2018年09月
2018年09月30日 20:00
自由を求め、立ち上がった時代があった。
1846年、ニューヨークのファイブ・ポインツでは、アメリカ生まれの住人たちの組織“ネイティブズ”とアイルランド移民たちの組織“デッド・ラビッツ”が対立している。幼少のアムステルダムは、神父でデッド・ラビッツのボスである父親を敵のボス、ビリーに殺された。アムステルダムは投獄され、復讐を誓いながら15年の歳月が過ぎる。アムステルダムが帰ってきたファイブ・ポインツは、ネイティブズに仕切られ腐敗していた。デッド・ラビッツは既に壊滅している。それでもアムステルダムは復讐のため素性を隠しビリーの組織に潜り込んだ。やがてジェニーという女に出会い、次第に惹かれていくのだが…。(allcinema)
長い時間が掛かっても、解決されない問題はあり、それは、概ね、民族や国家の歴史と利益、憎悪にまつわる大組織の問題である。デッド・ラビッツを率いるヴァロン、アムステルダムの父親は、同胞を愛し、彼らを率いてネイティブと戦ったが、それは翻せば、ネイティブの縄張りを侵し、ギャングとして争いを肯定して生きて行く、という事である。ヴァロンはネイティブズを率いるビル・ザ・ブッチャーに殺されるが、その父親の仇を討つというアムステルダムの思いは、固く重たい。血の問題とは、民族や国家同士の対立だけでなく、個人に及ぶ事もある。
アムステルダムは、ビルの懐に入り込み、その信頼を得て行くが、そうした、個人としての関係を築きながら、その父親の報復感情を忘れなかったのは、血の問題が、個人の交渉や行動によって、簡単に解決されない事を示すものである。ビルに重用され、その廂の下に居る事に居心地の良さを感じ、ジェニーとも出逢い、かつての親友であったジョニーとも再会したが、その幸福を以ってなお、克服出来ない事は、日々、アムステルダムの心を深く悩ませた事だろう。だが、それは、ビルとは絶対的な敵対関係を約したが、自身を売ったジョニーを許せた事もまた、血の絆によるものなのだ。だから、双方の関係というのは、父親を始めとする先祖の歴史の衝突であったり、伝統的な対立という、先達の負の遺産によるものだ。血が、抗争や憎悪ばかりを生むのではない。
ジェニーはアムステルダムにとっては、理想的な女性であり、新天地の自由をも象徴している。アムステルダムに自由の素晴らしさを教え、アメリカ人として覚醒させた母体でもある。だが、そんな母親に逆らう事により、アムステルダムはヴァロンの息子である意地を見せる。つまりは、母親を克服するという儀式を以て、アムステルダムは個人主義のアメリカ人から、同胞を率いる覚悟を持ったデッド・ラビッツを復活させ、愛国者となるのだ。ビルがネイティブズの威を絶対視して母国アメリカを強く愛するのとは異なるが、アムステルダムは個人としてアメリカには希望を抱いている。それが大志に昇華するには、同胞達に対する血の絆を思う事による。アムステルダムは、強大な敵であるビルとの対立、生きる為の行動によって、強く大きくなった。だから、アムステルダムはジェニーとデッド・ラビッツを秤に掛けても怯む事なく、プライドの根源となって来た共同体を選んだのだ。
一度、壊滅したデッド・ラビッツは、父ヴァロンによって率いられていたが、ハッピー・ジャックやマグロインはネイティブズへの非情な転身を遂げた。それは、不倶戴天の敵に降る裏切りだけではなく、そうした利害に敏感だが屈強な猛者達、強いがゆえに、転身を図れる大人の男達、争いの本質がある。もともと、デッド・ラビッツの陣営よりも強いのがネイティブズであったから、対抗する秩序と士気を保つ事であり、翻せば、それだけの絶大なカリスマを有し、移民の夏の時代を切り開いたのがヴァロンという事であろう。だが、転身した彼らデッド・ラビッツの旧世代は、後進の同胞達に対する酷薄な態度が目につき、とても酷い。だが、自由気ままな猛者とは、その程度のものであろう。理想の国家や正義よりも、生活が至上なのだ。
