2018年05月
2018年05月27日 17:40
無類の用心棒、自由にして義烈。
凄腕の浪人が、上役の不正を暴こうと立ち上がった9人の若侍に助太刀する痛快アクション時代劇。三船扮する三十郎は前作の「用心棒」から通ずるキャラクターながらこちらのほうがより人間味が増し、ユーモアと知略が強調されている。薄暗い社殿で密議をこらしていた9人の若侍。上役を告発するも逆に窮地に陥っていた。それを図らずも聞いていた浪人は、権謀に疎い彼らに同情し一肌脱ぐことに……。仲代達矢扮する敵方の用心棒との壮絶な一騎打ちのシーンは圧巻。(allcinema)
平和な時代に生まれたことは、幸運であるが、その平穏はいつ破れるかはわからない。江戸時代、泰平の世にあって、城代家老という藩の上役に仕える事は、安泰を意味した。だが、悪徳の家臣が、陰謀を巡らせ、藩内部での権力闘争を開始する事によって、その安泰は破られる。平和とは、野心ある若者を飼い殺し、競争の中で才能を発揮する事よりも、組織として、序列に沿ったまとまりを重視するものだ。だから、三十郎然り、半兵衛のような用心棒にとっては、出世の機会を窺うに、藩内に有事が起きる事は、望ましいことである。
つまり、江戸時代は素晴らしい時代であったとしても、武士として、俸禄が与えられるのは、御家に対してであり、個人の能力が傑出していたとしても、出世出来るとは限らないのが、江戸時代である。だから、半兵衛は、雌伏する臥龍として、変事に対するふつふつとした、悦びを感じるのであって、未熟な9人の武士然り、自由な三十郎然り、この物語は、彼ら武士にとっての青春を描いたものなのだ。用心棒の半兵衛が指揮官のお役目を演じていることからすると、半兵衛は荒れる家中において、出世の目星がついていたことになる。だから、如何に頭脳派を気取っていても、自分の出世と生活を維持する為のお役目を奪われることに対する、純然たる怒りが描かれ、それが、二人の決闘に繋がっていくのである。
正義という観点からすれば、黒藤や竹林らといった、逆臣には、一塊の正義もない。だが、世論とは、優勢な者に味方するもので、藩内においては、公務を執行する立場を放棄していない事が、大義を得る為の条件となる。だから、城代の陸田は、黒藤に監禁されているがゆえに、自身の不利な立場にある事を自覚するが、最後の抵抗とは、卑劣漢黒藤に対する、告発文を書き続ける事であろう。城代方の9人の武士は、滑稽ではあるが、忠義という意味では、これほどの果報者たちは居ない。こうした変事があれば、その加担者の中で、勝利した側に与した者は、恩賞に与れるものであるが、人のいい陸田然り、抗争を出世の機縁とは捉えておらず、その意味で、9人の武士たちは劣勢の損を顧みず、全く自由の為だけに、城代側に与した三十郎と、相通ずるものがある。
三四郎は、武に頼った一点突破ではなく、機転を利かした知略と弁舌を持って、黒藤達を翻弄する。従って、黒藤達は、相手が悪かったとしか言いようがないが、この痛快な知略戦は、「用心棒」に通じるものがある。三十郎は、金の無心を頼むなど、一見、義士ではないが、本物の義士とは、自身の欲望にも、正義心と同じように、対等に向き合う事の出来る、バランスの人ではないか。無頼漢気取りは、三十郎のご愛嬌というもので、実に、見事な自由人を、三十郎は演じ切っている。三十郎の知略戦に、対応出来る者は、半兵衛しかおらず、他の有象無象は、その知の恰好の餌食である。江戸時代とは、能在る者も、その実力を隠して、組織的に、安泰に暮らすことが常識であったが、変事はその境界を否応なく崩壊させ、実力のある者に、皆が従うことになる。
つまり、三十郎のライバルは半兵衛であり、抗争の激化と、三十郎の活躍に対抗して、半兵衛の暗躍も引き立つ、という、殺し合いをしながら、役分としては、互いに活かしあう、という、矛盾をはらんだ共生関係が垣間見えるのである。三十郎は、半兵衛を「こいつは自分と同じだ」といいながら、決闘せねばならぬ、その覚悟は悲愴であり、同類に対する友情よりも、正義の為の鬼の裁断が勝る、という事なのだ。三十郎の行動原理に、何があるのかは皆目分からない。士は己を知る者の為に死す、と言うが、義士でありながら、己を知る者ですら、悪であれば斬る、という行動原理には、絆をすら超えた、圧倒的な正義心があり、とても常人には付いていけない。
