフを送る、インテリアデザイナーの悟(二宮和也)と、元ヴァイオリニストのみゆき(波瑠)との出逢い、と恋愛物語を描きます。アナログ、とは、深い訳があって、みゆきがスマホとかの連絡手段を全く持たない事を指して居て、彼女は情報社会に慣れる事で感性を鋭くする、のではなく、すでに、はやぶさのようにビュンビュンに感性が冴え渡って居る、のでしょう。元ヴァイオリニストですから、プロとしての哲学もあるからでしょう。
だから、多忙な悟に対して、何処かおっとりして居るみゆき、は、実は、マッチングが最高であって、街の「ピアノ」というカフェを生活圏として居て、そこでばったり出逢った事が、この恋愛の始まりですけど、スマホが鍵となって居るデジタルライフは、実は、人間関係の檻の中に無数の同居人を抱えるような事だと思います。そして、それは、脳内にも実は染み渡って居る規制、であって、言葉が全てを支配すると思います。そして、アナログなみゆきは、何物にも”支配されたくない”から、それは、使わなくなったスマホという、ガラクタも偽の記憶もそうだし、小さなストレスから解き放たれて居るのです。
芸術家も第一線を退けば常人なのでしょうが、この平凡なカップルのつつがない幸せとは、真似が利かないものだと思うし、失ってから分かるもの、では無く、必死に一途に追い掛ける気持ちがあって、悟はデジタルから、みゆきの「アナログな私生活」の引力に、喜悦満面に浸って居て、本当に彼女の事が好きなのだ、と思います。連絡手段が無いから、カフェ「ピアノ」しか共通の場が無く、日によっては会えない時もありますし、本心は?愛は何処にあるのか?と言う秘め事である事が、この対等かつ高級な恋愛ストーリーのハードルを上げて居ると思います。
男性は、女性から如何に大きな影響を受けているか。自分の色に染めることで、イニシアチブを取る恋愛模様もあるのでしょうが、”無機質なブルー”はカラフルでナチュラルな光の量を基調とした、あるがままの世界に帰還した、のだと思います。クールでもなく、生温いホットでも無く、人の心の体温があって、ホットマンである悟の中には熱烈な愛と想いが渦巻いて居て、それは男性らしさ、の本質なのでは無いでしょうか。では、女性らしさとは。という問いは、秘め事として隠し通すからこその、成熟した女子の気持ちであって、本心はきらきらと零れ落ちるもの、なのでしょう。そして、悟は何か大切なものを知る事で、幸せの概念をアナログに、生き方をシフトするほどまでに価値があるのでしょう。
『幽☆遊☆白書』(2023)(月川翔 監督 三嶋龍朗 脚本 富樫義博 原作)では、同タイトルの映画化作品です。OPから、人気の「暗黒武術会編」までを、かなり端折ってますが、霊界探偵となった浦飯幽助(北村匠海)の活躍、桑原和真(上杉柊平)や蔵馬、飛影などとの敵対関係から芽生えた友情や絆を、ツボを抑えて、描き切って居ます。OPで浦飯は死んでしまいますから、復活して、霊界探偵としての成長物語が急展開で、短編ドラマとしてもファンを裏切らない出来栄えだと思う。
北村が板に付いて居るヤンキー漫画、というよりはSFの設定の方が大きいと思いますが、スピリッツはヤンキーですから、浦飯は常にチャレンジャーとしての構えを崩しません。未知のもの、妖怪に対する恐れを最初は抱きますが、妖怪もまた弱い、強いといった存在の違いがあって、それでも人間社会を侵略しようとする、ただの煩悩塗れの征服欲の権化、はある意味で哀れですが。しかし、そうした人ならぬ道もあって、欲呆けに塗れた垂金権蔵とか、人間にすらあるかも知れない「酷さ」が、人間と妖怪という対立を乗り越えて、対話出来るチャレンジを出来るのが浦飯幽助だからだと思います。
垂金とかの実は小物である反社富豪の面々に対して、ストーリー上、もっと大きなヒール役は左京(稲垣吾郎)であって、彼が突然変異のような物語の全てをコントロールして居ると思います。つまり、彼はルールブックを壊そうとしている、と言う意味では、思想、価値観において決して相いれない立場であって、野心家でもある。つまり、全てを構図化して、”首括り島”への招待とか、武術大会とか、舞台芸術へと昇華させるだけの力量があるのに、或いは、人間社会を「どん底」に突き落とそうとする、異形の画策を練って、実行に移すのです。何も失うものが無い、最恐の実業家と言えるでしょう。
左京が「思想」だとすると、「武勇」での最強ライバルは戸愚呂弟(綾野剛)でしょう。彼は、左京のボディガード兼理解者のようなものであって、左京の空虚さが遠大すぎる野心にあるとすると、戸愚呂は全てを失った痛みに耐えかねた、羊のように善良な心を持った獅子である、と言えるでしょう。だから、左京とはタフさと強さの質が違っていて、全てを失った者が最強である、というロジックが、戸愚呂弟の中には隠されている。だから、戸愚呂は愛するものをロストしつつ「最強の座」に就いて居て、それが必然的に浦飯のチャレンジ精神とバッティングしたのも必然で、ブレーキを知らない暴力性は浦飯のサイドにもあるのです。
だからこそ、浦飯(北村)のカリスマ性というかヒーローぶりがあって、これは、「闇のルールブック」であるBBCの物語と真っ向から対立する形で、王道のコミックである少年ジャンプのヒロイズム、”友情・努力・勝利”、といった金言が踊らされる、或いは、圧倒的な戸愚呂との死闘でジェンガのように踊りまくって居る、のでは無いか。この実写版『幽遊白書』の世界観を描いて居るシナリオライターは、左京なのでは無いでしょうか。
『アナログ』では、生きる、事の意味と愛のある人生の真価を問うていて、自由でありながら、正しい選択がある。『幽遊白書』では、死ぬ、事のプレッシャーと進まざるを得ない道の意味を力強く描きます。厳しさ、痛みのある道を歩める事での、主人公たちの強さと、ヒールの思わぬタフさを真っ直ぐに描いて居ます。
