2019年12月
2019年12月31日 10:45
中国の最大の物語である三国志には、正史と演義があり、それは王朝の権力の下で描かれた歴史と、大衆の文学として描かれた物語との違いである。これは、正史という正統とされる歴史が、実際には、時の王朝が歴史の勝者となり、歴史の編纂という大業を為すだけの権威と人材を有していたと言う事でもある。
三国志とは、魏が勝者であり、最大勢力と共に、軍力と人材、領土、物資、そして天命という、あらゆる面での強者であり、その覇権国の優位を崩し得るものというのは、地域主義であり、地と人の利に拠る他には無い。天地人の全てに恵まれた魏の倒し方というのは、それより劣る呉が、物資や軍力、人材における地域戦を展開して、呉に有利な戦場としての長江を選び、その要害を国防の要、南の万里の長城としながら、魏と防ぐ事であろう。だから、魏が有した漢の後継者という天の利は、呉には決して崩し得ない大いなる義であり、その劣勢を補う為に、劉姓であり、帝室の末裔を自称する劉備率いる蜀を必要としたのではないか。
つまり、正史における歴史認識然り、大衆文学止まりの演義然り、そこの歴史や戦争論についての、マキャベリズム宜しく、論評や分析と言ったロジカルな試みが為されていない事は、歴史の軽視ではあるまいか。魏の曹操を巡っては、斬新な解釈や魅力的な物語が生み出されているが、それは、正史や演義という「二つの国」宜しく、異なる史書と物語に原点を置きながら、戦争や政治の現場へのアプローチや視点が描き切られていないのではないか。
魏は覇権国として、国力を高め、大陸への影響力を強める事が出来るが、呉と蜀はそうは行かない。この二つの国は、弱者として対魏の為だけに利害を抑え、生き残り戦略を立てるだけだが、魏はすでにして、天下の画が描き、改革を実行して行く事が出来る。三国時代における、国家の衰微というのは、人口の激減に証されているが、それは、戦争だけが目標であり、時間と共に画定して行く、魏の正統を崩す為に、戦争を続ける他に無かった呉蜀でこそ、衰微というのは顕著であったのではないか。
だから、正史は正統なる政人を必要としたが、演義とは超人や豪傑を必要としたのだが、横山三国志然り、特に演義における武人や超人の重視というのは、大衆受けという狙いゆえに、安直に過ぎるモチーフではある。正史には、魏を中心とするが、演義の世界観というのは、武や大義、正統と言った戦争への歪なロマンチシズムを描き、歴史偉人達の美徳を全て、蜀に帰したきらいがある。歴史とは国家の運営と保守によって繋がれて来た人間の物語であり、絶人、関羽の義絶、諸葛亮の知絶、そして、曹操の姦絶といった、異彩を求めずとも、王朝政府と官僚支配によって成り立つものである。だが、その現実の中にあって、正史においてなお、抜きん出る曹操の存在感というのは、比肩するものは無いと、自分は思う。
だから、曹操の歴史評価というのは、称賛するものも貶め毀損するものも、その大いなる存在、重き先達の影に対して、後世の人々が賛同か否定かを決断せねば、前に進めないほどの威があったがゆえではないか。
三国志とは、魏が勝者であり、最大勢力と共に、軍力と人材、領土、物資、そして天命という、あらゆる面での強者であり、その覇権国の優位を崩し得るものというのは、地域主義であり、地と人の利に拠る他には無い。天地人の全てに恵まれた魏の倒し方というのは、それより劣る呉が、物資や軍力、人材における地域戦を展開して、呉に有利な戦場としての長江を選び、その要害を国防の要、南の万里の長城としながら、魏と防ぐ事であろう。だから、魏が有した漢の後継者という天の利は、呉には決して崩し得ない大いなる義であり、その劣勢を補う為に、劉姓であり、帝室の末裔を自称する劉備率いる蜀を必要としたのではないか。
つまり、正史における歴史認識然り、大衆文学止まりの演義然り、そこの歴史や戦争論についての、マキャベリズム宜しく、論評や分析と言ったロジカルな試みが為されていない事は、歴史の軽視ではあるまいか。魏の曹操を巡っては、斬新な解釈や魅力的な物語が生み出されているが、それは、正史や演義という「二つの国」宜しく、異なる史書と物語に原点を置きながら、戦争や政治の現場へのアプローチや視点が描き切られていないのではないか。
