2020年03月
2020年03月31日 08:47
世間に対する見通しの甘さというのは、どんな優れた人であっても、犯す過ちであって、賢者三島由紀夫も、その才能に比して、自身の立ち位置を見誤ったがゆえの失敗であろう。
クーデター騒ぎを起こしたエキセントリックな人物というネガティブな印象があるが、その政治的主張は右翼であったものの、守旧派ではなく、独自の持論を持った改革者であり、先見の明もあったと思う。日本は、個人の才ではなく、集団意識が強く、和をもって尊しと為す。コミュニティの中に個人の幸福や才能を活かす場があり、社会生活が日常の大きな部分を占めるという意味では、その国民生活の基盤たる、企業の雇用形態にも政治的要素があったと思う。古き日本型雇用は、企業にどれだけ尽くしたかという、労働者の功績をコミュニティにどれだか長く属したか、によって評価していると思う。年功序列、終身雇用がそうであろう。
三島というのは、ファシストに行き着く人だと思うが、その思想に影響を与えたのは、東京でのシティライフにも関係があるだろう。東大生との議論など、熱烈な意志を持った人だが、そうした個人主義というのは、国家主義の崩壊した日本において、革新的でモダンに見えるが、IT社会への進展によって、むしろ、個人主義というのは、変化の過渡期にあると思われる。つまり、東京において家族との同居では無い、孤独なシティライフ、家族との生活に時間を割かない書生としての自由勝手なライフスタイルが、いわば、天狗になったような高所に立った、革新的なイデオロギーを生みしめたのではあるまいか。
だから、家族の和が強まるということ、今の世界情勢のように、家族と過ごすことが安全と生命を守ることに繋がり、三世代での生活や遊びの時間を持てることといったものには、正常な社会の最小単位たる家族のコミュニティが生成されるということだと思う。つまり、時にラジカルに走りがちな若者層、次世代といった揺らぎ易い世代を制止して、思想的良心になるのは高齢者世代であろう。だから、そうした、弱者や高齢者といった世代間抗争と、疑似革命といった、政治的魔術を駆使するファシズムが、今の世界の現状、国と社会、家族と自分自身との関係を見直し始めた情勢にあって、到底、復活するような予兆は無い、と自分は思う。
また、三島が自衛隊駐屯地を占拠してクーデター騒ぎを起こした理由、その動機というのは、彼がメディアに基盤を置いた人だからだと思う。メディアとはいわば、政治権力への批判勢力であり、そこでは、業界のルールを守りさえすれば、どんなラジカルな主張でも許されるという傾向にある。つあmり、ジャイアントキリングが常態という、クリエイティブな環境下にあり、三島はその自由な言論の界隈において、容易に敗れることの無い屈強な論客であったから、自分自身で傲慢に為っていったのだと思う。
さらには、メディアには、三島のように極右だけでなく、リベラルや反権力志向の強い極左の論客も居るから、彼はその中でも傑出して強かったこと、自力の人であったことを前提としつつも、自身の立場や権限にとって、都合の良い部分を咀嚼していたのだと思う。戦前の226事件然り、軍部のクーデターというのは悲惨な失敗を遂げている。そして、戦後日本とは戦前とは比較にならない穏健な社会であったから、三島が226事件よりも、遥かに少ない人数でクーデターを決行した、上手く行くと見誤ったのは、一人の人間が人権の名の下に、命を懸ければどんな無茶な主張も通ると考えたからであろう。つまり、極左のように、人命は地球よりも重い、といったような、静かなる過激思想を根拠としたのではないだろうか。
現代とはメディアの時代だから、人権の最大の擁護者であるメディアの中に浸かり切っていたことによって、どんな過激主張も、面白く画期的であれば支持されて来ており、そのメディアというヴァーチャルを通した言論と知的空間での「遊び」を超越して、現実においても同じ言論と態度が罷り通るという勘違いは、ここまで来ると「精神の病理」と言っても過言ではないと思う。何となく、映画「酔いどれ天使」を彷彿とさせる人である。
クーデター騒ぎを起こしたエキセントリックな人物というネガティブな印象があるが、その政治的主張は右翼であったものの、守旧派ではなく、独自の持論を持った改革者であり、先見の明もあったと思う。日本は、個人の才ではなく、集団意識が強く、和をもって尊しと為す。コミュニティの中に個人の幸福や才能を活かす場があり、社会生活が日常の大きな部分を占めるという意味では、その国民生活の基盤たる、企業の雇用形態にも政治的要素があったと思う。古き日本型雇用は、企業にどれだけ尽くしたかという、労働者の功績をコミュニティにどれだか長く属したか、によって評価していると思う。年功序列、終身雇用がそうであろう。