『アナログ』(タカハタ秀太 監督 港岳彦 脚本 ビートたけし 原作)では、純粋な愛情のストーリーです。シティライフを送る、インテリアデザイナーの悟(二宮和也)と、元ヴァイオリニストのみゆき(波瑠)との出逢い、と恋愛物語を描きます。アナログ、とは、深い訳があって、みゆきがスマホとかの連絡手段を全く持たない事を指して居て、彼女は情報社会に慣れる事で感性を鋭くする、のではなく、すでに、はやぶさのようにビュンビュンに感性が冴え渡って居る、のでしょう。元ヴァイオリニストですから、プロとしての哲学もあるからでしょう。
だから、多忙な悟に対して、何処かおっとりして居るみゆき、は、実は、マッチングが最高であって、街の「ピアノ」というカフェを生活圏として居て、そこでばったり出逢った事が、この恋愛の始まりですけど、スマホが鍵となって居るデジタルライフは、実は、人間関係の檻の中に無数の同居人を抱えるような事だと思います。そして、それは、脳内にも実は染み渡って居る規制、であって、言葉が全てを支配すると思います。そして、アナログなみゆきは、何物にも”支配されたくない”から、それは、使わなくなったスマホという、ガラクタも偽の記憶もそうだし、小さなストレスから解き放たれて居るのです。
芸術家も第一線を退けば常人なのでしょうが、この平凡なカップルのつつがない幸せとは、真似が利かないものだと思うし、失ってから分かるもの、では無く、必死に一途に追い掛ける気持ちがあって、悟はデジタルから、みゆきの「アナログな私生活」の引力に、喜悦満面に浸って居て、本当に彼女の事が好きなのだ、と思います。連絡手段が無いから、カフェ「ピアノ」しか共通の場が無く、日によっては会えない時もありますし、本心は?愛は何処にあるのか?と言う秘め事である事が、この対等かつ高級な恋愛ストーリーのハードルを上げて居ると思います。
男性は、女性から如何に大きな影響を受けているか。自分の色に染めることで、イニシアチブを取る恋愛模様もあるのでしょうが、”無機質なブルー”はカラフルでナチュラルな光の量を基調とした、あるがままの世界に帰還した、のだと思います。クールでもなく、生温いホットでも無く、人の心の体温があって、ホットマンである悟の中には熱烈な愛と想いが渦巻いて居て、それは男性らしさ、の本質なのでは無いでしょうか。では、女性らしさとは。という問いは、秘め事として隠し通すからこその、成熟した女子の気持ちであって、本心はきらきらと零れ落ちるもの、なのでしょう。そして、悟は何か大切なものを知る事で、幸せの概念をアナログに、生き方をシフトするほどまでに価値があるのでしょう。
『幽☆遊☆白書』(2023)(月川翔 監督 三嶋龍朗 脚本 富樫義博 原作)では、同タイトルの映画化作品です。OPから、人気の「暗黒武術会編」までを、かなり端折ってますが、霊界探偵となった浦飯幽助(北村匠海)の活躍、桑原和真(上杉柊平)や蔵馬、飛影などとの敵対関係から芽生えた友情や絆を、ツボを抑えて、描き切って居ます。OPで浦飯は死んでしまいますから、復活して、霊界探偵としての成長物語が急展開で、短編ドラマとしてもファンを裏切らない出来栄えだと思う。
北村が板に付いて居るヤンキー漫画、というよりはSFの設定の方が大きいと思いますが、スピリッツはヤンキーですから、浦飯は常にチャレンジャーとしての構えを崩しません。未知のもの、妖怪に対する恐れを最初は抱きますが、妖怪もまた弱い、強いといった存在の違いがあって、それでも人間社会を侵略しようとする、ただの煩悩塗れの征服欲の権化、はある意味で哀れですが。しかし、そうした人ならぬ道もあって、欲呆けに塗れた垂金権蔵とか、人間にすらあるかも知れない「酷さ」が、人間と妖怪という対立を乗り越えて、対話出来るチャレンジを出来るのが浦飯幽助だからだと思います。
垂金とかの実は小物である反社富豪の面々に対して、ストーリー上、もっと大きなヒール役は左京(稲垣吾郎)であって、彼が突然変異のような物語の全てをコントロールして居ると思います。つまり、彼はルールブックを壊そうとしている、と言う意味では、思想、価値観において決して相いれない立場であって、野心家でもある。つまり、全てを構図化して、”首括り島”への招待とか、武術大会とか、舞台芸術へと昇華させるだけの力量があるのに、或いは、人間社会を「どん底」に突き落とそうとする、異形の画策を練って、実行に移すのです。何も失うものが無い、最恐の実業家と言えるでしょう。
左京が「思想」だとすると、「武勇」での最強ライバルは戸愚呂弟(綾野剛)でしょう。彼は、左京のボディガード兼理解者のようなものであって、左京の空虚さが遠大すぎる野心にあるとすると、戸愚呂は全てを失った痛みに耐えかねた、羊のように善良な心を持った獅子である、と言えるでしょう。だから、左京とはタフさと強さの質が違っていて、全てを失った者が最強である、というロジックが、戸愚呂弟の中には隠されている。だから、戸愚呂は愛するものをロストしつつ「最強の座」に就いて居て、それが必然的に浦飯のチャレンジ精神とバッティングしたのも必然で、ブレーキを知らない暴力性は浦飯のサイドにもあるのです。
だからこそ、浦飯(北村)のカリスマ性というかヒーローぶりがあって、これは、「闇のルールブック」であるBBCの物語と真っ向から対立する形で、王道のコミックである少年ジャンプのヒロイズム、”友情・努力・勝利”、といった金言が踊らされる、或いは、圧倒的な戸愚呂との死闘でジェンガのように踊りまくって居る、のでは無いか。この実写版『幽遊白書』の世界観を描いて居るシナリオライターは、左京なのでは無いでしょうか。
『アナログ』では、生きる、事の意味と愛のある人生の真価を問うていて、自由でありながら、正しい選択がある。『幽遊白書』では、死ぬ、事のプレッシャーと進まざるを得ない道の意味を力強く描きます。厳しさ、痛みのある道を歩める事での、主人公たちの強さと、ヒールの思わぬタフさを真っ直ぐに描いて居ます。
2024年09月17日 13:21
夢と幻のごとく。
