2017年09月
2017年09月27日 22:31
愛は、弱さでもある。
定年退職間近の刑事サマセットと新人のミルズは、ある殺人現場に向かう。そこには肥満の大男の凄惨な死体があった。またほどなくして、今度はビジネスマンの死体が発見される。サマセットはそれぞれの現場に残されていた文字から、犯人がキリスト教における七つの大罪(傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲)に因んだ殺人に及んでいると分析、残るは5件となった。事件を未然に防ごうと犯人の特定を急ぐ2人。やがて一人の男が容疑者に浮上、しかし接近するも取り逃がし、さらなる犠牲者を出してしまう。そんな中、大罪に沿った犯行が残り2件となったところで、犯人を名乗る男が自首して来るのだが…。(allcinema)
正義のある社会とは、人であったり、法であったり、公共の利益に沿うものであり、そのシステムにおける中核となる思想や信仰が重んじられるべきである。本作は、異常殺人事件の映画であるが、デヴィッド・フィンチャー流のリアリズムに徹した、見応えのあるストーリーとなっている。アメリカにおいて、キリスト教とは、国是ではあれど、国家や行政機構というのは、宗教的中立を強いられる。それが、資本主義による社会体制、つまり、レジームを覆す狂信的なテロリズムを抑止する、賢者の手段になるからだ。
つまり、「七つの大罪」における、キリスト教の狂信者である事は、国家にとっての正義を意味しない。信仰とは個人の意志によるものであり、狂信的に改宗を迫る事は、良心的自由に反するからである。だから、如何に聖書や古き奇譚に通じた賢者であれ、この犯人に幸福は無い。猟奇的な事件は、彼にとってのマスターベーションであり、それによって、彼をメシアとして扱う者などは居ないからである。確かに、社会的に稀有な被害をもたらした凶悪事件としては、記憶されるであろうが、過ぎたるは及ばざるが如し、過剰な知性は、非人間性をも招く、サイコパスの趣味であり、彼らの好む行動なのであろう。
ミルズ刑事は、若造ではあるが、意欲的な捜査官である。そして、彼の家庭とは、ハードな激務に比して、至って平凡で幸せであり、妻トレーシーは子を身籠っている。先輩刑事であるサマセットが食事に招待されて、その好ましい環境を観て、また、ミルズの向こう見ずな行動と秤にかけて、彼は、彼らの擁護者になろうという思いを抱く。それは、ミルズが、若さ故に先輩の助力を必要として生きており、その素直な願望を、ストレートに、先輩にぶつける性格によるものである。サマセットは、父親のようなもので、他者の温かい家庭を観て、その擁護者となり、自分も幸せなひと時を過ごす友人の一人で居たいと思う事は、ごく自然な事だ。
だが、犯人はそうは思わない。彼は、自身を賢者に仕立て上げながら、ミルズに嫉妬して、その破壊する者になろうとするのだ。異常殺人事件は、日本の「闇サイト殺人事件」の如く、犯人達の共謀によって引き起こされるものもあれば、本作のように単独犯の場合もある。後者は、前者の凡愚の集まりではなく、より知性的で狡猾な知能犯によるものであり、犯罪の深淵とは、それが、誰も理解出来ない異常者によるものである。つまり、本作の猟奇事件は、犯罪者の社会からしても、異常であり、高い学歴と財産を持った犯人が、何故、その凶行に及んだかは、皆目見当もつかないからである。その意味で、本件は、犯罪芸術、と言う事が出来るし、追従者も生まない。孤独の中から生まれた犯行とは、その執行者にも更なる孤独の決意を迫る。つまり、快楽とはマゾヒズムである。
狂信的なクリスチャンであり、その犯人は、宗教が人権や犯罪に関わる事によって起こされて来た、社会の病理を表している。宗教とは、他者に対して、改宗を迫り、つまりは、生き方を強制するものである。これを、国に置き換えても、そのまま改宗と支配のシステムは成り立ってしまう。国家が、宗教戦争などの十字軍で、他国を侵略し続けて来たのは、キリスト教の対外的な支配欲によるものだ。聖地の奪還とは、大義名分であり、その実、戦争の現場、聖地エルサレムや、その周辺では、抑圧的な支配と占領軍の跋扈という、悪弊が蔓延した。改宗を迫るとは、国家や政府に対する忠誠に簡単に置き換わるものであり、列強時代の布教を一つの機軸にしたグローバリズムも、その遡上にあるものだ。
アメリカのキリスト教社会は世俗化して、その勢力図も混沌として来た。正道としてのプロテスタントが絶対優位ではないし、その信仰の中核となる聖書にも、科学や進化論、カウンターカルチャーなどの攻勢を受け、散々な目に遭っている。宗教が最大の存在感を発揮するものは、テロリズムに他ならない。それは、大勢での社会情勢や、公論といったものを覆す、忌むべき暴力であり、本作の犯人は、そうした、テロリストの一員としてならば、生きる処もあったと思われる。原理主義とは、キリスト教においても、批判の対象となるものであり、紛争地域に切り裂かれたイスラム教に対して、覇権国の信仰であり、政治的影響力の強さから、国際的な批判を受ける事は、米プロテスタントの「受難」でもある。
犯人は、「七つの大罪」の一つである、嫉妬に自身の存在を落とし込んだ。それは、ゲームの支配者であり、その計画を綿密に立てた設計者の賢者から、一介の愚者、道化に自身を落とし込む、まさに恥ずべき事なのだ。犯人は、ミルズに対して、賭けを仕掛けて、その勝敗を予想する事に、自身のマスタ―べ―ションの最高潮を見出している。醜悪そのものであり、このテロは、暴力の連鎖によって、帰結され、その最終的な結末は、犯人の掌から、零れ落ちて、独立して行く。それは、偽者のメシアに対する、叛旗を掲げる行為であり、確かに犯人は老獪であったが、如何なる賢者であれ、マスターベーションの快楽と、欲望を満たす刹那的な衝動には代え難い快感があるのだ。大犯罪には、不二の味わいがあるらしい。
定年退職間近の刑事サマセットと新人のミルズは、ある殺人現場に向かう。そこには肥満の大男の凄惨な死体があった。またほどなくして、今度はビジネスマンの死体が発見される。サマセットはそれぞれの現場に残されていた文字から、犯人がキリスト教における七つの大罪(傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲)に因んだ殺人に及んでいると分析、残るは5件となった。事件を未然に防ごうと犯人の特定を急ぐ2人。やがて一人の男が容疑者に浮上、しかし接近するも取り逃がし、さらなる犠牲者を出してしまう。そんな中、大罪に沿った犯行が残り2件となったところで、犯人を名乗る男が自首して来るのだが…。(allcinema)
正義のある社会とは、人であったり、法であったり、公共の利益に沿うものであり、そのシステムにおける中核となる思想や信仰が重んじられるべきである。本作は、異常殺人事件の映画であるが、デヴィッド・フィンチャー流のリアリズムに徹した、見応えのあるストーリーとなっている。アメリカにおいて、キリスト教とは、国是ではあれど、国家や行政機構というのは、宗教的中立を強いられる。それが、資本主義による社会体制、つまり、レジームを覆す狂信的なテロリズムを抑止する、賢者の手段になるからだ。
