2021年11月
2021年11月28日 15:05
エンディングは明らか、では無い、10年越しの恋物語り。日本とイタリアのフィレンツェを舞台にした2人の男女は、すれ違いもあり、また、純愛のようでもある。フィレンツェの南風のせいか、順正とあおいは、幾度も愛を交わした間柄で、再会を約束しつつも、離れ離れになって居たが、まるで、初対面の人同士のような初々しさを放つ。絆が安定して居る時は、恋人とは空気のようなもので、居てくれて自然と言う馴染みと言う事だが、居なくなって、その真価に気付くかも知れない。いずれにしても、フィレンツェに住まう事は、旅人の気分にして、人生の大旅行を強調して、2人の恋物語りをミクロに、冷静に見つめさせるものだろう。目の前に、かつて熱愛した人が居て、暮らしを送っている。これとどのように共存するかは、冷静であり、また、情熱を煽られるものであろう。
主たる舞台はイタリアであるが、日本との縁も深いものがある。そして、2人はタイプが根本的に異なり、あおいは常に変化して行き、フィレンツェすらホームランドのように振る舞うから、古い約束と相反し、どこまで覚えているから、女性の性もあり定かには成らない。対する、順正は、変わらざる出来人であり、約束に準じて生きており、新しいものに強く惹き付けられて居る。日本人らしい男性であり、その風格からフィレンツェにて才能を発揮する様は、サムライのようでもある。
つまり、順正は傷んだ絵画を修復するアトリエにて働きながら、様々な試練に挑んでおり、愛は自由だから、彼の行動はフィレンツェのあらゆる社会に触れる好奇心は、オールドスクールの彼からではなく、社交的で活発なあおいや、順正の、今の同居人、である、芽実における若い留学生活を送る様々な愛憎劇からの贈り物、であり、彼自身が若さゆえに自信に天賦の才能、とまで驕らずとも、フィレンツェにて生きて行ける希望には至って居るのだと思う。
順正は、アーティストの世界からすれば、素材である。アトリエのオーナーは、彼にヌードデッサンを言い付け、その肉体描写をするが、素材には良し悪しがあるから、繊細なアーティストには、素材が出来合いのものか、自然体でオリジナリティを有するものかは、分かるものだと思う。オーナーもまた、順正に強く惹き付けられた1人であり、このカリスマを中心とした、クロスロードの模様は、雲は晴れ渡りレインボーのような明るさを放ち、主人公にとって何が最も大切な愛する人かを、忘れさせる。だから、同居人を抱える順正と、あおいとの関係性は微妙な距離感があり、その矛盾をも忘れさせるのは、異国情緒に希望が人生を覆うヴェールに包み込み、マクロな希望がミクロに恋愛を集約しているからでは無いか。
つまり、順正はアトリエでのキャリアも明るく、人生が上手く行く潮流に乗り切った強者に思える。だから、恋愛の苦難や葛藤も、本来なら愛憎劇の暗さを落とし、外にトラブルを起こす事も無く、冷静と情熱、と言う個の中で対話し、解決されるミクロ化して行く事に成功するのである。
このタイトルのネーミングは誠に的を射て居て、冷静と情熱は、2人にフィレンツェと言う同都市に住まい、30歳になるべき時に果たす約束、もあり、互いを強く意識しながら、それぞれにベストを尽くして生きて行くには、自分自身を巧みにコントロールせねばならない、と言うアンバランスを絵画のように描写する心理であろうか。
また、日本で19歳で出逢いがあったが、クールに変化して行くあおいと、何処か柳のように自然体の順正とは、日本人として価値観を生来的に持つよりも、流される葉のように、後天的に芽生えて行く経験値によって育つのだと思う。つまり、敢えて物語りを分かり易くするなら、日本時代の主人公を受け入れる側、評する側としてあおいにスポットする。そして、フィレンツェ時代を、異国の人生や価値観に挑戦する異なるサムライとしての順正にスポットを転じるトリックを視点としたい。あおいは、柳腰と言うか流れるような適応力があるから、敢えて、挑戦する強い個性は必要無い、と言う事でもある。