時は南北戦争真っ只中であり、史は政府と軍隊の正義と記憶しか残さない。当時のニューヨークの混沌は、アメリカの中興時代のゆえであろう。自由と繁栄、そして、強国としてのプライドを生んだのは、このような在野のネイティブや移民達の熾烈な戦いの地ならしによる、と観るべきではないか。
1846年、ニューヨークのファイブ・ポインツでは、アメリカ生まれの住人たちの組織“ネイティブズ”とアイルランド移民たちの組織“デッド・ラビッツ”が対立している。幼少のアムステルダムは、神父でデッド・ラビッツのボスである父親を敵のボス、ビリーに殺された。アムステルダムは投獄され、復讐を誓いながら15年の歳月が過ぎる。アムステルダムが帰ってきたファイブ・ポインツは、ネイティブズに仕切られ腐敗していた。デッド・ラビッツは既に壊滅している。それでもアムステルダムは復讐のため素性を隠しビリーの組織に潜り込んだ。やがてジェニーという女に出会い、次第に惹かれていくのだが…。(allcinema)
長い時間が掛かっても、解決されない問題はあり、それは、概ね、民族や国家の歴史と利益、憎悪にまつわる大組織の問題である。デッド・ラビッツを率いるヴァロン、アムステルダムの父親は、同胞を愛し、彼らを率いてネイティブと戦ったが、それは翻せば、ネイティブの縄張りを侵し、ギャングとして争いを肯定して生きて行く、という事である。ヴァロンはネイティブズを率いるビル・ザ・ブッチャーに殺されるが、その父親の仇を討つというアムステルダムの思いは、固く重たい。血の問題とは、民族や国家同士の対立だけでなく、個人に及ぶ事もある。
アムステルダムは、ビルの懐に入り込み、その信頼を得て行くが、そうした、個人としての関係を築きながら、その父親の報復感情を忘れなかったのは、血の問題が、個人の交渉や行動によって、簡単に解決されない事を示すものである。ビルに重用され、その廂の下に居る事に居心地の良さを感じ、ジェニーとも出逢い、かつての親友であったジョニーとも再会したが、その幸福を以ってなお、克服出来ない事は、日々、アムステルダムの心を深く悩ませた事だろう。だが、それは、ビルとは絶対的な敵対関係を約したが、自身を売ったジョニーを許せた事もまた、血の絆によるものなのだ。だから、双方の関係というのは、父親を始めとする先祖の歴史の衝突であったり、伝統的な対立という、先達の負の遺産によるものだ。血が、抗争や憎悪ばかりを生むのではない。
ジェニーはアムステルダムにとっては、理想的な女性であり、新天地の自由をも象徴している。アムステルダムに自由の素晴らしさを教え、アメリカ人として覚醒させた母体でもある。だが、そんな母親に逆らう事により、アムステルダムはヴァロンの息子である意地を見せる。つまりは、母親を克服するという儀式を以て、アムステルダムは個人主義のアメリカ人から、同胞を率いる覚悟を持ったデッド・ラビッツを復活させ、愛国者となるのだ。ビルがネイティブズの威を絶対視して母国アメリカを強く愛するのとは異なるが、アムステルダムは個人としてアメリカには希望を抱いている。それが大志に昇華するには、同胞達に対する血の絆を思う事による。アムステルダムは、強大な敵であるビルとの対立、生きる為の行動によって、強く大きくなった。だから、アムステルダムはジェニーとデッド・ラビッツを秤に掛けても怯む事なく、プライドの根源となって来た共同体を選んだのだ。