凄腕の浪人が、上役の不正を暴こうと立ち上がった9人の若侍に助太刀する痛快アクション時代劇。三船扮する三十郎は前作の「用心棒」から通ずるキャラクターながらこちらのほうがより人間味が増し、ユーモアと知略が強調されている。薄暗い社殿で密議をこらしていた9人の若侍。上役を告発するも逆に窮地に陥っていた。それを図らずも聞いていた浪人は、権謀に疎い彼らに同情し一肌脱ぐことに……。仲代達矢扮する敵方の用心棒との壮絶な一騎打ちのシーンは圧巻。(allcinema)
平和な時代に生まれたことは、幸運であるが、その平穏はいつ破れるかはわからない。江戸時代、泰平の世にあって、城代家老という藩の上役に仕える事は、安泰を意味した。だが、悪徳の家臣が、陰謀を巡らせ、藩内部での権力闘争を開始する事によって、その安泰は破られる。平和とは、野心ある若者を飼い殺し、競争の中で才能を発揮する事よりも、組織として、序列に沿ったまとまりを重視するものだ。だから、三十郎然り、半兵衛のような用心棒にとっては、出世の機会を窺うに、藩内に有事が起きる事は、望ましいことである。
つまり、江戸時代は素晴らしい時代であったとしても、武士として、俸禄が与えられるのは、御家に対してであり、個人の能力が傑出していたとしても、出世出来るとは限らないのが、江戸時代である。だから、半兵衛は、雌伏する臥龍として、変事に対するふつふつとした、悦びを感じるのであって、未熟な9人の武士然り、自由な三十郎然り、この物語は、彼ら武士にとっての青春を描いたものなのだ。用心棒の半兵衛が指揮官のお役目を演じていることからすると、半兵衛は荒れる家中において、出世の目星がついていたことになる。だから、如何に頭脳派を気取っていても、自分の出世と生活を維持する為のお役目を奪われることに対する、純然たる怒りが描かれ、それが、二人の決闘に繋がっていくのである。
正義という観点からすれば、黒藤や竹林らといった、逆臣には、一塊の正義もない。だが、世論とは、優勢な者に味方するもので、藩内においては、公務を執行する立場を放棄していない事が、大義を得る為の条件となる。だから、城代の陸田は、黒藤に監禁されているがゆえに、自身の不利な立場にある事を自覚するが、最後の抵抗とは、卑劣漢黒藤に対する、告発文を書き続ける事であろう。城代方の9人の武士は、滑稽ではあるが、忠義という意味では、これほどの果報者たちは居ない。こうした変事があれば、その加担者の中で、勝利した側に与した者は、恩賞に与れるものであるが、人のいい陸田然り、抗争を出世の機縁とは捉えておらず、その意味で、9人の武士たちは劣勢の損を顧みず、全く自由の為だけに、城代側に与した三十郎と、相通ずるものがある。
三四郎は、武に頼った一点突破ではなく、機転を利かした知略と弁舌を持って、黒藤達を翻弄する。従って、黒藤達は、相手が悪かったとしか言いようがないが、この痛快な知略戦は、「用心棒」に通じるものがある。三十郎は、金の無心を頼むなど、一見、義士ではないが、本物の義士とは、自身の欲望にも、正義心と同じように、対等に向き合う事の出来る、バランスの人ではないか。無頼漢気取りは、三十郎のご愛嬌というもので、実に、見事な自由人を、三十郎は演じ切っている。三十郎の知略戦に、対応出来る者は、半兵衛しかおらず、他の有象無象は、その知の恰好の餌食である。江戸時代とは、能在る者も、その実力を隠して、組織的に、安泰に暮らすことが常識であったが、変事はその境界を否応なく崩壊させ、実力のある者に、皆が従うことになる。
つまり、三十郎のライバルは半兵衛であり、抗争の激化と、三十郎の活躍に対抗して、半兵衛の暗躍も引き立つ、という、殺し合いをしながら、役分としては、互いに活かしあう、という、矛盾をはらんだ共生関係が垣間見えるのである。三十郎は、半兵衛を「こいつは自分と同じだ」といいながら、決闘せねばならぬ、その覚悟は悲愴であり、同類に対する友情よりも、正義の為の鬼の裁断が勝る、という事なのだ。三十郎の行動原理に、何があるのかは皆目分からない。士は己を知る者の為に死す、と言うが、義士でありながら、己を知る者ですら、悪であれば斬る、という行動原理には、絆をすら超えた、圧倒的な正義心があり、とても常人には付いていけない。