ともあれ、約束は果たされるのか、様々な事件もあって激動のフィレンツェ暮らしにして、日伊間でのコミュニケーションが成り立って居るから、何が起きるかは分からない。そして、天からの視点として、奇跡が物語りに起きても、約束の時、約束の地、は不動であったとしても、約束の人、は、人の情けや譲歩の移ろい易さからして、愛する人の心を掴む人との奇跡が最も難しく、例え、10年越しだったとしても、プロセスの苦難を報いるには、結果がどうあれば良かったのか。いずれにしても、奇跡の人、が最も、世界の中心にあるとしても、手に入れ難いのだと思う。
2021年11月26日 18:55
前作同様、犬が飼い主のために転生して、めぐり逢う事で、互いの人生を好転させる幸運な人々のストーリーであり、ベイリーと言う名犬は転生してもイーサンの事を、願い事を、聖人のように覚えており、その通りに行動する。人の一生は長いが、少年時代から初代ベイリーの飼い主となり、苦楽を共に、ある時は離れ離れにも、想い続けて来た。ベイリーは転生して、地の果てまでもイーサンを慕い追いかけて来る。人であるさしものイーサンも高齢に成って行く。それによって、ベイリーの永久にすら想える忠犬ぶりをいつまでも有難がるから、イーサンも愛に素直な犬のような紳士である。本名ベイリー、こと、愛称ボスドッグは、いつまで転生を続けるのだろうか。
イーサンを少年時代から知って居る。ストーリーにおいて重要なのは、ベイリーは誰の為に、転生し続けるかと言う事で、永久に生まれ変わるならば、人知を超えた神族と言うべきか、大げさな存在に成るだろう。だが、ベイリーと言う愛すべき忠犬の、もう片方には、イーサンと言う飼い主が居て、彼は平凡な男だから、人として生きているだけで、ここにベイリーが彼との友情を貫く事で、二人の人生にミラクルが集約されている。
さしものイーサンも年を取るから、ここに、ベイリーが奇跡によって転生して行くストーリーにも、安寧の地が探されるか、もしかしたら、ベイリーが駆け抜けて行く黄金の草の海とは、イーサンの農園の麦畑で捕まえ、捕まえられる絆が、生来、あっただけかも知れない。つまり、理想郷とは、繁栄を尽くすだけで無く、身近な生活の場にあるかも知れず、また、孤独を埋める、刹那的でない運命を引き寄せる幸運の忠犬ベイリーは、イーサンにとってキャスティング・ボートを握って居るのが、基本的な関係性にして、深みである。
だが、一方で、ベイリーはイーサンに対する主従の情を、限りなくフラットにしようとして居るだけで無く、犬としての本分を忘れず、長短もミスもある愛犬として生きている事で、自らの天と地を明け渡し続けているに過ぎない。
つまり、犬とは飼い主である人間があってこそ、ベイリーにはイーサンと言う永久の主人が居るから、ベイリーが北米大陸を基盤として、目まぐるしい多彩な人生を繰り広げながら、必ず、約束の犬、であり、また、約束の人、が舞台裏に控えていて、この絆の強さが、あわや、新たな転生で、イーサンでは無い、酷い主人に当たっても、希望を諦めない不屈の意志のエンジンに成り続けているのでは無いか。
ベイリーの導きによって、イーサンは幸福な人生を手に入れたから、家族が出来て、人生は次なるステージへと、どんどん舵を切って行く。二作目となる本作では、イーサンの妻となった女性の連れ子であったグロリアが成長して、結婚し娘であるCJとの平穏な日々から、ストーリーは始まる。不運にも、グロリアは妊娠8か月で若き夫を亡くして居て、そのショックから非常に自己中心的で、父母、つまり、イーサン夫妻と言う唯一の身内すら信じられないで居る。
この母性無きグロリアが、母子家庭でCJを育てて行く事態を重く見たイーサンが、ベイリーに次の犬生では孫娘であるCJを守るように、願いを託す。だが、ベイリーはあくまで、転生を繰り返すも神々しいイヌガミの出で立ちでは無く、イーサンへの友情が生んで居る奇跡の後光が指す忠犬であるから、徐々に少女から女性に成長して行くCJの元でも、コメディタッチのドラマを展開してくれる。特に愛犬家とか、動物に対して愛や友情を感じる、人間に対して好影響のあるストーリーだと思うし、犬にも通じる人間の知性を超える友情ありき、かも知れない。
2021年11月24日 02:48