三島というのは、ファシストに行き着く人だと思うが、その思想に影響を与えたのは、東京でのシティライフにも関係があるだろう。東大生との議論など、熱烈な意志を持った人だが、そうした個人主義というのは、国家主義の崩壊した日本において、革新的でモダンに見えるが、IT社会への進展によって、むしろ、個人主義というのは、変化の過渡期にあると思われる。つまり、東京において家族との同居では無い、孤独なシティライフ、家族との生活に時間を割かない書生としての自由勝手なライフスタイルが、いわば、天狗になったような高所に立った、革新的なイデオロギーを生みしめたのではあるまいか。
だから、家族の和が強まるということ、今の世界情勢のように、家族と過ごすことが安全と生命を守ることに繋がり、三世代での生活や遊びの時間を持てることといったものには、正常な社会の最小単位たる家族のコミュニティが生成されるということだと思う。つまり、時にラジカルに走りがちな若者層、次世代といった揺らぎ易い世代を制止して、思想的良心になるのは高齢者世代であろう。だから、そうした、弱者や高齢者といった世代間抗争と、疑似革命といった、政治的魔術を駆使するファシズムが、今の世界の現状、国と社会、家族と自分自身との関係を見直し始めた情勢にあって、到底、復活するような予兆は無い、と自分は思う。
また、三島が自衛隊駐屯地を占拠してクーデター騒ぎを起こした理由、その動機というのは、彼がメディアに基盤を置いた人だからだと思う。メディアとはいわば、政治権力への批判勢力であり、そこでは、業界のルールを守りさえすれば、どんなラジカルな主張でも許されるという傾向にある。つあmり、ジャイアントキリングが常態という、クリエイティブな環境下にあり、三島はその自由な言論の界隈において、容易に敗れることの無い屈強な論客であったから、自分自身で傲慢に為っていったのだと思う。
さらには、メディアには、三島のように極右だけでなく、リベラルや反権力志向の強い極左の論客も居るから、彼はその中でも傑出して強かったこと、自力の人であったことを前提としつつも、自身の立場や権限にとって、都合の良い部分を咀嚼していたのだと思う。戦前の226事件然り、軍部のクーデターというのは悲惨な失敗を遂げている。そして、戦後日本とは戦前とは比較にならない穏健な社会であったから、三島が226事件よりも、遥かに少ない人数でクーデターを決行した、上手く行くと見誤ったのは、一人の人間が人権の名の下に、命を懸ければどんな無茶な主張も通ると考えたからであろう。つまり、極左のように、人命は地球よりも重い、といったような、静かなる過激思想を根拠としたのではないだろうか。
現代とはメディアの時代だから、人権の最大の擁護者であるメディアの中に浸かり切っていたことによって、どんな過激主張も、面白く画期的であれば支持されて来ており、そのメディアというヴァーチャルを通した言論と知的空間での「遊び」を超越して、現実においても同じ言論と態度が罷り通るという勘違いは、ここまで来ると「精神の病理」と言っても過言ではないと思う。何となく、映画「酔いどれ天使」を彷彿とさせる人である。
2020年03月29日 14:50
10年越しの人間群像をテーマとした物語である。主人公の周囲に居る仙台の人々と、意外と密接な関係にあるスター達、そして、その出逢いによって人生を変えたファン、同志、友人達といった、複数の人々の物語を、メインプレイヤーとバイの境界無く、その幾つものピースをバランス良く散りばめている。この大きな物語は、バンドグループの協奏曲のようである。その時間軸は入り混じり、複雑で捉え難いが、そのピースの物語が一つの潮流へと、同じ方向へと揺蕩うように動いて行く。その人と人との和で結ばれた物語が垣間見えるだけで、自分もささやかな幸せを感じられる。そんな珠玉の人間群像がある。
仙台を舞台としており、その地域は不動であり、そこを生活圏として、多数の人々は暮らして居る。駅前は、多くのサラリーマンや学生が足繁く移動するクロスロードであり、佐藤が運命の紗季と出逢ったのは、同じ演奏者の路上ライブを聞きながら、同じように目が合い声を掛けたからである。名も無き演奏者だが、そのライブが、個々の少人数の人々を結び付ける機縁となる。それは、路上という規模からして、10人単位にも満たないだろう。そして、同じ駅のビルの野外モニターには、ボクシングチャンピオンのウィンストン小野の試合が映し出され、それを歩いたり立ち止まったりして傍観する人は仙台駅前だけで百を優に超えるだろう。それが、全国放映を通して、各家庭の国民の目にとまり、スターというものが、彼らが織り成す物語というものが、多くの絆を生んだり、そのきっかけに為っている、という事は出来よう。