『劇場版 HUNTER×HUNTER 緋色の幻影』(佐藤雄三 監督 米村正二 脚本 富樫義博 原作)では、アニメ版からのスピンオフです。敵役としては人気の「幻影旅団」との戦いのサイドストーリーであって、No.4のオモカゲというドロップアウトした人物の暗躍にスポットが当たる。オモカゲは忍ぶ人であって、人形使いとしては世界でも最高峰の術士で、ゴンたちから大事なのものを奪い、思わぬ展開を序幕からリードするが、ハンターとして恐さは十分だ。一匹オオカミで友達は居ない、幻影旅団ですら彼には人形造りの為のサンプルに過ぎなかった。旅団は敵役ながら、クールで仲間意識が強くて大事なものを持って居るから、ゴンたち主人公を補完する役割を持って居るし、ファン人気もある。
しかし、オモカゲは完全なヒールだ。旅団のタトゥーである「蜘蛛」とは、仲間を覆い守り合う鋼の”盟約”だとすると、彼の「蜘蛛の巣」は、獲物となったものを敵味方問わず、全て絡め取る”罠”なのだと思う。そして、それにはゴンたちと旅団との対決を観ていて、クラピカとの因縁も目撃したという事だから、彼もまた事件や強いものに対しては、誰よりも貪欲なのだと思う。欲は強さ、人形使いは戦闘には不向きだが、彼の情報収集力は誰よりも正確でゴンたちを視界にとらえた、という事だから、彼と旅団との関係は、サンプルとしての人形使いのマウントで、その罠に見事なタイミングではまったのがゴンたちだった、という事だろう。
オモカゲは不幸自慢の自虐的な人で、ゴンたちを縛り付けるだけの重力があって、運命のヒト、快男児であるゴンとは光と影であって、その出逢いに必然性は無いのかも知れない。しかし、思わぬ敵との出逢いとは、理不尽なことが当り前であって、オモカゲも荷物を抱え、芸術の為に全てを捨てる珍しい人だ。だから、彼は、ゴンにとっては、ヒソカとかイルミの側に居る好敵手だと思う。ゴン、キルアの、対決の痛みはとてもリアルで厳しさがあって、ライバルに感謝、とか、楽観視は出来ないが、ゴンーヒソカ、キルアーイルミ、に対応するのが、クラピカーオモカゲ、の天井、であり、地下では無いだろうか。
オモカゲの妹のレツもまた、人形使い、との事になって居るが、彼女はいたって普通である。望まなかったこと、望んで居た事はある。それは、普通であるレツから観た兄が、どれだけ暗い沼のような精神を持って居るのか。湖底にある城はやはり幻影であり、彼の「コレクション=偽の旅団」を正答に鑑定出来る目利きは居ない。つまり、人形使いが彼の職業であり、能力であるが、彼自身は芸術にすら命を捨てられる「乱のヒト」では無いか。この兄妹は光と影で似ても似つかない、しかし、レツの失われた目に、新しい目を取り戻すという、約束事があって、それを絆に昇華させているのが、レツの嫋やかさ明るさだと思う。
『その男凶暴につき』(北野武 監督・脚本)では、北野監督の第一作と言うことで、途轍もない試験的な試みであって、映画作品としてはマルチタレントの域を超えているプロフェッショナルな仕事だと思う。斬り込みのようなもので、成功するか失敗するか、は未知数で、駄作だったら次は無いだろうから、マイナーな役者が多数起用されるものの、これは”スター軍団”に引け劣らない、決死のガダルカナルの”オールスター”揃いだと思う。たけしも主演を務め、芦川誠、寺島進とか軍団のメンバーも少し居る、白竜、遠藤憲一らも今のような実力派として定着する前日譚であろう。
オスの映画、全員悪人、は、たけしの映画では金言だが、それは、「オス=悪」という先入観によるものだ。人間社会では、サラリーマン勤めが普通であり、気が荒いにしても、何らかの仕事には就いて居て、嫌な上司が居ても、仲間とぶつくさ文句を垂れながらも、我慢できる分は勤めあげるのが人生だろう。「凶暴」につき、とは、ビーストとしてのたけしの事をオス、として昇華して居るのは言うまでもないが、それに対抗するのが白竜である。そして、たけしは刑事で、白竜は実業家に飼われている殺し屋であって、麻薬密売や暴力のノウハウについては申し分のない手練れである。
そして、普通じゃない、から、この両人は、中途半端な上司の下でいつまでも飼い殺しになって居る訳では無いのである。
署長は佐野史郎で、反社実業家が岸部一徳であって、ハマり役ではあるが、ビーストである両人、によって喰われ気味であるのは言を俟たない。ベテランですから演技は素晴らしいが、たけしと白竜の力を抑え込めるほどの器ではない、という事だ。岸部一徳の前でスーツを着た白竜は如何にも窮屈そうで、SOSでは無いが、たけしとの出逢いによって、何か彼の本能に働き掛けるケミカルが起きた。だから、猛獣としての「誰が一番凶暴なのか」という、力と力の競り合い、アンフェアなレースであって、そこには、この両人だけでなく、密売をストーリーの核として、様々な凶悪犯とかそれへの捜査での成功と失敗とが、ビビッドに描かれて居る。
ストーリーとしての型はしっかりして居る。それは、つまり、構成や中身であって、コンテンツの核がマンパワーにあるのは言うまでもなくて、つまり、たけしのような荒ぶる刑事のエピックであって、孤軍奮闘である。だが、起承転結で、彼にも変化が訪れるが、刑事で居た時期は警察組織という法が、どれだけ影で我妻(たけし)兄妹を守ってくれていたか、という事である。実際に、白竜との対立にブレーキが無くなり、エスカレーションを起こしたのも状況が変わってからである。そして、抗争によってコンテンツの核を担っていた存在が、殺されるかも知れない、代償としてのディストピアだろうが、警察とか会社とかの組織、運営して行くだけの「型」だけは残った。それにとんと気付かない芦川誠の余裕綽々たる態度と、そこから想定される流転の描写には”オチ”がしっかり付いて居る、と思います。
『劇場版 HUNTER×HUNTER 緋色の幻影』は、クラピカと幻影旅団とのけじめとしては、始まりの一歩だと思います。幻影のなかの影たるフィクサーと戦うことで、ゴンたちも旅団も、過去の遺物とのけじめを双方が付けたい、という心ありきだと思う。『その男凶暴につき』では、異彩を放って居ますが、実は、日本中に眠って居るオスのDNAが、本心としてはやりたいと思って居る事を、やりたい放題やってしまった事で喝采を浴びるべく、「オトコたちの映画」だと思います。