2018年05月26日 21:42
貴婦人の遍歴と、荒ぶる野生の共生。
貴婦人(サザン・ベル)ぶってはいるが、父を亡くし家を失った故郷で放蕩の限りを尽くし、未成年誘惑のかどで追われるようにして都会に出た、もう若くはないアル中の南部女ブランチ・デュボワを、曲がりなりにもスカーレット・オハラだった女の演ずるということがハリウッドにもたらした衝撃、推して知るべし。V・リーは「風と共に去りぬ」に次ぐ第2のピークを本作で迎え、以後、映画ではこれに匹敵する演技を残さず死んでいった。一人のスター女優を燃やし尽くしてしまった、この作品の持つ“熱”……。彼女が訪ねるニューオリンズの妹(K・ハンター)、そして、その浅ましい夫(M・ブランド)は、救いを求めて彷徨する魂に手痛いしっぺ返しを喰らわす。ブランチの気位の高さに魅かれていた男ミッチ(K・マルデン)も彼女の真実を知り、露骨に肉体を求めてくる。ラスト、義弟の逞しい“男”に屈してしまう女の性……。狂気の他に彼女の逃げ場所はないのだ。南部の湿り気が暗い白黒の画面からむせるように伝わってくる、T・ウィリアムズ戯曲、会心の映画化作品。当然のごとくリーはオスカー主演賞に輝き、ハンターは助演賞を獲得した。(allcinema)
時に、人は本能で生きた方が良いときがある。人との出会いや遍歴もまた、直観的に縁を感じられ、それを実行し、繋ぎとめる事が出来るのは幸せである。ブランチ・デュポワは、自分の過去を隠して、嘘に嘘を重ねるが、それは、自分を惨めにしない為の自己防衛である。また、自己の美化とは、理想として掲げる自分の美しい姿を想像できねば不可能であり、それを装う事は、まだ、彼女にプライドが残っている証拠ではある。つまり、ブランチは、セカンドライフを夢見て、妹であるステラの元に来たのであって、その前途には、結婚したいという願望があるだけで、大きな夢を追いかけているわけではないが、人は、年を取れば、凡庸たる諦観に苛まれ、反社会性を拒み、それが、社会への屈服に行きつくものなのである。
結婚願望という、ささやかな夢を、ブランチはステラ夫妻に語る事は無い。それは、彼女がプライドと共に、なけなしの貴婦人としての自負があるからであり、ナルシシズムとは、時に、個人を惑わせながらも、守るものなのであろう。対する、ステラの夫であるスタンリーは、本能を地で行く野生児であり、その蛮勇が、男としての魅力とさえ映る、多情な年頃の女性であれば、好きになりそうな、大胆な男である。ステラに対して、ブランチは、両親の面倒を観ずに、葬式にだけ来るだけで、自分を責める事は出来ない、と主張する。それが、姉らしさであり、ブランチの感情は、嘘による自己演出に優れた、月並みな演技に過ぎない、ようにも観えてしまう。
だが、ブランチは、もっと純情であり、田舎からやって来て、都会に住まう妹の元に転がり込んだ時には、希望しか観えていない。擦れた世間を知り、行き摺りの男達との放蕩を重ねながら、自身は、幸せになる、という自信と、妹への親愛の情がある。だから、ブランチの人格を破綻させる事は、悪徳の野生児スタンリーでなくともた易い事なのだ。繊細な彼女は傷付き易く、壊れ易いからである。身内への絶対的な信頼感とは、如何に親愛なる家族に対してすら抱く事は、自分の弱点を、知る者を身近に置く、という事だ。そして、その野生児と一つ屋根の下で暮らす危険をすら、ブランチは知らない。女性の甘さは、時に毒を孕むことになる。
自分の身を守るのは、自分でしかないが、人には、その社会性に限界もあり、抗う事も予見する事も出来ない大きな地雷が道端に埋まっている事もある。だから、自守義務と自己責任とは全く違う処にあり、不可避の宿命というものはあるのだ。女性の甘さを知り、それを貪るように喰らうスタンリーは、初めからブランチを疑い、貴婦人ではなく、薄汚れた女だと罵る。だが、その脛に傷を持つ身だからこそ、ステラの庇護が必要で、誰彼なく助けを求めたのであって、家族だけは、そんな不器用な自分の庇護者であって欲しい、という、彼女の願いを、否定する事は出来ない。