魏は覇権国として、国力を高め、大陸への影響力を強める事が出来るが、呉と蜀はそうは行かない。この二つの国は、弱者として対魏の為だけに利害を抑え、生き残り戦略を立てるだけだが、魏はすでにして、天下の画が描き、改革を実行して行く事が出来る。三国時代における、国家の衰微というのは、人口の激減に証されているが、それは、戦争だけが目標であり、時間と共に画定して行く、魏の正統を崩す為に、戦争を続ける他に無かった呉蜀でこそ、衰微というのは顕著であったのではないか。
だから、正史は正統なる政人を必要としたが、演義とは超人や豪傑を必要としたのだが、横山三国志然り、特に演義における武人や超人の重視というのは、大衆受けという狙いゆえに、安直に過ぎるモチーフではある。正史には、魏を中心とするが、演義の世界観というのは、武や大義、正統と言った戦争への歪なロマンチシズムを描き、歴史偉人達の美徳を全て、蜀に帰したきらいがある。歴史とは国家の運営と保守によって繋がれて来た人間の物語であり、絶人、関羽の義絶、諸葛亮の知絶、そして、曹操の姦絶といった、異彩を求めずとも、王朝政府と官僚支配によって成り立つものである。だが、その現実の中にあって、正史においてなお、抜きん出る曹操の存在感というのは、比肩するものは無いと、自分は思う。
だから、曹操の歴史評価というのは、称賛するものも貶め毀損するものも、その大いなる存在、重き先達の影に対して、後世の人々が賛同か否定かを決断せねば、前に進めないほどの威があったがゆえではないか。
2019年12月30日 20:48
死して後に、関帝という神となった関羽は、羊の心を持った狼であったが、世の中は狼によって動かされていると、曹操は語る。強情で屈強な侠客でありながら、その優しさの根源には、人間関羽があり、義絶と称されるように、世の中がどんなに荒み、人心は政に対する信を失いながらも、立ち上がるのが関羽だったのではないか。
曹操には重用され、権力近くに立ちながらも、義兄から離反して、その庇護を受ける事を潔しとはしなかった。義侠には、世の中で重んじるべき義であったり、情であったり、俗世間で生きる人物とは異なる正義感があるのだろう。劉備は温厚だが、関羽は士大夫に挑戦的で、張飛は部下には苛酷であったという。この三人の欠点を補い合い、生きて行く日々こそが、今生の好日であり、また、魏呉に攻められ関羽が死なずに済んだ方法ではあるまいか。
また、そうした互いに欠点があるからと言って、評価を墜とさず、支え合って大きな成果と悦びを生み出すのが、彼らのような義侠の生き方ではあるまいか。
関羽が士大夫を嫌ったと言う事は、儒者を嫌ったと言う事である。儒者でも現場を知り、兵隊や部下の辛苦や痛ましさを知る人材で、自ら戦陣にも立った一角の人というのは儒将と呼ばれたが、そうした、武勇を共通言語として持つ人物であれば、関羽は尊重しただろう。
ただ、そうした儒将というのが活躍したのが見えるのが、張奐然り、盧植然り、後漢時代であり、三国時代というのは、その前日譚であり、儒と才との決戦である官渡決戦において、儒教勢力の代表格であった袁紹が敗れた事によって、儒将として、戦場で活躍する機会も優位性をも奪われたのかも知れない。
記事「関羽 三国志英傑伝」
曹操には重用され、権力近くに立ちながらも、義兄から離反して、その庇護を受ける事を潔しとはしなかった。義侠には、世の中で重んじるべき義であったり、情であったり、俗世間で生きる人物とは異なる正義感があるのだろう。劉備は温厚だが、関羽は士大夫に挑戦的で、張飛は部下には苛酷であったという。この三人の欠点を補い合い、生きて行く日々こそが、今生の好日であり、また、魏呉に攻められ関羽が死なずに済んだ方法ではあるまいか。
また、そうした互いに欠点があるからと言って、評価を墜とさず、支え合って大きな成果と悦びを生み出すのが、彼らのような義侠の生き方ではあるまいか。
関羽が士大夫を嫌ったと言う事は、儒者を嫌ったと言う事である。儒者でも現場を知り、兵隊や部下の辛苦や痛ましさを知る人材で、自ら戦陣にも立った一角の人というのは儒将と呼ばれたが、そうした、武勇を共通言語として持つ人物であれば、関羽は尊重しただろう。