『劇場版 HUNTER×HUNTER 緋色の幻影』(佐藤雄三 監督 米村正二 脚本 富樫義博 原作)では、アニメ版からのスピンオフです。敵役としては人気の「幻影旅団」との戦いのサイドストーリーであって、No.4のオモカゲというドロップアウトした人物の暗躍にスポットが当たる。オモカゲは忍ぶ人であって、人形使いとしては世界でも最高峰の術士で、ゴンたちから大事なのものを奪い、思わぬ展開を序幕からリードするが、ハンターとして恐さは十分だ。一匹オオカミで友達は居ない、幻影旅団ですら彼には人形造りの為のサンプルに過ぎなかった。旅団は敵役ながら、クールで仲間意識が強くて大事なものを持って居るから、ゴンたち主人公を補完する役割を持って居るし、ファン人気もある。
しかし、オモカゲは完全なヒールだ。旅団のタトゥーである「蜘蛛」とは、仲間を覆い守り合う鋼の”盟約”だとすると、彼の「蜘蛛の巣」は、獲物となったものを敵味方問わず、全て絡め取る”罠”なのだと思う。そして、それにはゴンたちと旅団との対決を観ていて、クラピカとの因縁も目撃したという事だから、彼もまた事件や強いものに対しては、誰よりも貪欲なのだと思う。欲は強さ、人形使いは戦闘には不向きだが、彼の情報収集力は誰よりも正確でゴンたちを視界にとらえた、という事だから、彼と旅団との関係は、サンプルとしての人形使いのマウントで、その罠に見事なタイミングではまったのがゴンたちだった、という事だろう。
オモカゲは不幸自慢の自虐的な人で、ゴンたちを縛り付けるだけの重力があって、運命のヒト、快男児であるゴンとは光と影であって、その出逢いに必然性は無いのかも知れない。しかし、思わぬ敵との出逢いとは、理不尽なことが当り前であって、オモカゲも荷物を抱え、芸術の為に全てを捨てる珍しい人だ。だから、彼は、ゴンにとっては、ヒソカとかイルミの側に居る好敵手だと思う。ゴン、キルアの、対決の痛みはとてもリアルで厳しさがあって、ライバルに感謝、とか、楽観視は出来ないが、ゴンーヒソカ、キルアーイルミ、に対応するのが、クラピカーオモカゲ、の天井、であり、地下では無いだろうか。
オモカゲの妹のレツもまた、人形使い、との事になって居るが、彼女はいたって普通である。望まなかったこと、望んで居た事はある。それは、普通であるレツから観た兄が、どれだけ暗い沼のような精神を持って居るのか。湖底にある城はやはり幻影であり、彼の「コレクション=偽の旅団」を正答に鑑定出来る目利きは居ない。つまり、人形使いが彼の職業であり、能力であるが、彼自身は芸術にすら命を捨てられる「乱のヒト」では無いか。この兄妹は光と影で似ても似つかない、しかし、レツの失われた目に、新しい目を取り戻すという、約束事があって、それを絆に昇華させているのが、レツの嫋やかさ明るさだと思う。
『その男凶暴につき』(北野武 監督・脚本)では、北野監督の第一作と言うことで、途轍もない試験的な試みであって、映画作品としてはマルチタレントの域を超えているプロフェッショナルな仕事だと思う。斬り込みのようなもので、成功するか失敗するか、は未知数で、駄作だったら次は無いだろうから、マイナーな役者が多数起用されるものの、これは”スター軍団”に引け劣らない、決死のガダルカナルの”オールスター”揃いだと思う。たけしも主演を務め、芦川誠、寺島進とか軍団のメンバーも少し居る、白竜、遠藤憲一らも今のような実力派として定着する前日譚であろう。
オスの映画、全員悪人、は、たけしの映画では金言だが、それは、「オス=悪」という先入観によるものだ。人間社会では、サラリーマン勤めが普通であり、気が荒いにしても、何らかの仕事には就いて居て、嫌な上司が居ても、仲間とぶつくさ文句を垂れながらも、我慢できる分は勤めあげるのが人生だろう。「凶暴」につき、とは、ビーストとしてのたけしの事をオス、として昇華して居るのは言うまでもないが、それに対抗するのが白竜である。そして、たけしは刑事で、白竜は実業家に飼われている殺し屋であって、麻薬密売や暴力のノウハウについては申し分のない手練れである。
そして、普通じゃない、から、この両人は、中途半端な上司の下でいつまでも飼い殺しになって居る訳では無いのである。
署長は佐野史郎で、反社実業家が岸部一徳であって、ハマり役ではあるが、ビーストである両人、によって喰われ気味であるのは言を俟たない。ベテランですから演技は素晴らしいが、たけしと白竜の力を抑え込めるほどの器ではない、という事だ。岸部一徳の前でスーツを着た白竜は如何にも窮屈そうで、SOSでは無いが、たけしとの出逢いによって、何か彼の本能に働き掛けるケミカルが起きた。だから、猛獣としての「誰が一番凶暴なのか」という、力と力の競り合い、アンフェアなレースであって、そこには、この両人だけでなく、密売をストーリーの核として、様々な凶悪犯とかそれへの捜査での成功と失敗とが、ビビッドに描かれて居る。
ストーリーとしての型はしっかりして居る。それは、つまり、構成や中身であって、コンテンツの核がマンパワーにあるのは言うまでもなくて、つまり、たけしのような荒ぶる刑事のエピックであって、孤軍奮闘である。だが、起承転結で、彼にも変化が訪れるが、刑事で居た時期は警察組織という法が、どれだけ影で我妻(たけし)兄妹を守ってくれていたか、という事である。実際に、白竜との対立にブレーキが無くなり、エスカレーションを起こしたのも状況が変わってからである。そして、抗争によってコンテンツの核を担っていた存在が、殺されるかも知れない、代償としてのディストピアだろうが、警察とか会社とかの組織、運営して行くだけの「型」だけは残った。それにとんと気付かない芦川誠の余裕綽々たる態度と、そこから想定される流転の描写には”オチ”がしっかり付いて居る、と思います。
