2022年01月
2022年01月31日 21:47
無数の人の涙が、冷や汗が走る。医学部を中退し、生きる目標が無くなり、浮き草のように生きるキャシーは、まだ、アラサーに差し掛かったばかり。バーに夜な夜な入り浸り、大酒を喰らい泥酔する様からは、彼女の本質は、理解し得ない。酒やセックスに放逸さを感じさせるが、その行動にはすべて意味があっての事なのである。果たして、無数の若い男性と、どのような夜を送って居るのか。或いは、ストイックなルサンチマンに徹するのだろうか。
二重三重にも張り巡らされた蜘蛛の巣のような罠があるも、誰得、と言う事は無い。ただの、若い女性を主人公とした彩り豊かなラブストーリー。例えば、「アバウトタイム」のような、大人の男女が遍歴を積んだ果実として、幸福に行き当たる、正統派のラブロマンスかと思いきや、非常に根深い想いが、キャシーを生かし続けて居る。
バーにて、男漁りにも、ルサンチマンがあるが、そのキャシーが抱えるヘイトには、彼女達の運命を狂わせたものが、正体不明であるから、怒りをぶつける相手の探しようも無い。ただ、彼女の心の棘には、大学のドロップアウトと、ニーナと言う親友、そして、アル・モンローと言う男性の名前、つまり、業を抱えた同級生の名が刻まれているだけである。
つまり、彼女の放逸さには、確たる理由があって、男漁りから、ナイトたる運命を託せるような男性が現れたなら、心の傷を癒してくれるかも知れない。放逸さは、彼女には敵探し、の裏返しでもあり、ファイティングポーズだと言う事だ。だから、一夜を共にした、のか、出逢った男性の星の数だけ、黒革の手帳に記し、デスノートを刻み込んでいる、のかも知れない。
だが、医学部を中退した事からの、すべてを失った痛みを抱えながらも、何とか生き抜こうとする。人並みの幸せな人生に修正しようとする、キャシーの生き様は、しぶといが、強かで美しい、と言える。つまり、鬼のように本心をタフに鍛え上げられて、今のキャシーがある。アマゾネスとして、常にルサンチマンを秘めた彼女を、誰も止められない。
ストーリーは極めて、巧妙であり、ソフトとハードな部分を、そして、人間のブライトサイドとダークサイドの両面に光を当てている。人間をヴェールとして、最も隠されているのは、その、秘めたるルサンチマンによる暴力性である。ここに、うら若きキャシーをビジュアルやスタイルだけで、女性の軽い請け合いと言うか、本質を見誤れば、男性は面食らう事だろう。バーにて夜な夜な泥酔して居るような大人は自己否定的で、孤独でもある、に違いない。
更には、彼女の霰もなさは、まるで、愛の衣に包まれ、涙と幸福の中で安眠をむさぼる事を、知らないように観える。これは、女性版、「ラン・オールナイト」であり、物理的な暴力では無いが、毎夜、戦い続けるキャシーには、ランランを持続している、アンビバレンスな孤軍奮闘が観える。そこに、戦いたる女性の意地すら見えて来る。
つまり、彼女には、ラン・オールナイト、では無く、本物のホワイトナイトが必要であり、その存在性によっては、ダンス・オールナイト、へと幸せな新しい人生が待って居る期待感は、十分にあるのだ。だが、両親やパートナーが気遣って居るように、キャシーには不安定な面があり、それによって、また、ルサンチマンの再燃により、マッド・ダンス、へと堕ち果てて、軌道修正は大きく狂い、大変な禁断の果実、をもたらすかも知れない。そんな、危ういバランシングにあるものの、ラブストーリーの彩どりと、憤懣におけるルサンチマンとの、正と奇との共演と、テクニックに長けた暴走機関車的な演出が炸裂する事だろう。
2022年01月28日 16:34
スパイダーマンが、世界から追われる身に成る。古のスーパーマンの時代ですら、ヒーローとは社会の為に働くスターであった。スパイダーマンは、ピーター・パーカーその人でしか無いから、ヒロイズムは普通の人には、負荷でしか無いかも知れない。そんなパーカーの渦中の人ぶりに対して、世界は冷徹極まる眼をスパイダーマンに向ける。その窮地が原因となって、マルチバースに逃げ込み、そこが始まりの場所として、異界へのゲートが開かれる。何が現れるのか。