ただ、そうした儒将というのが活躍したのが見えるのが、張奐然り、盧植然り、後漢時代であり、三国時代というのは、その前日譚であり、儒と才との決戦である官渡決戦において、儒教勢力の代表格であった袁紹が敗れた事によって、儒将として、戦場で活躍する機会も優位性をも奪われたのかも知れない。
記事「関羽 三国志英傑伝」
フィギュアスケートを滑る少女ケイシーと、そのライバルにして友人達の物語である。アスリートでありながら、同時に、冬の主役として人気度も高い、綺羅星のアイドルのような少女たちの間には、氷上での戦いを大団円にした闘争の日々がある。それは、学校生活であったり、プライベートでの生き方であり、努力を要される練習においても、リンクでの大団円に向けた総決算が付けられる。
つまり、どんな生き方をしても自由であり、交友関係に、仕事での付き合い、政略のような信念を貫いた孤高の生き方、あるいは愛の流儀といった、その個を彩る生の全てが、リンクでの輝ける時に繋がっている。本番においては、集中力もあろうが、肉弾戦無き闘争であるフィギュアにおける力というのは、練習で鍛え上げたフィジカルと、当人が何を信じて戦えているか、という信じる心にもあるように思う。
ケイシーは、まだ高校生であり、その振舞いにも未熟な処があるが、始めたばかりのフィギュアスケートに対する思いは強い。そうした天職に出逢えるという事は、人生における働き方と言う事で、それは、より良い生き方に直結する合理的な方法を選ぶべきではないか。スケート場のスタッフであるテディは、そうした、天職と出逢った事によって、ライフワークとする目標が定まった事によって、明るさと強かさを得たケイシーの夢のワンピースとなる。スケーターとスタッフというパブリックの間柄と壁を溶かすものは、プライベートでの繋がりにおける強固な思いによる求愛の情である。
つまり、人間の出逢いに公私も無く、ただ、人間としての個性や感情の上に、社会があり、集団への配慮といったものがあるのではないか。私を貫ける事、自分を出せる強さというのは、今を生きている事に繋がるからである。だから、高校のクラスメイト達とのパーティにおいては、リラックス出来る場所ではあるが、大好きな人々の事が重要であって、そこに、どんなにイケメンであったり、有名人であったとしても、心通じぬ対話には、私をさらけ出し自由を分かち合う事は出来ないのであって、ケイシーにおいては、高校というパブリックよりも、フィギュアでの経験から彩られる全て、友人もライバルも、濃厚かつフランクな人間関係を生む絆である事が重要である。つまり、個にとって競技や技能を活かし輝ける場というのは、魂の居場所でもあるのだ。
だから、それは守られねばならないし、個として勝利や成功といったものは、競技という大団円に向けたテンションを維持する日々にあるし、孤高である練習に懸けられた時間や情熱にもある。敗戦からすら学ぶ事がある事を思えば、ケイシーの成長物語と言う事でもあり、王者だけでなく、個として鍛え上げられ、その軌跡を誇り、終着点を見出せる事は、スターダムを昇っていると言う事でもありはしないか。長期的に熱狂を維持出来るのは、現役王者であり、フェアプレイと鍛錬を重ねた選手であろうが、そのプライドの炎というのは、胸を温め続け、自我の拠り所になるのではないか。
そして、トップをリードする人が居れば、置いて行かれる人も居るのであって、具体的にはケイシーは子供じみた母親とはよく喧嘩をしている。それは、スターダムを昇る娘に対する、嫉妬と焦りでもあるが、この母親はとても無邪気で若々しい人でもある。自分は何者かと言えば、異彩の娘の母親であるとしか言えない事は、親子仲によっては、母親のプライドを傷付けるものでもある。だから、ケイシーの青春とは氷上のリンクという彼女だけの居場所を中心円としながら、テディやライバル達、ファン、母親といった、多くの人達の形状無き社会的な居場所をも作っており、彼女無しには何の物語も生まれ得ないと言う事ではないか。
スターダムというのは、万人の中における異彩であって、そこの対人関係における、スターとそれに肉薄しようとするライバル達、それらの対等と上下関係というのは、秩序を打ち破る行為にあるのではなく、秩序を擁護する事によって、正統性が保たれるものでは無いか。つまり、破壊は草の根であり、守護と再生が必要とされていると言う事である。