つまり、「七つの大罪」における、キリスト教の狂信者である事は、国家にとっての正義を意味しない。信仰とは個人の意志によるものであり、狂信的に改宗を迫る事は、良心的自由に反するからである。だから、如何に聖書や古き奇譚に通じた賢者であれ、この犯人に幸福は無い。猟奇的な事件は、彼にとってのマスターベーションであり、それによって、彼をメシアとして扱う者などは居ないからである。確かに、社会的に稀有な被害をもたらした凶悪事件としては、記憶されるであろうが、過ぎたるは及ばざるが如し、過剰な知性は、非人間性をも招く、サイコパスの趣味であり、彼らの好む行動なのであろう。
ミルズ刑事は、若造ではあるが、意欲的な捜査官である。そして、彼の家庭とは、ハードな激務に比して、至って平凡で幸せであり、妻トレーシーは子を身籠っている。先輩刑事であるサマセットが食事に招待されて、その好ましい環境を観て、また、ミルズの向こう見ずな行動と秤にかけて、彼は、彼らの擁護者になろうという思いを抱く。それは、ミルズが、若さ故に先輩の助力を必要として生きており、その素直な願望を、ストレートに、先輩にぶつける性格によるものである。サマセットは、父親のようなもので、他者の温かい家庭を観て、その擁護者となり、自分も幸せなひと時を過ごす友人の一人で居たいと思う事は、ごく自然な事だ。
だが、犯人はそうは思わない。彼は、自身を賢者に仕立て上げながら、ミルズに嫉妬して、その破壊する者になろうとするのだ。異常殺人事件は、日本の「闇サイト殺人事件」の如く、犯人達の共謀によって引き起こされるものもあれば、本作のように単独犯の場合もある。後者は、前者の凡愚の集まりではなく、より知性的で狡猾な知能犯によるものであり、犯罪の深淵とは、それが、誰も理解出来ない異常者によるものである。つまり、本作の猟奇事件は、犯罪者の社会からしても、異常であり、高い学歴と財産を持った犯人が、何故、その凶行に及んだかは、皆目見当もつかないからである。その意味で、本件は、犯罪芸術、と言う事が出来るし、追従者も生まない。孤独の中から生まれた犯行とは、その執行者にも更なる孤独の決意を迫る。つまり、快楽とはマゾヒズムである。
狂信的なクリスチャンであり、その犯人は、宗教が人権や犯罪に関わる事によって起こされて来た、社会の病理を表している。宗教とは、他者に対して、改宗を迫り、つまりは、生き方を強制するものである。これを、国に置き換えても、そのまま改宗と支配のシステムは成り立ってしまう。国家が、宗教戦争などの十字軍で、他国を侵略し続けて来たのは、キリスト教の対外的な支配欲によるものだ。聖地の奪還とは、大義名分であり、その実、戦争の現場、聖地エルサレムや、その周辺では、抑圧的な支配と占領軍の跋扈という、悪弊が蔓延した。改宗を迫るとは、国家や政府に対する忠誠に簡単に置き換わるものであり、列強時代の布教を一つの機軸にしたグローバリズムも、その遡上にあるものだ。
アメリカのキリスト教社会は世俗化して、その勢力図も混沌として来た。正道としてのプロテスタントが絶対優位ではないし、その信仰の中核となる聖書にも、科学や進化論、カウンターカルチャーなどの攻勢を受け、散々な目に遭っている。宗教が最大の存在感を発揮するものは、テロリズムに他ならない。それは、大勢での社会情勢や、公論といったものを覆す、忌むべき暴力であり、本作の犯人は、そうした、テロリストの一員としてならば、生きる処もあったと思われる。原理主義とは、キリスト教においても、批判の対象となるものであり、紛争地域に切り裂かれたイスラム教に対して、覇権国の信仰であり、政治的影響力の強さから、国際的な批判を受ける事は、米プロテスタントの「受難」でもある。
犯人は、「七つの大罪」の一つである、嫉妬に自身の存在を落とし込んだ。それは、ゲームの支配者であり、その計画を綿密に立てた設計者の賢者から、一介の愚者、道化に自身を落とし込む、まさに恥ずべき事なのだ。犯人は、ミルズに対して、賭けを仕掛けて、その勝敗を予想する事に、自身のマスタ―べ―ションの最高潮を見出している。醜悪そのものであり、このテロは、暴力の連鎖によって、帰結され、その最終的な結末は、犯人の掌から、零れ落ちて、独立して行く。それは、偽者のメシアに対する、叛旗を掲げる行為であり、確かに犯人は老獪であったが、如何なる賢者であれ、マスターベーションの快楽と、欲望を満たす刹那的な衝動には代え難い快感があるのだ。大犯罪には、不二の味わいがあるらしい。
2017年09月23日 20:30
ダム建設技師二代の執念と、大いなる自然との対決。
富山県黒部川上流に関西電力が建設する第四発電所。現場責任者には北川が任命され、資材運搬用のトンネル掘削は熊谷組が担当することになった。熊谷組の岩岡源三の息子である剛は父の強硬なやり方に反発し設計技師となっていた。現場に赴いた剛はそこで体力が衰えてしまった父と、熱心に工事に打ち込む北川の姿を見て、工事に参加することにする。やがて工事現場では山崩れが起こり大量の水が流れ込んだ。北川は自分の娘が白血病に冒されたことを知るが、工事現場を離れることができなかった。(allcinema)
黒部ダムは、その立地の厳しさから、人命の犠牲は必至の現場であった。その水温は冷たく、日本でも有数の寒冷地帯であり、山岳の内に閉ざされた自然は、豪雪となって猛威を振るう。黒四ダムの建設の事業譚であり、その前には、同じく黒部市内の、地獄に比せられる厳しい工事となった仙人谷ダムの建設がある。山岳を掘り進むには、多大なリスクが付き物である。それは岩盤の崩落や、熱線、熱湯の漏出、冬場における吹雪による冷害や山を崩す雪崩である。黒部は厳寒の地であるが、そのトンネルの内部は、灼熱の熱線が起こり、熱湯は人肌を爛れさせる。ダイナマイトへの過剰な熱による自然発火も、死に至る危険なリスクであった。だから、岩岡源三が非情に徹するのは、そうした、黒三の建設現場に携わり、本物の地獄を見たからで、犠牲は止む無し、という考え方に至っている。
黒三こと仙人谷ダムは、硫黄温泉を持った高熱地帯であったが、黒部ダムは、破砕帯を持った冷水に工員達は苦しめられた。破砕帯は、細かな岩石を内包して、水が内部を流れており、活断層のように地震にも弱いという。また、外壁は強いが、内部は脆く、トンネル採掘において、持続的な冷水の漏出と、崩壊に苦しみ、黒部ダムの殉職者のほとんどはトンネル採掘の際に起きたものである。工員数は延べ一千万人であり、当時の東京都民が、一日だけだが全員参加した規模の大工事であり、破砕帯を貫通するのに7か月もかかっている。また、貫通の為の予算は、8億円であり、これは、現在の資本価値からすれば、30倍強であり、莫大な労力が取られた事が分かる。日本の電気会社の主力である関西電力としても、その企業規模を象徴する日本一のダムだ。
ゼネコンによる建設事業とは、国家にとって不可欠のインフラであり、黒三周辺並びに黒四ダムの建設によって、多くの国民と家庭、産業が利益を得た事は、国益の為の事業として、公共事業が存在する事を示している。多目的ダムは、その利便性から、都市に対する洪水を防ぐ防災ダムの要となっている。関東圏においても、ダムは低地である首都圏の洪水を防ぎ、多大な損失をカバーする為の国策であろう。「コンクリートから人へ」は、完全なミスリードであり、公共事業とは、国家が主体となって取り組むべき、経済政策の中核である。民意への迎合は、時の民主党政権が、愚にも付かない素人集団であり、安っぽい正義感と権力への対決姿勢を持った事は、さらに大きな国益としての、耐震事業における、国民の生命を守る大局の正義を欠いたものと言わざるを得ない。