普通の人に向けた言葉としては、ジェイムソンは余りに辛辣なキャスターだ。彼は、メディアリーダーであり、アンチスパイダーマンの最前線に居るが、同時に最大限の責任が伴わねば、首尾一貫して居ないのでは無いか。
スパイダーマンを中心にして、展開するストーリーは多彩であるから、本来のネガティブキャンペーンによるメディアリーダーの面目躍如と言う事ではあるが、むしろ、スーパーヴィランが複数集結する死のグループとして、ジェイムソンはリーダーと言うよりは、プロレスの実況に近く、それだけの熱量と負荷が、本作のスパイダーマンには掛けられて居る、と言う事でもある。
普通の人であるパーカーが、責め立てられる様は、メディアと言う議会闘争において、一人の若者への生殺与奪が侵されている、と言う事でもあるが、否、そもそも、メディアリーダーとは正義にブレなく、首尾一貫して居なければならないのでは無いか。ジェイムソンの沸点は良く理解出来る。つまり、アヴェンジャーズ然り、スーパーヴィランらとの戦いで、世界は常にヒーロー達の手に委ねられて来たが、本作における熱烈な議会闘争は、リーダーシップに対する、人間側のフランクな反動に過ぎないのでは無いか。
つまり、ジェイムソンが責め立てて居る普通の若者、というメディアVS個人の構図は、ヒロイズムにあらざる、スーパーマンやハルクとか超人に比して、如何にもおとなしめなヒーローであるスパイダーマンが、メディアの隣人として、叩き易い存在だ、と言う真理なのである。パーカーはアメリカ国籍も持って居るし、MITを目指すエリートの卵ながら、身分としては普通の受験生、という処であり、これに、恋人のMJ、親友のネッド・リーズをも巻き込む権力の罠が発動される。しかし、堂々たるジェイムソンはカウボーイのようだから、このスパイダーマンの議会闘争が、現場を抜け出して、民間人をも巻き込む力に対しては、良識人として武張ったジェイムソンには、過失があるのでは無いだろうか。
逃げ込んだマルチバースは、ヴァーチャルな異世界であり、危険地帯でもある。ドクター・ストレンジの大魔導によって築かれた擬似世界のようである。メタバースをリアルなマテリアルで構築すれば、こうした異世界がリアルに干渉して来て、日々の平穏を脅かすのだろう。ドクターは多神教の神、に近い存在だと思う。何故なら、彼の魔法によって、マルチバースが管理され、或いは、力の論理による覇を封じ込めているからである。多神教の神とは、人間と共存していたり、ギリシャ神話の好色で勇敢な神々は、人間の人気者をベースにしている感がある。だから、常識にも通じ、それゆえに、ドクターはスパイダーマンの手負いから来る危うい判断ミスに対して、大変に手厳しい。だが、正しいのはアイコンの側なのである。
スーパーヴィランが集う事態と言うのは、世界のバランスが傾き兼ねない大惨事だと言えるだろう。だから、個でそれらと戦うとか、対処を迫られるスパイダーマンが力か、頭か、それとも、ビーストらを捕獲する罠を仕掛けるか、は観てのお楽しみだが、確かな事は、スーパーヴィランと対話するチャンスかも知れないし、奇跡的な一夜の夢かも知れない。外は厳冬のみぎり、寒さが吹き仕切るものの、見物だと言う事である。更には、スパイダーマンに思わぬ有力な援軍も駆け付けるサプライズには、愛や情が込められているが、マルチバースのシステムからすれば、これは、大局における宿命だ、と言えるかも知れない。