サンフランシスコ沖にて、カジノを擁するタイタニック号のような豪華客船に、ルパン一味は侵入する。莫大な富が稼がれ、そのアガりのドル大金庫を目当てにしたかのような華麗なる盗みであったが、真実こそが、本当の財宝であった。つまり、豪華客船の裏の顔か、その彼方の深海に眠る金塊か、それとも、更なる、価値にて凌ぐ最後の財宝とは何なのか。アメリカの光の部分と言う意味では、財宝を暴くトレジャー・ハンティングは盗賊稼業なるも大成功として、花形のビジネスにして、世界の金脈、ダンジョンを探検する、カジノに近い生業では無いだろうか。果たして、マフィア組織シークレットセブンが目的とする金塊を超える価値、秘密とは何だろうか。
非常に勇敢なストーリーである。マフィアとの死闘には終わりが無いから、地の果てまでも追い掛けて来る、死の恐怖こそが、歯向かう事を躊躇わせる、必ず殺される事を宣告し、実際に有言実行する事が、マフィアのやり方なのだ。だから、この闇に真正面から挑むルパン一味の勇敢さ、これは、映画「Brother」の精強なヤクザで鳴る山本組ですら敵対し兼ねた事を思えば、ダウンタウンの愚連隊を一人で撃退する銭形警部の共闘があるとはいえ、一筋縄では行かないだろう事は目に見えて居る。
だから、本作には、第三勢力として、アメリカの光を演出して来たCIAも参戦するが、はっきり言って、二丁マシンガンのアンディに象徴される、マシンガン・ケリーによる火力量が凄いので、ルパンのマシンガン・トークの冴えを、アンフェアな物量、組織力によって潰しが凄まじい。最も、これは、フジコのエールがルパンを勇気付けるから、女神無き事態は、敵の手に落ち転生した事から生み出されたのだろう。
そうした事で、ストーリーの背景は非常に血なまぐさいが、全体として観てみると、テーマパークと言う仕掛けや、理想とが合わさり、まさしく、クライムスターたる、ルパン一味のようないびつな華やぎや、凛としたサムライなど、いつものお約束のスターダムが最も、生き生きするのが、テーマパークを事件の舞台とするからだ。豪華客船のカジノ、セレブリティの乗客、それに、ゴジラのような海竜のダミーによる、タイタニック号の沈没を連想させるかのような陽動。これらに、花形揃いのルパン一味が大活躍、ケミカルを起こす。
駆け付けた銭形も、このテーマパークによる、パンデモニウムに、ただただ、呑まれるのみで、それもその筈で、彼は刑事として、アウェイに乗り込む戦術的な禁を犯していて、また、ストーリー舞台としては、エンターテインメントのメッカ、と言うオアシスにして、無骨者には砂漠たる、アウェイの中のアウェイに居るからだ。だが、全く空気を読まないのが銭形のタフさの証でもあって、素晴らしい刑事だと思う。
銭形には、テリーと言うサンフランシスコ市警からの助っ人が居るが、彼は刑事コロンボ、のような出で立ちだが、役に立つかどうか。何しろ、豪華客船カジノの捜査中にドル札束をくすねる始末。彼の光の部分に対して、闇があり、この光と闇の対比をしてストーリーを眺めると、エンターテインメントは果たして光ばかりか、との問いが浮上して来る。タイタニック号以上の業を負荷であり、積荷とした豪華客船が、その同じ海域たるサンフランシスコ沖の深海に眠る闇に比すると、光の価値はゼロよりも大暴落するだろう。つまり、それだけの国家の秘匿し続けて来たから、秘密が露見すれば、本当に世界的な信用問題となり、大恐慌を来たす、のである。
サンフランシスコの景勝たる、路面電車に乗り込み、マフィア、と思しき、黒づくめの追跡者から、激しいマシンガンを浴びせられるなど、銃社会アメリカの背景ゆえだろうが、お馴染みのド派手なアクションは健在であり、エンターテイナーはアメリカに適応し、また、荒し回る行為が許されるのは、スターダムに寛容な故だろうか。また、エンターテインメントには、レールを外れないルールがあり、それは、一見、非礼ながら紳士であり、また、笑いの基盤たる反常識があって成り立つ理由とは、芸風の根幹には、常識があるからなのだ。だから、作品の自由と多様性にてタブーを次々と踏破して行く、暴れん坊将軍様では無いが、優れた個性やプロットが広く通用する、と言うルパンらの力量の魅せ方は、大変に痛快だ。