一度、壊滅したデッド・ラビッツは、父ヴァロンによって率いられていたが、ハッピー・ジャックやマグロインはネイティブズへの非情な転身を遂げた。それは、不倶戴天の敵に降る裏切りだけではなく、そうした利害に敏感だが屈強な猛者達、強いがゆえに、転身を図れる大人の男達、争いの本質がある。もともと、デッド・ラビッツの陣営よりも強いのがネイティブズであったから、対抗する秩序と士気を保つ事であり、翻せば、それだけの絶大なカリスマを有し、移民の夏の時代を切り開いたのがヴァロンという事であろう。だが、転身した彼らデッド・ラビッツの旧世代は、後進の同胞達に対する酷薄な態度が目につき、とても酷い。だが、自由気ままな猛者とは、その程度のものであろう。理想の国家や正義よりも、生活が至上なのだ。
時は南北戦争真っ只中であり、史は政府と軍隊の正義と記憶しか残さない。当時のニューヨークの混沌は、アメリカの中興時代のゆえであろう。自由と繁栄、そして、強国としてのプライドを生んだのは、このような在野のネイティブや移民達の熾烈な戦いの地ならしによる、と観るべきではないか。
2018年09月29日 00:00
人たらんと思うなら、忘れるな。
少年クリストファー・ロビンは“100エーカーの森”で親友のプーやその仲間たちと楽しい毎日を送っていたが、やがてロンドンの寄宿学校へ転校することに。“きみのことは絶対に忘れない”と固く誓ってプーと別れたクリストファー・ロビン。月日は流れ、大人になった彼は妻のイヴリンと娘マデリンとともにロンドンに暮らしていた。しかし仕事が忙しくて家族とはすれ違いの日々が続いていた。そんなある日、なぜかロンドンで途方に暮れていたかつての親友プーと驚きの再会を果たす。森の仲間たちのもとに戻れなくなったプーの頼みを聞き入れ、一緒に“100エーカーの森”へと向かったクリストファー・ロビン。ピグレットやティガーら森の仲間たちとも再会でき、少年時代の懐かしい日々を思い出すクリストファー・ロビンだったが…。(allcinema)
ロンドンの忙しい生活と、厳しい人生の中で、自分を見失っていたクリストファーは、プーと再会し、かつての少年時代を思い出す。プーは、クリストファーが何故変わったのか、分からない。それは、プーがせわしない暮らしではなく、自分と仲間を大切にして生きて来たからであった。
くまのプーさんが動き出し、話し、遊ぶ、という奇想天外なストーリーであり、少年時代に送った秘密の暮らしが、現実社会ロンドンを舞台とする事によって、具現化し、新たな命を吹き込まれる。森だけでは、その暮らしは幻想的な桃源郷であったが、ロンドンという物質社会に送り込まれる事によって、プーは新たな世界を知る。そして、それは、エリートとなって少年時代を忘れていたクリストファーも同じであった。世界とは、限られた領域ではなく、その窮屈さは、生活に飽き飽きして、自由な発想の転換を忘れるからであり、いつもと同じ国、世界、ストーリーも、冒険心があれば決して色褪せない。
そんな愉しい生活を送るプー達、森の愉快な仲間達であったが、魔法で生きる彼らは、現実に溢れたロンドンにおいては、その大人の常識を覆すジョーカーでもある。それは、魔法といった化外の法はなく、世界は常識と秩序によって運営されている、という、固定観念である。だが、そんな日常は、魔法によって壊されてしまえば良い。決まりきったルーティンも、常識も、人生において価値あるものではなく、本物の幸福というのは、如何にして、良い仲間や家族を作るか、という事であるからだ。家族も、その心を自由にする事によって、増やす事が出来る。それは、クリストファーが、親友プーを思い出し、再び、森を訪れ、大いに遊ぶ、という行動の変化にも表れ、その心のルネサンスによって、クリストファーは家族を大切にして、人生を見つめ直す貴重な時間を得るのだ。