『劇場版 HUNTER×HUNTER 緋色の幻影』は、クラピカと幻影旅団とのけじめとしては、始まりの一歩だと思います。幻影のなかの影たるフィクサーと戦うことで、ゴンたちも旅団も、過去の遺物とのけじめを双方が付けたい、という心ありきだと思う。『その男凶暴につき』では、異彩を放って居ますが、実は、日本中に眠って居るオスのDNAが、本心としてはやりたいと思って居る事を、やりたい放題やってしまった事で喝采を浴びるべく、「オトコたちの映画」だと思います。
2024年09月15日 01:00
女の無双、男の無双。
『スオミの話をしよう』(三谷幸喜 監督・脚本)では、男女の恋愛における真剣勝負ですが、そういう純情とか正直さに対する「挑戦状」だと思います。これは、スオミが”幾度も結婚”までして居るから、男性にしてみれば、女性の裏切りはアクセサリーとかダイヤモンド、という事かも知れず、また、原石とを見分ける。4人目の夫である西島秀俊が意中にあった「理想の女」は、他人のものになっても、自分のもの、という愛する事を知らずに育って、それは、自分を愛する、という事なのです。
付き合う男によって、趣味や態度を合わせるとかは、良くある話ですが、これは長澤まさみが、キャラまでをも七変化する、臨機応変に操って居るので、「前代未聞の女傑」のストーリーであり、そこには、愛も星のかけらとなって零れている、流れているかも知れません。しかし、それは決して、涙では無く、女の武器は涙化粧を含めた、悪女としての素質、にあって、スオミはその条件を満たしている、”レアキャラ”だと思う。
物語の随所に、映画『天国と地獄』とか『羅生門』でもありますし、或いは『HANA-BI』の絵の代わりに宇賀神(小林隆)の書いた詩が飾ってあります。つまり、レガシーのオマージュがちりばめられて、ディープさがちょっと水増しされている。誘拐事件と犯人からの電話、盗聴、そして、嘘を重ねたうそうそは、人間群像の意外性と深みを増す試みですが、それは、暗い部分では無く、全ての役者にスポットライトを当てているので、才気煥発なのか、それとも、平凡な女性であるのか、が分からないスオミ、の面妖さが、強烈な魅力となって、「分からない人間に惹かれる」事の面白みを、スマートかつコミカルに描いて居る。
あと、遠藤憲一のラジー賞ぶりの演技が、ズレている不協和音にならないのは、三谷監督のマイワールドの明るさ、包み込むものの力、という事だと思います。長澤まさみからはおっさん、と悪態をつかれる、彼のすっとぼけた役柄は、対する、セレブの宇賀神が築いた城であり、愛の仮初めの姿、言葉の流れのように移ろう気まぐれな心を反射する。真実は、水面に移る”湖底の城”であり、今はまやかしの姿なのです。
『3時10分、決断のとき』(ジェームズ・マンゴールド 監督 ハルステッド・ウェルズ マイケル・ブラント デレク・ハース 脚本 エルモア・レナード 原作)では、アメリカの西部時代であり、南北戦争から帰って来た父親ダン・エヴァンス(クリスチャン・ベール)の雄姿、生き様と、強盗団のボスであるベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)の不毛な世界での出逢いと、衝突、友情、運命の明暗における、西の大地の危険さと開拓民の希望を瑞々しく描きます。
ウェイドの圧倒的な力、というか、アクションも多彩で魅せますが、その人物的なスケールの壮大さ、が群を抜いて居ます。牛の群れの事ではありませんが、南北戦争の名狙撃手であったダンは片足を負傷して居ますが、そんな痛みは感じさせません。ただ、時代が不条理で、農夫である彼は遠い隣人に水源を止められた事によって困窮します。搾取される側です。それに対して、ウェイドは名の知れ渡ったボスですから、歯牙にもかけていないし、彼は、アッティラのような人物で、必ずしも話が一切通じないただの悪党と言う訳でも無いのですが、逆鱗があって怒りに触れると「敵」と認められて、徹底的に叩きのめして、必ず殺してしまいます。この危険なカリスマからは「オス」である事がひしひしと伝わって来ます。
だから、善も悪も無いと、中立的な態度ですが、ウェイドの場合はビーストとして、人の弱みとか痛みに対する嗅覚が非常に鋭いので、それは、ハンターの視野よりももっと長射程かも知れません。つまり、シーフは鼻が利く強盗団も異端なので、アリゾナの広大な不毛の地において、生き延びる為に”仕事”を重ねて居ます。ウェイドがそのボスに収まったのは、”同族”であるからに過ぎず、好んで犯罪を生業とする悪党になったのでは無いと思う。
その子分には危険なチャーリーとか、必ずしも、大器ウェイドが好みそうにない「残酷なだけの問題児」も居るのですが、アリゾナのドライランドのような田舎で、水にすら欠乏する貧農夫である無辜のダン父子共々、思わぬ運命が描かれます。それに対して、「大物」がどのような反応をするのか、なのです。だから、「決断」とは彼が自らが下します。連行される囚人ですが、自分の裁判をすら決断してしまう。つまり、ルールブックを叩きのめす事が可能なだけの豪腕と器が備わって居る、それに対する説得力も不要のスケールで、観るも痛快な好男児だと思います。
『スオミの話をしよう』は、人格的スケールで峰不二子が男性陣を無双するようなもので、好きかどうかはあるかも知れませんが、僕は好意的に受け止めた物語となりました。『3時10分、決断のとき』は、ラッセル・クロウの横暴、と言えばそうですが、それは、他のオスを侵す、耐えたり、無情に殺す、という事では無くて、暴れ牛の群れの事ですね。ウェイドは手の付けられない暴れ牛達をすら心服させる、超一流のリーダーだと思います。そして、彼は一人なのです。良い意味で。
『スオミの話をしよう』(三谷幸喜 監督・脚本)では、男女の恋愛における真剣勝負ですが、そういう純情とか正直さに対する「挑戦状」だと思います。これは、スオミが”幾度も結婚”までして居るから、男性にしてみれば、女性の裏切りはアクセサリーとかダイヤモンド、という事かも知れず、また、原石とを見分ける。4人目の夫である西島秀俊が意中にあった「理想の女」は、他人のものになっても、自分のもの、という愛する事を知らずに育って、それは、自分を愛する、という事なのです。