つまり、スタンリーは、ステラに惚れられ、赤子を孕み、間もなく生まれる、という、祝いの場にありながら、家族になり切らず、賭博や喧嘩に興じ、アウトロー気取りなのである。これが、暴力性をすら男の魅力とする快男児と観るか、悪漢と観るかは、好みが分かれるであろう。半分ぐらいは、奴を嫌うかも知れない。だが、そんな無軌道な野生児が、生きて社会生活を送り、その末席のアウトロー気取りで居られるのも、ステラという、家族が居るからであり、それを失えば、更なる悪徳の誘いと転落劇が待つのみなのが、スタンリーの本質なのである。腕力の強さとか、男である事は、社会的な大人である事を意味しない。欲望は個人の行動の動機であり、それによって、人は大きくもなり、不幸にもする。それが、吉と出るか、凶と出るか、はこの招かざる物語の問いにある。
貴婦人(サザン・ベル)ぶってはいるが、父を亡くし家を失った故郷で放蕩の限りを尽くし、未成年誘惑のかどで追われるようにして都会に出た、もう若くはないアル中の南部女ブランチ・デュボワを、曲がりなりにもスカーレット・オハラだった女の演ずるということがハリウッドにもたらした衝撃、推して知るべし。V・リーは「風と共に去りぬ」に次ぐ第2のピークを本作で迎え、以後、映画ではこれに匹敵する演技を残さず死んでいった。一人のスター女優を燃やし尽くしてしまった、この作品の持つ“熱”……。彼女が訪ねるニューオリンズの妹(K・ハンター)、そして、その浅ましい夫(M・ブランド)は、救いを求めて彷徨する魂に手痛いしっぺ返しを喰らわす。ブランチの気位の高さに魅かれていた男ミッチ(K・マルデン)も彼女の真実を知り、露骨に肉体を求めてくる。ラスト、義弟の逞しい“男”に屈してしまう女の性……。狂気の他に彼女の逃げ場所はないのだ。南部の湿り気が暗い白黒の画面からむせるように伝わってくる、T・ウィリアムズ戯曲、会心の映画化作品。当然のごとくリーはオスカー主演賞に輝き、ハンターは助演賞を獲得した。(allcinema)
時に、人は本能で生きた方が良いときがある。人との出会いや遍歴もまた、直観的に縁を感じられ、それを実行し、繋ぎとめる事が出来るのは幸せである。ブランチ・デュポワは、自分の過去を隠して、嘘に嘘を重ねるが、それは、自分を惨めにしない為の自己防衛である。また、自己の美化とは、理想として掲げる自分の美しい姿を想像できねば不可能であり、それを装う事は、まだ、彼女にプライドが残っている証拠ではある。つまり、ブランチは、セカンドライフを夢見て、妹であるステラの元に来たのであって、その前途には、結婚したいという願望があるだけで、大きな夢を追いかけているわけではないが、人は、年を取れば、凡庸たる諦観に苛まれ、反社会性を拒み、それが、社会への屈服に行きつくものなのである。
結婚願望という、ささやかな夢を、ブランチはステラ夫妻に語る事は無い。それは、彼女がプライドと共に、なけなしの貴婦人としての自負があるからであり、ナルシシズムとは、時に、個人を惑わせながらも、守るものなのであろう。対する、ステラの夫であるスタンリーは、本能を地で行く野生児であり、その蛮勇が、男としての魅力とさえ映る、多情な年頃の女性であれば、好きになりそうな、大胆な男である。ステラに対して、ブランチは、両親の面倒を観ずに、葬式にだけ来るだけで、自分を責める事は出来ない、と主張する。それが、姉らしさであり、ブランチの感情は、嘘による自己演出に優れた、月並みな演技に過ぎない、ようにも観えてしまう。
だが、ブランチは、もっと純情であり、田舎からやって来て、都会に住まう妹の元に転がり込んだ時には、希望しか観えていない。擦れた世間を知り、行き摺りの男達との放蕩を重ねながら、自身は、幸せになる、という自信と、妹への親愛の情がある。だから、ブランチの人格を破綻させる事は、悪徳の野生児スタンリーでなくともた易い事なのだ。繊細な彼女は傷付き易く、壊れ易いからである。身内への絶対的な信頼感とは、如何に親愛なる家族に対してすら抱く事は、自分の弱点を、知る者を身近に置く、という事だ。そして、その野生児と一つ屋根の下で暮らす危険をすら、ブランチは知らない。女性の甘さは、時に毒を孕むことになる。