つまり、どんな生き方をしても自由であり、交友関係に、仕事での付き合い、政略のような信念を貫いた孤高の生き方、あるいは愛の流儀といった、その個を彩る生の全てが、リンクでの輝ける時に繋がっている。本番においては、集中力もあろうが、肉弾戦無き闘争であるフィギュアにおける力というのは、練習で鍛え上げたフィジカルと、当人が何を信じて戦えているか、という信じる心にもあるように思う。
ケイシーは、まだ高校生であり、その振舞いにも未熟な処があるが、始めたばかりのフィギュアスケートに対する思いは強い。そうした天職に出逢えるという事は、人生における働き方と言う事で、それは、より良い生き方に直結する合理的な方法を選ぶべきではないか。スケート場のスタッフであるテディは、そうした、天職と出逢った事によって、ライフワークとする目標が定まった事によって、明るさと強かさを得たケイシーの夢のワンピースとなる。スケーターとスタッフというパブリックの間柄と壁を溶かすものは、プライベートでの繋がりにおける強固な思いによる求愛の情である。
つまり、人間の出逢いに公私も無く、ただ、人間としての個性や感情の上に、社会があり、集団への配慮といったものがあるのではないか。私を貫ける事、自分を出せる強さというのは、今を生きている事に繋がるからである。だから、高校のクラスメイト達とのパーティにおいては、リラックス出来る場所ではあるが、大好きな人々の事が重要であって、そこに、どんなにイケメンであったり、有名人であったとしても、心通じぬ対話には、私をさらけ出し自由を分かち合う事は出来ないのであって、ケイシーにおいては、高校というパブリックよりも、フィギュアでの経験から彩られる全て、友人もライバルも、濃厚かつフランクな人間関係を生む絆である事が重要である。つまり、個にとって競技や技能を活かし輝ける場というのは、魂の居場所でもあるのだ。
だから、それは守られねばならないし、個として勝利や成功といったものは、競技という大団円に向けたテンションを維持する日々にあるし、孤高である練習に懸けられた時間や情熱にもある。敗戦からすら学ぶ事がある事を思えば、ケイシーの成長物語と言う事でもあり、王者だけでなく、個として鍛え上げられ、その軌跡を誇り、終着点を見出せる事は、スターダムを昇っていると言う事でもありはしないか。長期的に熱狂を維持出来るのは、現役王者であり、フェアプレイと鍛錬を重ねた選手であろうが、そのプライドの炎というのは、胸を温め続け、自我の拠り所になるのではないか。
そして、トップをリードする人が居れば、置いて行かれる人も居るのであって、具体的にはケイシーは子供じみた母親とはよく喧嘩をしている。それは、スターダムを昇る娘に対する、嫉妬と焦りでもあるが、この母親はとても無邪気で若々しい人でもある。自分は何者かと言えば、異彩の娘の母親であるとしか言えない事は、親子仲によっては、母親のプライドを傷付けるものでもある。だから、ケイシーの青春とは氷上のリンクという彼女だけの居場所を中心円としながら、テディやライバル達、ファン、母親といった、多くの人達の形状無き社会的な居場所をも作っており、彼女無しには何の物語も生まれ得ないと言う事ではないか。
スターダムというのは、万人の中における異彩であって、そこの対人関係における、スターとそれに肉薄しようとするライバル達、それらの対等と上下関係というのは、秩序を打ち破る行為にあるのではなく、秩序を擁護する事によって、正統性が保たれるものでは無いか。つまり、破壊は草の根であり、守護と再生が必要とされていると言う事である。
2019年12月29日 19:50
事件の発端は、呪われしオーバールックホテルにて、40年前に起きている。その延長線上にして、自らの霊感と特殊能力を隠して、普通の一般人として暮らすダニーは、既に中年に差し掛かっていた。40年前の亡霊たちとの怨と憎の対立に対して、まだまだ続く光と闇の戦いがあった。
