2017年01月
2017年01月25日 20:00
自然から学び、賢者の果実を得る。
1975年、秋則(阿部サダヲ)は青森県弘前市で妻の美栄子(菅野美穂)と共にリンゴを栽培していた。彼は、年に十数回にわたり散布する農薬が原因で皮膚に異常をきたしてしまい、寝込むこともある妻の体を心配して無農薬でリンゴを育てることを心に誓う。だが、農薬を使わないリンゴ栽培はその当時「神の領域」ともいわれ、実現するのは絶対無理だと思われており……。(シネマトゥデイ)
人と違う事をするのは、非常識とも映るが、それは偉大な事である。リンゴ栽培で無農薬という困難な方法に挑戦したのは、妻の身を慮っての事であり、秋則の全ては、家族の為により良い食を求めるという原点にある。どんな困難があっても原点に立つ事は、変化に対しては、不寛容になりがちであり、秋則が視点を変えて、リンゴを自然環境に回帰させて、新たな農法を開発するまで、そして、実を結ぶまでは気の遠くなる闘いがある。それは、地域における異端者としての誹りを受ける、孤独な闘いであり、地域とは、彼ら家族にとっては 、住民との共生を強いるものでもある。だが、一方で、地域に助けられている事もあり、地域からの排除とは、一端は、非常識に身を委ねる者が通らねばならない「試練」なのであろう。
異端者としての扱いを受けた上で、その中で闘うという事は、 あらゆる敵意を受け止める聖人としての振舞いを義務付けられる。人は、ルサンチマンを抱え、その中で、倒すべき相手や競争の目的を設定し、 ゴールを目指す。だが、弱い立場である異端者とは、孤立するがゆえに、ルサンチマンを露わにして、敵意をむき出しにすれば、却って、懲罰として排除される事があるのだ。だから、ルサンチマンを抱えない闘いというのは、予想以上に厳しく、忍耐を強いられるものなのである。それはむしろ、自然の環境へとリンゴ農園を回帰させる上では、QOLを改善して、環境を管理する神の手による、画期的な農法がある。大いなる試練が課される時には、それに見合った人間、聖人になって行く事が、唯一の成功の道なのだ。
自然のままに自生する胡桃の木を観て、逆転の発想に至る秋則は、自然をリスペクトしてその中の一個人である事に誇りを持っている。あるがままに生かされている事、それは人間も同じであり、リンゴ栽培にそれを活かす事は、多大な苦労と試練を持って、必然だったと思うに至る。だが、不条理な試練であっても、それを欲して、寵愛できる事は、奇しくも成功の条件となるのだ。一度は、絶望しかけた秋則は、農と生が融合した自身の人生を振り返り、地に根差した仕事が無ければ、生きて行けない事を悟る。地域主義とは、序列を混沌とさせて、不満や嫉妬を均等化させるが、仕事を持たない者や弱きものに対しては、厳しい態度を持つ事がある。だが、奇行とも映る無農薬農法への挑戦は、一個の自我を強めて、生活の為の仕事を、プライドへと昇華させたのである。
仕事に対するプライドとは、それが社会から求められており、強い需要があれば、仕事人の意志と技術力は共生するものである。コロンブスの卵という陳腐な言葉もあるが、最初に発明を作った事は、開拓者として最大限尊重されるべき事なのだ。
1975年、秋則(阿部サダヲ)は青森県弘前市で妻の美栄子(菅野美穂)と共にリンゴを栽培していた。彼は、年に十数回にわたり散布する農薬が原因で皮膚に異常をきたしてしまい、寝込むこともある妻の体を心配して無農薬でリンゴを育てることを心に誓う。だが、農薬を使わないリンゴ栽培はその当時「神の領域」ともいわれ、実現するのは絶対無理だと思われており……。(シネマトゥデイ)
人と違う事をするのは、非常識とも映るが、それは偉大な事である。リンゴ栽培で無農薬という困難な方法に挑戦したのは、妻の身を慮っての事であり、秋則の全ては、家族の為により良い食を求めるという原点にある。どんな困難があっても原点に立つ事は、変化に対しては、不寛容になりがちであり、秋則が視点を変えて、リンゴを自然環境に回帰させて、新たな農法を開発するまで、そして、実を結ぶまでは気の遠くなる闘いがある。それは、地域における異端者としての誹りを受ける、孤独な闘いであり、地域とは、彼ら家族にとっては 、住民との共生を強いるものでもある。だが、一方で、地域に助けられている事もあり、地域からの排除とは、一端は、非常識に身を委ねる者が通らねばならない「試練」なのであろう。