自分の身を守るのは、自分でしかないが、人には、その社会性に限界もあり、抗う事も予見する事も出来ない大きな地雷が道端に埋まっている事もある。だから、自守義務と自己責任とは全く違う処にあり、不可避の宿命というものはあるのだ。女性の甘さを知り、それを貪るように喰らうスタンリーは、初めからブランチを疑い、貴婦人ではなく、薄汚れた女だと罵る。だが、その脛に傷を持つ身だからこそ、ステラの庇護が必要で、誰彼なく助けを求めたのであって、家族だけは、そんな不器用な自分の庇護者であって欲しい、という、彼女の願いを、否定する事は出来ない。
つまり、スタンリーは、ステラに惚れられ、赤子を孕み、間もなく生まれる、という、祝いの場にありながら、家族になり切らず、賭博や喧嘩に興じ、アウトロー気取りなのである。これが、暴力性をすら男の魅力とする快男児と観るか、悪漢と観るかは、好みが分かれるであろう。半分ぐらいは、奴を嫌うかも知れない。だが、そんな無軌道な野生児が、生きて社会生活を送り、その末席のアウトロー気取りで居られるのも、ステラという、家族が居るからであり、それを失えば、更なる悪徳の誘いと転落劇が待つのみなのが、スタンリーの本質なのである。腕力の強さとか、男である事は、社会的な大人である事を意味しない。欲望は個人の行動の動機であり、それによって、人は大きくもなり、不幸にもする。それが、吉と出るか、凶と出るか、はこの招かざる物語の問いにある。
マラソンとは、身近な競技であり、ウェアとシューズがあれば誰でも挑戦する事が出来る。無論、体力の向上が必要であり、全く走っていない人がすぐに出来る、というものではない。サブ4、あるいは、サブ5が、一般人にとっての、目標とされるタイムであり、日々のトレーニングとして、1時間続けて走ることの出来る人であれば、完走する事が出来る、というのが、筆者鍋倉氏の持論である。
つまり、トレーニングにおいて、最長でもハーフが、必要ではあるが、それも、大会直前ではなく、3週間を区切りとして、それ以前に行われるべきであり、以降は、体力の超回復の為の、ジョグ程度の軽い走りでよい、とのことだ。また、メンタルが重要であり、肉体の回復のみならず、精神的に、マラソンという「楽しい競技」が出来る、とか、完走するイメージを持っていることが大切だという。マラソンとは、習慣であり、3か月前から、入念なトレーニングが始まり、それを維持しつつ、ペースを上げていくことである。
マラソンを走る理由とは、減量や鍛錬の為、というものではなく、友人との交友や、生活の改善の為、といった、精神的な充実の為にやる人が多いそうである。つまり、自分の為であり、ゴルフや野球といったシニアが好む他の競技に比べて、安価でありながら、生活を根本から変える動機を持ったのは、マラソンの他にはない、と思われる。サブ4が理想であるが、そこに至るまでには、個人の努力と、改善されていく生活の意義があるのではないか。
つまり、トレーニングにおいて、最長でもハーフが、必要ではあるが、それも、大会直前ではなく、3週間を区切りとして、それ以前に行われるべきであり、以降は、体力の超回復の為の、ジョグ程度の軽い走りでよい、とのことだ。また、メンタルが重要であり、肉体の回復のみならず、精神的に、マラソンという「楽しい競技」が出来る、とか、完走するイメージを持っていることが大切だという。マラソンとは、習慣であり、3か月前から、入念なトレーニングが始まり、それを維持しつつ、ペースを上げていくことである。
マラソンを走る理由とは、減量や鍛錬の為、というものではなく、友人との交友や、生活の改善の為、といった、精神的な充実の為にやる人が多いそうである。つまり、自分の為であり、ゴルフや野球といったシニアが好む他の競技に比べて、安価でありながら、生活を根本から変える動機を持ったのは、マラソンの他にはない、と思われる。サブ4が理想であるが、そこに至るまでには、個人の努力と、改善されていく生活の意義があるのではないか。
2018年05月25日 20:00
子は育ち、親も育ち、それぞれの道を歩む。
大学生の花は相手が“おおかみおとこ”とは知らずに恋に落ちてしまう。しかし、“おおかみおとこ”であることを打ち明けられても花の気持ちは変わらなかった。やがて2人の間には、人間とおおかみの2つの顔を持つ“おおかみこども”、姉の“雪”と弟の“雨”が生まれる。そして雪と雨が人前でおおかみにならないよう注意しながら、家族は都会の片隅でひっそりと、しかし幸せに暮らしていた。そんなある日、父親の“おおかみおとこ”に突然の死が訪れる。花は悲しみに暮れながらも、子どもたちを一人で育てるために決意を新たにし、緑豊かな山あいの村へと移り住む。大自然の中でのびのびと成長していく雪と雨。だが、2人には重大な選択のときが迫っていた。(allcinema)