そして、国家主義とは、それが、民意と乖離するのは当然の事であり、国家が権力を行使する際に、根源となるものは、パワーに他ならない。黒四ダムにおいては、危険な工事を遂行するには、人員の確保と、高い士気が必要であり、まさに戦場といえるし、兵站としての資金は潤沢でなければならない。そして、岩岡親子は、非情に徹する源三に対して、子の剛は、強い反発を起こし、それが、父親に向かっている事は、国家主義という理念が、戦後においては、その威信を欠いているという事でもあり、源三が非情に徹せれるわけとは、国家の正義、公共の利益の為に戦う、国士のプライドに達しているからである。
つまり、身近で見知っている源三への反抗心とは、国家主義を掲げ、その兵隊となっている父親に対するもの、つまりは、国家権力への不信にあると言って良い。だが、父親は、心を鬼と化しても、その責任感には大きなものがあるし、事業を成し遂げる事が、男の本懐だと思っている。それに対する剛は、技師の手足となって働く人夫への配慮であったり、プロセスを徹底して重んじる態度を貫いており、事業を理想化している。それは、現実として、多くの仲間を失うリスクのあるダム建設においては、甘いともいえる。だから、父親が達した非情の境地と、剛の理想とは、互いに協調を探りながら、接近して行く、そこには、父親がかつての工事で息子に発破を託した過去の贖罪となり、実際には、父親は苦しんでいるのだ。顔では非情を装いながら、心の奥底では、贖罪に苛まれる、というのは、「古き日本の父親像」を体現しており、大変に情緒的である。
水とは、生きる為に必須の物質であり、生活も産業も水がある処でしか起こらない。自然愛護と綺麗な水に対する意欲が高まり、市販される名水を呑む習慣が身についても、家庭と産業の為の水の膨大な消費量に比べれば、微力であろうが、それでも、名水を愛飲する事は、自然保護に繋がる。名水とは、自然の中から生まれるものであり、無尽蔵に湧いて来ると見える、名水を保護するには、その揺籃となっている森林や山地、周辺の水系の環境を保全する事である。風水において、霊峰とされる富士山の名水は、気力を涵養する為に、非常に良いものとされる。黒部の峻嶮な山岳地帯に比べれば、富士山の自然は易しいが、黒部ダムの建設において、最大の争点となっているのは、それが自然の秩序を変えるものである事だ。
つまり、黒部にとっては自然破壊でもあるが、それは、ダムが多数の生活と生命という、自然よりも得難いものの利益を守る為のものであり、すでに多大な犠牲を払いながら、事業が撤退すれば、会社や技師達の栄誉は消え去り、狂人という批判だけが残る事になる。仙人谷ダムの建設ですでに多くの犠牲を払っているゼネコンは、撤退する事は、国策の担い手としての失格を意味する。奇しくも、仙人谷ダムの建設は成功したものの、危険に対するノウハウ不足とリスク軽視によってダイナマイトの自然爆発や、泡雪崩などの自然災害に塗れ、またその建設直後には、戦前の政府の方針によって、五大電力会社は分割され、九電となり、技師の多くは解散を余儀なくされ、国内外に離散してしまっている。つまり、仙人谷ダムの失敗を挽回し、企業利益と栄誉を取り戻す上で、黒四ダムの建設は試金石であったのである。
ダム建設が本物の戦場である事は、そうした危険な労働に従事する、技師、人夫達の度胸と義務感の強さを示している。勿論、日賃は高く、それが動機となっているが、そうした、貧困とのレースが、ゼネコンで働き、使い捨てのように移り変わる労働者の戦いとなっている。家族を持つ、という事は、責任と幸福の受益者となる事でもあり、家族を愛するから、養っていく為に、危険な現場に男達は帰って来るのではないか。戦場とは、限られた生命を懸けた厳しい現場である。だが、そうした、自身の生命を軽視し、人権などとは言ってられない戦場にて戦う事と、家族への愛の価値というのは、反するものではない。深い愛情があるから、働くのであって、厳しい戦いも忘れられる温かな家庭がある事、これが、日本の企業戦士達の強さと意志の表象ではあるまいか。
(黄字の箇所は追記しました。)
富山県黒部川上流に関西電力が建設する第四発電所。現場責任者には北川が任命され、資材運搬用のトンネル掘削は熊谷組が担当することになった。熊谷組の岩岡源三の息子である剛は父の強硬なやり方に反発し設計技師となっていた。現場に赴いた剛はそこで体力が衰えてしまった父と、熱心に工事に打ち込む北川の姿を見て、工事に参加することにする。やがて工事現場では山崩れが起こり大量の水が流れ込んだ。北川は自分の娘が白血病に冒されたことを知るが、工事現場を離れることができなかった。(allcinema)
黒部ダムは、その立地の厳しさから、人命の犠牲は必至の現場であった。その水温は冷たく、日本でも有数の寒冷地帯であり、山岳の内に閉ざされた自然は、豪雪となって猛威を振るう。黒四ダムの建設の事業譚であり、その前には、同じく黒部市内の、地獄に比せられる厳しい工事となった仙人谷ダムの建設がある。山岳を掘り進むには、多大なリスクが付き物である。それは岩盤の崩落や、熱線、熱湯の漏出、冬場における吹雪による冷害や山を崩す雪崩である。黒部は厳寒の地であるが、そのトンネルの内部は、灼熱の熱線が起こり、熱湯は人肌を爛れさせる。ダイナマイトへの過剰な熱による自然発火も、死に至る危険なリスクであった。だから、岩岡源三が非情に徹するのは、そうした、黒三の建設現場に携わり、本物の地獄を見たからで、犠牲は止む無し、という考え方に至っている。
黒三こと仙人谷ダムは、硫黄温泉を持った高熱地帯であったが、黒部ダムは、破砕帯を持った冷水に工員達は苦しめられた。破砕帯は、細かな岩石を内包して、水が内部を流れており、活断層のように地震にも弱いという。また、外壁は強いが、内部は脆く、トンネル採掘において、持続的な冷水の漏出と、崩壊に苦しみ、黒部ダムの殉職者のほとんどはトンネル採掘の際に起きたものである。工員数は延べ一千万人であり、当時の東京都民が、一日だけだが全員参加した規模の大工事であり、破砕帯を貫通するのに7か月もかかっている。また、貫通の為の予算は、8億円であり、これは、現在の資本価値からすれば、30倍強であり、莫大な労力が取られた事が分かる。日本の電気会社の主力である関西電力としても、その企業規模を象徴する日本一のダムだ。
ゼネコンによる建設事業とは、国家にとって不可欠のインフラであり、黒三周辺並びに黒四ダムの建設によって、多くの国民と家庭、産業が利益を得た事は、国益の為の事業として、公共事業が存在する事を示している。多目的ダムは、その利便性から、都市に対する洪水を防ぐ防災ダムの要となっている。関東圏においても、ダムは低地である首都圏の洪水を防ぎ、多大な損失をカバーする為の国策であろう。「コンクリートから人へ」は、完全なミスリードであり、公共事業とは、国家が主体となって取り組むべき、経済政策の中核である。民意への迎合は、時の民主党政権が、愚にも付かない素人集団であり、安っぽい正義感と権力への対決姿勢を持った事は、さらに大きな国益としての、耐震事業における、国民の生命を守る大局の正義を欠いたものと言わざるを得ない。
そして、国家主義とは、それが、民意と乖離するのは当然の事であり、国家が権力を行使する際に、根源となるものは、パワーに他ならない。黒四ダムにおいては、危険な工事を遂行するには、人員の確保と、高い士気が必要であり、まさに戦場といえるし、兵站としての資金は潤沢でなければならない。そして、岩岡親子は、非情に徹する源三に対して、子の剛は、強い反発を起こし、それが、父親に向かっている事は、国家主義という理念が、戦後においては、その威信を欠いているという事でもあり、源三が非情に徹せれるわけとは、国家の正義、公共の利益の為に戦う、国士のプライドに達しているからである。