異端者としての扱いを受けた上で、その中で闘うという事は、 あらゆる敵意を受け止める聖人としての振舞いを義務付けられる。人は、ルサンチマンを抱え、その中で、倒すべき相手や競争の目的を設定し、 ゴールを目指す。だが、弱い立場である異端者とは、孤立するがゆえに、ルサンチマンを露わにして、敵意をむき出しにすれば、却って、懲罰として排除される事があるのだ。だから、ルサンチマンを抱えない闘いというのは、予想以上に厳しく、忍耐を強いられるものなのである。それはむしろ、自然の環境へとリンゴ農園を回帰させる上では、QOLを改善して、環境を管理する神の手による、画期的な農法がある。大いなる試練が課される時には、それに見合った人間、聖人になって行く事が、唯一の成功の道なのだ。
自然のままに自生する胡桃の木を観て、逆転の発想に至る秋則は、自然をリスペクトしてその中の一個人である事に誇りを持っている。あるがままに生かされている事、それは人間も同じであり、リンゴ栽培にそれを活かす事は、多大な苦労と試練を持って、必然だったと思うに至る。だが、不条理な試練であっても、それを欲して、寵愛できる事は、奇しくも成功の条件となるのだ。一度は、絶望しかけた秋則は、農と生が融合した自身の人生を振り返り、地に根差した仕事が無ければ、生きて行けない事を悟る。地域主義とは、序列を混沌とさせて、不満や嫉妬を均等化させるが、仕事を持たない者や弱きものに対しては、厳しい態度を持つ事がある。だが、奇行とも映る無農薬農法への挑戦は、一個の自我を強めて、生活の為の仕事を、プライドへと昇華させたのである。
仕事に対するプライドとは、それが社会から求められており、強い需要があれば、仕事人の意志と技術力は共生するものである。コロンブスの卵という陳腐な言葉もあるが、最初に発明を作った事は、開拓者として最大限尊重されるべき事なのだ。
2017年01月24日 20:00
閉鎖されたアジールが、凶暴な本能を育てる。
自殺未遂が原因で1年も眠り続ける幼なじみである恋人・淳美(綾瀬はるか)を救い出すため、浩市(佐藤健)は昏睡(こんすい)状態の患者と意思の疎通が可能となる先端医療・センシングを受けることに。センシングを繰り返し淳美の潜在意識に接触していくうちに、浩市は不思議な光景を見始めることになる。現実と仮想の境界が崩壊していく中、浩市は淳美と幼少時代を過ごした島へと足を運ぶ。(シネマトゥデイ)
昏睡状態で、長き眠りについている淳美であるが、それと対話するには、研究所の科学者が設計したセンシングによって、無意識状態に陥る、夢の中で会うしかなかった。センシングの世界では、淳美の意識内であり、その脳内の力量が、完璧な幻想を形作り、彼女は、自作の漫画「ルーミィ」に暴力や凶暴なゾンビを描く事によって、外部者から、自己を防衛している。つまり、彼女の精神というアジールとは、凶暴さの温床であり、それは、外部の世界に対して閉ざされた空間を作る事によって、外から自身を守る事であるのだ。そして、センシングによって、浩市は、淳美が如何に暴力を秘めた世界観を作っているかを知り、その影響下に自身を置く。最大の理解者にして、恋人としての自負すら持っていた浩市は愕然とする。
つまり、世界の出来事とは、夢の中であってこそ、自分達の希望を映す鏡であって欲しいと考えるのは当然であり、幻想が持つ麻薬のような魅力は、浩市の心を捉えて止まないのである。淳美は、強固な城壁の中に住まい、不死者の兵隊を抱えながら、その本心は、孤独と不安に苛まれ、深く傷付いている。なぜなら、自殺を試みた時から、彼女の昏睡状態は始まっているからであり、そのリアルから逃れる為に、彼女は麻薬の毒素を強めて、異形の世界を構築するのである。つまり、淳美の精神世界では、互いに自己と敵との闘いが起きており、それは主に、自己の葛藤による混乱があるのだ。それは、過去にも及ぶものとなり、自殺した履歴としての過去の時間を、2人に清算させ、事件を未然に防ぐように「未来の行動」を強いる。