特殊能力とはいえ、人間社会においては、普通の人と同じように生きており、ダニーには、少年時代にホテルで霊媒の身になった父親ジャックに追われ、九死に一生を得るも、大人になってから見える世界と、少年時代とは全く異なるが、彼の身辺に純粋で強い正義館を持った超能力少女アブラが現れる。彼女は、能力面では同類ながら、全く相容れない善と悪、光と闇に堕ちたる哀れな魂たちの犯罪を知るのであった。だから、ダニーは小説家志望でホテルの超常現象で堕落して、霊に操られたジャックとその周辺での恐怖体験が相当なトラウマになったと言う事であり、それから変転して、自らの能力「シャイニング」を秘密にして、平穏無事に生きている事、つまり、既に余生を安んじている事が、直情で純粋な少女アブラとの出逢いによって、力を持てるにして、それを行使しない悪、に堕ちてしまうのである。
つまり、ダニーには、利己的な個人主義があるが、それを責める事は、常人はいざ知らず、アブラにすら出来ない。ただ、アブラは自身の正義を眼前で貫き、それが、ダニーの心を締め付けるだけである。
街の暮らしは平穏無事であるが、シャイニングの素養のある子らは、多くが行方不明となり、その背後には恐るべき異能者集団が居り、それを率いるのは、ローズという魅惑的な魔女のような女性である。超能力を持ちながら、野心を持たず家族と共に普通に暮らすも、その闘争を避けなかったのがアブラであり、人とは愛や感情の絆によって結び付くのであって、ローズの闇のグループが異能によって徒党を組んでいるのは、如何にも悪徳の匂いがする。されど、彼らには彼らなりの仲間意識があり、ローズとクロウは良い仲のようなのだが、それも悪徳によって、自我を保つ二面性に過ぎないのではないか。
この善悪の必死の衝突と闘争というのは、不死の命を持った異能者集団に対する、人間の挑戦でもある。このアブラという勇敢な少女と、悪のグループに対して、ダニーは彼ら異能者を善も悪も統合された存在として見ており、つまり、最初は事件に巻き込まれる事を恐れる余り、属人的に彼らを把握するのではなく、自身の平穏を脅かす脅威として、中立的な立場にあったという事であろう。だから、彼がアブラに心を開くと言う事は、戦端の中心に居る人なのだから、必然的に参戦を辞さないと言う事になる。これは、彼の面目躍如という処である。
そして、一作目となる映画「シャイニング」のゆかりの人物や場所が現れ、これは非常に面白いと思う。だが、オーバールックホテルは、かつての惨劇の場にして、トラウマの源ともなったダニーの因縁深い場所であるから、そこを決戦の場に選ぶと言う事は、亡霊たちにとっては、自分達の悪巧みが破れた、敗残の地でのリターンマッチという事になる。これは中々粋な演出にして、敵味方に分かれて終われぬ戦争を続ける愚かさは、比肩するものは無いが、生命の生と死のサイクルから零れる事というのは、苦難と孤独が続くと言う事でもある。
シャイニングの最強の能力者にして、ローズら悪への武闘派でもあるアブラは、彼女らと高度な心理戦と能力戦を繰り広げるが、悪徳の妖しげな魅力と、超能力によって投影される夜空を飛んで舞ったり、相手の真髄を見極める駆け引きというのは、最早、双方の戦いでもある。選ばれし者同士でこそ、引き合い、探り合う、万華鏡のようなイリュージョンは、虚と実との境界を溶かし、一つにする。
特殊能力とはいえ、人間社会においては、普通の人と同じように生きており、ダニーには、少年時代にホテルで霊媒の身になった父親ジャックに追われ、九死に一生を得るも、大人になってから見える世界と、少年時代とは全く異なるが、彼の身辺に純粋で強い正義館を持った超能力少女アブラが現れる。彼女は、能力面では同類ながら、全く相容れない善と悪、光と闇に堕ちたる哀れな魂たちの犯罪を知るのであった。だから、ダニーは小説家志望でホテルの超常現象で堕落して、霊に操られたジャックとその周辺での恐怖体験が相当なトラウマになったと言う事であり、それから変転して、自らの能力「シャイニング」を秘密にして、平穏無事に生きている事、つまり、既に余生を安んじている事が、直情で純粋な少女アブラとの出逢いによって、力を持てるにして、それを行使しない悪、に堕ちてしまうのである。
つまり、ダニーには、利己的な個人主義があるが、それを責める事は、常人はいざ知らず、アブラにすら出来ない。ただ、アブラは自身の正義を眼前で貫き、それが、ダニーの心を締め付けるだけである。
