2019年07月
2019年07月31日 19:11
動物というのは、人に飼われる事によってペットとなる。それは、自然界の秩序や弱肉強食の原理から解放され、人の作りし世界の下であれ、自由を謳歌するという事である。ペットとなれば、強犬であっても、よく吠える弱い犬であっても、闘争本能によって、長いものの餌食になる事はなくなるし、強く頼りがいがあるだけでなく、小さく可愛い事が、需要となるからだ。人間の良き相棒としてペットが飼われるが、そんな動物たちに人格や意志があり、冒険を望むならどんなにエキサイティングであろうか。
つまり、街の生活というのは、動物より本能を削ぎ落すものであり、座敷犬であったり、愛玩としてのネコなどの、屋内や生活の中で飼われる事を慣習とする。それによって、本能からの闘争本能や縄張りを争うといった行動は減るのではないだろうか。スノーボールがヒーローのコスプレをして、街の悪に立ち向かうというポーズも、ギジェットのネコ化というのも、本来のアイデンティティが忘れられ、新たなファッションのように、違う動物に成れるという事ではないか。そもそも、そういったアイデンティティの転換というのは、ペットを玩具のように愛好する飼い主の悪い癖でもあるが、本作のペットたちは、変化に肯定的であり、街の生活に馴染み、それを面白くする事にしか興味が無い。
小型犬のマックスと、大型犬のデュークのコンビに、飼い主のケイティが結婚して子を授かり、それが、新たなリアムであり、その誕生と成長物語を、二人は見守り、また共に生きて行く。人間も動物もそうかも知れないが、子を授かるとは新たな命の始まりであり、それには自然と物語が付きまとう。生きている事がドラマを生むからであるが、その愉しさというのは、まだ何も持たない子であれば、周囲が何かを与えねばならないだろう。そして、子の誕生と成長というのは、家族に時間の繊細な推移を感じさせ、四季の区切りや恵みに対して、敏感にさせるのではないか。つまり、人間として動物としての本能は、いたいけなリアムを家族に加える事によって、親や兄としての自覚へと成長するのである。
スノーボール達のドタバタな冒険や与太に溢れる傾奇者という、派手なキャラ達は健在であるが、彼ら街のペットたちは、共に生きて、愉しみ、共生する為に集まった。あるいは、人間に飼われて、そうしたペットとしての人生を歩む事を、受け入れている平和的なコミュニティであるが、その結束の強さから、戦う集団に変貌を遂げることも出来るもので、それが、冒険を生むのである。悪徳サーカスから脱走した虎のフーを保護して、悪者より匿うが、フーの飼い主にして、団長のセルゲイは、猛獣を好み、狼をも飼育しているが、その理由とは、何か事が起きた時に、番犬やフーの匂いを追って、捕縛する為の存在であり、つまりは、戦いの為、臨戦態勢にある集団を作る為に作ったコミュニティである。だから、この二極の集団の対立というのは、友情VS暴力、であり、ペット集団は固い結束によって、精鋭のセルゲイの子飼いの狼達、サーカスの珍獣と戦うのである。
民主主義とは、あらゆる思想や政治的な態度を寛容に受け入れて来たものだ。どんな少数派でも、これが守られているちゃんとした国であれば、生き場を作る、探す事によって、何処かに行き着く事は出来る。つまり、このペットの世界というのは、組織力と団結力によって、民主主義を背景とするペットたちが協力して、そのコミュニティを脅かす悪と戦うのである。リベラルな集団内にも、権力闘争や苛めといったような内なる争いはあるが、それは、社会に波紋を及ぼすようなものではなく、本当の有事にこそ、立ち上がるのが自由を分かち合う仲間意識ではないか。
