こんな夢をみた。数々のマスターピースを通して、英雄、として称えられる黒澤明の夢。それを、ちょっと覗いて観る事が出来る挑戦的な作品だと思う。

まず、眠りに落ちた時に観る夢、とが、監督の理想とか社会に対する考え方にリンクして居る。そこから政についての提言もあって、狐の嫁入りを始まりとするのは幻想的ではあるが、その夢に酔いしれる浮世離れした気持ちが、徐々に、大人の夢、になって行く事によって、緊張感が高まって来るのである。

良い夢と悪夢とのブレンドがあるが、監督の人柄からして、これには、「何としても生きたい」という、一貫したメッセージが観える。

最初は、明少年の冒険譚から始まって、成長して行くプロセスは、この夢が老年期を迎えた監督が観たものとしては、特に、少年時代の「日照り雨」「桃畑」を観た時は、どのような心境であって、昔を思い出して居たのか。だとすれば、監督には子供の心と記憶が残って居て、老練さに対する意外性が観えて面白い。ここの少年時代は、神威に踏み込んで行くから、子供そのものが、浮世離れした聖なる存在であって、彼が、まだ幼いがゆえに、人間の法、にも、自然の法、にも与さない揺らぎのある存在である事が良く観える。

「雪あらし」で、生きたいという気持ちが全面に出て居るし、生きる事に対して、向き合って居る死の恐怖とは、如何に矮小で、人間の人生を改善するポジティブさ、明るさと比して、仄暗いものであるか、という事である。大人になると、抵抗する、と言う事を覚える。それは、ゴッホのように、芸術を主体として人生軸を置いたがゆえに、耳、についての自分自身への抵抗とか拒否反応を起こす英雄も居たりするが、ここには、悪夢に対して、薄幸の画家であったゴッホの人生、描き出した絵のマスターピースに対するリスペクトであり、絵と向き合い続けたゴッホの視野、それと、映像を通した監督のビジョンとが、ブレンドされるようであり、これは、大家のコラボと言う事で、至福であると思う。

良く理解出来ないのが「赤富士」だが、これらは、「トンネル」で、戦争に対する悔恨の情がある監督の本心と優しさが垣間見える。反戦の情と反核における監督の意見をはっきり意思表示したものだ。更には、赤富士は、「鬼哭」にもリンクして居て、つまり、悪人は鬼になるのが、古き良き日本人としての因果応報、であって、それは、今にも通じているものがある。更には、鬼とは、鬼畜米英とか、日本鬼子といった、被害者側からの印象的な言葉、或いは、ヘイトであって、それらを否定している。

戦争から生まれた惨禍と、巻き込まれた個々の兵卒に対する同情とか、救国に対する感謝が観え、彼らに友情をすら抱いている。鬼は外、福は内、と言うが、鬼哭は鬼が多数派となった、まさに、「ヒト」によるディストピアを映し出すもので、その警告においては、トンネル、赤富士、鬼哭、は「大人としての監督」が、敢えて、悪夢をカミングアウトする事で、今を生きる世代へのメッセージとなって居ると思う。

そして、「水車のある村」で、その全てを流れによって浄化する、清流の描写や、村人の葬送のお祭りの行列が、非常に印象的である。ここにおいて、神威、恐怖、生と死、人と鬼、といった作品中での夢への迷いが断ち切られ、清められているのでは無いだろうか。それは、国とか社会、周囲、他者に問題を見出すのでは無く、個の人間、すなわち、自分自身への命題として、カメラのフォーカスをはっきりと定めるべきなのだ。

社会というのは、生きて行く為に良い環境が選ばれて行くもので、情報社会になった事によって、その環境の醸成も、あるいは、汚染といった事も一日刻みとか、数時間単位で状況が変わる事はあります。そこには、人への投資とか、数字的な価値の競争があって、利益が付随するものでもある。成功と言えば、社会的に名声を博す事が、情報社会以前よりも重視する向きになって来ている、と思う。

守銭奴は古い、というか、金を稼げども、不名誉な金とかロンダリングを経ねば、まともに使えないような「汚いカネ」などの、そういった、理性の伴わない綺麗では無い手法では、評価はされ得ない。競争原理とか、資本主義の良くない部分とは、早々と脱却すべきでは無いか。