アメリカにて大罪を犯したビッグネームや、マフィアも数多の人員が服役したと言うアルカトラズ島、別称、ザ・ロック、に隠された秘密にも、アメリカ社会に観られるエンターテインメントによる二面性の光と闇が観られ、矛盾を突けるのは、ヒロイズムしか無い。つまり、ルパン一味や銭形と言った一塊の義を心に抱いた敵こそが、アルカトラズ島の地下に眠る秘密、理想を復活させられるのは、今風のタイムラインに乗ったヒロイズムなのであって、マフィアのヒロイズムは、時代を遡る、アル・カポネとか、ゴッドファーザーの時代では無いか、と言う事である。だから、奇しくも、コロンボに似たテリーはエンターテインメントとして緩いキャラクターに適応しているのだが、行動によって、彼が何を大事にしているのか、が辛辣に迫る苦味さえ味わえるのだ。
2021年11月22日 19:12
精神科医のマルコムには、問題を抱えた子供を抱えており、中には駄目な大人に成る重病者も居るのだが、基本的に彼のスタンスは、不思議な能力を持ったコールをケアして居るように、子供にも誠実さがある事を見抜いている。何故なら、マルコムの人生の問題にして、ストーリーの発端となったのは、不誠実な人間をケアしようとしたからである。
ともあれ、不思議な能力を持って居る事、摩訶不思議な人生を送っている事は、少年コールが絶対的な主人公である事を意味しない。彼は、主治医であるマルコムには中々語らない秘密があり、また、それは、母子家庭の唯一の母親リンにも、モンスターだと思われたくない故に、語る事が出来ないのである。だが、秘密はコールが自ら切り出さねば露見する事はないし、辣腕のマルコムですら、能力については、正しく理解し得ないのだ。
だが、それには、コールの能力が、このストーリーの根幹を成しているから、それが、下手に露見し、批評されるようだと、全ての文学的システムが崩壊し、ストーリーに対する謎解きのミステリーの面白みは消え失せてしまう。だから、逆にコールは能力によって、キャスティング・ボートを担っていて、いわゆる、モンスターは何処に、どのくらい居るのか、と言う彼の身近な問題が浮上し、果たして、本当に忌むべきモンスターは誰なのか、という皆んなの問いもまた、ストーリーの添え花となって居る。
こんな複雑な問題に、能力を抱えた少年が相手なのだから、マルコムには、大変なハードワークとして、負荷に理解力や洞察力が必要とされる。だが、マルコムはコールとは根本的に異なる事があり、それこそ、秘密と深く関わって居るのだ。この両者の間には、見えざるも張り詰めた、濃厚な空気のような壁に隔てられるから、マルコムはコールにとって、良き話し相手であり、カウンセラーの域を出ない。ある理由から、母子家庭の新たな父親代わりには成れないし、家族の絆におけるコールの母親が未亡人で父親を欠いている事と、マルコムの夫婦関係には、相関関係が底流にあるのでは無いか。
だから、コールは成長し続ける若駒であるも、モンスターの要素、或いは、静かなる侵犯から逃れ続けて来たが、それは、如何に若駒で成長期にあっても、無機質で犯罪の誘惑もある思春期が、アオハルでは無く、灰色の記憶に堕ちるように、優れたリーダーシップ役、つまり、マルコムがメンターとして必要だと言う事であり、その関係性は、常人には到達し得ない能力、更には、それを駆使する事によるジャイアントキリングに、その標的となるモンスター、とやらの、本質的な脆弱性である。だから、現状打破は、この組み合わせにおいて、コールの急成長が、ストーリーのバランスと調和において、特にマルコムの人生の揺らぎに、強く影響する事に成る。
コールが絶対的な主人公になるまでは、ストーリーは不安定なので、バスから降りる乗客もそれなりに居るものと思う。しかし、秘密が徐々に解き明かされる事によって、静かなる熱狂の中に、高揚に、観客は包まれると思うので、全く飽きる事は無い。そして、それは、同時に、少年を庇護する立場としての大人側たる、主人公マルコムの地位に揺らぎを齎すのである。つまり、秘密から、マルコムのアンナとの夫婦関係には、深刻な亀裂が走って居る事から、コールが心理的に養子となって生じるショックに、今のマルコム達は耐え切れないだろう。関係性の中に隠された秘密の鍵と、絆を壊したり、治したり、繋いで行く営みは、生きる人間の業としてしか成り立たない。