つまり、身近で見知っている源三への反抗心とは、国家主義を掲げ、その兵隊となっている父親に対するもの、つまりは、国家権力への不信にあると言って良い。だが、父親は、心を鬼と化しても、その責任感には大きなものがあるし、事業を成し遂げる事が、男の本懐だと思っている。それに対する剛は、技師の手足となって働く人夫への配慮であったり、プロセスを徹底して重んじる態度を貫いており、事業を理想化している。それは、現実として、多くの仲間を失うリスクのあるダム建設においては、甘いともいえる。だから、父親が達した非情の境地と、剛の理想とは、互いに協調を探りながら、接近して行く、そこには、父親がかつての工事で息子に発破を託した過去の贖罪となり、実際には、父親は苦しんでいるのだ。顔では非情を装いながら、心の奥底では、贖罪に苛まれる、というのは、「古き日本の父親像」を体現しており、大変に情緒的である。
水とは、生きる為に必須の物質であり、生活も産業も水がある処でしか起こらない。自然愛護と綺麗な水に対する意欲が高まり、市販される名水を呑む習慣が身についても、家庭と産業の為の水の膨大な消費量に比べれば、微力であろうが、それでも、名水を愛飲する事は、自然保護に繋がる。名水とは、自然の中から生まれるものであり、無尽蔵に湧いて来ると見える、名水を保護するには、その揺籃となっている森林や山地、周辺の水系の環境を保全する事である。風水において、霊峰とされる富士山の名水は、気力を涵養する為に、非常に良いものとされる。黒部の峻嶮な山岳地帯に比べれば、富士山の自然は易しいが、黒部ダムの建設において、最大の争点となっているのは、それが自然の秩序を変えるものである事だ。
つまり、黒部にとっては自然破壊でもあるが、それは、ダムが多数の生活と生命という、自然よりも得難いものの利益を守る為のものであり、すでに多大な犠牲を払いながら、事業が撤退すれば、会社や技師達の栄誉は消え去り、狂人という批判だけが残る事になる。仙人谷ダムの建設ですでに多くの犠牲を払っているゼネコンは、撤退する事は、国策の担い手としての失格を意味する。奇しくも、仙人谷ダムの建設は成功したものの、危険に対するノウハウ不足とリスク軽視によってダイナマイトの自然爆発や、泡雪崩などの自然災害に塗れ、またその建設直後には、戦前の政府の方針によって、五大電力会社は分割され、九電となり、技師の多くは解散を余儀なくされ、国内外に離散してしまっている。つまり、仙人谷ダムの失敗を挽回し、企業利益と栄誉を取り戻す上で、黒四ダムの建設は試金石であったのである。
ダム建設が本物の戦場である事は、そうした危険な労働に従事する、技師、人夫達の度胸と義務感の強さを示している。勿論、日賃は高く、それが動機となっているが、そうした、貧困とのレースが、ゼネコンで働き、使い捨てのように移り変わる労働者の戦いとなっている。家族を持つ、という事は、責任と幸福の受益者となる事でもあり、家族を愛するから、養っていく為に、危険な現場に男達は帰って来るのではないか。戦場とは、限られた生命を懸けた厳しい現場である。だが、そうした、自身の生命を軽視し、人権などとは言ってられない戦場にて戦う事と、家族への愛の価値というのは、反するものではない。深い愛情があるから、働くのであって、厳しい戦いも忘れられる温かな家庭がある事、これが、日本の企業戦士達の強さと意志の表象ではあるまいか。
(黄字の箇所は追記しました。)
2017年09月20日 20:00
いつも、謀略と事件の中心に居た男、ジグソウのゲームが始まる。
薄汚れた広いバスルームで目を覚ました2人の男、ゴードンとアダム。彼らはそれぞれ対角線上の壁に足首を鎖で繋がれた状態でそこに閉じ込められていた。2人の間には拳銃で頭を撃ち抜かれた自殺死体が。ほかにはレコーダー、マイクロテープ、一発の銃弾、タバコ2本、着信専用携帯電話、そして2本のノコギリ。状況がまるで呑み込めず錯乱する2人に、「6時間以内に目の前の男を殺すか、2人とも死ぬかだ」というメッセージが告げられる…。その頃タップ刑事は“ジグソウ”を追っていた。ジグソウが仕掛ける残忍な“ゲーム”で次々と被害者が出ていたのだった…。(allcinema)
猟奇的な密室殺人を実行し、多くの被害者を出し続けた残虐なジグソウ。彼は、大柄ながら、取り立てて異彩の無い初老の男であり、そんな一般人じみた人間が、残虐極まりない事件を起こす動機には、人間社会に対する憎悪があった。犯罪とは、警察や司直の手に懸からねば、沈黙と共に、闇に葬られるものである。そこには、裁かれる事なく、隠されて行く大小様々な罪があるが、警察が関知し、摘発されない罪というのは、事件にならない。罪とは、事件性が大きければ大きいほど、社会に与えるインパクトは大きくなり、それを挙げる側も、罪に対立する「動機」を得る事になる。つまり、犯罪とはパワーゲームの一つであり、そこから零落してしまわない限り、裁かれず、そうしたものは秘密とされ、それに関わった個人に贖罪を問い続けるのである。
ジグソウは、そうした、社会のパワーゲームを憎み、あらゆる些末な罪までをも裁こうとする。それは、警察や司直の手を越えた、越権行為であり、それ自体が悪である事は、さして大した罪のない一般人を標的にして、過剰な刑罰を加える事から、明白である。だから、ジグソウが、初老のインテリであり、その秘匿されている歪な犯罪芸術を昇華させればさせるに、彼は捕まりにくくなり、その罪の重さはいよいよ大きくなって行く。残虐に過ぎる罠の数々は、ジグソウの憎悪の深さを示す。それらは、人を苦しませ殺す為だけの装置であり、他には、ジグソウが社会に益するという事は何もないからである。つまり、犯罪芸術というのは、社会にとっては、全く無益なのである。
だから、ジグソウが、如何に犯罪芸術を極めても、それは、本来の彼にとっての復讐を成し遂げた事にはならない。残虐な犯罪者であっても、かつては真人間だった筈である。娑婆で暮らし、その中で疑問や怒りを感じる事によって、闇に堕ちる。ジグソウが優秀な人材である事を証明する事が、社会の中に生きて来た理由や、彼の復讐の大義を募らせる唯一の方法なのだ。だから、その手段を、犯罪に求めた時点で、彼の未来は暗転に向かい、静かな破滅を約したのではないか。
ともあれ、ジグソウが、自身の悪を自覚して、それに対する謝罪の言葉を口にせねば、無碍に虐殺されて行った被害者達が浮かばれる事は無い。ジグソウに対しては、対話が必要であり、その犯行の動機を洗い出したり、政治的なメッセージを打ち出すという事は無く、警察も報道も余りに無策といえるのではないか。ジグソウの犯行は、残虐なだけではなく、高度な技術とインテリジェンスに彩られている事は、明白であり、そのショッキングな現場と、限られた情報量の些末さによって、警察もまた戦々恐々として、途轍もない大物が、犯人であり、それに対する如何なる呼び掛けも、情報の収集も無駄であると、後手後手に踏んだ事がジグソウの人格のプロファイリングに対する、遅れと失敗の原因であろう。