情報社会は、変化のスピード、を加速化させたので、それの篩に掛けられて落ちこぼれる人も出て来るが、職業や仕事を通した自我や遣り甲斐が大きな意味を持ち続ける事には変わりは無い。テクノロジーの領域は、有縁と言う事なので、人との関係とかビジネスを通した信頼の醸成とか、持続性がキモになるという事である。

これは、AIによる職業観に変化があって、どのような仕事をするのか、と言えば、簡易労働のみならず、重労働とか、文章、それに、音楽や芸術領域ですら、AIは出来るだけの能力があるとの事なので、未来社会において、何が問題となるかと言えば、機械を信頼出来るのか、と言う事である。

モラルとして、AIを根本的に歓迎して無い人も居て、それも当然なのだが、機械にあって、人間にあるものとは、社会との関係であり、その接点としての、コミュニケーションやコミュニティを形成して行く技術であり、感情的な要素だと思う。AIが人間を超して、イノベーションをどんどん進めて、社会を進歩させて行く、そんな一方的な進化を望む人は居ません。イノベーションとは、市場で盛り上がったものとか、需要があって、その期待に応える形での、有縁のアクティビティがあるのです。

簡単な事で、キャッチボールで暴投ばかりする「機械」と遊びたいか?、と言う事もあり、また、バッティングセンターのように同じような球しか投げて来ないものは、適宜、打たれるだけです。これを知性として置き換えると「アルゴリズムという計算機」だと思えば良いでしょう。

機械であり、血が通わない、というのは、機械側にとっては呪縛であり、「生まれながら」敗けの遺伝子を背負って居る、と言う事でもある。これを、不憫に感じる必要は無いのですが、どんなに卓越したボキャブラリーや空気を読んだ言葉選びがあっても、機械とコミュニケート出来て、リードされて、心から楽しいとか、感動する、酔いしれる、という事は余り無いと思う。

AIは、人間の労働負担や危険性を除去して、3K労働とか、核関連、深海探査、宇宙に出る時にも必須となり、人間が生命を失ったり、負傷しないように、身代わりとしてセキュリティの主体となって行くでしょうが、AIとかロボット技術とリンクする最先端技術は沢山あると思うので、モラルも対応して、変わって行かねばならない。そのモラルとは、社会とかコミュニティから抜け出るものをどう評価するか、と言う事である。

確かな事は、機械を否定せず、協働して行った方が、能率が良くなるし、楽が出来るし、豊かにも成れるだろう、と言う事だ。組織管理とか運営といった事もハイスペックな機械ならば出来るだろう。しかし、組織の経営とかマーケティングは人間にしか出来ないと思う。本来、そういったマネジメント的な「組織や家の方針」というのは、かつては家父長、今では家族で決めているものだ。それは、時に、独断的で閉鎖的な基準となり、酷くパターン化される事もある。それが、AIとの未来の生活においては、職業や家族関係が流動的で、多様になるという事なので、人間の立場に加えて、環境との共生も図るべきでは無いか。

意外と、AIとか機械化は、環境破壊とか汚染とリンクして、問題の元凶として語られる事は少ない。実際に、機械化はコストとかエネルギー消費を下げたり、エコからデザインを一新したりするので、自然環境の持続性と、イノベーションは様々な副産物を恩恵とする事からも、次世代型の技術ではあり、流れであると思う。

節分に 恵来たるは 笑う門
羅生門にて 四角睨みたる

「節分には温かく、
 恵が来てくれるから、
 笑う門に立ちたいですね、
 京の羅生門に立つと、鹿の角のようになって、
 四角を睨む心地になってしまいますが」

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ベーシックのAIが起こした奇跡。ヒトの物語は続く。

ミュージカル映画として、看板に偽りあり、では無く、看板にリアルあり、と言うべき、「逆転の発想」だと思う。学校を舞台とした、アオハル劇は良く観られる、王道のストーリーだが、それは、人としての情熱を魅せ合う場であり、そこには、共有される人生や価値観があってこそ、コミュケーションが成り立つものだろう。AI女子高生シオンは、ミュージカルを地で行く個性派の「機械」であり、他の生徒たちはその秘密を知らない。