家族は変化にいち早く気付くものだ。クリストファーが、ロマンチックな少年時代を思い出し、生き方を変える事は、家族に対する無形の贈り物でもあり、それは、プーという愛らしい魔法のぬいぐるみと共に、家族に幸福をプレゼントする行為である。森の愉しい暮らしと遊び、というのは、ロハスでもあり、エリートの発想の転換が、さらなるビジネスのアイデアを提供する、という、資本主義における社会のレースとは苛酷なだけでは駄目で、時には休み、人生を見つめ直す事、それが、持続可能性のある次世代のエリートであり、理想の大人のモデルなのである。
少年クリストファー・ロビンは“100エーカーの森”で親友のプーやその仲間たちと楽しい毎日を送っていたが、やがてロンドンの寄宿学校へ転校することに。“きみのことは絶対に忘れない”と固く誓ってプーと別れたクリストファー・ロビン。月日は流れ、大人になった彼は妻のイヴリンと娘マデリンとともにロンドンに暮らしていた。しかし仕事が忙しくて家族とはすれ違いの日々が続いていた。そんなある日、なぜかロンドンで途方に暮れていたかつての親友プーと驚きの再会を果たす。森の仲間たちのもとに戻れなくなったプーの頼みを聞き入れ、一緒に“100エーカーの森”へと向かったクリストファー・ロビン。ピグレットやティガーら森の仲間たちとも再会でき、少年時代の懐かしい日々を思い出すクリストファー・ロビンだったが…。(allcinema)
ロンドンの忙しい生活と、厳しい人生の中で、自分を見失っていたクリストファーは、プーと再会し、かつての少年時代を思い出す。プーは、クリストファーが何故変わったのか、分からない。それは、プーがせわしない暮らしではなく、自分と仲間を大切にして生きて来たからであった。
くまのプーさんが動き出し、話し、遊ぶ、という奇想天外なストーリーであり、少年時代に送った秘密の暮らしが、現実社会ロンドンを舞台とする事によって、具現化し、新たな命を吹き込まれる。森だけでは、その暮らしは幻想的な桃源郷であったが、ロンドンという物質社会に送り込まれる事によって、プーは新たな世界を知る。そして、それは、エリートとなって少年時代を忘れていたクリストファーも同じであった。世界とは、限られた領域ではなく、その窮屈さは、生活に飽き飽きして、自由な発想の転換を忘れるからであり、いつもと同じ国、世界、ストーリーも、冒険心があれば決して色褪せない。
そんな愉しい生活を送るプー達、森の愉快な仲間達であったが、魔法で生きる彼らは、現実に溢れたロンドンにおいては、その大人の常識を覆すジョーカーでもある。それは、魔法といった化外の法はなく、世界は常識と秩序によって運営されている、という、固定観念である。だが、そんな日常は、魔法によって壊されてしまえば良い。決まりきったルーティンも、常識も、人生において価値あるものではなく、本物の幸福というのは、如何にして、良い仲間や家族を作るか、という事であるからだ。家族も、その心を自由にする事によって、増やす事が出来る。それは、クリストファーが、親友プーを思い出し、再び、森を訪れ、大いに遊ぶ、という行動の変化にも表れ、その心のルネサンスによって、クリストファーは家族を大切にして、人生を見つめ直す貴重な時間を得るのだ。
家族は変化にいち早く気付くものだ。クリストファーが、ロマンチックな少年時代を思い出し、生き方を変える事は、家族に対する無形の贈り物でもあり、それは、プーという愛らしい魔法のぬいぐるみと共に、家族に幸福をプレゼントする行為である。森の愉しい暮らしと遊び、というのは、ロハスでもあり、エリートの発想の転換が、さらなるビジネスのアイデアを提供する、という、資本主義における社会のレースとは苛酷なだけでは駄目で、時には休み、人生を見つめ直す事、それが、持続可能性のある次世代のエリートであり、理想の大人のモデルなのである。