2021年11月21日 16:18
零戦の開発者である事は、戦争を主導したとは言えないし、堀越二郎は、夢の中で飛行機を追いかける、生粋の技師気質。負ける戦争だと、分かって居た事が、平和な郷里の上空を飛ぶドイツ軍機との遭遇に、現れていたのが第一報であるのかも知れない。中学生ほどに観える二郎は、普通の生徒だから、飛行機の科学や物理学を好学するガリ勉とも見えないし、エリートならば、無から有を生み出す、或いは、おどろおどろしい予知夢すら感じさせる、二郎のクリエイティビティは無い事だろう。
つまり、二郎はヒロイズムを気取り、日本のために尽くす、と言う夢も無い代わりに、予知夢然り、日本が戦禍の誤った方向に進む事を危惧しているが、それが、イタリアの先輩技師で、紳士である、カプローニの国際感覚豊かな叡智によっても、二郎の飛行機作りの夢は萎える事は無い。むしろ、旅客機じみたデザインの大型飛行機を、まるで、夢の実現のように没頭出来るカプローニは、青い大空のように突き抜けて、爽やかである。
二郎もまた、同じ飛行機作りを生業としたいから、このストーリーには、夢がリアリティに徐々に侵されて行くテーマ性がある。だが、カプローニの国家の劣勢をものともして居ない楽天主義には、突き抜けて、飛行機バカぶりを感じさせ、エキセントリックな役割を、彼が引き受ける事で、二郎の功罪は、光の部分が引き出されて居る。更には、日の丸の後光が差しているならば、二郎のひたむきな働きは、敗戦によってすら、戦犯の謗りからは距離を置いた、一国民に過ぎず、更には、ブルジョワ市民にすら、戦時中の混沌の中では、功罪は不確定で、終戦によってのみ、零戦並びに、二郎のエンジンもブレーキが掛けられるのだろう。
つまり、1人の人間が大事を成すと言う意味では、可能性と言う無限軌道が、大切にされていた、時代の一面たる、二郎にとっては善なる生き易い、飛行機作りが生業の技師として、極めて幸福な人生を送った人なのでは無いか。従って、夢の美味が、徐々に不味く成って行く、リスクと共存する二郎のビジョンは基本的に変わらない。
更には、戦前に起きた関東大震災、の荒ぶる神々による破壊は、B29らによる空襲による焦土を連想させるものの、戦前がただ貧しい、暗い時代だった訳では無く、経済成長で言えば、世界恐慌のダメージから、いち早く立ち直り、列強が嫉妬する回復期に入って居たのも、一面の真実である。
しかし、二郎と言う一技師が、国や世界の問題と立ち合える訳では無いから、人間に出来る事は、今ある立場と、夢との間に線引きをして、リアリティに目を背けず、出来る事をする他には無いのだろう。従って、彼の夢うつつが、当時の日本と乖離する事は、大本営や軍部による嘘の活躍によって、塗り固められ、壁は長大に聳えて居るから、二郎の零戦と言う兵器が天高く飛翔しつつ、壁を破壊する事は無くとも、希望は大空にこそ託されたのでは無いか。
また、大空に比肩する存在が、大震災の折に出逢った菜穂子と言う希望だと思います。敗戦と言う伏線をストーリーに張るまでも無く、誰もが知っている時代の結果なので、大震災の際に聞こえる、ダイダラボッチのような大きなうめき声は、父性の悲鳴にして予兆のようであり、対する、菜穂子は、利用されつつ戦争に荷担してしまって居る二郎に、母性の光を照らす太陽のような存在ではある。
零戦のフォルムは、両翼に日の丸を描いているから、開発者として、二郎が菜穂子との関係性をシーソーゲームに例えてみると、二郎がやむを得ず国家が戦争に向かうならば、勝ちを収めて、ディストピアをいち早く終息させるしかない、現実主義と愛との狭間を、零戦の機体を軸としたバランス感覚は、根本的には、刃牙ない一技師として、人間としての美学、を代弁するのでは無いだろうか。