付き合う男によって、趣味や態度を合わせるとかは、良くある話ですが、これは長澤まさみが、キャラまでをも七変化する、臨機応変に操って居るので、「前代未聞の女傑」のストーリーであり、そこには、愛も星のかけらとなって零れている、流れているかも知れません。しかし、それは決して、涙では無く、女の武器は涙化粧を含めた、悪女としての素質、にあって、スオミはその条件を満たしている、”レアキャラ”だと思う。
物語の随所に、映画『天国と地獄』とか『羅生門』でもありますし、或いは『HANA-BI』の絵の代わりに宇賀神(小林隆)の書いた詩が飾ってあります。つまり、レガシーのオマージュがちりばめられて、ディープさがちょっと水増しされている。誘拐事件と犯人からの電話、盗聴、そして、嘘を重ねたうそうそは、人間群像の意外性と深みを増す試みですが、それは、暗い部分では無く、全ての役者にスポットライトを当てているので、才気煥発なのか、それとも、平凡な女性であるのか、が分からないスオミ、の面妖さが、強烈な魅力となって、「分からない人間に惹かれる」事の面白みを、スマートかつコミカルに描いて居る。
あと、遠藤憲一のラジー賞ぶりの演技が、ズレている不協和音にならないのは、三谷監督のマイワールドの明るさ、包み込むものの力、という事だと思います。長澤まさみからはおっさん、と悪態をつかれる、彼のすっとぼけた役柄は、対する、セレブの宇賀神が築いた城であり、愛の仮初めの姿、言葉の流れのように移ろう気まぐれな心を反射する。真実は、水面に移る”湖底の城”であり、今はまやかしの姿なのです。
『3時10分、決断のとき』(ジェームズ・マンゴールド 監督 ハルステッド・ウェルズ マイケル・ブラント デレク・ハース 脚本 エルモア・レナード 原作)では、アメリカの西部時代であり、南北戦争から帰って来た父親ダン・エヴァンス(クリスチャン・ベール)の雄姿、生き様と、強盗団のボスであるベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)の不毛な世界での出逢いと、衝突、友情、運命の明暗における、西の大地の危険さと開拓民の希望を瑞々しく描きます。
ウェイドの圧倒的な力、というか、アクションも多彩で魅せますが、その人物的なスケールの壮大さ、が群を抜いて居ます。牛の群れの事ではありませんが、南北戦争の名狙撃手であったダンは片足を負傷して居ますが、そんな痛みは感じさせません。ただ、時代が不条理で、農夫である彼は遠い隣人に水源を止められた事によって困窮します。搾取される側です。それに対して、ウェイドは名の知れ渡ったボスですから、歯牙にもかけていないし、彼は、アッティラのような人物で、必ずしも話が一切通じないただの悪党と言う訳でも無いのですが、逆鱗があって怒りに触れると「敵」と認められて、徹底的に叩きのめして、必ず殺してしまいます。この危険なカリスマからは「オス」である事がひしひしと伝わって来ます。
だから、善も悪も無いと、中立的な態度ですが、ウェイドの場合はビーストとして、人の弱みとか痛みに対する嗅覚が非常に鋭いので、それは、ハンターの視野よりももっと長射程かも知れません。つまり、シーフは鼻が利く強盗団も異端なので、アリゾナの広大な不毛の地において、生き延びる為に”仕事”を重ねて居ます。ウェイドがそのボスに収まったのは、”同族”であるからに過ぎず、好んで犯罪を生業とする悪党になったのでは無いと思う。
その子分には危険なチャーリーとか、必ずしも、大器ウェイドが好みそうにない「残酷なだけの問題児」も居るのですが、アリゾナのドライランドのような田舎で、水にすら欠乏する貧農夫である無辜のダン父子共々、思わぬ運命が描かれます。それに対して、「大物」がどのような反応をするのか、なのです。だから、「決断」とは彼が自らが下します。連行される囚人ですが、自分の裁判をすら決断してしまう。つまり、ルールブックを叩きのめす事が可能なだけの豪腕と器が備わって居る、それに対する説得力も不要のスケールで、観るも痛快な好男児だと思います。
『スオミの話をしよう』は、人格的スケールで峰不二子が男性陣を無双するようなもので、好きかどうかはあるかも知れませんが、僕は好意的に受け止めた物語となりました。『3時10分、決断のとき』は、ラッセル・クロウの横暴、と言えばそうですが、それは、他のオスを侵す、耐えたり、無情に殺す、という事では無くて、暴れ牛の群れの事ですね。ウェイドは手の付けられない暴れ牛達をすら心服させる、超一流のリーダーだと思います。そして、彼は一人なのです。良い意味で。
2024年09月13日 13:18
歴史の法廷、は、人と、時代柄とを判断する。
『死刑台のエレベーター』(ルイ・マル 監督 ロジェ・ニミエ 脚本 ノエル・カレフ 原作)では、フランス、パリが舞台です。とある殺人事件に関わったエリートサラリーマンを巡る、複雑ながらちょっとお間抜けな”一夜の顛末”を描きます。これは、主人公のジュリアンが、完全犯罪に成功したのか、失敗したのか、が、彼の後の人生を変えるから、あらゆる逆境も必死です。エレベーターが象徴的で、それは、一本線に乱高下するエリートの人生の浮き沈みを意味して居る、そして、元仏軍人で相当に名を馳せたジュリアンが、何を求めてハイリスクローリターンな犯罪を計画したのかが謎です。
ミーハーな視点では、彼には一点の曇りもない、サラリーマンとして順風満帆な人生を送って居るから、ヘマなどはしないだろう、と思う。しかし、彼は、”落とし穴に近い”位置に居ます。エレベーターに閉じ込められたのですが、それは、軍役経験のあるプロが犯すミスにしては初歩的すぎて、普通の泥棒でもこんなミスはほとんど無いでしょう。そして、そんなジュリアンに絡んで来る無知な若者ルイ・ジョルジュは正反対を往く存在で、ジュリアンの愛車を盗んで、豪遊するという対比的な一夜を送る、のですが、それが果たして幸運だったのか、無辜なルイには強すぎる刺激だったのでは無いか。盗んだ車で走り出すー、特別な夜にも「突き抜けたもの」はありません。誰もが因果を背負って居る。だから物語は彩りを増す道徳的な作品です。