2018年09月28日 00:00
兵庫県伊丹市中村地区は、大阪空港、別名、伊丹空港に隣接するスラム地区であり、在日朝鮮人の居住区として、周辺の日本人の居住区からは隔離されて来た。中村は、空港用地であり、敷地内にもう一つの街が出来ていた、という形であり、行政としては、そのクリアランスは、政策上の懸念であった。日本国内には、他にもスラムがあり、自衛隊大久保駐屯所に隣接するウトロ地区然り、在日朝鮮人の居住区というのは、不法占拠を指摘する国側と、人権や居住権を主張する住民側との間で、激しい対立が繰り広げられて来た。外国籍を持つ異人であっても、居住出来る事は、スラムがグレーゾーンの地区である事を示す。
だが、スラムとして、劣悪な環境にあり、国との対立は、政府が用意した公営住宅への転居という形で収拾される事が多く、住民の総意として、抗争を望まない、という事である。ともあれ、それまでのスラムの暮らしで形成された近所付き合いが、住居環境の激変によって、解体されてしまう事でもあり、コミュニティのソフトの補完をも熟慮されねばならないが、それは、時間と住民間での人間関係の復興によって、再生される。スラムが、住宅として劣悪であっただけではなく、防災対策として、行政の安全対策に入れられて無いとすれば、その方が問題であるし、概ね、在日朝鮮人との対立は、行政が請け負ってきたものであり、人権問題の最前線が、在日朝鮮人の住まうスラムだったという事である。
行政は、法の執行、法治社会を輔弼して、その正当性をもって、国民を統治するが、在日朝鮮人もまた、保護を必要とする移民であり、また、法律上、正当な手続きを踏んで日本国籍を望み、国民と成る者も居る。在日朝鮮人の主張する人権や居住権というのは、多分に感情的であり、自分達は被害者だという、弱者の意識がある。それは、戦前から続く居住区でも同じであり、時間は、住民の肉体に脈打つ血の問題を解決しない。だから、スラムに観られる権利の主張というのは、ポピュリズムであり、在日朝鮮人の団結とは、利益と結び付き、母国に帰っても、貧困が待っているだけの弱者なのだ。在日朝鮮人は、政治家へのロビーによって、財を成した者か、スラムに住まう弱者であるか、その血族の格差は非常に極端である。
映画「焼肉ドラゴン」は、中村がモデルだという。作中で行政の役人が、指摘するような、世間一般の声として、在日朝鮮人の不法占拠を憎むのも当然であったろう。だが、移民にも人権があり、それは、利害に聡いが、心無い小役人ではなく、NPOといった、政治的中立のスタッフが仲介し、あるいは、災害時には、活躍するボランティアの組織化が進められるべきである。移民はこれからの課題であり、人権や居住権の対立は、スラムが整理されても、また新たな地区で起こり得るものだ。人権紛争は、有事として扱われ、NPOが仲介に入るべきである。その為には、ボランティアや有志の若者の抜擢や組織化を進めるべく、政策による支援が必要ではないか。
だが、スラムとして、劣悪な環境にあり、国との対立は、政府が用意した公営住宅への転居という形で収拾される事が多く、住民の総意として、抗争を望まない、という事である。ともあれ、それまでのスラムの暮らしで形成された近所付き合いが、住居環境の激変によって、解体されてしまう事でもあり、コミュニティのソフトの補完をも熟慮されねばならないが、それは、時間と住民間での人間関係の復興によって、再生される。スラムが、住宅として劣悪であっただけではなく、防災対策として、行政の安全対策に入れられて無いとすれば、その方が問題であるし、概ね、在日朝鮮人との対立は、行政が請け負ってきたものであり、人権問題の最前線が、在日朝鮮人の住まうスラムだったという事である。