恋愛というのは、何が起こるか分からない。狼男という、異形の存在であっても、愛するがゆえに、花は一緒になる決心をする。愛とは、異種族であったり、少数民族であっても、多数の人間と結びつく事があり、それによって、混血による歴史の融合や民族の対話が進んでいくものである。これは、異民族との対話が、社会の全面に出ず、むしろタブー視される事から、既に絶えてしまった対話に観えるが、その当事者としては、血と歴史という問題は、時間が解決するものではなく、ただ、当事者間の愛によってのみ、進展し、混じり合っていくものなのだ。異なる血と歴史を抱えた夫婦や家族においては、混じり気のある血を如何にして早々に克服していくか、が争点となるのだ。
つまり、これは、国際時代における、血の混濁に対する、人間の選択の自由を問うものであり、花の元に生まれた姉弟の、人間と狼との混血の運命に対する、受け入れと準備を描く。まだ、若く、10代になったばかりの二人にとっては、自然の掟の中で、粛々と狼としての本能を守って行くか、人間として、異種族との根気の要る融和を進めるか、という、厳しい選択肢である。だが、ここでの本能とは、無論、狼だけではなく、人間としての生き方もまた、含まれる。つまり、本能に忠実に生きる事を大切にするならば、母親と同じように、大社会である、世に君臨する人間に迎合する方が、自然なのだ。
血の問題にとらわれる事は、現実的ではない。なぜなら、自然とは、人間に対しても、決して引け劣らない大社会を形成しているものであり、文明とか軍事力、科学力といった、実力の高度さを競う事は、自然の前では無意味であるからである。つまり、人間が揺籃として生きて来た自然とは、生命の基盤であり、それを活かして共存するのは、人間の知恵であり、大切な事なのだ。そして、血とは家族や一族を結びつける事はあっても、本当の民族主義というのは、血ではなく、信仰や精神の問題である事に尽きる。それは、民族の指導者が、信仰する若者の親や家族よりも、カリスマ教祖として、君臨する事があるからであり、本能とは、肉体やそこに流れる血、だけではなく、朋友との出逢いによる精神の交友と一致点を見つけられる事、魂の高揚感もまた、含まれるからである。
つまり、花が狼と恋愛したように、民族主義というのは、少数民族を如何にして、併呑していくか、という事にある。それは、民族にとっては、生きる事とは、日々の生活にあるからであり、その彩りを増す心の豊かさ、というのは、しばし、大社会に対するカウンターカルチャーの中に見出される。だから、少数民族が生き残って行くには、文化の中に、多数者が付けられない、足跡を残していく事なのではないか。絶滅した日本狼とは、現代においては、神聖視される特別な存在だ。だが、それを秘密として、半神のような自分の血と存在を隠す事は、人間社会において、一私人として生きて行く、という決意によるものであろう。
生きる自由と、豊富な選択肢、それは、姉弟でありながら、宿命付けられた狼の生き方を深く問うものとなっている。誰もが、雪や雨のように、自分の属性や種族と向き合い、生きて行く為に答えを見つけられるものではない。その爽やかさと逞しさが共存し、それは、素晴らしい家族の未来を祝福するものとなっている。
大学生の花は相手が“おおかみおとこ”とは知らずに恋に落ちてしまう。しかし、“おおかみおとこ”であることを打ち明けられても花の気持ちは変わらなかった。やがて2人の間には、人間とおおかみの2つの顔を持つ“おおかみこども”、姉の“雪”と弟の“雨”が生まれる。そして雪と雨が人前でおおかみにならないよう注意しながら、家族は都会の片隅でひっそりと、しかし幸せに暮らしていた。そんなある日、父親の“おおかみおとこ”に突然の死が訪れる。花は悲しみに暮れながらも、子どもたちを一人で育てるために決意を新たにし、緑豊かな山あいの村へと移り住む。大自然の中でのびのびと成長していく雪と雨。だが、2人には重大な選択のときが迫っていた。(allcinema)