ジグソウは、密室に囚われた被害者達に対して、あらゆる代償を求め、如何に本能として人間が残虐になれるのか、を試している、冷酷な観察願望がある。最前列で、被害者達の苦しむ姿を観察している事は、その執拗な残虐性を示すものであり、また、被害者達の情報、犯罪歴とか生活上の癖、秘密等を知り抜いている事から、並々ならぬ執念と情報力を持っている事が分かる。当人を知り抜いて尚、加害感情をたぎらせる事は、ジグソウがやはり、一筋縄では行かぬ悪人である証左である。なぜなら、その個人のあらゆる秘密や、その具現する生活や文化を知れば、どこかしら、理解を持ちシンパシーを感じる事はあるからである。テロリズムが無知な排外感情という、幼稚な攻撃意志に基づいているとすれば、その人間の無二である事を知りながら、尚、殺そうという気になるジグソウには、何のシンパシーも感じ得ない。やはり、最大の悪人である。
彼ら被害者達は、ジグソウの標的となったのだ。狂人に知られる、という事は、何より警戒すべき事態であり、また、知られざる事が、社会に潜伏して生きるだけならば、最も無難な処世でもあろう。だから、知る事によって学んだり、内省したりするプロセスが無い情報収集は危険であり、また、その収集家本人にとっても、好ましい行為とは言えない。何の愛情も友愛もない、個人に対する付き纏いと執心というのは、犯罪者予備軍が取るであろう危険かつ、取り締まられるべき行動である事は間違いがなかろう。
ジグソウとは、社会が生んだ犯罪者であり、余りに難解な殺傷装置や残虐極まる計画による、その稀有な存在感は、模倣犯すら生まない。犯罪者集団とは、結束は強く、外部からの侵入者に強烈な警戒感を抱き、その内部には歪な絆すらあろう。だが、犯罪者を恫喝して、自分の計画上の下僕として使うジグソウには、そうした、社会からの排除に遭って、同じ場所にたどり着いた他者を理解し、共感するという能力に劣るからである。むしろ、ジグソウが後継者を欲する時とは、彼が老碌して、唯我独尊の決意を失い、強き独裁者でなくなった時であろう。
薄汚れた広いバスルームで目を覚ました2人の男、ゴードンとアダム。彼らはそれぞれ対角線上の壁に足首を鎖で繋がれた状態でそこに閉じ込められていた。2人の間には拳銃で頭を撃ち抜かれた自殺死体が。ほかにはレコーダー、マイクロテープ、一発の銃弾、タバコ2本、着信専用携帯電話、そして2本のノコギリ。状況がまるで呑み込めず錯乱する2人に、「6時間以内に目の前の男を殺すか、2人とも死ぬかだ」というメッセージが告げられる…。その頃タップ刑事は“ジグソウ”を追っていた。ジグソウが仕掛ける残忍な“ゲーム”で次々と被害者が出ていたのだった…。(allcinema)
猟奇的な密室殺人を実行し、多くの被害者を出し続けた残虐なジグソウ。彼は、大柄ながら、取り立てて異彩の無い初老の男であり、そんな一般人じみた人間が、残虐極まりない事件を起こす動機には、人間社会に対する憎悪があった。犯罪とは、警察や司直の手に懸からねば、沈黙と共に、闇に葬られるものである。そこには、裁かれる事なく、隠されて行く大小様々な罪があるが、警察が関知し、摘発されない罪というのは、事件にならない。罪とは、事件性が大きければ大きいほど、社会に与えるインパクトは大きくなり、それを挙げる側も、罪に対立する「動機」を得る事になる。つまり、犯罪とはパワーゲームの一つであり、そこから零落してしまわない限り、裁かれず、そうしたものは秘密とされ、それに関わった個人に贖罪を問い続けるのである。
ジグソウは、そうした、社会のパワーゲームを憎み、あらゆる些末な罪までをも裁こうとする。それは、警察や司直の手を越えた、越権行為であり、それ自体が悪である事は、さして大した罪のない一般人を標的にして、過剰な刑罰を加える事から、明白である。だから、ジグソウが、初老のインテリであり、その秘匿されている歪な犯罪芸術を昇華させればさせるに、彼は捕まりにくくなり、その罪の重さはいよいよ大きくなって行く。残虐に過ぎる罠の数々は、ジグソウの憎悪の深さを示す。それらは、人を苦しませ殺す為だけの装置であり、他には、ジグソウが社会に益するという事は何もないからである。つまり、犯罪芸術というのは、社会にとっては、全く無益なのである。
だから、ジグソウが、如何に犯罪芸術を極めても、それは、本来の彼にとっての復讐を成し遂げた事にはならない。残虐な犯罪者であっても、かつては真人間だった筈である。娑婆で暮らし、その中で疑問や怒りを感じる事によって、闇に堕ちる。ジグソウが優秀な人材である事を証明する事が、社会の中に生きて来た理由や、彼の復讐の大義を募らせる唯一の方法なのだ。だから、その手段を、犯罪に求めた時点で、彼の未来は暗転に向かい、静かな破滅を約したのではないか。
ともあれ、ジグソウが、自身の悪を自覚して、それに対する謝罪の言葉を口にせねば、無碍に虐殺されて行った被害者達が浮かばれる事は無い。ジグソウに対しては、対話が必要であり、その犯行の動機を洗い出したり、政治的なメッセージを打ち出すという事は無く、警察も報道も余りに無策といえるのではないか。ジグソウの犯行は、残虐なだけではなく、高度な技術とインテリジェンスに彩られている事は、明白であり、そのショッキングな現場と、限られた情報量の些末さによって、警察もまた戦々恐々として、途轍もない大物が、犯人であり、それに対する如何なる呼び掛けも、情報の収集も無駄であると、後手後手に踏んだ事がジグソウの人格のプロファイリングに対する、遅れと失敗の原因であろう。
ジグソウは、密室に囚われた被害者達に対して、あらゆる代償を求め、如何に本能として人間が残虐になれるのか、を試している、冷酷な観察願望がある。最前列で、被害者達の苦しむ姿を観察している事は、その執拗な残虐性を示すものであり、また、被害者達の情報、犯罪歴とか生活上の癖、秘密等を知り抜いている事から、並々ならぬ執念と情報力を持っている事が分かる。当人を知り抜いて尚、加害感情をたぎらせる事は、ジグソウがやはり、一筋縄では行かぬ悪人である証左である。なぜなら、その個人のあらゆる秘密や、その具現する生活や文化を知れば、どこかしら、理解を持ちシンパシーを感じる事はあるからである。テロリズムが無知な排外感情という、幼稚な攻撃意志に基づいているとすれば、その人間の無二である事を知りながら、尚、殺そうという気になるジグソウには、何のシンパシーも感じ得ない。やはり、最大の悪人である。
彼ら被害者達は、ジグソウの標的となったのだ。狂人に知られる、という事は、何より警戒すべき事態であり、また、知られざる事が、社会に潜伏して生きるだけならば、最も無難な処世でもあろう。だから、知る事によって学んだり、内省したりするプロセスが無い情報収集は危険であり、また、その収集家本人にとっても、好ましい行為とは言えない。何の愛情も友愛もない、個人に対する付き纏いと執心というのは、犯罪者予備軍が取るであろう危険かつ、取り締まられるべき行動である事は間違いがなかろう。
ジグソウとは、社会が生んだ犯罪者であり、余りに難解な殺傷装置や残虐極まる計画による、その稀有な存在感は、模倣犯すら生まない。犯罪者集団とは、結束は強く、外部からの侵入者に強烈な警戒感を抱き、その内部には歪な絆すらあろう。だが、犯罪者を恫喝して、自分の計画上の下僕として使うジグソウには、そうした、社会からの排除に遭って、同じ場所にたどり着いた他者を理解し、共感するという能力に劣るからである。むしろ、ジグソウが後継者を欲する時とは、彼が老碌して、唯我独尊の決意を失い、強き独裁者でなくなった時であろう。
2017年09月16日 20:00
腕力より剣力より、人格力がチャンピオンの条件。