つまり、過去は変えられないものである限り、淳美の過去への逆行は、無意味であり、その心の城壁も無力だという事になる。過去などは振り返るものではない。それは、個人を形成しているものであり、結果ではあるが、個人には世界のメインプレイヤーになるチャンスが与えられているからだ。世界が創造的であればあるほどに、そのチャンスは深みを見せる。だが、権力とは、人間の生からすれば、無為に過ぎない。リアルとは、逆転と奇跡の連続の彼方にあるからだ。浩市と淳美との対話には、物語世界の背景にある、深淵な嘘とリアルが交錯している。そのトリックは、単純だが、物語へのマンネリズムを鮮やかに裏切るものとなっている。精神世界というアジールでは、若いカップルは極限化され、アダムとイブに成り得るが、それゆえに、アジールを侵す不協和音に対しては、許せないという気持ちになり、強い憎悪と怒りを発し得るのだ。
科学によって、センシングは浩市と淳美が対話する、唯一の絆の拠り所を提供している。だが、本当の助けとは、如何に優れた大人達によってすら、与える事は出来ないのである。至高の助けとは、唯一の恋人が生むものなのではないか。
自殺未遂が原因で1年も眠り続ける幼なじみである恋人・淳美(綾瀬はるか)を救い出すため、浩市(佐藤健)は昏睡(こんすい)状態の患者と意思の疎通が可能となる先端医療・センシングを受けることに。センシングを繰り返し淳美の潜在意識に接触していくうちに、浩市は不思議な光景を見始めることになる。現実と仮想の境界が崩壊していく中、浩市は淳美と幼少時代を過ごした島へと足を運ぶ。(シネマトゥデイ)
昏睡状態で、長き眠りについている淳美であるが、それと対話するには、研究所の科学者が設計したセンシングによって、無意識状態に陥る、夢の中で会うしかなかった。センシングの世界では、淳美の意識内であり、その脳内の力量が、完璧な幻想を形作り、彼女は、自作の漫画「ルーミィ」に暴力や凶暴なゾンビを描く事によって、外部者から、自己を防衛している。つまり、彼女の精神というアジールとは、凶暴さの温床であり、それは、外部の世界に対して閉ざされた空間を作る事によって、外から自身を守る事であるのだ。そして、センシングによって、浩市は、淳美が如何に暴力を秘めた世界観を作っているかを知り、その影響下に自身を置く。最大の理解者にして、恋人としての自負すら持っていた浩市は愕然とする。
つまり、世界の出来事とは、夢の中であってこそ、自分達の希望を映す鏡であって欲しいと考えるのは当然であり、幻想が持つ麻薬のような魅力は、浩市の心を捉えて止まないのである。淳美は、強固な城壁の中に住まい、不死者の兵隊を抱えながら、その本心は、孤独と不安に苛まれ、深く傷付いている。なぜなら、自殺を試みた時から、彼女の昏睡状態は始まっているからであり、そのリアルから逃れる為に、彼女は麻薬の毒素を強めて、異形の世界を構築するのである。つまり、淳美の精神世界では、互いに自己と敵との闘いが起きており、それは主に、自己の葛藤による混乱があるのだ。それは、過去にも及ぶものとなり、自殺した履歴としての過去の時間を、2人に清算させ、事件を未然に防ぐように「未来の行動」を強いる。
つまり、過去は変えられないものである限り、淳美の過去への逆行は、無意味であり、その心の城壁も無力だという事になる。過去などは振り返るものではない。それは、個人を形成しているものであり、結果ではあるが、個人には世界のメインプレイヤーになるチャンスが与えられているからだ。世界が創造的であればあるほどに、そのチャンスは深みを見せる。だが、権力とは、人間の生からすれば、無為に過ぎない。リアルとは、逆転と奇跡の連続の彼方にあるからだ。浩市と淳美との対話には、物語世界の背景にある、深淵な嘘とリアルが交錯している。そのトリックは、単純だが、物語へのマンネリズムを鮮やかに裏切るものとなっている。精神世界というアジールでは、若いカップルは極限化され、アダムとイブに成り得るが、それゆえに、アジールを侵す不協和音に対しては、許せないという気持ちになり、強い憎悪と怒りを発し得るのだ。
科学によって、センシングは浩市と淳美が対話する、唯一の絆の拠り所を提供している。だが、本当の助けとは、如何に優れた大人達によってすら、与える事は出来ないのである。至高の助けとは、唯一の恋人が生むものなのではないか。
2017年01月21日 13:00
いつかまた会おうと、戦友と交わした約束の杯。