ボクシングの試合で、日本人が勝てば多くの人々、ファンを愉しませ、勇気付けるだろう。ウィンストン小野は、数人の同級生に苛められていた名も無き少年を勇気付け、多大なる影響を与えた。それは、現役アスリートにとってのモニター外、つまり、プライべートでの出逢いであり、ここに、映像内でのスターダムが甘美な幻影では無く、リアルに存在する命であり、自分と同価値であると教えられるのである。ウィンストン小野には、試練もあるが、彼が10年に渡ってボクシングを続けられた事は、そうした密接なファンとの協力があり、声援を送る事によって支援と為ったという事であろう。その長い年月の中で、彼もまた家庭を持ち、多くの人々との人生と関わって行く。
この複数の物語が織り成す作品の世界観というのは、どちらかと言うと、平凡な日常を綴ったものの集合体である。それが、協奏曲を奏でる事によって、特別さを醸し出だして、個々の幸福が華やぎをも添えるのである。そのふんぷんたる匂いというものは、生活や競技、仕事のリアリズムの中で具現されるものであり、この幾つものピースの物語に入りたいと思える事は、人として生きているから、同等だと思えるから、湧き上がって来る生来の感情であると思う。そして、スターとは叱咤激励を受けながら、時には、無名の少年の姉より心無い文言のファンレターを受け取りながらも、前に進むしかないのであって、誰が支えてくれる人であるか、と言う事を達観出来れば、ウィンストン小野のように生きる物語は続いて行くと思う。
この社会というのは、物語によって形成されており、主人公とその仲間達というのは、同じ生活圏を共有出来る事によって、その絆から外れると言う事が無い。無数の他人たち、というのを結び付けるのがスターダムであり、その熱量であり誠意であろうが、佐藤という個に過ぎない民間人というのは、駅前での仕事で、アンケートの呼び込みをしていて、ほとんどの人に全く相手にされない事にあるように、何が好きか、誰が価値ある人か、と言う事は、時と場合によって、あるいは、誰かから寄せられる親しみの感情によって変わって来るものなのだ。だから、佐藤にとって、救いとなったのが紗季との絆であるが、その出逢いの機縁となった路上ライブをする青年というのも、同じく愛や絆を信じているのではないか、と言う事である。だから、好きな事だけを追求して居る人、他人はすれ違うものと認識しながら、その笑顔をどれだけ生む事が出来る人こそが、バードとして真価のある人では無いか。更には、佐藤のような民間人には、誰か一人でも笑顔に出来る人が居れば、その始まりの人を実感出来る生を送られる事だろう。
佐藤と紗季の高校時代以来の友人である織田夫妻も、家庭を築いており、彼らは早熟であり、現役よりもう10年経ったが、数人の子供をもうけている。佐藤らはまだ結婚にまでは至って居ないが、このローテーションな愛の物語というのは、その日常性ゆえに、ルーティンへと落とし込まれる。だから、ロマンティックな奇跡であったり、ドラマは生まれて来ないものの、生活を共に過ごせる事そのものが、愛としては低調ではあるものの、日常の中での安らぎや常識的な会話を生むものだろう。文明社会において、人と人を結び付けているものは、ソフィアではあるまいか。スターダムにおいても、メディアの発達した現代においては、それが語られる事、SNSの何処かで文体にされる事によって、当人との絆を感じ合う事が出来る。力を梃子にしている現役の選手であっても、ソフィアがあるから語られる。その入り口はた易いが、それが持続して行き、コミュニティを形成する事から、社会に定着して行く。つまり、競技としてメジャーである事と、選手として一流である事は全くの別次元なのだ。
だが、ウィンストン小野のように、しばしスランプが続いても、選手としてのプライドというものは、人としての矜持にも通じるものがある。つまりは、人として成熟している事が、選手としての意識や自我の根っこに為る、と言う事である。だから、彼を再び世界へと歩ませたのは、その支えが、あらゆる同志を含めて周囲に存在したからであろう。彼は10年前の少年との出逢いをすら忘れておらず、社会の大潮流の中、歴史的には無名であるものの、個の人が物語の大切なピースとなる事、逆転の鍵となる事もあり得るのだ。スターもまた有限なる力の生身の人間ではあるが、それを支える事は、ファンが自身の心のあり処を守る事になる。それは、驕らず、淀まない、士たる資質を持ったウィンストン小野も同様であろう。絆の中で誰もが牽引し合い、また、導かれし者と為って行く。
仙台を舞台としており、その地域は不動であり、そこを生活圏として、多数の人々は暮らして居る。駅前は、多くのサラリーマンや学生が足繁く移動するクロスロードであり、佐藤が運命の紗季と出逢ったのは、同じ演奏者の路上ライブを聞きながら、同じように目が合い声を掛けたからである。名も無き演奏者だが、そのライブが、個々の少人数の人々を結び付ける機縁となる。それは、路上という規模からして、10人単位にも満たないだろう。そして、同じ駅のビルの野外モニターには、ボクシングチャンピオンのウィンストン小野の試合が映し出され、それを歩いたり立ち止まったりして傍観する人は仙台駅前だけで百を優に超えるだろう。それが、全国放映を通して、各家庭の国民の目にとまり、スターというものが、彼らが織り成す物語というものが、多くの絆を生んだり、そのきっかけに為っている、という事は出来よう。