だが、AIが人に反抗しない事と、そのデジタル時代における人権の捉え方は現代の人への処遇と大きく変わる所があっては成らないのでは無いか。他のマスターピースにも言えるが、ミュージカル調のストーリーは、異様なテンションである事が多く、突如として公共の場で、歌い出すというのは、リアルには相当に勇気が要るし、人は意表を突かれるだろう。だから、それを、シオンがやって居る事というのは、彼女が奇抜なアクションへの説得力を持ったスター性のあるAIだと言う事かも知れない。

シオンは転校生として、他の生徒たちと同じ人のように振舞うようプログラムされており、実際に、彼女がAIだと見抜ける生徒は居なかった。だが、その行動はただの女子高生を超えており、奇矯な人物なのだという印象を抱く。転校生としての自己紹介から、「彼女」の行動はぶっ飛んでいるので、友達になれるかどうか、という事は、主人公サトミにしても、直感的に分かるし、底抜けの明るさに、突き抜けた天の気運が読めるのでは無いか。

そもそも、サトミの母親が、シオンの人間型AIの開発者であり、星間エレクトロニクスの社員であるので、これは、シオンをサトミの友人としてプログラムされた、一種の「茶番」でもある。だが、シオンが星間のマリオネットである事を、彼女の心は、穏やかに拒否するのである。だから、シオンは見た目も人間そのものであるし、友達が出来れば、男子から告白される事もあり、アオハルを生きる人の問題とか試練を解きほぐす、「本物の友人」となり得ている。それを、AIがやってのけるから常識では、この物語の本質とメッセージは捉え得ない。ただ、人の為になり、アオハルのプロセスに違和感なく、人の世界と価値観を破壊する事無く、共生できる存在とは、友としか呼べない、のである。

サトミが住まうのは、地方の小さな農園の街であり、実験都市である景部市である。時代もリアルよりも少し先のAIによるデジタルライフと、再生可能エネルギーの循環都市が出来上がった、モデル的な理想の暮らしである。太陽光パネルに風力発電の沢山の風車が稼働して、発電しており、田んぼでは労働AIが田植えをしている。つまり、SFとはいえ、デジタルライフの電子、機械による支配的なパラダイムでは無く、人同士の価値観の衝突を超えた、近未来がある。つまり、牧歌的ですらある持続可能な暮らしぶりを送っている。

これは、サステナブルな自給自足の生活が、エネルギーの地産地消を生むという事でもあり、その実験都市景部市での、争いや侵略の少ない理想的な暮らしからは、持続可能な都市とは、大なり小なり、「ユートピア」に近付く事を窺わせる。更には、これは、学校が舞台であり、生徒ら、次世代の子供達のビジョンに則った、AIに代表される未来との共生を探り、或いは、開拓して行くフロンティアの申し子らでもある。それゆえに、若者の描くユートピアのイメージには、分かり易いお花畑のテーマパークも、彼らの脳内にはある筈で、それを、読んだのが、シオンが具現し続けて居る、小さな「博愛」であるように思う。そして、星間のツインタワーも、牧歌的な風景に馴染むように、街の規模にあったサイズとなって居る。このタワーとは、高みにある繁栄のアイコンなのだと思う。

だが、最先端AIとして、シオンもさるものというべきであり、彼女は、命令通りに動かねばならない、星間の隷属したるロボットであるが、それを忘れさせる事により、ただのAIである機械の宿命に対する抵抗となっており、それはいわばシオンによる「微笑みの反抗期」だと言えよう。シオンの持つグランドデザインによって、景部市の眠りの夜をイルミネーションのように煌びやかに彩り、エネルギーのアイコンとして、玉屋の花火が打ち上がったようにすら見える。このシークエンスには、命令違反もはらんでいるし、発電システムの基地をベースとする事から、『僕らの7日間戦争』における、抵抗があり、小さな革命モデルのようでもある。また、平凡な若者が抱くユートピアとか、幸福感とかが、テーマパークであって、一つの理想都市である、と言う事では無いだろうか。

春初めて 瞬く望む 巴蜀の地
大山歩み 種蒔く待ち人

「春が初めて来るように、
 瞬く間に望んで来ました、
 巴蜀の地を待たずに、
 荒れた大山を歩みますが、
 種を蒔って待っている人が居ますように」

花が枯れ 咲いては薫る 女ころころ
人気まぐれに 命確かに

「花が枯れて居ます、
 また咲いては薫ります、
 ころころ乙女心のような変わりようです、
 人は気まぐれにも、人気を発し続けて居れば、
 命は確かに根を張ります」

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