行政は、法の執行、法治社会を輔弼して、その正当性をもって、国民を統治するが、在日朝鮮人もまた、保護を必要とする移民であり、また、法律上、正当な手続きを踏んで日本国籍を望み、国民と成る者も居る。在日朝鮮人の主張する人権や居住権というのは、多分に感情的であり、自分達は被害者だという、弱者の意識がある。それは、戦前から続く居住区でも同じであり、時間は、住民の肉体に脈打つ血の問題を解決しない。だから、スラムに観られる権利の主張というのは、ポピュリズムであり、在日朝鮮人の団結とは、利益と結び付き、母国に帰っても、貧困が待っているだけの弱者なのだ。在日朝鮮人は、政治家へのロビーによって、財を成した者か、スラムに住まう弱者であるか、その血族の格差は非常に極端である。
映画「焼肉ドラゴン」は、中村がモデルだという。作中で行政の役人が、指摘するような、世間一般の声として、在日朝鮮人の不法占拠を憎むのも当然であったろう。だが、移民にも人権があり、それは、利害に聡いが、心無い小役人ではなく、NPOといった、政治的中立のスタッフが仲介し、あるいは、災害時には、活躍するボランティアの組織化が進められるべきである。移民はこれからの課題であり、人権や居住権の対立は、スラムが整理されても、また新たな地区で起こり得るものだ。人権紛争は、有事として扱われ、NPOが仲介に入るべきである。その為には、ボランティアや有志の若者の抜擢や組織化を進めるべく、政策による支援が必要ではないか。
2018年09月27日 18:37
大泥棒いわく、罪は感じない。
逃げるデリンジャーと、追う警察。広大な世間の深みは、デリンジャーの潜伏を容易にし、犯罪者に恩恵をもたらし、警察を率いるパーヴィス捜査官はその闇の深さに茫然とする。
デリンジャーは、メディアを大々的に利用した大犯罪者ゆえに、世論に迎合し、その機嫌を窺う事に余念がない。逆に言えば、デリンジャーは巨大な世間を相手にしている事から、一個のパーヴィス捜査官を相手にしてはいない。デリンジャーは壮大なショウを演じて、華やかな世界に航路を取っているからである。対する、地に足のついたパーヴィスには、正攻法しかない。いずれがショウの本質と現実を見ているかははっきりしている。パーヴィスは愚直でしかないのだ。
デリンジャーはビリーを愛している。彼女を事件に巻き込みたくない紳士としての良識と、獣のような欲望が混在している。犯罪のポピュリズムがデリンジャーを生かしていると共に、デリンジャーにはカリスマがあり、それに数多の大衆が惹き付けられている事も真実であるが、ショウを演じる時の、メディアの前の不敵なトリックスターの風貌と、ビリーだけに見せる大人の男の物腰は明らかに異なる。ビリーを大切に思うがゆえに、傷付ける事を過剰に恐れるのだ。
始めはゲームだったかも知れない。ビリーが美人とはいえ、デリンジャーの夢中人になるとは分からないからだが、デリンジャーはその犯罪界のスターダムの華やかさとは別に、純朴な恋心がある。恋心をも盗めてしまうのが、天下の大泥棒の才能であろうが、ビリーとの恋愛関係に関しては、彼はそんな卑怯者のそぶりは一切見せない。純朴な恋愛をきっかけとして、更正する訳でもないが、デリンジャーは既にスターダムをのしあがっており、華やかな世界をしか見ていないからではないか。あるいは、泥棒が天職であり、恋愛によって、更なる大金を得て、ビリーを悦ばせる為に、リスキーな犯罪を続ける不屈の意志を得たか、である。