つまり、街の生活というのは、動物より本能を削ぎ落すものであり、座敷犬であったり、愛玩としてのネコなどの、屋内や生活の中で飼われる事を慣習とする。それによって、本能からの闘争本能や縄張りを争うといった行動は減るのではないだろうか。スノーボールがヒーローのコスプレをして、街の悪に立ち向かうというポーズも、ギジェットのネコ化というのも、本来のアイデンティティが忘れられ、新たなファッションのように、違う動物に成れるという事ではないか。そもそも、そういったアイデンティティの転換というのは、ペットを玩具のように愛好する飼い主の悪い癖でもあるが、本作のペットたちは、変化に肯定的であり、街の生活に馴染み、それを面白くする事にしか興味が無い。
小型犬のマックスと、大型犬のデュークのコンビに、飼い主のケイティが結婚して子を授かり、それが、新たなリアムであり、その誕生と成長物語を、二人は見守り、また共に生きて行く。人間も動物もそうかも知れないが、子を授かるとは新たな命の始まりであり、それには自然と物語が付きまとう。生きている事がドラマを生むからであるが、その愉しさというのは、まだ何も持たない子であれば、周囲が何かを与えねばならないだろう。そして、子の誕生と成長というのは、家族に時間の繊細な推移を感じさせ、四季の区切りや恵みに対して、敏感にさせるのではないか。つまり、人間として動物としての本能は、いたいけなリアムを家族に加える事によって、親や兄としての自覚へと成長するのである。
スノーボール達のドタバタな冒険や与太に溢れる傾奇者という、派手なキャラ達は健在であるが、彼ら街のペットたちは、共に生きて、愉しみ、共生する為に集まった。あるいは、人間に飼われて、そうしたペットとしての人生を歩む事を、受け入れている平和的なコミュニティであるが、その結束の強さから、戦う集団に変貌を遂げることも出来るもので、それが、冒険を生むのである。悪徳サーカスから脱走した虎のフーを保護して、悪者より匿うが、フーの飼い主にして、団長のセルゲイは、猛獣を好み、狼をも飼育しているが、その理由とは、何か事が起きた時に、番犬やフーの匂いを追って、捕縛する為の存在であり、つまりは、戦いの為、臨戦態勢にある集団を作る為に作ったコミュニティである。だから、この二極の集団の対立というのは、友情VS暴力、であり、ペット集団は固い結束によって、精鋭のセルゲイの子飼いの狼達、サーカスの珍獣と戦うのである。
民主主義とは、あらゆる思想や政治的な態度を寛容に受け入れて来たものだ。どんな少数派でも、これが守られているちゃんとした国であれば、生き場を作る、探す事によって、何処かに行き着く事は出来る。つまり、このペットの世界というのは、組織力と団結力によって、民主主義を背景とするペットたちが協力して、そのコミュニティを脅かす悪と戦うのである。リベラルな集団内にも、権力闘争や苛めといったような内なる争いはあるが、それは、社会に波紋を及ぼすようなものではなく、本当の有事にこそ、立ち上がるのが自由を分かち合う仲間意識ではないか。
竜巻に巻き込まれ、魔法の国オズへと運ばれてしまったドロシーは、奇遇にも、家の下敷きにしてしまった東の魔女を倒した英雄として、北の魔女とその民に歓迎される。東の魔女には、西の魔女という姉妹が居り、ドロシーは仇として付け狙われる事になる。だが、元の世界に還るには、オズの大魔王の援けが必要であり、その旅路に出ながら、知恵がない案山子、心を持たないブリキ男、臆病なライオンと言った仲間達と共にエメラルド城に向かう。
運命とは、まだ少女であるドロシーを不退転の境地に追いやり、西の魔女からは根深い憎悪を受けた。だが、奇しくも、オズに迷い込んだその最初に倒したのが東の魔女であり、その事実は、北の魔女とその良民にとっては朗報ではあっても、ドロシーにとっては苦行という重たい荷物を背負うものに他ならない。そうした、運命からの一方的な繋がりと、難行への従事といった足枷は人生を難しくする。なぜなら、アメリカに居たならば、同年代の少年少女が経験し得ない異世界に居るからだ。