ジュリアンがプロだとすると、ルイは高級車も似合わない、まだ低年次の大学生ぐらいで、完全な素人だと言えると思います。そして、この物語の特徴は、プロも素人も絡め取られる、手を焼くような大事には手を出さないのが一番だという事ですが、ジュリアンのミスが余りにチョンボなので、そういう小さなミスで一夜漬けとなって苦しんでいる彼はとても不憫です。満ちたる小さな舞台で会社ビルとエレベーターという、事ですから、限定的な舞台設定で印象深い「悪夢の夜」を演出できているのは、地頭と忍耐力が俳優陣にあると思う。
対比的に、ルイは満ちたるを知らない、我がまま放題な若者です。ジュリアンから盗んだ高級車はセレブリティへの招待状ですが、作法知らずで恥をかきます、所詮は、猿回しの道具だけを与えられて、立派に見えても、使いこなす知恵や経験が無いのです。ルイのデートに連れ添った彼女もちょっと不憫ですね。花屋である若いベロニクですが、偶然にもジュリアンのパートナーであるフロランス夫人を見知って居ます。
一夜にして、豪遊でいい気になって居たルイも、閉じ込められたジュリアンにも、竜宮城の”プレゼント”として、何が手渡されるでしょうか。そのシビアさには「社会派」の片鱗も見えますが、最大の不運な人はやはりジュリアンで、これは、品格の高いフランス映画としては、結構珍しい、嫉妬とかルサンチマンを肩代わりするような、因果応報の映画では無いかな、と思います。
『ミッドウェイ』(2019)(ローランド・エメリッヒ 監督 ウェズ・トゥック 脚本)では、太平洋戦争での、日米の激戦となったミッドウェイ海戦を、「戦争からの怒り」では無く、ハードボイルド調に描きます。個々の人間群像を俯瞰視する形で、自由自在に、ブンブンと飛翔する航空機による「三次元戦」の象徴のようです。高度な頭脳戦、の雰囲気を醸した、戦争心理を割とディープに描いて居ると思う。アメリカ側の視点で偏って居るとの批評が多いですが、山本五十六とか日本側の提督や軍人たちが「ビッグネームな俳優陣」で固められて、対する、主人公であるアメリカ側はさほど大物が居ませんのが、配役の妙、だと思います。これはつまり、英雄とは戦争で果たした役割や、敵艦を沈めたとかの功績によって、主人公たるヒーローが無数に生まれ得る、との”演出”狙いかも知れません。
ハードボイルドですから、日米の誰もが、特に提督クラスはクールです。日本空母に対して急降下する航空機パイロットで、弾幕を恐れない熱血漢とか、戦場にはそういう熱っぽい武勇伝が漂って居ますが、正義を問うとか、政治的に解決する兆しがほぼ観えません。これは、アメリカ側としては、日本との講和は相手国が降伏しない以上は、真珠湾の件もあるしあり得なかった、という本心を理由とすると思います。そして、底流にある日本制覇、という野心も裏面に見える気がします。そういう意味では、ルーズベルト大統領も偉大なのでしょうが、もっと大切なのは、現場で槍働きをする軍人であり、その血の犠牲を尊いと感じるも、”激戦のスモーク”の中に、無数の生命の光は閉ざされる、そんなダークサイドの瞬間が、戦場の苛酷さにはあるのでは無いでしょうか。
真珠湾攻撃からミッドウェイ海戦に至るまでの日本軍の優位は、アメリカをすら圧倒して居ましたが、これは、軍国主義国の全力であり、常に「渾身の一撃」で巨人に立ち向かうようなもので、アメリカというゴリアテは”握り拳”が見えていただけで、本当はその巨体には武器を持つ両手両足があって、賢明かつ理性的な頭脳が備わって居た。それに対する、日本というダビデには、正義とか国民の士気依存であって、その戦力には内実が伴わない空虚なパワーバランスだったと思います。
そして、これは、戦争を美化する映画では無いと思いますが、やや、エンターテインメント色が強いので、アメリカ人好みの映画でもある。ミッドウェイの生き残り、そういった英雄的行為をした人々が、自らの勇気や幸運を称えて、より、愛国心を持つのは自然な流れだと思いますから、ヒーローを生むのはフェアに命を懸け合った、日米の乾坤一擲の決戦、に全てが集約されている、と思います。日本とのフェアな関係があって、それは、戦闘中だけでなく、開戦前での”話し合いの機会”もあって、山本提督ら双方の高官が立ち会えたのです。だから、この映画で、日本側に人間としてのドラマが無い、というのは、戦勝国の露骨なプロパガンダだ、という事では無く、「ヒーローの座」をアメリカ側に個々に奪われたからだ、と思います。
『死刑台のエレベーター』では、「人を裁くのは人」という常識があり、軍役経験があるとしても、平和な社会では事件性のある事をするのは、犯罪となる。『ミッドウェイ』ではその反対です、戦争では大勢を殺すのは英雄だ、との格言がありますが、これは半分間違いで、「歴史の法廷」だからでしょう。だから、勝ち負けだけでは無いです。しかし、映画中では、日米が敵味方に分かれますから、真珠湾で失われた愛すべき戦友の死へのリベンジから始まり、戦争の勇気、果断さは、シギントという知的労働、反スパイでも戦勝の功が認められるのが、モダンな社会での人材評価の尺度、だと思います。
『死刑台のエレベーター』(ルイ・マル 監督 ロジェ・ニミエ 脚本 ノエル・カレフ 原作)では、フランス、パリが舞台です。とある殺人事件に関わったエリートサラリーマンを巡る、複雑ながらちょっとお間抜けな”一夜の顛末”を描きます。これは、主人公のジュリアンが、完全犯罪に成功したのか、失敗したのか、が、彼の後の人生を変えるから、あらゆる逆境も必死です。エレベーターが象徴的で、それは、一本線に乱高下するエリートの人生の浮き沈みを意味して居る、そして、元仏軍人で相当に名を馳せたジュリアンが、何を求めてハイリスクローリターンな犯罪を計画したのかが謎です。