国が誤った事は、地や人に必ず皺寄せが来る。時代にすら作用するだろう。だから、ちっぽけな人間として、一技師たる二郎にも、当代の代表的な人間に、計らずも、成ってしまったのであって、このストーリーからは、仮想堀越二郎のモデルを提唱すると同時に、主人公とは権勢に比して、必ずしも成功が確約されるものでは無い。時代の前では、むしろ、生命とはデリケートであり、心を、生きる事を損なわないよう、とりわけ、二郎に対する菜穂子共々、大切に繋いで行く、のみでは無いだろうか。
つまり、二郎はヒロイズムを気取り、日本のために尽くす、と言う夢も無い代わりに、予知夢然り、日本が戦禍の誤った方向に進む事を危惧しているが、それが、イタリアの先輩技師で、紳士である、カプローニの国際感覚豊かな叡智によっても、二郎の飛行機作りの夢は萎える事は無い。むしろ、旅客機じみたデザインの大型飛行機を、まるで、夢の実現のように没頭出来るカプローニは、青い大空のように突き抜けて、爽やかである。
二郎もまた、同じ飛行機作りを生業としたいから、このストーリーには、夢がリアリティに徐々に侵されて行くテーマ性がある。だが、カプローニの国家の劣勢をものともして居ない楽天主義には、突き抜けて、飛行機バカぶりを感じさせ、エキセントリックな役割を、彼が引き受ける事で、二郎の功罪は、光の部分が引き出されて居る。更には、日の丸の後光が差しているならば、二郎のひたむきな働きは、敗戦によってすら、戦犯の謗りからは距離を置いた、一国民に過ぎず、更には、ブルジョワ市民にすら、戦時中の混沌の中では、功罪は不確定で、終戦によってのみ、零戦並びに、二郎のエンジンもブレーキが掛けられるのだろう。
つまり、1人の人間が大事を成すと言う意味では、可能性と言う無限軌道が、大切にされていた、時代の一面たる、二郎にとっては善なる生き易い、飛行機作りが生業の技師として、極めて幸福な人生を送った人なのでは無いか。従って、夢の美味が、徐々に不味く成って行く、リスクと共存する二郎のビジョンは基本的に変わらない。
更には、戦前に起きた関東大震災、の荒ぶる神々による破壊は、B29らによる空襲による焦土を連想させるものの、戦前がただ貧しい、暗い時代だった訳では無く、経済成長で言えば、世界恐慌のダメージから、いち早く立ち直り、列強が嫉妬する回復期に入って居たのも、一面の真実である。
しかし、二郎と言う一技師が、国や世界の問題と立ち合える訳では無いから、人間に出来る事は、今ある立場と、夢との間に線引きをして、リアリティに目を背けず、出来る事をする他には無いのだろう。従って、彼の夢うつつが、当時の日本と乖離する事は、大本営や軍部による嘘の活躍によって、塗り固められ、壁は長大に聳えて居るから、二郎の零戦と言う兵器が天高く飛翔しつつ、壁を破壊する事は無くとも、希望は大空にこそ託されたのでは無いか。
また、大空に比肩する存在が、大震災の折に出逢った菜穂子と言う希望だと思います。敗戦と言う伏線をストーリーに張るまでも無く、誰もが知っている時代の結果なので、大震災の際に聞こえる、ダイダラボッチのような大きなうめき声は、父性の悲鳴にして予兆のようであり、対する、菜穂子は、利用されつつ戦争に荷担してしまって居る二郎に、母性の光を照らす太陽のような存在ではある。
零戦のフォルムは、両翼に日の丸を描いているから、開発者として、二郎が菜穂子との関係性をシーソーゲームに例えてみると、二郎がやむを得ず国家が戦争に向かうならば、勝ちを収めて、ディストピアをいち早く終息させるしかない、現実主義と愛との狭間を、零戦の機体を軸としたバランス感覚は、根本的には、刃牙ない一技師として、人間としての美学、を代弁するのでは無いだろうか。
国が誤った事は、地や人に必ず皺寄せが来る。時代にすら作用するだろう。だから、ちっぽけな人間として、一技師たる二郎にも、当代の代表的な人間に、計らずも、成ってしまったのであって、このストーリーからは、仮想堀越二郎のモデルを提唱すると同時に、主人公とは権勢に比して、必ずしも成功が確約されるものでは無い。時代の前では、むしろ、生命とはデリケートであり、心を、生きる事を損なわないよう、とりわけ、二郎に対する菜穂子共々、大切に繋いで行く、のみでは無いだろうか。