そして、オズの国においては、ドロシーは故郷に帰還する事が悲願であり、つまり、縁もゆかりもないという事実だけがオズという異国との関係性に過ぎないからだ。そして、ドロシーは、東の魔女を倒す事によって、奇遇にもオズの国を良くする革命に立ち会い、その第一人者となってしまった。だから、北の魔女と良民が期待する事であり、彼らの思いと言うのは、オズの国を良くする事であり、その度外な期待をドロシーは背負う事になる。だが、真実は母国が一番であって、その故郷の為に良くする事の大義の為に働く事だけが、世界の良民にして、一個人としてのドロシーの本意ではないか。
また、三人の仲間達は、案山子、ブリキ、ライオンと、農と自然の世界の産物であり、国家の基礎であるのが、農業や自然の保全と言った事であろう。つまり、それらの呪われた労働者が求めているものがあるという事は、オズという国に何らかの問題が潜んでいたという事ではないか。そして、重要なのは、旅路において、得られたものこそが、魔法での現世救済を超える事があるという事で、オズでは異邦人で一人のドロシーと共に歩む決意をした事であり、個人の変革とは、経験と生き方によってきっかけが掴めるものではないのか。
エメラルドの城は、オズの中心に鎮座して、その国の行く末を見守っている。階級社会であり、魔女に主導される大衆は、その気質において、魔女の影響を受けており、北の魔女には良民が従っている。童話の国ではあるし、戦争が地域間や指導者の大きな意志によってのみ起こるものではなく、貧国には匪賊の類が跋扈する。また、ドロシーの旅路において、街道では村や田園などに遭遇しなかったゆえに、都市国家である事が想像出来る。都市国家とは、匪賊や外敵への備えであり、また同時に、親兵や知識人、名士といったマンパワーの集中によって、活発な人的交流や対話が期待される処である。
ドロシーは奇しくも主人公となったが、それは、一局面での覇者に昇りつめたという事であり、それが、権力移譲に結び付くというものでは無い事は、それが、童話世界であり、何よりも得難い個人の珠玉のような経験に重きを置いているからであり、それは、魔法の存在を誤魔化したオズの大魔王の真実にも通じる事なのだ。
運命とは、まだ少女であるドロシーを不退転の境地に追いやり、西の魔女からは根深い憎悪を受けた。だが、奇しくも、オズに迷い込んだその最初に倒したのが東の魔女であり、その事実は、北の魔女とその良民にとっては朗報ではあっても、ドロシーにとっては苦行という重たい荷物を背負うものに他ならない。そうした、運命からの一方的な繋がりと、難行への従事といった足枷は人生を難しくする。なぜなら、アメリカに居たならば、同年代の少年少女が経験し得ない異世界に居るからだ。
そして、オズの国においては、ドロシーは故郷に帰還する事が悲願であり、つまり、縁もゆかりもないという事実だけがオズという異国との関係性に過ぎないからだ。そして、ドロシーは、東の魔女を倒す事によって、奇遇にもオズの国を良くする革命に立ち会い、その第一人者となってしまった。だから、北の魔女と良民が期待する事であり、彼らの思いと言うのは、オズの国を良くする事であり、その度外な期待をドロシーは背負う事になる。だが、真実は母国が一番であって、その故郷の為に良くする事の大義の為に働く事だけが、世界の良民にして、一個人としてのドロシーの本意ではないか。
また、三人の仲間達は、案山子、ブリキ、ライオンと、農と自然の世界の産物であり、国家の基礎であるのが、農業や自然の保全と言った事であろう。つまり、それらの呪われた労働者が求めているものがあるという事は、オズという国に何らかの問題が潜んでいたという事ではないか。そして、重要なのは、旅路において、得られたものこそが、魔法での現世救済を超える事があるという事で、オズでは異邦人で一人のドロシーと共に歩む決意をした事であり、個人の変革とは、経験と生き方によってきっかけが掴めるものではないのか。
エメラルドの城は、オズの中心に鎮座して、その国の行く末を見守っている。階級社会であり、魔女に主導される大衆は、その気質において、魔女の影響を受けており、北の魔女には良民が従っている。童話の国ではあるし、戦争が地域間や指導者の大きな意志によってのみ起こるものではなく、貧国には匪賊の類が跋扈する。また、ドロシーの旅路において、街道では村や田園などに遭遇しなかったゆえに、都市国家である事が想像出来る。都市国家とは、匪賊や外敵への備えであり、また同時に、親兵や知識人、名士といったマンパワーの集中によって、活発な人的交流や対話が期待される処である。