ボクシングの試合で、日本人が勝てば多くの人々、ファンを愉しませ、勇気付けるだろう。ウィンストン小野は、数人の同級生に苛められていた名も無き少年を勇気付け、多大なる影響を与えた。それは、現役アスリートにとってのモニター外、つまり、プライべートでの出逢いであり、ここに、映像内でのスターダムが甘美な幻影では無く、リアルに存在する命であり、自分と同価値であると教えられるのである。ウィンストン小野には、試練もあるが、彼が10年に渡ってボクシングを続けられた事は、そうした密接なファンとの協力があり、声援を送る事によって支援と為ったという事であろう。その長い年月の中で、彼もまた家庭を持ち、多くの人々との人生と関わって行く。
この複数の物語が織り成す作品の世界観というのは、どちらかと言うと、平凡な日常を綴ったものの集合体である。それが、協奏曲を奏でる事によって、特別さを醸し出だして、個々の幸福が華やぎをも添えるのである。そのふんぷんたる匂いというものは、生活や競技、仕事のリアリズムの中で具現されるものであり、この幾つものピースの物語に入りたいと思える事は、人として生きているから、同等だと思えるから、湧き上がって来る生来の感情であると思う。そして、スターとは叱咤激励を受けながら、時には、無名の少年の姉より心無い文言のファンレターを受け取りながらも、前に進むしかないのであって、誰が支えてくれる人であるか、と言う事を達観出来れば、ウィンストン小野のように生きる物語は続いて行くと思う。
この社会というのは、物語によって形成されており、主人公とその仲間達というのは、同じ生活圏を共有出来る事によって、その絆から外れると言う事が無い。無数の他人たち、というのを結び付けるのがスターダムであり、その熱量であり誠意であろうが、佐藤という個に過ぎない民間人というのは、駅前での仕事で、アンケートの呼び込みをしていて、ほとんどの人に全く相手にされない事にあるように、何が好きか、誰が価値ある人か、と言う事は、時と場合によって、あるいは、誰かから寄せられる親しみの感情によって変わって来るものなのだ。だから、佐藤にとって、救いとなったのが紗季との絆であるが、その出逢いの機縁となった路上ライブをする青年というのも、同じく愛や絆を信じているのではないか、と言う事である。だから、好きな事だけを追求して居る人、他人はすれ違うものと認識しながら、その笑顔をどれだけ生む事が出来る人こそが、バードとして真価のある人では無いか。更には、佐藤のような民間人には、誰か一人でも笑顔に出来る人が居れば、その始まりの人を実感出来る生を送られる事だろう。
佐藤と紗季の高校時代以来の友人である織田夫妻も、家庭を築いており、彼らは早熟であり、現役よりもう10年経ったが、数人の子供をもうけている。佐藤らはまだ結婚にまでは至って居ないが、このローテーションな愛の物語というのは、その日常性ゆえに、ルーティンへと落とし込まれる。だから、ロマンティックな奇跡であったり、ドラマは生まれて来ないものの、生活を共に過ごせる事そのものが、愛としては低調ではあるものの、日常の中での安らぎや常識的な会話を生むものだろう。文明社会において、人と人を結び付けているものは、ソフィアではあるまいか。スターダムにおいても、メディアの発達した現代においては、それが語られる事、SNSの何処かで文体にされる事によって、当人との絆を感じ合う事が出来る。力を梃子にしている現役の選手であっても、ソフィアがあるから語られる。その入り口はた易いが、それが持続して行き、コミュニティを形成する事から、社会に定着して行く。つまり、競技としてメジャーである事と、選手として一流である事は全くの別次元なのだ。
だが、ウィンストン小野のように、しばしスランプが続いても、選手としてのプライドというものは、人としての矜持にも通じるものがある。つまりは、人として成熟している事が、選手としての意識や自我の根っこに為る、と言う事である。だから、彼を再び世界へと歩ませたのは、その支えが、あらゆる同志を含めて周囲に存在したからであろう。彼は10年前の少年との出逢いをすら忘れておらず、社会の大潮流の中、歴史的には無名であるものの、個の人が物語の大切なピースとなる事、逆転の鍵となる事もあり得るのだ。スターもまた有限なる力の生身の人間ではあるが、それを支える事は、ファンが自身の心のあり処を守る事になる。それは、驕らず、淀まない、士たる資質を持ったウィンストン小野も同様であろう。絆の中で誰もが牽引し合い、また、導かれし者と為って行く。