闇の剣客道では“一番”のハチマキを手にする者は、世界を制するパワーを手にすることができる。そして、唯一トップに挑むことができるのは、“二番”のハチマキを持つ者のみというのがおきてだ。幼少時に当時“一番”だった父親を目の前でガンマンに惨殺された少年は、復しゅうを誓い、やがて“二番”のハチマキを巻くすご腕のアフロサムライに成長する。(シネマトゥデイ)
武士道を描いた作品としては、異形のアメリカナイズされた日本を体現している。武士道と乱世が結託した時代というのは、日本の時代劇では数少ない。これは、アメリカのパワーによって、黒船の外圧によって、描かれたネオ武士道であり、その価値は大きなものがある。武士道とは、葉隠の「死ぬことと見つけたり」とあるように、死ぬ事を覚悟して生きる事、それによって、何でも出来るという、人生の教訓であり、滅びの美学の事ではない。それは、武士道に対する誤解であり、本作は、アメリカから観た日本と侍の人生を、乱世という、アメリカ西部劇のフィルター、つまりは、アメリカン・スピリッツによって、料理した日米のルーツにおける、奇跡的な合体作である。
戦国時代の侍とは、御家と自己の運命の存続の為に、何でもやってのけたものだ。つまり、侍とは、高潔な貴族の事ではなく、日々を生きて、天下を懸けた戦役や有事において、自身の生命を賭して、国士となる事を望むものの、公家とは違い、本能と野心を持って生きる一個の人間の事である。ここに、江戸時代という過渡期はあるものの、武士道とは、封建主義の中で、支配階級として生きた侍によって伝承され、安楽な江戸時代を経ても、その灯火は絶えていない。むしろ、そうした封建時代の士道というものは、体制変革によっても滅びる事は無い。
アフロサムライは、最強の剣豪として生きた父親の敵を討つ為に、異形のガンマン、ジャスティスを追っている。それは彼がナンバー1であり、それに挑戦するには、世界のどこかで戦い続け常に争覇の対象となっているナンバー2の称号が必要となるからである。彼にとっての御家とは、幼少期を過ごして、自身の剣術の師範となり、育ててくれた道場であり、そこで生きる事が全てであった筈だ。だから、その道場がナンバー2を巡る抗争に巻き込まれ、冷酷な剣客たちと戦う事になっても、アフロは道場の為に戦わねばならない筈だ。だが、逆にそこを斃して、師範を討ち、同輩の親友仁之助と決別した事は、アフロの心の瑕疵となっている。そこを克服したい。
だから、覇権に近付こうとする無無坊主が率いる寺社勢力との大きな戦い、組織は全面に出て来て、その中で決闘が行われても、その後には、幼稚なクマと化した元親友の剣客が居り、その中で、過去との対決が行われる。つまり、組織が倒された後、本物のチャンピオンになるには、己の過去、癒されずに引きづった瑕疵と向き合い、それを克服する事が求められるのだ。その意味で、最後の決闘はマクロで個人的なものとなって行く。その復讐の念が強すぎたゆえに、道場を裏切る事になった父親の敵討ちもその線上にある。
不潔な欲望をまき散らし、公共のものであるべき、寺社としては堕落の極みにある、無無坊主の勢力は、権力が武力の独占によって、国家を支配しようとする本能を示す。もし、武士道が無く、多くの侍達がそうでなくなり、自由と暴力を心酔すればどうなるか、という、架空の戦国の一容態であり、日本的な仁義とか、人情といったものはない。だが、それが、道中付き従うニンジャニンジャとの、戦友としての友情が、運命を共にする事から芽生えるように、戦国には戦国なりの感情の高揚や、絆はあったのだ。戦国に芽生えた友情や恋愛とは、それを踏み越えて行かねばならない、殺伐さがあるからこそ、一瞬の火花のように鮮烈なのだ。情は散る桜の如くである。
アフロにとっての御家とは、ジャスティスによって斃された父親の戦死によって瓦解した。組織との戦い後に、アフロが過去の道場に関わった敵達と、個人的な戦いを開始するのは、如何に剣客として成長して、強くなったとしても、本物のチャンピオンとは、強大な精神をもって、世に憚るものだからではないか。そうした侍達を見て、後進が育って行く。それが、武士道が基盤となった泰平の時代に最も必要とされた、武士社会の形成力であり、精神を体現する力ではないか。武士道とは、結果的に、維新の後も存続し、敗戦を生き延びた。それは、近代以降の国際政治に影響を及ぼさない武士道の精神性の限界を示すと共に、為政者となっても存続されて来たように、個人としての筋を通したり、気概の根源を守る掛け替えの無さを示すものでもある。
本作の武士道とは、戦国時代のものであり、ライバルと対峙するにおいて、そこに許容とか共生の精神は無い。だが、描く事が困難である戦国の武士道を、アメリカナイズによって力技で引っ張り、ここまでの迫力で描いた事は特筆されるべきものだ。
闇の剣客道では“一番”のハチマキを手にする者は、世界を制するパワーを手にすることができる。そして、唯一トップに挑むことができるのは、“二番”のハチマキを持つ者のみというのがおきてだ。幼少時に当時“一番”だった父親を目の前でガンマンに惨殺された少年は、復しゅうを誓い、やがて“二番”のハチマキを巻くすご腕のアフロサムライに成長する。(シネマトゥデイ)
武士道を描いた作品としては、異形のアメリカナイズされた日本を体現している。武士道と乱世が結託した時代というのは、日本の時代劇では数少ない。これは、アメリカのパワーによって、黒船の外圧によって、描かれたネオ武士道であり、その価値は大きなものがある。武士道とは、葉隠の「死ぬことと見つけたり」とあるように、死ぬ事を覚悟して生きる事、それによって、何でも出来るという、人生の教訓であり、滅びの美学の事ではない。それは、武士道に対する誤解であり、本作は、アメリカから観た日本と侍の人生を、乱世という、アメリカ西部劇のフィルター、つまりは、アメリカン・スピリッツによって、料理した日米のルーツにおける、奇跡的な合体作である。
戦国時代の侍とは、御家と自己の運命の存続の為に、何でもやってのけたものだ。つまり、侍とは、高潔な貴族の事ではなく、日々を生きて、天下を懸けた戦役や有事において、自身の生命を賭して、国士となる事を望むものの、公家とは違い、本能と野心を持って生きる一個の人間の事である。ここに、江戸時代という過渡期はあるものの、武士道とは、封建主義の中で、支配階級として生きた侍によって伝承され、安楽な江戸時代を経ても、その灯火は絶えていない。むしろ、そうした封建時代の士道というものは、体制変革によっても滅びる事は無い。
アフロサムライは、最強の剣豪として生きた父親の敵を討つ為に、異形のガンマン、ジャスティスを追っている。それは彼がナンバー1であり、それに挑戦するには、世界のどこかで戦い続け常に争覇の対象となっているナンバー2の称号が必要となるからである。彼にとっての御家とは、幼少期を過ごして、自身の剣術の師範となり、育ててくれた道場であり、そこで生きる事が全てであった筈だ。だから、その道場がナンバー2を巡る抗争に巻き込まれ、冷酷な剣客たちと戦う事になっても、アフロは道場の為に戦わねばならない筈だ。だが、逆にそこを斃して、師範を討ち、同輩の親友仁之助と決別した事は、アフロの心の瑕疵となっている。そこを克服したい。
だから、覇権に近付こうとする無無坊主が率いる寺社勢力との大きな戦い、組織は全面に出て来て、その中で決闘が行われても、その後には、幼稚なクマと化した元親友の剣客が居り、その中で、過去との対決が行われる。つまり、組織が倒された後、本物のチャンピオンになるには、己の過去、癒されずに引きづった瑕疵と向き合い、それを克服する事が求められるのだ。その意味で、最後の決闘はマクロで個人的なものとなって行く。その復讐の念が強すぎたゆえに、道場を裏切る事になった父親の敵討ちもその線上にある。