ミーハーな視点では、彼には一点の曇りもない、サラリーマンとして順風満帆な人生を送って居るから、ヘマなどはしないだろう、と思う。しかし、彼は、”落とし穴に近い”位置に居ます。エレベーターに閉じ込められたのですが、それは、軍役経験のあるプロが犯すミスにしては初歩的すぎて、普通の泥棒でもこんなミスはほとんど無いでしょう。そして、そんなジュリアンに絡んで来る無知な若者ルイ・ジョルジュは正反対を往く存在で、ジュリアンの愛車を盗んで、豪遊するという対比的な一夜を送る、のですが、それが果たして幸運だったのか、無辜なルイには強すぎる刺激だったのでは無いか。盗んだ車で走り出すー、特別な夜にも「突き抜けたもの」はありません。誰もが因果を背負って居る。だから物語は彩りを増す道徳的な作品です。
ジュリアンがプロだとすると、ルイは高級車も似合わない、まだ低年次の大学生ぐらいで、完全な素人だと言えると思います。そして、この物語の特徴は、プロも素人も絡め取られる、手を焼くような大事には手を出さないのが一番だという事ですが、ジュリアンのミスが余りにチョンボなので、そういう小さなミスで一夜漬けとなって苦しんでいる彼はとても不憫です。満ちたる小さな舞台で会社ビルとエレベーターという、事ですから、限定的な舞台設定で印象深い「悪夢の夜」を演出できているのは、地頭と忍耐力が俳優陣にあると思う。
対比的に、ルイは満ちたるを知らない、我がまま放題な若者です。ジュリアンから盗んだ高級車はセレブリティへの招待状ですが、作法知らずで恥をかきます、所詮は、猿回しの道具だけを与えられて、立派に見えても、使いこなす知恵や経験が無いのです。ルイのデートに連れ添った彼女もちょっと不憫ですね。花屋である若いベロニクですが、偶然にもジュリアンのパートナーであるフロランス夫人を見知って居ます。
一夜にして、豪遊でいい気になって居たルイも、閉じ込められたジュリアンにも、竜宮城の”プレゼント”として、何が手渡されるでしょうか。そのシビアさには「社会派」の片鱗も見えますが、最大の不運な人はやはりジュリアンで、これは、品格の高いフランス映画としては、結構珍しい、嫉妬とかルサンチマンを肩代わりするような、因果応報の映画では無いかな、と思います。
『ミッドウェイ』(2019)(ローランド・エメリッヒ 監督 ウェズ・トゥック 脚本)では、太平洋戦争での、日米の激戦となったミッドウェイ海戦を、「戦争からの怒り」では無く、ハードボイルド調に描きます。個々の人間群像を俯瞰視する形で、自由自在に、ブンブンと飛翔する航空機による「三次元戦」の象徴のようです。高度な頭脳戦、の雰囲気を醸した、戦争心理を割とディープに描いて居ると思う。アメリカ側の視点で偏って居るとの批評が多いですが、山本五十六とか日本側の提督や軍人たちが「ビッグネームな俳優陣」で固められて、対する、主人公であるアメリカ側はさほど大物が居ませんのが、配役の妙、だと思います。これはつまり、英雄とは戦争で果たした役割や、敵艦を沈めたとかの功績によって、主人公たるヒーローが無数に生まれ得る、との”演出”狙いかも知れません。
ハードボイルドですから、日米の誰もが、特に提督クラスはクールです。日本空母に対して急降下する航空機パイロットで、弾幕を恐れない熱血漢とか、戦場にはそういう熱っぽい武勇伝が漂って居ますが、正義を問うとか、政治的に解決する兆しがほぼ観えません。これは、アメリカ側としては、日本との講和は相手国が降伏しない以上は、真珠湾の件もあるしあり得なかった、という本心を理由とすると思います。そして、底流にある日本制覇、という野心も裏面に見える気がします。そういう意味では、ルーズベルト大統領も偉大なのでしょうが、もっと大切なのは、現場で槍働きをする軍人であり、その血の犠牲を尊いと感じるも、”激戦のスモーク”の中に、無数の生命の光は閉ざされる、そんなダークサイドの瞬間が、戦場の苛酷さにはあるのでは無いでしょうか。
真珠湾攻撃からミッドウェイ海戦に至るまでの日本軍の優位は、アメリカをすら圧倒して居ましたが、これは、軍国主義国の全力であり、常に「渾身の一撃」で巨人に立ち向かうようなもので、アメリカというゴリアテは”握り拳”が見えていただけで、本当はその巨体には武器を持つ両手両足があって、賢明かつ理性的な頭脳が備わって居た。それに対する、日本というダビデには、正義とか国民の士気依存であって、その戦力には内実が伴わない空虚なパワーバランスだったと思います。
そして、これは、戦争を美化する映画では無いと思いますが、やや、エンターテインメント色が強いので、アメリカ人好みの映画でもある。ミッドウェイの生き残り、そういった英雄的行為をした人々が、自らの勇気や幸運を称えて、より、愛国心を持つのは自然な流れだと思いますから、ヒーローを生むのはフェアに命を懸け合った、日米の乾坤一擲の決戦、に全てが集約されている、と思います。日本とのフェアな関係があって、それは、戦闘中だけでなく、開戦前での”話し合いの機会”もあって、山本提督ら双方の高官が立ち会えたのです。だから、この映画で、日本側に人間としてのドラマが無い、というのは、戦勝国の露骨なプロパガンダだ、という事では無く、「ヒーローの座」をアメリカ側に個々に奪われたからだ、と思います。
『死刑台のエレベーター』では、「人を裁くのは人」という常識があり、軍役経験があるとしても、平和な社会では事件性のある事をするのは、犯罪となる。『ミッドウェイ』ではその反対です、戦争では大勢を殺すのは英雄だ、との格言がありますが、これは半分間違いで、「歴史の法廷」だからでしょう。だから、勝ち負けだけでは無いです。しかし、映画中では、日米が敵味方に分かれますから、真珠湾で失われた愛すべき戦友の死へのリベンジから始まり、戦争の勇気、果断さは、シギントという知的労働、反スパイでも戦勝の功が認められるのが、モダンな社会での人材評価の尺度、だと思います。