パーカーの交友関係、MJとか、リーズらとの、輪は広くないが量より質の関係こそが、おとなしめのスパイダーマンの本質らしさ、と言うと、そうであると思う。世界的には、マルチバースの暴走は、平和の危機ではある。だから、ジェイムソンの正義が収められる難局も、度々、現れるのだが、彼は熱烈な実況者だから、そのメディアリテラシーやスタイルは激流であり、パーカーにとって暴走を音便に収め得る清流こそが、濁流に抗する処方箋なのでは無いか。だから、パーカーには親愛な身内を巻き込む危機が迫り、次は、パートナーである自分達かも知れない圧力が普通はありそうだが、落ち着き払って居て、彼女らの判断もまた、パーカー、スパイダーマンの判断ミスを補完する、ある大切な役割があるのだ。スパイダーマンシリーズとしては、多彩な見せ場に溢れ、ヒーロー並びに、ヴィラン側の毀誉褒貶による見事なマッチングがあり、その底流には運命が流れている。。
2022年01月23日 17:15
太平洋戦争から、終戦に掛けての時代を、呉に住む北條家のホームドラマを主軸として、生活に立脚したリアリティとして描いた物語りである。「この世界の片隅に」への追加画を加えた長編映画と成っており、主人公すずの心のさざ波、愛や北條家など、より繊細さを増した造りに成って居ると思う。マイペースで、おっとりとして、北條家の嫁として、如何にも頼りない彼女に、優しい夫であり、軍機関勤めの周作との間には、何が生まれるか。戦前の北條家の家族関係としては、厳しい立場ではあるが、難局を乗り切る事。大変な戦前ながら、北條家の明るさにおいて、蛍の光、のようなか細くも暖かな光には成るのだろう。果たして、爆心地広島にも近い呉に住まうすずは、生き延びる事が出来るだろうか。
すずは、基本的に無力ではあるが、それ故に、生家である浦野家が、広島に居を構え、運命を待つ事は、日本側の視点としては、約束された物語りだとは言える。だが、無力ゆえに、北條家では、愛される。個の人間として、巨大な運命の前に出来る事は限られ、それが、北條家と言う恩を返すべき居場所たり得るには、すずが嫁として、日々抱いて来た想いの量に、成果が表れる事は間違いは無かろう。
そして、それを感じさせる事で、北條家と言う呉の町からちょっと離れた山際に建てられた家の存在が、皆にとって大きく成るのであって、彼女は守られた存在だと言える。周作の姉に、ちょっといびられても、そこには、彼女を畏怖させる本当に御し難い大きな存在は無く、彼女を愛の量、スタンダードに成る事で、北條家のモラルが保たれる事は、戦前の家族関係の、親父の存在が、ただ理不尽で、畏怖される存在では無かったのでは無いか。
また、その、すずをスタンダードとする事で、ストイックとか、威厳といった、軍国のアイコンのようなものが権威的な存在では無くなり、笑い飛ばせる事。これは、戦時中に緊張感やストイックな生き方で、生命を落とす危険に比して、痛みを斟酌する、愛ゆえの自由であり、個人主義なのである。だから、すずの絵を見咎めて、説教を垂れる官憲もまた、彼女の絵の前には、軍服を剥がれた、恰好のモデルになり得るかも知れないのだ。
だから、すずを代表とする、自由や個人主義に対する、圧制による締めつけは、本来、人間の本日として、自由や好きにやって才能を活かしながら、愛に生きる本能対禁欲、ではあるまいか。そして、対立、との大袈裟もまた、彼女の絵の前では、的外れであり、それは、自由と言うのが、反抗やテロ、或いは、映画「どですかでん」のような、余りに常識や夫婦愛に叛く、裏切り続ける、性の放逸では無いのである。むしろ、絵描きとかは、写真家もそうだろうが、カオスの中に垣間見える、一瞬の秩序や美的センスを形にしたものを、生み出す大切な仕事だと思える。
料理を始め、家事は苦手で、周作の姉径子にはいびられても、姪の晴美の遊び相手ほどしか務まらないのだが、家族関係は、上手く成り立って居る。すずに対して、悪意を持つとか、敵対する人は、自由を憎む、余程、権威主義に傾斜した大人では無いか。すずを付け狙う行動理由は、彼女が北條家の嫁として収まって行く事だが、諸事万端をこなせるほど器用でも無いし、まだ、うら若き少女の面影が糸を引いていたり、とにかく、すずの戦いとは、スローライフ、に相まって、政争をして居るような、脂ぎった人からすれば、水と油、たおやかな清流たる、乙女の御前に土足でずかずか入り込むようなものだ。