前漢時代、中国シルクロード国境近辺では36もの部族がそれぞれ覇権争いを繰り広げていた。西域警備隊隊長フォ・アン(ジャッキー・チェン)は久々に教師の妻(ミカ・ウォン)の元に戻ったものの、金貨密輸の濡れ衣を着せられてしまう。そして、彼が部下と共に雁門関に流されてから数日後、ルシウス(ジョン・キューザック)率いるローマ帝国軍が現れる。(シネマトゥデイ)
流浪のローマ軍が、シルクロードを通って、漢の領土にたどり着いたという、異説の出来事を、瑞々しい脚色で飾り立てた物語である。軍隊とは、戦争をするための集団であり、それ対する国防の備えは、当然無ければ、敵国に蹂躙されるままに許す事になる。そして、戦争の精神とは、実際には個人の冒険心であったり、フロンティアとして他国の領土、あるいはシルクロードのような経済地区を横断出来たのは、シルクロードが行商にとっての自由な空間であり、また、砂漠のハイウェイであり、軍隊の横断を遮る存在が無かったがゆえであろう。つまり、フロンティアとは戦争を起こす、国家の軍隊に加えて、在野の盗賊や武装集団の介入を予期せねばならないのである。漢では、武帝の治世によって、遊牧帝国を築いてシルクロードを支配した匈奴を攻撃し、その弱体化に成功している。だから、フォ・アンは、漢の西域司令官であり、国境警備というルーティンの最中に、奇跡的にローマ軍に遭遇したことになる。
だが、漢帝国の将軍にして、フォ・アンは驚くほど、民政家であり、高潔な将軍の精神は、愛民の心に繋がっている。かつては敵であった冷月という妻にも恵まれている。西域には多彩な部族が割拠している。だから、それを尽く武力によって支配するのではなく、割拠を基本として、友好関係を結び、互いを守り合う事は、漢を大いに利する事になる。つまり、フォ・アンは、信頼を持って威徳を施し、部族を見下さず、共闘体制を築いているのである。それは、後々、フォ・アンを佑る事になる。異民族に畏れられるよりも、威徳を感じさせた方が良い。それは、長期的に、シルクロードの恩恵とは、沿路に割拠する中小の部族国家の繁栄と資源を分け合う事から、得られるものであり、中国だけでは、ローマはシルクロードの覇権に対してたいした関心を持たない。だから、漢だけを相手にせず、とは、正しい戦争の運び方だと言う事が出来よう。
ローマという大国の尖兵が遥か東方にまでやって来た事は、西域を守護するフォ・アンに懸念を抱かせた。だが、将軍ルシウスとは、一戦を交えた後に友情を結ぶことになり、そのライバルとして、同じく東方に現れたティベリウスとの闘いに、参加す事になる。旗下の兵隊のみならず、人民と部族からすら愛されるフォ・アンに対して、ティベリウスは、弟を毒殺する陰謀家であり、偉大な父クラッススの威徳にも関わらず、母国からは追われる身にやつしている。罪を犯したり、政変によって命の危険に陥った将軍というのは、しばしば、辺境に出征し、そのまま駐屯して、割拠して、軍団を堅持する、という事はよくあるが、中国にまでやって来たティベリウスには、母国でないがゆえに、侵略者として、漢からも迎撃される運命にあるのだ。フォ・アンという最高の将軍と、親類にまで劇毒を及ぼす最悪のティベリウスという、二極の対決は象徴として、鮮烈なイメージがある。
異郷の地にあって、彼方のローマからやって来たものは、戦友であり、また、政敵でもあった。それは、漢に波乱をもたらすが、それら追われる人間がやって来るものに対して、フロンティアは寛容である。数多くの機縁に恵まれた自由と繁栄の地においては、波乱によって戦地への混迷も起こりえるのだ。それは競争による自由と繁栄の地の宿命でもある。
前漢時代、中国シルクロード国境近辺では36もの部族がそれぞれ覇権争いを繰り広げていた。西域警備隊隊長フォ・アン(ジャッキー・チェン)は久々に教師の妻(ミカ・ウォン)の元に戻ったものの、金貨密輸の濡れ衣を着せられてしまう。そして、彼が部下と共に雁門関に流されてから数日後、ルシウス(ジョン・キューザック)率いるローマ帝国軍が現れる。(シネマトゥデイ)