不潔な欲望をまき散らし、公共のものであるべき、寺社としては堕落の極みにある、無無坊主の勢力は、権力が武力の独占によって、国家を支配しようとする本能を示す。もし、武士道が無く、多くの侍達がそうでなくなり、自由と暴力を心酔すればどうなるか、という、架空の戦国の一容態であり、日本的な仁義とか、人情といったものはない。だが、それが、道中付き従うニンジャニンジャとの、戦友としての友情が、運命を共にする事から芽生えるように、戦国には戦国なりの感情の高揚や、絆はあったのだ。戦国に芽生えた友情や恋愛とは、それを踏み越えて行かねばならない、殺伐さがあるからこそ、一瞬の火花のように鮮烈なのだ。情は散る桜の如くである。
アフロにとっての御家とは、ジャスティスによって斃された父親の戦死によって瓦解した。組織との戦い後に、アフロが過去の道場に関わった敵達と、個人的な戦いを開始するのは、如何に剣客として成長して、強くなったとしても、本物のチャンピオンとは、強大な精神をもって、世に憚るものだからではないか。そうした侍達を見て、後進が育って行く。それが、武士道が基盤となった泰平の時代に最も必要とされた、武士社会の形成力であり、精神を体現する力ではないか。武士道とは、結果的に、維新の後も存続し、敗戦を生き延びた。それは、近代以降の国際政治に影響を及ぼさない武士道の精神性の限界を示すと共に、為政者となっても存続されて来たように、個人としての筋を通したり、気概の根源を守る掛け替えの無さを示すものでもある。
本作の武士道とは、戦国時代のものであり、ライバルと対峙するにおいて、そこに許容とか共生の精神は無い。だが、描く事が困難である戦国の武士道を、アメリカナイズによって力技で引っ張り、ここまでの迫力で描いた事は特筆されるべきものだ。
2017年09月13日 17:27
信玄の大いなる遺産。
巨匠・黒澤明監督が「デルス・ウザーラ」以来5年ぶり(日本映画としては「どですかでん」以来10年ぶり)に製作した、戦国スペクタクル巨編。武田信玄の影武者として生きた男の悲喜劇を荘厳にして絢爛な映像で描く。戦国時代。家康の野田城攻めの折り、鉄砲で撃たれこの世を去った武田信玄。弟信廉は信玄死すの報を打ち消すため信玄の影武者を立てる。男は盗みの罪から処刑されるところを信玄と瓜二つだったことから助けられたのだった。だが男にとって戦国の雄・信玄として生きることはあまりにも過酷だった……。製作費の高騰で計画が頓挫しかかったり、当初主役だった勝新太郎が監督との意見の相違から途中降板するなどの話題にも事欠かなかった。カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。(allcinema)
戦国を描きながら、あくまで戦争の主体を、御家や軍団ではなく、個人としての英雄の器量に重ねたものであり、武田や織田という戦国の華を、信玄や信長の間で繰り広げられる諜報と謀略の戦争として再現している。つまり、運命の長篠の戦において、打ち砕かれたのは、物量としての武田の軍団だけではなく、信玄の遺志と野望が破壊されたのである。巨大な精神すらを破壊する織田軍団の精強さは、当世の大名たちを震撼させたであろう。信玄を継いだと考えた影武者にとって、眼前で繰り広げられた自軍の惨敗は、それを、影の陣代としてなれど、一度は率いて、徳川最強の本田忠勝を退けたプライドを破壊するものであり、影武者には悲壮と憤怒しか残らない。
武田家とは、甲斐信濃を領土とした、戦国最大の英雄の一であり、信玄は父信虎を追放して、自国の基盤を固め、信虎時代からの譜代である甲斐を本拠として、信濃を侵略した。だから、正統として引き継いだ甲斐と比して、戦場となった信濃は半ば敵地でもあり、そこに割拠した諏訪氏、小笠原氏や村上義清などの守護、領主との戦いは熾烈を極め、概ね、国人や寺社の協力を得て、その地を掠め取り、征服を進めている。戦国大名が重んじた絆とは、地縁や血縁などの、一族としての利害の共有であり、勝頼が諏訪氏を継いだのは、血縁によって、化外の地である信濃を統一し、領土として鎮撫しようとしたからである。また、信玄は幼名、勝千代と名乗っており、勝頼にその名を託した事は、実際には信頼のあった親子関係が見える。
信玄が生まれた頃は、信虎の活躍によって信濃を征服し、近隣一円にその威信を敷き、拡張の時代にあった。勝千代とは、連戦連勝の武田家の僥倖から得られた名である。信玄は長じて、父信虎を凌ぐ名将となるが、その影には、一族を超える絆の強力な家臣団の存在があった。家族は不幸なれど、信玄は、信虎を追放し、子である義信を幽閉した上、廃嫡するなど、酷薄そのものだ。対する、勝頼に対する、距離の置き方は、身辺にて寵愛すればいずれ殺意を抱く事、指導者として闇を抱える自身の性格を、信玄が理解し、本心では勝頼を重んじる気持ちがあったのではないか。
実際に、勝頼は信玄の後継者として、戦争に辣腕を振るい、徳川家康の割拠する三河遠江を侵攻している。信玄の跡を継ぐという事は、そうした、強国としての威信を守り、繋いで行く事でもあり、信玄の「死して三年は動くな」という遺言は、誠心誠意、武田を継ごうとした勝頼にとっては、不可解なものといえる。最大勢力である武田が動かねば、小大名である浅井、朝倉、そして、足利義昭などは、戦力差で圧倒的な不利となり、各個撃破される事は目に見えているからである。従って、遺言によって武田にモンロー主義を押し付けた事は、大名の遺言としては全く現実味がないのだ。
また、信玄が京への進軍を切望して、上洛を夢とした事も、それがあるとしても、信長包囲網が成ってからの事であり、義昭に担ぎ挙げられてからである。織田と武田は、婚姻を取り交わし、盟約を持つなど、昵懇な仲でもあったし、何より、信玄は西を向かず、その野心は越後にあったからである。上杉謙信と雌雄を決する事、それが、信玄の長年の野望であり、将軍家からの調停を受けても、幾度となく再戦の軍を起こしている。謙信が上洛して将軍義輝を輔弼する野心があっても、結局、帰国して、再び関東の北条攻めに転じて、関東の広大な沃野を欲したのは、その豊かさと、関東管領という職務に対する儀礼と誇りを持っていたからであり、それと同じように、信玄も越後を欲して北上したのである。それゆえ、関東へ打って出る玄関口となる上野を欲したのであって、それは、三国同盟による、北条、今川への信頼を裏付ける行動となっている。
戦争には、多大な人士と資本が必要であったが、それを支えたのは、甲斐信濃に西上野を加えても120万石しかない武田の貧弱な地の利ではなく、金山などの開発にあり、また、傘下の軍団のみならず、地域の寺院や国人、百姓たちの動員にあった。信玄堤は、治水の充実、洪水に対する防災によって国を豊かにする、という大義があった事業であり、今も昔も、公共事業というのは、経済と労働力を動員する重要な権力の発動に繋がるのである。武田の農民などは、武士とさして変わらず、有力な者は土豪のように猛々しかった。それは、武田が、今だ中世から脱却し切れていない事実と共に、その近世への過渡期にあった事を示している。