つまり、すずに象徴される愛は、権力や暴力から人権や生きる心を一所懸命に守る為には、同じ土俵に上がらぬ事だ。更には、馬鹿馬鹿しい事に、彼女を叱責した官憲が、帝国の敗色が、まだ濃厚な時期では無いものの、日本帝国最強と言う狂信が、政治力を揺らぎつつある事に、一顧だにせず、正義だと思い込んで居る事であり、これは、大本営発表然り、当時の大マスコミにおいても、断言出来る事実では無いか。
多くの人々が、国家権力が拡散する嘘に浮かれて、踊らされていたカオスの狂気であって、対する、すずはマイペースながら、要の、生き延びる事、北條家の嫁として振舞う事には、さほど失点は無いと思う。そして、その戦争から遠く、危機が感じられるのは、配給がしょぼくなるとか、防空壕を作る指令が来たりとか、少しずつで、差し迫った悲劇がディストピアに描かれないのは、やはり、本作のリアリティが生活、にあるからだと思う。
それを踏まえると、国民生活の破壊とは、ファシズムや統制におけるあらゆる古い考え方が、侵入して来たのが、戦時中のリスクであり、まさに、その槍玉に挙げられたのは、B29の編隊ではあるまいか。だが、しかし、国民生活を、本作の物語りはアジール化しては居ない。それは、聖女のようなすずの存在を際限なく大きくするものだし、敗色濃厚なリアリティとしては、やはり、インフラや住まいを破壊し続ける、空襲の増加が、内地の国民には、身近で差し迫った脅威なのである。
すずには、ライバルが居て、それは、呉の遊郭で働くリンと言う華奢で大人びた女性である。彼女もまた個人主義的な乙女ではある。だが、リンが盛りのついた軍人達を肌により受け入れ、癒すのに対して、すずは上述したように、世の男性達に対しは、ちょっとズレた処に居る。つまり、すずには、リンが世の中に慣れていて、アジールを必要としない遊女に、強さを感じた。本質的な、男性と肩を並べる、或いは、女性の強さを仕事面で表し、強かに生き延びる事が、立派に思えて成らないのだろう。同時に、それは、無名の一国民の戦い方でもある。ともあれ、すずはそうした無名の人をリスペクト出来るし、戦災孤児然り、掬い上げる事も出来る、たおやかさと芯の強さはある、古き良き大和なでしこ、だと思う。
2022年01月21日 22:00
ピンクパンサーをモチーフとした実写版映画。コミカルさはアニメのようであり、恐らくは、史上最大の間抜けなピンクパンサー、ゆるキャラであると思う。主人公が最強で無い、賢くない、と言う意味では、アジアの任侠もの、つまりは、フランス映画からすれば、変異型であるが、英雄である事には違いはない。フランス、パリにて、サッカーの国際試合にて、中国と対戦していた、国の英雄、グリュアム監督に魔手が迫る。彼は、世界一のダイヤモンド・ピンクパンサーを指に付けており、公私共に成功していたスターであった。果たして、事件は、指揮に当たって居たドレフュス警視に政治利用される事に成り、白羽の矢を受けて、警部に昇格したクルーゾー迷警官に、全ての捜査が委ねられた。
アニメ原作を観た事が無いが、正直、コミカルなコメディ映画として完成度は高いと思う。ピンクパンサーは追われる身、魅力的な動物キャラ、トリックスターである。何者かに盗まれたダイヤモンド・ピンクパンサーには、スターの凋落を意味する不吉な予兆が観える。無邪気なクルーゾーに対して、ドレフュスは邪な想いを抱いており、そこにある対立は、コメディタッチの乗りにより、曖昧に、毒気が抜かれている。クルーゾーが居れば、事件は起こらなかったかも知れないのだ。
つまり、クルーゾーにある才能とは、人を裁き、捜査する類のものでは無く、周りを撹乱するユニークさに満ちた笑い、があり、政治に反すると言う意味では、虚実が入り乱れ、実のスター集団に対する、虚のトリックスターが、単身、奇妙な笑いの才能、タレントを持って正統派に挑む構図であり、リングをパリとする。しかし、クルーゾーはキングコングでは無く、ピンクパンサー側のキャラであり、ストイックさとか、ヘイトはお構い無し。つまり、キングコングは破壊者であるが、クルーゾーはパリの華に支配される。