恋愛というのは、何が起こるか分からない。狼男という、異形の存在であっても、愛するがゆえに、花は一緒になる決心をする。愛とは、異種族であったり、少数民族であっても、多数の人間と結びつく事があり、それによって、混血による歴史の融合や民族の対話が進んでいくものである。これは、異民族との対話が、社会の全面に出ず、むしろタブー視される事から、既に絶えてしまった対話に観えるが、その当事者としては、血と歴史という問題は、時間が解決するものではなく、ただ、当事者間の愛によってのみ、進展し、混じり合っていくものなのだ。異なる血と歴史を抱えた夫婦や家族においては、混じり気のある血を如何にして早々に克服していくか、が争点となるのだ。
つまり、これは、国際時代における、血の混濁に対する、人間の選択の自由を問うものであり、花の元に生まれた姉弟の、人間と狼との混血の運命に対する、受け入れと準備を描く。まだ、若く、10代になったばかりの二人にとっては、自然の掟の中で、粛々と狼としての本能を守って行くか、人間として、異種族との根気の要る融和を進めるか、という、厳しい選択肢である。だが、ここでの本能とは、無論、狼だけではなく、人間としての生き方もまた、含まれる。つまり、本能に忠実に生きる事を大切にするならば、母親と同じように、大社会である、世に君臨する人間に迎合する方が、自然なのだ。
血の問題にとらわれる事は、現実的ではない。なぜなら、自然とは、人間に対しても、決して引け劣らない大社会を形成しているものであり、文明とか軍事力、科学力といった、実力の高度さを競う事は、自然の前では無意味であるからである。つまり、人間が揺籃として生きて来た自然とは、生命の基盤であり、それを活かして共存するのは、人間の知恵であり、大切な事なのだ。そして、血とは家族や一族を結びつける事はあっても、本当の民族主義というのは、血ではなく、信仰や精神の問題である事に尽きる。それは、民族の指導者が、信仰する若者の親や家族よりも、カリスマ教祖として、君臨する事があるからであり、本能とは、肉体やそこに流れる血、だけではなく、朋友との出逢いによる精神の交友と一致点を見つけられる事、魂の高揚感もまた、含まれるからである。
つまり、花が狼と恋愛したように、民族主義というのは、少数民族を如何にして、併呑していくか、という事にある。それは、民族にとっては、生きる事とは、日々の生活にあるからであり、その彩りを増す心の豊かさ、というのは、しばし、大社会に対するカウンターカルチャーの中に見出される。だから、少数民族が生き残って行くには、文化の中に、多数者が付けられない、足跡を残していく事なのではないか。絶滅した日本狼とは、現代においては、神聖視される特別な存在だ。だが、それを秘密として、半神のような自分の血と存在を隠す事は、人間社会において、一私人として生きて行く、という決意によるものであろう。
生きる自由と、豊富な選択肢、それは、姉弟でありながら、宿命付けられた狼の生き方を深く問うものとなっている。誰もが、雪や雨のように、自分の属性や種族と向き合い、生きて行く為に答えを見つけられるものではない。その爽やかさと逞しさが共存し、それは、素晴らしい家族の未来を祝福するものとなっている。
2018年05月21日 00:00
自分を守るものは、自分でしかない。企業において、仕事の成績や昇給の機会といった、働く側の行動理念の基となるモチベーションを支えているものは、組織内での競争と、その勝利がもたらす充実感である。日常において、労働者間の権力闘争が行われ、それとコントロールする事が、経営者の理想や信念を映すものでもある。権力とは、相応の地位や組織内での立場、人間力が形成する。人間力があり、組織統治に向いている労働者が日の目を観なければ、不満がたまるであろう。下の立場の労働者であっても、どんな上司が良くて、どんな仕事をしたいか、という事は、生活への希望を映すものであり、面倒見がよく、社交的な労働者は、社内でも人望を得る事になろう。
だから、経営者が人間力のあり、信念もぶれていない人材を抜擢し、昇格させて行く事は、組織全体としての、企業文化の純度を高める事になるのだ。企業の敵とはクレイマーであるが、顧客とクレイマーとの境界は極めて曖昧だが、双方共に、物語の主人公でない事は分かっている。主人公とは、企業の側であり、労働者こそであり、そういった、当事者意識と責任感を持たせるには、企業統治と経営がフェアに行われており、出世すべきは、出世して行く必要がある。