ドロシーは奇しくも主人公となったが、それは、一局面での覇者に昇りつめたという事であり、それが、権力移譲に結び付くというものでは無い事は、それが、童話世界であり、何よりも得難い個人の珠玉のような経験に重きを置いているからであり、それは、魔法の存在を誤魔化したオズの大魔王の真実にも通じる事なのだ。
2019年07月30日 23:20
酷暑が続いているが、夏本番はこれからで、熱中症への注意が必要だという。昔の常識、スポーツなどの厳しい規律の世界では、氷水ですら節制を命令され、生徒の分際でエアコンなどは持っての他だとされていた。
それが、今のように、飲水やエアコンは健康を守る為であり、それによって、生命が守られる事は、体育会の指導者の変化と共に、昭和という家父長制度の名残、あるいは、頑固親父の影響力が強かったからであり、それこそが日本らしさだという偏った見方があったと思う。
武士道の規律は、子息らを質実剛健に育てる事を要したが、それは、御家という集団内に強固な絆や合意が為っていたから、親父の理不尽にも耐えて、ひたすら引き継ぐ為に我慢し、また、成長出来たものだろう。その教条を血の繋がった御家以外に生かすのは、スポーツチームに強固な絆があってこそではないか。従って、指導者に生徒や学生が付いていけないのには、双方に非があるが、互いに信頼関係が結ばれていないからであり、これを転じれば、信頼関係がある間柄であれば、心地好い愛が生まれるという事で、それが居場所を生むのである。
つまり、軍隊的なコミュニケーションというのは、映画「泣くな赤鬼」にあるように、学校権力に対する生徒らの反抗心だけでなく、教員自身も年甲斐の無い反抗心を抱いているという事だ。何故なら、学校とは公教育の場であり、公教育とはフラットな分け隔ての無い総合的な教育カリキュラムを遂行するもので、部活動という専門性が高く、やや閉鎖的な縦社会というのは、公の理念と異なるからであり、教員は自身の思想によっては、その専門性を強化する事が出来るからである。だから、赤鬼は永遠の叛逆児であるのと同時に、教え子のゴルゴは鬼教員の配下にあった青春時代を懐かしみ、心を氷解させると共に、病気である事から余命の事情もあり、精神的に屈服するのである。
だから、これは、スパルタが正しかったという事、評価というのは、対人的な指導者との絆によって変わるのだ。だから、ゴルゴは長く会わずとも赤鬼の強烈な個性と絆を糧にして生きて来た事を、カミングアウトする事によるプライドへの瑕疵を全く恐れず、それはすなわち、反発してキャリアを途中で投げ出したほどの根深い怒り、擦れ違いという間違いと和解したという事なのだ。
つまり、スパルタを敷く指導者というのは、生徒らと信頼関係を築けねば、単なる威力の行使となるが、その指導方法とは、何も可愛いらしく媚びるのではなく、やはり、男性的な粗野とも映るコミュニケーションもありで、そうした、教員の個性というのは、生徒らの会話の種となり、理解を勝ち取るには時間が懸かるかも知れないが、濃厚な人間関係の賜物なのである。
夏こそは美味しい水を飲みましょうよと。
それが、今のように、飲水やエアコンは健康を守る為であり、それによって、生命が守られる事は、体育会の指導者の変化と共に、昭和という家父長制度の名残、あるいは、頑固親父の影響力が強かったからであり、それこそが日本らしさだという偏った見方があったと思う。
武士道の規律は、子息らを質実剛健に育てる事を要したが、それは、御家という集団内に強固な絆や合意が為っていたから、親父の理不尽にも耐えて、ひたすら引き継ぐ為に我慢し、また、成長出来たものだろう。その教条を血の繋がった御家以外に生かすのは、スポーツチームに強固な絆があってこそではないか。従って、指導者に生徒や学生が付いていけないのには、双方に非があるが、互いに信頼関係が結ばれていないからであり、これを転じれば、信頼関係がある間柄であれば、心地好い愛が生まれるという事で、それが居場所を生むのである。