街の暮らしは平穏無事であるが、シャイニングの素養のある子らは、多くが行方不明となり、その背後には恐るべき異能者集団が居り、それを率いるのは、ローズという魅惑的な魔女のような女性である。超能力を持ちながら、野心を持たず家族と共に普通に暮らすも、その闘争を避けなかったのがアブラであり、人とは愛や感情の絆によって結び付くのであって、ローズの闇のグループが異能によって徒党を組んでいるのは、如何にも悪徳の匂いがする。されど、彼らには彼らなりの仲間意識があり、ローズとクロウは良い仲のようなのだが、それも悪徳によって、自我を保つ二面性に過ぎないのではないか。
この善悪の必死の衝突と闘争というのは、不死の命を持った異能者集団に対する、人間の挑戦でもある。このアブラという勇敢な少女と、悪のグループに対して、ダニーは彼ら異能者を善も悪も統合された存在として見ており、つまり、最初は事件に巻き込まれる事を恐れる余り、属人的に彼らを把握するのではなく、自身の平穏を脅かす脅威として、中立的な立場にあったという事であろう。だから、彼がアブラに心を開くと言う事は、戦端の中心に居る人なのだから、必然的に参戦を辞さないと言う事になる。これは、彼の面目躍如という処である。
そして、一作目となる映画「シャイニング」のゆかりの人物や場所が現れ、これは非常に面白いと思う。だが、オーバールックホテルは、かつての惨劇の場にして、トラウマの源ともなったダニーの因縁深い場所であるから、そこを決戦の場に選ぶと言う事は、亡霊たちにとっては、自分達の悪巧みが破れた、敗残の地でのリターンマッチという事になる。これは中々粋な演出にして、敵味方に分かれて終われぬ戦争を続ける愚かさは、比肩するものは無いが、生命の生と死のサイクルから零れる事というのは、苦難と孤独が続くと言う事でもある。
シャイニングの最強の能力者にして、ローズら悪への武闘派でもあるアブラは、彼女らと高度な心理戦と能力戦を繰り広げるが、悪徳の妖しげな魅力と、超能力によって投影される夜空を飛んで舞ったり、相手の真髄を見極める駆け引きというのは、最早、双方の戦いでもある。選ばれし者同士でこそ、引き合い、探り合う、万華鏡のようなイリュージョンは、虚と実との境界を溶かし、一つにする。
高校までの学校教育において、生徒の学力を高め、潜在的な能力を評価する事は出来ていて、実際に優れた人材の卵を育てて、大学、あるいは社会に送り出すという本分は果たしていると思う。
それに対して、出来ていない事というのは、専攻や技能の評価と育成であり、これは、現在の教育においては、大学に入ってから為されている、いわば、実務的な学習と経験である。人材を育成する事は、高い学費を払って学生を教育する事が出来て、企業や社会に送り出せているのだから、現状でもそれなりに機能しているシステムだと言える。
だが、問題は、大学に入学しない、中卒高卒といった学歴の人材であり、それらが、職業における技能、中卒高卒で入社、入門した企業や業界での技やルールを学ぶ事があっても、大学教育における専攻を身に付ける事が出来なかったり、趣味や独学で苦学して得意な分野や科目を開拓出来る事は稀だと思う。専攻が無くとも、政治や時事を語ったり、居酒屋でのとりとめもない談義をする事は出来るだろうが、青春時代に、専攻や技能への視野を開いておく事は、教育の意義、つまりは、大学に行く意味や、その志望先となる人生の航路も全く違ったものになって来よう。
専攻とは、最終的には一つの分野を専門として学習や研究を絞るという事でもあるが、そこに至るまでには、多分野での学習や読書が必要である。子供の学力とは、多くの異なる分野での本を読む事によって、伸びる事があるという。図書館の意義と役割を問い直すと共に、多分野での学習が、適性や資質の開拓、ひいては、個の夢や目標の設定に繋がれば、これに勝る悦びは無いと思う。
これは、読書というのは趣味でも長時間の知的活動でもあり、また、受験勉強のように強制する事や、授業において時間を割く事は出来ないから、個人任せと言う事になる。これを受け身では無く、主体的な取り組みにするには、教員に知的能力があったり、専攻分野がある事を周知する事によって、生徒らに大学教育を経れば、一芸で抜きん出た知識や見識を得られる事を教えるべきであり、つまりは、教員に力があり、才があり、芸がある事によって、学校教育における知的規律を高め、教員の威厳を高める事によって、自発的に学習意欲と動機を高めてもらう事では無いか。