流浪のローマ軍が、シルクロードを通って、漢の領土にたどり着いたという、異説の出来事を、瑞々しい脚色で飾り立てた物語である。軍隊とは、戦争をするための集団であり、それ対する国防の備えは、当然無ければ、敵国に蹂躙されるままに許す事になる。そして、戦争の精神とは、実際には個人の冒険心であったり、フロンティアとして他国の領土、あるいはシルクロードのような経済地区を横断出来たのは、シルクロードが行商にとっての自由な空間であり、また、砂漠のハイウェイであり、軍隊の横断を遮る存在が無かったがゆえであろう。つまり、フロンティアとは戦争を起こす、国家の軍隊に加えて、在野の盗賊や武装集団の介入を予期せねばならないのである。漢では、武帝の治世によって、遊牧帝国を築いてシルクロードを支配した匈奴を攻撃し、その弱体化に成功している。だから、フォ・アンは、漢の西域司令官であり、国境警備というルーティンの最中に、奇跡的にローマ軍に遭遇したことになる。
だが、漢帝国の将軍にして、フォ・アンは驚くほど、民政家であり、高潔な将軍の精神は、愛民の心に繋がっている。かつては敵であった冷月という妻にも恵まれている。西域には多彩な部族が割拠している。だから、それを尽く武力によって支配するのではなく、割拠を基本として、友好関係を結び、互いを守り合う事は、漢を大いに利する事になる。つまり、フォ・アンは、信頼を持って威徳を施し、部族を見下さず、共闘体制を築いているのである。それは、後々、フォ・アンを佑る事になる。異民族に畏れられるよりも、威徳を感じさせた方が良い。それは、長期的に、シルクロードの恩恵とは、沿路に割拠する中小の部族国家の繁栄と資源を分け合う事から、得られるものであり、中国だけでは、ローマはシルクロードの覇権に対してたいした関心を持たない。だから、漢だけを相手にせず、とは、正しい戦争の運び方だと言う事が出来よう。
ローマという大国の尖兵が遥か東方にまでやって来た事は、西域を守護するフォ・アンに懸念を抱かせた。だが、将軍ルシウスとは、一戦を交えた後に友情を結ぶことになり、そのライバルとして、同じく東方に現れたティベリウスとの闘いに、参加す事になる。旗下の兵隊のみならず、人民と部族からすら愛されるフォ・アンに対して、ティベリウスは、弟を毒殺する陰謀家であり、偉大な父クラッススの威徳にも関わらず、母国からは追われる身にやつしている。罪を犯したり、政変によって命の危険に陥った将軍というのは、しばしば、辺境に出征し、そのまま駐屯して、割拠して、軍団を堅持する、という事はよくあるが、中国にまでやって来たティベリウスには、母国でないがゆえに、侵略者として、漢からも迎撃される運命にあるのだ。フォ・アンという最高の将軍と、親類にまで劇毒を及ぼす最悪のティベリウスという、二極の対決は象徴として、鮮烈なイメージがある。
異郷の地にあって、彼方のローマからやって来たものは、戦友であり、また、政敵でもあった。それは、漢に波乱をもたらすが、それら追われる人間がやって来るものに対して、フロンティアは寛容である。数多くの機縁に恵まれた自由と繁栄の地においては、波乱によって戦地への混迷も起こりえるのだ。それは競争による自由と繁栄の地の宿命でもある。
2017年01月18日 22:00
千里を隔てた恋は、異郷を温かい母国に変える。
1860年代のフランス。蚕の疫病が発生したため、軍人のエルヴェ(マイケル・ピット)は美しい妻エレーヌ(キーラ・ナイトレイ)を残して、日本へと旅立つ。幕末の日本に到着したエルヴェは蚕業者の原(役所広司)が連れていた、“絹”のように白い肌の少女(芦名星)と出会う。以来、エルヴェは少女が頭から離れなくなってしまう。(シネマトゥデイ)
エルヴェは家庭を持った全うなフランス人であったが、千里を遥かに超える日本への旅によって、その人生観を激変させた。愛する妻エレーヌを思いながら、その本心は、神秘の異郷、日本で出会った少女への愛に連なるのであった。エルヴェは、日本独自の養殖法によって、病気に侵されていない蚕の卵を得て、持ち帰り、それによって大金持ちになった。家庭には、美しい妻が居り、その生活は順風満帆だが、エルヴェの本心は、謎が多きがゆえに魅力的に映る日本人の少女に向けられる。フランスは、列強に名を連ねているが、いよいよ開国に迫られて、近代化の競争に参入する事になる日本という「後進国 」と比べれば、その国威の盛んな事は言うまでもない。だが、国家の権力闘争という前に、エルヴェにとって、良質な蚕をもたらした日本とは、尊敬に値する「先進国」なのである。その文化の源流には高度な技術があり、その潜在力は、ひいては日本の近代化による大躍進に繋がっていく。