つまり、軍隊的なコミュニケーションというのは、映画「泣くな赤鬼」にあるように、学校権力に対する生徒らの反抗心だけでなく、教員自身も年甲斐の無い反抗心を抱いているという事だ。何故なら、学校とは公教育の場であり、公教育とはフラットな分け隔ての無い総合的な教育カリキュラムを遂行するもので、部活動という専門性が高く、やや閉鎖的な縦社会というのは、公の理念と異なるからであり、教員は自身の思想によっては、その専門性を強化する事が出来るからである。だから、赤鬼は永遠の叛逆児であるのと同時に、教え子のゴルゴは鬼教員の配下にあった青春時代を懐かしみ、心を氷解させると共に、病気である事から余命の事情もあり、精神的に屈服するのである。
だから、これは、スパルタが正しかったという事、評価というのは、対人的な指導者との絆によって変わるのだ。だから、ゴルゴは長く会わずとも赤鬼の強烈な個性と絆を糧にして生きて来た事を、カミングアウトする事によるプライドへの瑕疵を全く恐れず、それはすなわち、反発してキャリアを途中で投げ出したほどの根深い怒り、擦れ違いという間違いと和解したという事なのだ。
つまり、スパルタを敷く指導者というのは、生徒らと信頼関係を築けねば、単なる威力の行使となるが、その指導方法とは、何も可愛いらしく媚びるのではなく、やはり、男性的な粗野とも映るコミュニケーションもありで、そうした、教員の個性というのは、生徒らの会話の種となり、理解を勝ち取るには時間が懸かるかも知れないが、濃厚な人間関係の賜物なのである。
夏こそは美味しい水を飲みましょうよと。
荒廃した世界とは、社会秩序や道徳、あるいは、それらによる信じるものが崩れた環境を言うのではないか。正統と信じていた存在、それが聖書の神であれ、形なき非偶像の神、あるいは、共にに生きる存在、愛するものであったり、信じるとは宗教だけの占有物にあらず、されど、荒廃した世界に触れていれば、かつての若さを共に見失う事もある。幸福に近付くには来た道を振り返り、その心の補完を支えてきた忠実なものや、愛を愉しく語らってきたものを貯めていく事ではあるまいか。
つまり、正統が崩れるからこそ、淫祀、邪教の類いが流行るのであって、映画「AKIRA」のように破壊神が信仰されるのも、現世天下に対する不満が蔓延り、既存の社会、セーフティネットが求心力を持ち得ていないからだ。そして、そうした現実には選ばれし者とはいえアキラを祭り上げるのは、その破壊の側面に現世への不満を委任するものに過ぎない。
つまり、信じるとは、生きているものや、共に寄り添い歩んでいるものにこそ、互いの希望を託し、それによって、現世が生きている人々のものになるのではないだろうか。
つまり、正統が崩れるからこそ、淫祀、邪教の類いが流行るのであって、映画「AKIRA」のように破壊神が信仰されるのも、現世天下に対する不満が蔓延り、既存の社会、セーフティネットが求心力を持ち得ていないからだ。そして、そうした現実には選ばれし者とはいえアキラを祭り上げるのは、その破壊の側面に現世への不満を委任するものに過ぎない。
つまり、信じるとは、生きているものや、共に寄り添い歩んでいるものにこそ、互いの希望を託し、それによって、現世が生きている人々のものになるのではないだろうか。
未来都市メトロポリス。街の支配者にして、世界征服を目論むレッド公は、その遠大な野心に比して、家庭は薄幸であり、愛娘を亡くしている。その姿と肉体を模して造らせたのが、ロボットのティマである。まるで天使のような金髪の少女であり、その気質は至って穏やかである。レッド公からは、深い愛情を注がれるはずであったが、研究所の火事により、行方不明とされ、レッド公の下より離れる事になる。寵愛する愛娘を二度失ったも同然であり、レッド公の野心というのは、これによって、更に固い決意に至ったのではないか。