それには、教員が大学で学んだ事、つまりは、自身の専攻分野を授業においてプレゼンテーションをする機会を作ってはどうかと思う。無論、専攻とは相手によって異なり、運よく担当教員の専攻と合致する事もあれば、異なる教員の専攻に強い感銘を受ける事もあろう。学校における全教員を基本としたプレゼンテーションの時間を、授業化してはどうかと思う。それによって、学校教育の到達点には、知的探求心を満たす世界がある事を知り、また、大学教育の入り口、あるいは、それでも卒業と共に就職ならば独学で大成する独自の道も開ける事だろう。
就職氷河期世代には、若者と専攻分野と職場の事情との間に軋轢が生じて、雇用のミスマッチが起きた。つまり、不景気ゆえに、新卒を企業内で育成して、人材として伸ばす事が出来なかくなった事によって、専攻とは異なる仕事に就かざるを得なかったという事である。苦学して、専攻や技能を得た人材が、その本分を発揮出来ないのは、不遇としか言いようがないが、雇用の選択の自由と転職によって、専攻や資質にかなう天職が見つかる事をこそ、求めるべきではないか。
それに対して、出来ていない事というのは、専攻や技能の評価と育成であり、これは、現在の教育においては、大学に入ってから為されている、いわば、実務的な学習と経験である。人材を育成する事は、高い学費を払って学生を教育する事が出来て、企業や社会に送り出せているのだから、現状でもそれなりに機能しているシステムだと言える。
だが、問題は、大学に入学しない、中卒高卒といった学歴の人材であり、それらが、職業における技能、中卒高卒で入社、入門した企業や業界での技やルールを学ぶ事があっても、大学教育における専攻を身に付ける事が出来なかったり、趣味や独学で苦学して得意な分野や科目を開拓出来る事は稀だと思う。専攻が無くとも、政治や時事を語ったり、居酒屋でのとりとめもない談義をする事は出来るだろうが、青春時代に、専攻や技能への視野を開いておく事は、教育の意義、つまりは、大学に行く意味や、その志望先となる人生の航路も全く違ったものになって来よう。
専攻とは、最終的には一つの分野を専門として学習や研究を絞るという事でもあるが、そこに至るまでには、多分野での学習や読書が必要である。子供の学力とは、多くの異なる分野での本を読む事によって、伸びる事があるという。図書館の意義と役割を問い直すと共に、多分野での学習が、適性や資質の開拓、ひいては、個の夢や目標の設定に繋がれば、これに勝る悦びは無いと思う。
これは、読書というのは趣味でも長時間の知的活動でもあり、また、受験勉強のように強制する事や、授業において時間を割く事は出来ないから、個人任せと言う事になる。これを受け身では無く、主体的な取り組みにするには、教員に知的能力があったり、専攻分野がある事を周知する事によって、生徒らに大学教育を経れば、一芸で抜きん出た知識や見識を得られる事を教えるべきであり、つまりは、教員に力があり、才があり、芸がある事によって、学校教育における知的規律を高め、教員の威厳を高める事によって、自発的に学習意欲と動機を高めてもらう事では無いか。
それには、教員が大学で学んだ事、つまりは、自身の専攻分野を授業においてプレゼンテーションをする機会を作ってはどうかと思う。無論、専攻とは相手によって異なり、運よく担当教員の専攻と合致する事もあれば、異なる教員の専攻に強い感銘を受ける事もあろう。学校における全教員を基本としたプレゼンテーションの時間を、授業化してはどうかと思う。それによって、学校教育の到達点には、知的探求心を満たす世界がある事を知り、また、大学教育の入り口、あるいは、それでも卒業と共に就職ならば独学で大成する独自の道も開ける事だろう。
就職氷河期世代には、若者と専攻分野と職場の事情との間に軋轢が生じて、雇用のミスマッチが起きた。つまり、不景気ゆえに、新卒を企業内で育成して、人材として伸ばす事が出来なかくなった事によって、専攻とは異なる仕事に就かざるを得なかったという事である。苦学して、専攻や技能を得た人材が、その本分を発揮出来ないのは、不遇としか言いようがないが、雇用の選択の自由と転職によって、専攻や資質にかなう天職が見つかる事をこそ、求めるべきではないか。