成功経験も国家の運命を狂わせることがある。戦艦大和は、空母と航空機による飛行戦が主流となりつつある太平洋戦争において、時代遅れの産物であり、それは、日露戦争においてバルチック艦隊を破る快挙を遂げ、艦隊決戦構想での大成功の余韻に浸り、軍部も国民も傲慢になった結果であった。数学の天才櫂直は、大和の欠陥を見抜いたが、それは、実戦においては大して物の役に立たない上に、軍国の象徴たる大和の過大な威厳という、矛盾と欠陥を抱えた金食い虫であったからである。戦前においてすら、古き明治を引き摺った、いわば「超戦前の遺物」と言えるのが、この戦艦の本質であった。物語は、大和が米機動部隊に撃沈される処から始まる。
これは、戦争讃美の映画では無く、濃淡のグレーに近い反戦映画である。それも、戦艦大和が戦力的需要によって建造されたのではなく、高度な政治的意図によるものであった、という驚くべき深謀が秘められている。だが、大和が建造される理由というのが、著しく戦力的、コスト的に膨大であり、日本の国力を傾けるほどの事業であった。だが、事業もそこに国家の威信や意志というものが重なれば、実行に移されてしまう。大和は戦前だからこそ建造されたもので、世界最強最大の戦艦を保有するという事が、軍部や国民の虚栄心を大いに煽る事は明白な事であろう。
主人公櫂は数学の天才で、変わり者として通っているが、気骨があり、また勇敢でもある。それは、蛮勇と言う事は無いが、料亭で出くわした英雄軍人山本五十六に対して、軍人は大嫌いだ、と言い放つ。それは、軍隊を畏怖して、それから排斥される事を恐れていては言えない直言であるし、取り方によっては、自分は凡百な軍人とは違うから、異なる仕事をさせてくれ、という主張のようにも取れる。いずれにしても、戦前は頭の堅い上に、自分達は正義だと豪語して、悪徳を認めない偽善者が多かっただろうから、櫂の直言の勇敢さと、宿命である大和建造計画の反対というのは、彼のライフワークであり、ナルシシズムの正義に陥らない変わり者こそが、後世から見た正義を具現していた、というのは、面白い人間の妙でもある。
映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」では、英雄の子息らの物語であったが、本作は父親達の物語である。これは、大和が軍国の象徴であり、文明社会が経済的、文化的な偉大な建造物、皇帝の権力の象徴である紫禁城であったり、万里の長城であったり、とにかく、時の文明に実力が無ければ建造し得ない強大な戦艦というのは、現場での必要性では無く、後方、つまり、国家国民の士気、あるいは虚栄心を反映するものとして作られたのである。実質的には砂上の楼閣に近い。楚漢戦争の将韓信の「狡兎死して良狗烹らる」において、権力者の衝動というものが、如何に不当であるかは分かるが、大和はその日本としての名は冠する事も、世界最大級も実際には張子の虎であったと言う事も、その建造の為に懸る負担を考えれば、何と阿呆なものであるかは、明白である。
戦前日本とは、覇権国が持つべき「寛容性」とは程遠い、圧制国家であった。それは、皇国思想において、イデオロギーの洗脳と拡散によって、歪な日本人、つまり、万民を皇国の兵隊とするという考え方によるもので、軍人の勘違いというのは、過激なイデオロギーを学び、記憶する事によって、自分と言う人間が大きく偉く為った、と考える事であり、まさに、数学インテリたる櫂が衝突する事を禁じ得ない相手というのは、そうした当代における多数派である軍国主義であった。だが、櫂が暴いた大和の偽善というのも、大和の虚飾を拭い去れば、その周辺者たる凡百の軍人のイデオロギーの虚飾も吹っ飛ぶのである。
だが、ここで彼が気付いたのは、本当の敵というのは、そうした、思想、人格的に弱い「軍国の子ら」では無く、軍国思想を本当に理解して、またそれを具現する「軍国の父親達」であり、それは、具体的には大和の設計者であり軍の有力者でもある平山忠道であった。彼は、大和を巡る会議紛糾する中で、若手の擁護派の軍人が、櫂の数学による理論的な大和の欠陥への攻撃を受けて沈んでも、泰然自若を保ち、堂々たる態度を取っている。つまり、高潔の士こそが、そうした、幼稚な思想軍人らを率いているものの、最高の判断力と人格を有して、時代を牽引している、という事ではあるまいか。だが、同時に、そうした「本当のライバル」こそが、こちらからでも対話の余地がある、知性と賢明さを持ち合わせた大人と言う事なのだ。