だが、ティマには、その肉体と存在感を遥かに超える能力が付与されており、レッド公の親子関係からの生き別れは、その覇権構想の頓挫を意味する深謀遠慮があった。そんな大きな使命は、火事の現場から抜け出して来たケンイチが知る事は無い。ロボットと知るが、人間としてティマに接するケンイチは、人間の良心であり、また、対するティマは、誰とでも分け隔てなく付き合いもう一方の良心を象徴しているものだろう。つまり、この二人はベストな組み合わせであり、メトロポリス内を逃亡生活から冒険する事になるが、ティマの延命を知ったレッド公の養子にして若手のリーダーであるロックは強く憎み、ティマの破壊を執拗に狙う。
それは、レッド公への敬愛の情が強過ぎるからであり、血の絆が無いからこそ、権力と忠誠によって、そのまごころを伝えようと生き急いでいる。つまり、レッド公のティマに寄せる偏愛に対して、ロックが抱く敬愛の情は、親子として自然であり、レッド公は、死別してしまった娘への執念は理解出来るし、その忘れ形見として精巧なロボットが欲しいという感情も理解出来るが、権力を手に入れた野心家にして、家庭人でもあろうとする、全てを手に入れようとする欲望の業の深さは、レッド公の人間的な欠点だという事が出来る。むしろ、一つの愛の為になら冷酷にすらなれるロックの方が、人間らしい。ロックの望みは、人間であるレッド公が世界の支配者として君臨する事であり、超人思想を信じていない。超人思想は、そのティマ当人の意志は別にして、周囲の大人達がその力を戦争や侵略に利用する事と結び付けば悪となる。だが、特別である事も個性や気質の一つであり、ティマが居るべき場所は、生誕の地ではなかった。
レッド公はティマを愛するが、実際の野心家同士の似た者同士はレッド公とロックであり、普通の家庭であれば、純朴なティマはそうした覇者の家には馴染まないだろう。世界の支配者として思いのまま破壊行為を経験して人ならぬ存在になるか、それとも、円満に恋人や家庭を持ち平和に人としての存在を追い求めるかという違いであり、その双方の人生観には深刻な対立がある。その矛盾を埋めているものは、国家主義や政府主導による階級社会の黙認ではないか。つまり、メトロポリスはハードとして高い科学力や欲望を煽る娯楽施設、テクノロジーは発達しているが、その精神的な涵養や権力闘争のレベルは一向に高まっていないという事なのだ。そして、レッド公がティマに託したのはそんな現実を理解した上での超人への全権委任であった。
つまり、純朴でそんな世界情勢に影響を与えるとはつゆ思えないティマが、恐ろしい力を秘めている一方で、その朝の太陽を浴びる純白の姿を見て天使と連想して、仰ぐ人々も居るという事で、メトロポリスが抱えた矛盾、つまり、冷酷で暴力的な体制側と平和と安定を望む大衆社会という民主のあり方において、二極に分断された一方の世間一般をまとめる存在として、ティマのような信仰の対象となるような聖人が居ても良いのではないだろうか。ロボットを嫌うロックのように彼らを簡単に破壊、つまり、殺傷する貴族が居る一方で、労働力として重宝し、汗を流して働く人々が居る。ロボット無くして成り立たない都市経済と生活という現実に対して、弾圧のパフォーマンスは非現実であり、そのアンバランスの情勢の不安定化によって、逆に、大衆社会は安定を求める心理を突いた術であろう。
そんな国家間、他の都市国家にもまた、レッド公のように戦争を画策する人々が居り、情勢は予断を許さない。だからこそ、そんな酷薄で孤独な覇王の道だからこそ、レッド公には本物の愛娘が必要だったのかも知れない。生命は平等、それは理解出来るが、他の都市国家を攻めて、多大な戦災を招こうとする戦争屋にも、生命の尊重は通用するのか、それよりも、ティマを純朴なままで止めていたケンイチのような至純の愛を持つ生命が最大限尊重されるべきなのか。手塚らしく、革命こそが全てで曇りなき正義というのは、新国家の構想が無く無責任に感じられてしまう。