スターとは、他とは違った煌めきを放つものであり、それが犯罪者であるという事は大した意味を成さない。大恐慌において、経済的困窮に塗れた大衆が求めたのがデリンジャーであった。つまり、時代が生んだものであり、その意味で、英雄ですらある。英雄とは大多数を相手にして、世間を読み、その心理を操り、もっと大きな利益や栄光を手にするものだ。だから、対する、パーヴィス捜査官は、一兵卒に過ぎず、マンパワーにおいても、犯罪者集団が警察を超えているといえる。生きる為に必死であり、どんな卑怯な振舞いも辞さない。警察はデリンジャーの協力者に法を利用した取引を持ちかけるが、そんなささやかな策謀は、巨大な犯罪のスターダムの前では、かわいいものだ。大恐慌によって、平和と繁栄によってのみ保たれる正義が崩れ、デリンジャーの登場によって、犯罪界にバランスが傾いた危うき時代のストーリーでもある。
2018年09月24日 15:13
アレクセイは、要らない子。
一流企業で働くボリスと美容サロンを経営するジェーニャは離婚協議中の夫婦。言い争いが絶えず、目下の問題はどちらが12歳の息子アレクセイを引き取るかということ。2人ともすでに恋人がいて、新しい生活をスタートさせる上でアレクセイはお荷物でしかなかった。そんな中、学校からの連絡でようやくアレクセイが行方不明になっていることに気がつくボリスとジェーニャだったが…。(allcinema)
愛の無い夫婦において、子とは絆を結びつける存在である。だが、その最後の良心が失われれば、そんな掛け替えのない存在も邪魔になる。その、愛がないゆえに、ディストピアに陥る夫婦を描く。周囲は、夫婦の関係を知っている。祖母は、失踪したアレクセイを探しに来たジェーニャを冷たくあしらうが、それは、夫婦が末期状態にあり、息子を押し付け合っている、という醜悪な状態を知っているからだろう。 祖母は達観しているが、人間とは齢を重ねる毎に現実を知るのだ。愛とはそうした冷めた人々に対しても活かされねばならないし、人を信じているが、愛がないのが問題なのだ。
アレクセイは、愛を欲するがゆえに、愛の無い家庭に幻滅して、結果、家出があったのだろう。若い者ほど、愛のあるやなしや、関係の善悪に対して敏感なのだ。愛にステイタスは意味を成さない。一流企業のエリートであっても、大アレクセイ演じるボリスは離婚を選ぶのだ。愛とは、裸体をさらし、その恥じらいを美しいと思えれば、夫婦互いに宿る魂である。
肉欲とは、快楽を解放する激しいものだが、そればかりに捉われる夫婦は現実から逃れがちであり、現実への適応障害を生む。甘美な幻想に囲われ、心を遊ばせてきた夫婦に対して、愛に迷いが生じ、セックスを減らした事の禁欲によって、二人の世界に終わりが訪れる。肉欲による快楽の時は、若き夫婦には必要であるが、それによる幻想と、厳しい現実が降ろす帳のいずれが、二人の人生に必要だったかは分からない。
探してはいるが、アレクセイとの再会に対して、夫婦は望みを抱いていない。それは、夫婦が新生活を始めるにおいて、息子を邪魔者扱いしているからであり、不幸ゆえに、叛逆したのがアレクセイの本心なのだ。欲望とは、善良な願いを叶える場合もあれば、そうでない場合もある。子という掛け替えのない命を守りたいというのも欲望であるし、それを遠ざける事は、誰もが望んだ未来でなくとも、現実に在り得る事なのだ。だから、その現実と甘美な幻想とは、決定的な対立を生み、決して、両者は対話する事はない。そこに懸けるエネルギーを露にするのが、ジェーニャを拒んだ狭量な祖母であるが、常識や世間体に身を覆いながら、夫婦もまた、息子を押し付け合う醜悪な本性を露呈している。
愛の無い人間に成りたい、という大人は居まいが、愛とは日々の言葉や行動によって示して行かねば、枯渇するものであり、結婚とはその義務の集成ではないか。アレクセイを「要らない子」と見なしたこの夫婦はドライに渇いている。結婚は恋愛の延長線上にあると思った事が誤りであり、そんな甘美な恋愛と、現実の結婚を同一に出来る恵まれた夫婦は、最高に幸せだと思う。