山本五十六は言うまでもなき英雄であるが、平山もまた、賢者の知恵と先見の明を持った相当な役者である。こうした、英雄人傑が揃った素晴らしい組織たる戦前日本において、それを戦争という他国との殺戮と暴力の応酬によって、相互に確証的な破壊をもたらす最後のカードを切る事の如何に馬鹿馬鹿しい事であろうか。戦艦大和も、時代の象徴と言う意味では、また、実戦には向かず、むしろ代わりに巨大空母を建造した方が良かったという意味でも、戦わせてはいけない脆弱なアイコンに過ぎないと言う事ではあるまいか。そうした、後世に残して行くべき、その語り部と為って行くべき大人達が歴史に名を遺す事だけを考えるのでは無く、愛する人や、未来ある次世代の為にも、国家の現実や生活の防衛、継承といった、生きる事こそが、国家の持続性と存続の責任において要される事ではあるまいか。
これは、戦争讃美の映画では無く、濃淡のグレーに近い反戦映画である。それも、戦艦大和が戦力的需要によって建造されたのではなく、高度な政治的意図によるものであった、という驚くべき深謀が秘められている。だが、大和が建造される理由というのが、著しく戦力的、コスト的に膨大であり、日本の国力を傾けるほどの事業であった。だが、事業もそこに国家の威信や意志というものが重なれば、実行に移されてしまう。大和は戦前だからこそ建造されたもので、世界最強最大の戦艦を保有するという事が、軍部や国民の虚栄心を大いに煽る事は明白な事であろう。
主人公櫂は数学の天才で、変わり者として通っているが、気骨があり、また勇敢でもある。それは、蛮勇と言う事は無いが、料亭で出くわした英雄軍人山本五十六に対して、軍人は大嫌いだ、と言い放つ。それは、軍隊を畏怖して、それから排斥される事を恐れていては言えない直言であるし、取り方によっては、自分は凡百な軍人とは違うから、異なる仕事をさせてくれ、という主張のようにも取れる。いずれにしても、戦前は頭の堅い上に、自分達は正義だと豪語して、悪徳を認めない偽善者が多かっただろうから、櫂の直言の勇敢さと、宿命である大和建造計画の反対というのは、彼のライフワークであり、ナルシシズムの正義に陥らない変わり者こそが、後世から見た正義を具現していた、というのは、面白い人間の妙でもある。
映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」では、英雄の子息らの物語であったが、本作は父親達の物語である。これは、大和が軍国の象徴であり、文明社会が経済的、文化的な偉大な建造物、皇帝の権力の象徴である紫禁城であったり、万里の長城であったり、とにかく、時の文明に実力が無ければ建造し得ない強大な戦艦というのは、現場での必要性では無く、後方、つまり、国家国民の士気、あるいは虚栄心を反映するものとして作られたのである。実質的には砂上の楼閣に近い。楚漢戦争の将韓信の「狡兎死して良狗烹らる」において、権力者の衝動というものが、如何に不当であるかは分かるが、大和はその日本としての名は冠する事も、世界最大級も実際には張子の虎であったと言う事も、その建造の為に懸る負担を考えれば、何と阿呆なものであるかは、明白である。
戦前日本とは、覇権国が持つべき「寛容性」とは程遠い、圧制国家であった。それは、皇国思想において、イデオロギーの洗脳と拡散によって、歪な日本人、つまり、万民を皇国の兵隊とするという考え方によるもので、軍人の勘違いというのは、過激なイデオロギーを学び、記憶する事によって、自分と言う人間が大きく偉く為った、と考える事であり、まさに、数学インテリたる櫂が衝突する事を禁じ得ない相手というのは、そうした当代における多数派である軍国主義であった。だが、櫂が暴いた大和の偽善というのも、大和の虚飾を拭い去れば、その周辺者たる凡百の軍人のイデオロギーの虚飾も吹っ飛ぶのである。
だが、ここで彼が気付いたのは、本当の敵というのは、そうした、思想、人格的に弱い「軍国の子ら」では無く、軍国思想を本当に理解して、またそれを具現する「軍国の父親達」であり、それは、具体的には大和の設計者であり軍の有力者でもある平山忠道であった。彼は、大和を巡る会議紛糾する中で、若手の擁護派の軍人が、櫂の数学による理論的な大和の欠陥への攻撃を受けて沈んでも、泰然自若を保ち、堂々たる態度を取っている。つまり、高潔の士こそが、そうした、幼稚な思想軍人らを率いているものの、最高の判断力と人格を有して、時代を牽引している、という事ではあるまいか。だが、同時に、そうした「本当のライバル」こそが、こちらからでも対話の余地がある、知性と賢明さを持ち合わせた大人と言う事なのだ。
山本五十六は言うまでもなき英雄であるが、平山もまた、賢者の知恵と先見の明を持った相当な役者である。こうした、英雄人傑が揃った素晴らしい組織たる戦前日本において、それを戦争という他国との殺戮と暴力の応酬によって、相互に確証的な破壊をもたらす最後のカードを切る事の如何に馬鹿馬鹿しい事であろうか。戦艦大和も、時代の象徴と言う意味では、また、実戦には向かず、むしろ代わりに巨大空母を建造した方が良かったという意味でも、戦わせてはいけない脆弱なアイコンに過ぎないと言う事ではあるまいか。そうした、後世に残して行くべき、その語り部と為って行くべき大人達が歴史に名を遺す事だけを考えるのでは無く、愛する人や、未来ある次世代の為にも、国家の現実や生活の防衛、継承といった、生きる事こそが、国家の持続性と存続の責任において要される事ではあるまいか。