その示唆に気付いた事が、エルヴェの中に、来たる大国への道を歩む日本への、先物買いの畏敬の念を生ませる。 国家とは、巨大すぎて身動きが取れなくなる事があるが、その外交の本質というのは、異郷で出会った人との友愛にある。そこで、素晴らしい恋愛に恵まれた事は、エルヴェにとっては僥倖でもあり、その蚕を求めた遥か極東への旅を三度も強行させたのは、少女に出会いたいという強い恋心にあった。欲望とは、人を動かす動力源である。そして、それが貿易商ですら忌避する極東への旅となれば、その実行者は莫大な利益を見込める事業者本人に他ならない。エルヴェは、少女との出会いによって、人生観を一変させた。それは、本物の恋というのは、母国での成功をも投げ出させる無上の献身を生み出すものであり、成功と本物の愛というのは、しばしば相克するものである事を示している。
エルヴェが、日本の少女のお蔭で、異郷の地日本に深い愛着を得るようになり、または本物の愛を得て、行動に出るようになる、その代償は余りに大きかった。貿易商とは、その開拓精神と、イエズス会などの覇権主義的な布教活動にあるように、後進国を手玉にとって、莫大な利益を掠める猛禽類のような冷酷さが無ければならない。それを失ったことによって、エルヴェは誠の赤心に目覚めたが、それは同時に、貿易商としての去勢を確約するものでもある。開拓が国家を背景としている以上、どこかの勢力の利益を「国益」と見立てて、国際競争に邁進するものであり、個人がこの世界において、自由を謳歌出来ないのもまた、国家在りきの思想や自我があるせいであろう。 だが、世人を惹き付けて止まないのは、エネルギッシュな野心と才能をもって、新たな領域を開拓して行く、指導力のある男である筈だ。その意味からすれば、エルヴェは失敗者に過ぎない。誰が為かといえば、彼の野心は妻エレーヌの為に発揮されねばならない筈だからだ。
エルヴェは新天地として、エキゾチックなアジアの気風に溢れる日本を得たが、その代償は余りに大きかった。世界を知る事によって、進歩するものもあれば、後退するものもあり、それは個人によって千差万別である。異国を愛する事は必ずしも、母国の為になるとは限らない。
1860年代のフランス。蚕の疫病が発生したため、軍人のエルヴェ(マイケル・ピット)は美しい妻エレーヌ(キーラ・ナイトレイ)を残して、日本へと旅立つ。幕末の日本に到着したエルヴェは蚕業者の原(役所広司)が連れていた、“絹”のように白い肌の少女(芦名星)と出会う。以来、エルヴェは少女が頭から離れなくなってしまう。(シネマトゥデイ)
エルヴェは家庭を持った全うなフランス人であったが、千里を遥かに超える日本への旅によって、その人生観を激変させた。愛する妻エレーヌを思いながら、その本心は、神秘の異郷、日本で出会った少女への愛に連なるのであった。エルヴェは、日本独自の養殖法によって、病気に侵されていない蚕の卵を得て、持ち帰り、それによって大金持ちになった。家庭には、美しい妻が居り、その生活は順風満帆だが、エルヴェの本心は、謎が多きがゆえに魅力的に映る日本人の少女に向けられる。フランスは、列強に名を連ねているが、いよいよ開国に迫られて、近代化の競争に参入する事になる日本という「後進国 」と比べれば、その国威の盛んな事は言うまでもない。だが、国家の権力闘争という前に、エルヴェにとって、良質な蚕をもたらした日本とは、尊敬に値する「先進国」なのである。その文化の源流には高度な技術があり、その潜在力は、ひいては日本の近代化による大躍進に繋がっていく。
その示唆に気付いた事が、エルヴェの中に、来たる大国への道を歩む日本への、先物買いの畏敬の念を生ませる。 国家とは、巨大すぎて身動きが取れなくなる事があるが、その外交の本質というのは、異郷で出会った人との友愛にある。そこで、素晴らしい恋愛に恵まれた事は、エルヴェにとっては僥倖でもあり、その蚕を求めた遥か極東への旅を三度も強行させたのは、少女に出会いたいという強い恋心にあった。欲望とは、人を動かす動力源である。そして、それが貿易商ですら忌避する極東への旅となれば、その実行者は莫大な利益を見込める事業者本人に他ならない。エルヴェは、少女との出会いによって、人生観を一変させた。それは、本物の恋というのは、母国での成功をも投げ出させる無上の献身を生み出すものであり、成功と本物の愛というのは、しばしば相克するものである事を示している。