だが、企業文化とは、広義のものであり、企業の信念によって、百八十度変わって来るし、労働者を酷使するブラック企業もある。そこで、組織内の内部勢力として、存在感を振るうものは、職人集団ではないか。職人は、実業を旨とする企業においてこそ、その役割は重要になって来るし、多彩な企業文化に対して、職人集団は至ってシンプルな行動原理を持っている、と思われる。職人は、企業が提供する商品に対して、ダイレクトで、影響を与えるし、外に対する信頼にも関わる。トヨタ自動車は、職人を育て、その集団を家族単位で囲いつつ、どこまでも、広域化して、連合させた職人企業だ。そこでは、率直な実力主義が取られ、競争の純度も高い。勿論、権力闘争もあろうが、トヨタの理念からして、正しい人材が然るべき地位に抜擢されている事は、容易に察する事が出来るし、だからこそ、正攻法の技術力で、世界的なビッグネームになる事が出来たのである。
職人集団とは、総合的な仕事を担うホワイトカラーに対しても、一定の影響力と地位を有し、その機密性が高い事から、他の部門の労働者に対しては、強気に出られる事もある。職人が強い企業というのは、業界内での競争力が強い、という事だ。広告宣伝が企業の死活問題である事は、良質な商品を作っても、戦後中々市場で大々的に売り出せなかったトヨタの例の通りではあるが、トヨタが職人のプライドを立てつつ、その総意を企業への忠誠心に磨き上げた事には理由があり、それは、ジャストインタイムといった、トヨタシステムの現場至上主義であり、現場が如何に意思疎通を欠かさず、経営や商品への政策案を提唱出来るだけの、労働者のモチベーションを高く維持した事にある。職人集団が出来る事には限りはあるが、それを最大化するのは、企業全体の利益を鑑みての事ではないか。
だから、経営者が人間力のあり、信念もぶれていない人材を抜擢し、昇格させて行く事は、組織全体としての、企業文化の純度を高める事になるのだ。企業の敵とはクレイマーであるが、顧客とクレイマーとの境界は極めて曖昧だが、双方共に、物語の主人公でない事は分かっている。主人公とは、企業の側であり、労働者こそであり、そういった、当事者意識と責任感を持たせるには、企業統治と経営がフェアに行われており、出世すべきは、出世して行く必要がある。
だが、企業文化とは、広義のものであり、企業の信念によって、百八十度変わって来るし、労働者を酷使するブラック企業もある。そこで、組織内の内部勢力として、存在感を振るうものは、職人集団ではないか。職人は、実業を旨とする企業においてこそ、その役割は重要になって来るし、多彩な企業文化に対して、職人集団は至ってシンプルな行動原理を持っている、と思われる。職人は、企業が提供する商品に対して、ダイレクトで、影響を与えるし、外に対する信頼にも関わる。トヨタ自動車は、職人を育て、その集団を家族単位で囲いつつ、どこまでも、広域化して、連合させた職人企業だ。そこでは、率直な実力主義が取られ、競争の純度も高い。勿論、権力闘争もあろうが、トヨタの理念からして、正しい人材が然るべき地位に抜擢されている事は、容易に察する事が出来るし、だからこそ、正攻法の技術力で、世界的なビッグネームになる事が出来たのである。
職人集団とは、総合的な仕事を担うホワイトカラーに対しても、一定の影響力と地位を有し、その機密性が高い事から、他の部門の労働者に対しては、強気に出られる事もある。職人が強い企業というのは、業界内での競争力が強い、という事だ。広告宣伝が企業の死活問題である事は、良質な商品を作っても、戦後中々市場で大々的に売り出せなかったトヨタの例の通りではあるが、トヨタが職人のプライドを立てつつ、その総意を企業への忠誠心に磨き上げた事には理由があり、それは、ジャストインタイムといった、トヨタシステムの現場至上主義であり、現場が如何に意思疎通を欠かさず、経営や商品への政策案を提唱出来るだけの、労働者のモチベーションを高く維持した事にある。職人集団が出来る事には限りはあるが、それを最大化するのは、企業全体の利益を鑑みての事ではないか。