2020年03月28日 14:57
新型コロナウイルスによる、消費意欲の衰えや経済活動への実際的被害、大恐慌の原因と為り得る、人心と社会的資本行為への負の経済効果が危惧されている。
これに対して、日本政府は国民への現金支給など、前例のない経済支援を打ち出している。これは、安倍首相の慧眼ではあろうが、これにはタイミングの見極めが重要だと思う。人心が冷え切っているのであれば、外出や移動自粛が発令されている、ロックダウンが議論されている段階での支給というのは、何ら意味を為さない。外出や消費活動を含めた安全が保障された環境における積極性が重視されるからである。だから、これは、ある程度、日本国内で、終息に向けた感染の縮小が見えた段階での一斉支給とすべきではないか。
また、金額はメインの支援よりも少なく為ろうが、終息宣言をした後での、敗戦感情からの解放と忘却において、外食における高級店での会食を目的としたレストラン商品券の配布が必要では無いか。前述したように、終戦というものには犠牲が付き物であり、それを克服するには、会食を通した犠牲者への追慕であったり、一族での語らいによって、故人の人生を総括する社会的行為が重要である。
また、普段は、ファミレスやファストフードなどの一般的な国民食を愛用している多数の国民が、高級店で食事をする機会というのは、記憶に残るであろうし、一族で追慕する儀礼的なムードメイクには相応しいだろう。沈滞した感情の気分転換に為り、敗戦から終戦への心理的なランドマークの葬送曲となるであろう。これは、高級店での一般的な会計からして、パンデミック時のメインの支給よりも少額で問題は無い。数千円で済む話でおろう。だが、政策というものは、その威力を行使する意義とタイミングによってその経済効果は異なって来ると思う。「将は心を攻めるべく」、というのは、戦場のリアルタイムのみの視点では無く、軍政、つまり平時の理論にも通じると思う。
これに対して、日本政府は国民への現金支給など、前例のない経済支援を打ち出している。これは、安倍首相の慧眼ではあろうが、これにはタイミングの見極めが重要だと思う。人心が冷え切っているのであれば、外出や移動自粛が発令されている、ロックダウンが議論されている段階での支給というのは、何ら意味を為さない。外出や消費活動を含めた安全が保障された環境における積極性が重視されるからである。だから、これは、ある程度、日本国内で、終息に向けた感染の縮小が見えた段階での一斉支給とすべきではないか。
また、金額はメインの支援よりも少なく為ろうが、終息宣言をした後での、敗戦感情からの解放と忘却において、外食における高級店での会食を目的としたレストラン商品券の配布が必要では無いか。前述したように、終戦というものには犠牲が付き物であり、それを克服するには、会食を通した犠牲者への追慕であったり、一族での語らいによって、故人の人生を総括する社会的行為が重要である。
また、普段は、ファミレスやファストフードなどの一般的な国民食を愛用している多数の国民が、高級店で食事をする機会というのは、記憶に残るであろうし、一族で追慕する儀礼的なムードメイクには相応しいだろう。沈滞した感情の気分転換に為り、敗戦から終戦への心理的なランドマークの葬送曲となるであろう。これは、高級店での一般的な会計からして、パンデミック時のメインの支給よりも少額で問題は無い。数千円で済む話でおろう。だが、政策というものは、その威力を行使する意義とタイミングによってその経済効果は異なって来ると思う。「将は心を攻めるべく」、というのは、戦場のリアルタイムのみの視点では無く、軍政、つまり平時の理論にも通じると思う。
新型コロナウイルスの感染拡大から、パンデミックへの傾きというものは、今だ楽観を許さない。「これは戦時である」と大きな被害を蒙り、感染者を出している各国首脳部は口を揃えているが、これが、大恐慌のきっかけと為り兼ねない現状を楽観視する事は出来ず、また、死者の多数は高齢者である事から、労働者として戦力外で社会福祉のフリーライダーであるから、経済的には被害が少ない、というのは、社会主義的な経済観ではあるまいか。
これが戦争であるならば、世界規模でのパンデミックである事から、その戦地と為っている多くは欧米諸国であり、つまりは、移民や経済などの問題を抱えた先進国が多い。だが、それらの国々は資本主義体制を敷いているものの、人間として外出や接触を断つというのは、いささか原始的な手法ではある。これは、社会的隔離による方法でしか防ぎ得ず、また、普通の人々がウイルスに怯えて暮らすディストピアの具現でもある。