エルヴェが、日本の少女のお蔭で、異郷の地日本に深い愛着を得るようになり、または本物の愛を得て、行動に出るようになる、その代償は余りに大きかった。貿易商とは、その開拓精神と、イエズス会などの覇権主義的な布教活動にあるように、後進国を手玉にとって、莫大な利益を掠める猛禽類のような冷酷さが無ければならない。それを失ったことによって、エルヴェは誠の赤心に目覚めたが、それは同時に、貿易商としての去勢を確約するものでもある。開拓が国家を背景としている以上、どこかの勢力の利益を「国益」と見立てて、国際競争に邁進するものであり、個人がこの世界において、自由を謳歌出来ないのもまた、国家在りきの思想や自我があるせいであろう。 だが、世人を惹き付けて止まないのは、エネルギッシュな野心と才能をもって、新たな領域を開拓して行く、指導力のある男である筈だ。その意味からすれば、エルヴェは失敗者に過ぎない。誰が為かといえば、彼の野心は妻エレーヌの為に発揮されねばならない筈だからだ。
エルヴェは新天地として、エキゾチックなアジアの気風に溢れる日本を得たが、その代償は余りに大きかった。世界を知る事によって、進歩するものもあれば、後退するものもあり、それは個人によって千差万別である。異国を愛する事は必ずしも、母国の為になるとは限らない。
2017年01月17日 22:00
人生は願いの抱き方によって決まる。
幼いころ祗園の置屋に売られたさゆり(チャン・ツィイー)は、不思議な瞳をした美しい少女に成長し、その魅力を武器に一人前の芸者となるべく修行に励んでいた。(シネマトゥデイ)
芸者に求められるものとは、美しさであり、高い教養と知性であり、その魅力は、多くの男達を魅了して来た。それは、外国人から観たエキゾチックな魅力を放つ芸者の価値をも高めるものであり、遊び慣れた大人の男達が最後にたどり着くのが、芸者であると言っても過言ではない。それだけの高いレベルの妓女達を揃えるのだから、その組織として、芸者の置屋というのは、閉鎖的になるのであり、さゆりが最初にたどり着いたのは、身請け同然の遊郭のような家であり、これでは、置屋に隷属するのが芸者となるべくさゆりの最初の葛藤の源でもある。置屋では、同じ境遇の同胞に対しては、強い統制を強いるものの、その根源には、若い妓女に対する、根強い同胞意識がある。置屋の母にしても、今は老成していれども、若い頃はあり、それは若い盛りを芸者道に捧げた者として、葛藤と忍耐の連続だったのであろう。だから、閉鎖性のある家においては、「絆」が苦難を乗り切り、来たる安寧の日々を約して行く他に、生きる動機はない、と言えよう。
さゆりの他にも、母や先輩格の芸者達が居る。それは、厳しい統制の中で、競争もあり、互いに顧客の寵愛を競い合っている。だが、その厳しいムラにおいては、序列と家長の威信が全てであり、如何に、ムラの体質や家長たる置屋の母を嫌っていても、それに対して反抗する事は出来ない。それは、忍耐の先に人格形成における毒素ともなり、それを制しきれなかったのが、おかぼであろう。彼女は、母からは軽視され、さゆりには肉薄されても、その葛藤が報われる時を信じて生きている。だが、期待の星が後進にあり、それが、幼少期から妹のように接して来たさゆりであったならば、年功における家長たる地位は約束されず、未来にも奪われる身になるのである。そうした、見えざる葛藤は、勝利者には見えないものであり、「強引な下剋上」、つまり、京都一の芸者となったさゆりの台頭によって、抑え込まれて来たのが、そうした、他の芸者達の葛藤なのである。