だが、ティマには、その肉体と存在感を遥かに超える能力が付与されており、レッド公の親子関係からの生き別れは、その覇権構想の頓挫を意味する深謀遠慮があった。そんな大きな使命は、火事の現場から抜け出して来たケンイチが知る事は無い。ロボットと知るが、人間としてティマに接するケンイチは、人間の良心であり、また、対するティマは、誰とでも分け隔てなく付き合いもう一方の良心を象徴しているものだろう。つまり、この二人はベストな組み合わせであり、メトロポリス内を逃亡生活から冒険する事になるが、ティマの延命を知ったレッド公の養子にして若手のリーダーであるロックは強く憎み、ティマの破壊を執拗に狙う。
それは、レッド公への敬愛の情が強過ぎるからであり、血の絆が無いからこそ、権力と忠誠によって、そのまごころを伝えようと生き急いでいる。つまり、レッド公のティマに寄せる偏愛に対して、ロックが抱く敬愛の情は、親子として自然であり、レッド公は、死別してしまった娘への執念は理解出来るし、その忘れ形見として精巧なロボットが欲しいという感情も理解出来るが、権力を手に入れた野心家にして、家庭人でもあろうとする、全てを手に入れようとする欲望の業の深さは、レッド公の人間的な欠点だという事が出来る。むしろ、一つの愛の為になら冷酷にすらなれるロックの方が、人間らしい。ロックの望みは、人間であるレッド公が世界の支配者として君臨する事であり、超人思想を信じていない。超人思想は、そのティマ当人の意志は別にして、周囲の大人達がその力を戦争や侵略に利用する事と結び付けば悪となる。だが、特別である事も個性や気質の一つであり、ティマが居るべき場所は、生誕の地ではなかった。
レッド公はティマを愛するが、実際の野心家同士の似た者同士はレッド公とロックであり、普通の家庭であれば、純朴なティマはそうした覇者の家には馴染まないだろう。世界の支配者として思いのまま破壊行為を経験して人ならぬ存在になるか、それとも、円満に恋人や家庭を持ち平和に人としての存在を追い求めるかという違いであり、その双方の人生観には深刻な対立がある。その矛盾を埋めているものは、国家主義や政府主導による階級社会の黙認ではないか。つまり、メトロポリスはハードとして高い科学力や欲望を煽る娯楽施設、テクノロジーは発達しているが、その精神的な涵養や権力闘争のレベルは一向に高まっていないという事なのだ。そして、レッド公がティマに託したのはそんな現実を理解した上での超人への全権委任であった。
つまり、純朴でそんな世界情勢に影響を与えるとはつゆ思えないティマが、恐ろしい力を秘めている一方で、その朝の太陽を浴びる純白の姿を見て天使と連想して、仰ぐ人々も居るという事で、メトロポリスが抱えた矛盾、つまり、冷酷で暴力的な体制側と平和と安定を望む大衆社会という民主のあり方において、二極に分断された一方の世間一般をまとめる存在として、ティマのような信仰の対象となるような聖人が居ても良いのではないだろうか。ロボットを嫌うロックのように彼らを簡単に破壊、つまり、殺傷する貴族が居る一方で、労働力として重宝し、汗を流して働く人々が居る。ロボット無くして成り立たない都市経済と生活という現実に対して、弾圧のパフォーマンスは非現実であり、そのアンバランスの情勢の不安定化によって、逆に、大衆社会は安定を求める心理を突いた術であろう。
そんな国家間、他の都市国家にもまた、レッド公のように戦争を画策する人々が居り、情勢は予断を許さない。だからこそ、そんな酷薄で孤独な覇王の道だからこそ、レッド公には本物の愛娘が必要だったのかも知れない。生命は平等、それは理解出来るが、他の都市国家を攻めて、多大な戦災を招こうとする戦争屋にも、生命の尊重は通用するのか、それよりも、ティマを純朴なままで止めていたケンイチのような至純の愛を持つ生命が最大限尊重されるべきなのか。手塚らしく、革命こそが全てで曇りなき正義というのは、新国家の構想が無く無責任に感じられてしまう。