「人は城、人は石垣、人は堀」というように、武田の領土には神聖な佇まいがあり、それは、寺社勢力の統治と管理によって、他国からは攻め辛い要害を、人を基本として築いた信玄の辣腕がある。武田家とは、公権力であり、神仏を祀り、侵しがたいアジール性のある寺社を管理し、自らも僧籍に入り、仏門を尊重した。だが、その信玄の信仰というのは、いささか政治的であり、家臣団をまとめ、神仏の神秘性に浸す事によって、権威への忠誠心を求めた事にあった。それは、寺社そのものや国人に対しても、同じ統率機能を求めたのである。信玄には、僧侶や陰陽師をも抱え、城には生命が宿るものと考え、その鎮撫において、風水を利用したのである。
つまり、幕府への参戦という天の利、要害に護られた地の利、勇猛で鳴る騎馬軍団の人の利、を抱え、それを、時限的に有した信玄の治世というのは、貧しい甲斐信濃の民にとっては、奇跡的な躍進の時代でもあった。晩年には、近隣を挑発して、天下を制する織田にすら宣戦しているが、信玄が生きていれば、如何なる大転換によって、武田の危機を凌いだかは分からない。勝頼は、運命の後継者であり、その父子の間には、歪ながらも、目に見えぬ絆があった。
風林火山
巨匠・黒澤明監督が「デルス・ウザーラ」以来5年ぶり(日本映画としては「どですかでん」以来10年ぶり)に製作した、戦国スペクタクル巨編。武田信玄の影武者として生きた男の悲喜劇を荘厳にして絢爛な映像で描く。戦国時代。家康の野田城攻めの折り、鉄砲で撃たれこの世を去った武田信玄。弟信廉は信玄死すの報を打ち消すため信玄の影武者を立てる。男は盗みの罪から処刑されるところを信玄と瓜二つだったことから助けられたのだった。だが男にとって戦国の雄・信玄として生きることはあまりにも過酷だった……。製作費の高騰で計画が頓挫しかかったり、当初主役だった勝新太郎が監督との意見の相違から途中降板するなどの話題にも事欠かなかった。カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。(allcinema)
戦国を描きながら、あくまで戦争の主体を、御家や軍団ではなく、個人としての英雄の器量に重ねたものであり、武田や織田という戦国の華を、信玄や信長の間で繰り広げられる諜報と謀略の戦争として再現している。つまり、運命の長篠の戦において、打ち砕かれたのは、物量としての武田の軍団だけではなく、信玄の遺志と野望が破壊されたのである。巨大な精神すらを破壊する織田軍団の精強さは、当世の大名たちを震撼させたであろう。信玄を継いだと考えた影武者にとって、眼前で繰り広げられた自軍の惨敗は、それを、影の陣代としてなれど、一度は率いて、徳川最強の本田忠勝を退けたプライドを破壊するものであり、影武者には悲壮と憤怒しか残らない。
武田家とは、甲斐信濃を領土とした、戦国最大の英雄の一であり、信玄は父信虎を追放して、自国の基盤を固め、信虎時代からの譜代である甲斐を本拠として、信濃を侵略した。だから、正統として引き継いだ甲斐と比して、戦場となった信濃は半ば敵地でもあり、そこに割拠した諏訪氏、小笠原氏や村上義清などの守護、領主との戦いは熾烈を極め、概ね、国人や寺社の協力を得て、その地を掠め取り、征服を進めている。戦国大名が重んじた絆とは、地縁や血縁などの、一族としての利害の共有であり、勝頼が諏訪氏を継いだのは、血縁によって、化外の地である信濃を統一し、領土として鎮撫しようとしたからである。また、信玄は幼名、勝千代と名乗っており、勝頼にその名を託した事は、実際には信頼のあった親子関係が見える。
信玄が生まれた頃は、信虎の活躍によって信濃を征服し、近隣一円にその威信を敷き、拡張の時代にあった。勝千代とは、連戦連勝の武田家の僥倖から得られた名である。信玄は長じて、父信虎を凌ぐ名将となるが、その影には、一族を超える絆の強力な家臣団の存在があった。家族は不幸なれど、信玄は、信虎を追放し、子である義信を幽閉した上、廃嫡するなど、酷薄そのものだ。対する、勝頼に対する、距離の置き方は、身辺にて寵愛すればいずれ殺意を抱く事、指導者として闇を抱える自身の性格を、信玄が理解し、本心では勝頼を重んじる気持ちがあったのではないか。
実際に、勝頼は信玄の後継者として、戦争に辣腕を振るい、徳川家康の割拠する三河遠江を侵攻している。信玄の跡を継ぐという事は、そうした、強国としての威信を守り、繋いで行く事でもあり、信玄の「死して三年は動くな」という遺言は、誠心誠意、武田を継ごうとした勝頼にとっては、不可解なものといえる。最大勢力である武田が動かねば、小大名である浅井、朝倉、そして、足利義昭などは、戦力差で圧倒的な不利となり、各個撃破される事は目に見えているからである。従って、遺言によって武田にモンロー主義を押し付けた事は、大名の遺言としては全く現実味がないのだ。
また、信玄が京への進軍を切望して、上洛を夢とした事も、それがあるとしても、信長包囲網が成ってからの事であり、義昭に担ぎ挙げられてからである。織田と武田は、婚姻を取り交わし、盟約を持つなど、昵懇な仲でもあったし、何より、信玄は西を向かず、その野心は越後にあったからである。上杉謙信と雌雄を決する事、それが、信玄の長年の野望であり、将軍家からの調停を受けても、幾度となく再戦の軍を起こしている。謙信が上洛して将軍義輝を輔弼する野心があっても、結局、帰国して、再び関東の北条攻めに転じて、関東の広大な沃野を欲したのは、その豊かさと、関東管領という職務に対する儀礼と誇りを持っていたからであり、それと同じように、信玄も越後を欲して北上したのである。それゆえ、関東へ打って出る玄関口となる上野を欲したのであって、それは、三国同盟による、北条、今川への信頼を裏付ける行動となっている。
戦争には、多大な人士と資本が必要であったが、それを支えたのは、甲斐信濃に西上野を加えても120万石しかない武田の貧弱な地の利ではなく、金山などの開発にあり、また、傘下の軍団のみならず、地域の寺院や国人、百姓たちの動員にあった。信玄堤は、治水の充実、洪水に対する防災によって国を豊かにする、という大義があった事業であり、今も昔も、公共事業というのは、経済と労働力を動員する重要な権力の発動に繋がるのである。武田の農民などは、武士とさして変わらず、有力な者は土豪のように猛々しかった。それは、武田が、今だ中世から脱却し切れていない事実と共に、その近世への過渡期にあった事を示している。
「人は城、人は石垣、人は堀」というように、武田の領土には神聖な佇まいがあり、それは、寺社勢力の統治と管理によって、他国からは攻め辛い要害を、人を基本として築いた信玄の辣腕がある。武田家とは、公権力であり、神仏を祀り、侵しがたいアジール性のある寺社を管理し、自らも僧籍に入り、仏門を尊重した。だが、その信玄の信仰というのは、いささか政治的であり、家臣団をまとめ、神仏の神秘性に浸す事によって、権威への忠誠心を求めた事にあった。それは、寺社そのものや国人に対しても、同じ統率機能を求めたのである。信玄には、僧侶や陰陽師をも抱え、城には生命が宿るものと考え、その鎮撫において、風水を利用したのである。
つまり、幕府への参戦という天の利、要害に護られた地の利、勇猛で鳴る騎馬軍団の人の利、を抱え、それを、時限的に有した信玄の治世というのは、貧しい甲斐信濃の民にとっては、奇跡的な躍進の時代でもあった。晩年には、近隣を挑発して、天下を制する織田にすら宣戦しているが、信玄が生きていれば、如何なる大転換によって、武田の危機を凌いだかは分からない。勝頼は、運命の後継者であり、その父子の間には、歪ながらも、目に見えぬ絆があった。
風林火山