女達の戦いとは、そうした実力だけではない、執拗な権力闘争の様相を呈する事もあるが、所詮は一個の家中の闘争に過ぎず、大勢とは関係がない。むしろ、男達が世界を相手に繰り広げた大戦の清算は、そうした、軍隊の失敗における、商売人やその閨閥に属する芸者達における、外界の地殻変動という、見えざる変動が、実際に顧客の変化、駐留軍などのアメリカ人を相手にする事によって生じるのである。時代に翻弄された男達、そして女達の闘争は、戦前を戻る事の出来ない過去に押し込め、先行きの立たない未来への航路へと向かわしめた。原点に帰るという意味で、さゆりと会長は再会したのではなく、未来を乗り切る為、その英気を養うべく、得難い恋愛相手として、さゆりを所望したのである。だから、さゆりにとっては、結婚による普通の生活はなくとも、ゲームとしての恋愛の道中にて、いつまでも走り続け現役で居続ける、女傑としての不撓不屈の強かさがある。
敗者になって初めて、さゆりは人の辛さと痛みを知る。だが、さゆりの本質には勝利者としての傲慢は無く、敗戦によって、御家が崩壊し序列が失われた上での、ルサンチマンとは、もはや裏切りに等しい業の深さがある。さゆりの因果には、どこまでもおしとやかに、磨かれるべく女傑の人生が描かれる。
幼いころ祗園の置屋に売られたさゆり(チャン・ツィイー)は、不思議な瞳をした美しい少女に成長し、その魅力を武器に一人前の芸者となるべく修行に励んでいた。(シネマトゥデイ)
芸者に求められるものとは、美しさであり、高い教養と知性であり、その魅力は、多くの男達を魅了して来た。それは、外国人から観たエキゾチックな魅力を放つ芸者の価値をも高めるものであり、遊び慣れた大人の男達が最後にたどり着くのが、芸者であると言っても過言ではない。それだけの高いレベルの妓女達を揃えるのだから、その組織として、芸者の置屋というのは、閉鎖的になるのであり、さゆりが最初にたどり着いたのは、身請け同然の遊郭のような家であり、これでは、置屋に隷属するのが芸者となるべくさゆりの最初の葛藤の源でもある。置屋では、同じ境遇の同胞に対しては、強い統制を強いるものの、その根源には、若い妓女に対する、根強い同胞意識がある。置屋の母にしても、今は老成していれども、若い頃はあり、それは若い盛りを芸者道に捧げた者として、葛藤と忍耐の連続だったのであろう。だから、閉鎖性のある家においては、「絆」が苦難を乗り切り、来たる安寧の日々を約して行く他に、生きる動機はない、と言えよう。
さゆりの他にも、母や先輩格の芸者達が居る。それは、厳しい統制の中で、競争もあり、互いに顧客の寵愛を競い合っている。だが、その厳しいムラにおいては、序列と家長の威信が全てであり、如何に、ムラの体質や家長たる置屋の母を嫌っていても、それに対して反抗する事は出来ない。それは、忍耐の先に人格形成における毒素ともなり、それを制しきれなかったのが、おかぼであろう。彼女は、母からは軽視され、さゆりには肉薄されても、その葛藤が報われる時を信じて生きている。だが、期待の星が後進にあり、それが、幼少期から妹のように接して来たさゆりであったならば、年功における家長たる地位は約束されず、未来にも奪われる身になるのである。そうした、見えざる葛藤は、勝利者には見えないものであり、「強引な下剋上」、つまり、京都一の芸者となったさゆりの台頭によって、抑え込まれて来たのが、そうした、他の芸者達の葛藤なのである。
女達の戦いとは、そうした実力だけではない、執拗な権力闘争の様相を呈する事もあるが、所詮は一個の家中の闘争に過ぎず、大勢とは関係がない。むしろ、男達が世界を相手に繰り広げた大戦の清算は、そうした、軍隊の失敗における、商売人やその閨閥に属する芸者達における、外界の地殻変動という、見えざる変動が、実際に顧客の変化、駐留軍などのアメリカ人を相手にする事によって生じるのである。時代に翻弄された男達、そして女達の闘争は、戦前を戻る事の出来ない過去に押し込め、先行きの立たない未来への航路へと向かわしめた。原点に帰るという意味で、さゆりと会長は再会したのではなく、未来を乗り切る為、その英気を養うべく、得難い恋愛相手として、さゆりを所望したのである。だから、さゆりにとっては、結婚による普通の生活はなくとも、ゲームとしての恋愛の道中にて、いつまでも走り続け現役で居続ける、女傑としての不撓不屈の強かさがある。
敗者になって初めて、さゆりは人の辛さと痛みを知る。だが、さゆりの本質には勝利者としての傲慢は無く、敗戦によって、御家が崩壊し序列が失われた上での、ルサンチマンとは、もはや裏切りに等しい業の深さがある。さゆりの因果には、どこまでもおしとやかに、磨かれるべく女傑の人生が描かれる。