だが、戦争とはそうした社会的喪失感や無力さを悟るものであるならば、今回の大戦における現場というのは、戦闘行為を交えているわけでは無いから軍隊では無く、また、隔離によって逃げの物語しかない一般国民でも無い。この戦功というものは、第一線で政治的判断や隔離などの無辜の一般国民への政策提唱を行い、また情勢の見極めを行っている政治家であり、官僚であろう。また、戦場の最も激しい一局面と言う意味では、病院などの崩壊リスクを抱える医療機関こそが、最もリアルな患者や感染による犠牲を語らう事の出来る現場だと思う。
戦争とは、その甚大な被害、人命のみならず、社会的、文化的、経済的損失において、次世代の夢に瑕疵を付けて、深い迷いを抱えたロストジェネレーションを誕生させしめるものである。これは、一族の祖父母といった高齢者や、独り身の弱き老人などもそうであろう。これは、終戦までにどれほどの「戦死者」が出るかは分からない大きな国際問題である。戦争がもたらす爪痕、惨禍というものは、国家の敗戦という社会全体の自信や幸福感の瓦解をもたらすものであり、そのダメージが一挙に人心を破壊させしめれば、戦争を知らない次世代に大きな打撃を与え、トラウマや精神疾患を残すだろう。
感染した家族の高齢者であったり、または、重篤患者においては、徹底した隔離をすると共に、生前葬といった事前的な儀礼行為をすべきでは無いか。または、重篤患者となった高齢者家族などが、生前に祖父母の遺品や記憶を保存して、後々、一族での会食の機会を準備して行くなど、死せる先達を語らう機会を残して行く事である。敗戦というものは、それが宣言されても、多少の時間があっても、容易に癒される国民の心の瑕疵では無い。それが、一気に解放される事によって、より大きく人心を荒廃させるものであろう。
必要なのは、感染した高齢者の少なからずが、世界的に戦死している事から、その遺族へのケアや、メディアなどの記憶媒体への保存といった、「戦前と戦後」を繋ぎ、歴史的、精神的断絶を防ぐ事であり、精神の隙間に現れ得る絶望の廃墟を消し去る事では無いか。間違っても、退廃的な理由から、合理的な数値的死であるなどと、諦観しない事ではあるまいか。
これが戦争であるならば、世界規模でのパンデミックである事から、その戦地と為っている多くは欧米諸国であり、つまりは、移民や経済などの問題を抱えた先進国が多い。だが、それらの国々は資本主義体制を敷いているものの、人間として外出や接触を断つというのは、いささか原始的な手法ではある。これは、社会的隔離による方法でしか防ぎ得ず、また、普通の人々がウイルスに怯えて暮らすディストピアの具現でもある。
だが、戦争とはそうした社会的喪失感や無力さを悟るものであるならば、今回の大戦における現場というのは、戦闘行為を交えているわけでは無いから軍隊では無く、また、隔離によって逃げの物語しかない一般国民でも無い。この戦功というものは、第一線で政治的判断や隔離などの無辜の一般国民への政策提唱を行い、また情勢の見極めを行っている政治家であり、官僚であろう。また、戦場の最も激しい一局面と言う意味では、病院などの崩壊リスクを抱える医療機関こそが、最もリアルな患者や感染による犠牲を語らう事の出来る現場だと思う。
戦争とは、その甚大な被害、人命のみならず、社会的、文化的、経済的損失において、次世代の夢に瑕疵を付けて、深い迷いを抱えたロストジェネレーションを誕生させしめるものである。これは、一族の祖父母といった高齢者や、独り身の弱き老人などもそうであろう。これは、終戦までにどれほどの「戦死者」が出るかは分からない大きな国際問題である。戦争がもたらす爪痕、惨禍というものは、国家の敗戦という社会全体の自信や幸福感の瓦解をもたらすものであり、そのダメージが一挙に人心を破壊させしめれば、戦争を知らない次世代に大きな打撃を与え、トラウマや精神疾患を残すだろう。
感染した家族の高齢者であったり、または、重篤患者においては、徹底した隔離をすると共に、生前葬といった事前的な儀礼行為をすべきでは無いか。または、重篤患者となった高齢者家族などが、生前に祖父母の遺品や記憶を保存して、後々、一族での会食の機会を準備して行くなど、死せる先達を語らう機会を残して行く事である。敗戦というものは、それが宣言されても、多少の時間があっても、容易に癒される国民の心の瑕疵では無い。それが、一気に解放される事によって、より大きく人心を荒廃させるものであろう。
必要なのは、感染した高齢者の少なからずが、世界的に戦死している事から、その遺族へのケアや、メディアなどの記憶媒体への保存といった、「戦前と戦後」を繋ぎ、歴史的、精神的断絶を防ぐ事であり、精神の隙間に現れ得る絶望の廃墟を消し去る事では無いか。間違っても、退廃的な理由から、合理的な数値的死であるなどと、諦観しない事ではあるまいか。