だが、それでは面白く無い。ユーモアを武器とするクルーゾーの叛骨の相は、自分の利益の為に事件解決を伸ばそうとするドレフュスに、ハナから迎合しないのである。
つまり、難事件となればなるほどに、クルーゾーに対する、世間の関心や熱量は上がるから、腹黒いドレフュスの計算通りとなれば、解決しないと言う事だ。逆に、クルーゾーが上司の期待を裏切り続ければ、難事件はソフトランディングすると言う事である。コメディタッチに事件を描くアプローチは、不謹慎でもあるから、フランスきってのアホ警官であるクルーゾーの緩さ、要領の良さが、メディアから過大評価される事で、コンクリートジャングルに、季節外れのスコールが降るかも知れない。つまり、密林の愛すべき勇者ピンクパンサーが、パリをジャックし、柔よく剛を制す、が、真理である事をビビッドに描き出す。
同時に、クルーゾーは緩過ぎるから、メディアによって、彼のヒロイズムは病院送りのように、延命措置、を受け続ける、老人か仙人のようであるのだ。だから、警視より、サポート役として付けられたポントン然り、スターのザニア然り、また、腹黒いドレフュス然り、クルーゾーの周囲には多数の実力派がひしめいている。しかし、彼の間抜けなアクションは、いびつに愉快だから、悲惨な失敗をしても、同時進行に薬を飲み、すぐに立ち直る。だから、ナルシシズムでも無く、集中治療室、というべきか、実力主義の世界にアンチテーゼ、として、慕われる異質なスターが、難事件を主軸とした、深刻な物語りに、戦力には成らないが、主人公の一人として参加する事は、愛がある意味では、良い事だと思う。
作品全体に通じるテーマとしては、逆転劇。それも、一度ならず、隠れ英雄が、何事かを成さんとするから、逆転に継ぐ逆転、がある。しかし、それにより、秩序は乱されず、主人公が鎮座している、クルーゾーは凡庸だから、捜査に積極的に主導する事は出来ないから、いつも、ミスリードするが、それが、失敗として糾弾されない理由は、根本的に一代男、クルーゾーが、パリにおいて愛されているからでは無いか。
そして、彼は捜査の延長線上に、アメリカにも乗り込むのだが、それは、背景を探れば、高い評価を受けたフランスにて、悪気は無いが、要領良く他人の功績を掠めた事で、メディアは鰻登り、ハイパーインフレにて、一躍、英雄となった勢いを、敢えて断つ事に成る。だから、彼の流転と言うか、大いなる流人人生には、常にリセットとチャレンジがあり、零か百か、潔さすら感じるのである。
中国の毒が事件を起こした、とか、アンチも観られるが、物語りの根幹にあるのはクルーゾーの求心的なキャラクター、西洋ならばギャンブラー、であり、東洋ならば任侠心、に、スポットされるべき、茫洋としたトリックスターである。
2022年01月17日 21:44
愛より、情けより、冒険によるトレジャーハンティングを選んだ若きララ。財宝や発見をもたらす、一流の腕前やミッションへのクールさから、トゥームレイダーの異名を持つ。ララは、探検家の父親を、とある謎から亡くしていたが、財産を持つ富裕層であり、執事やビジネスパートナーらを抱え、トレジャーハンティングに全精力を傾けて居た。邸宅は、監視モニターやシステムに守られ、激しい訓練を積むララのトレーニングも、死闘さながらに行われている。
序幕において、ララの素晴らしいフィジカルやポテンシャルは、紛れも無く世界有数、トップレベルの働きをするものだ。ピラミッドの秘密の部屋にて、財宝を護るロボット兵のような鋼の塊を相手に、本気のアクションを繰り広げる。これは、ララの屋敷の中のトレーニング室の、いつもの風景なのだろう事は、ララの華麗なるアクロバットを可能にするフィジカルから証明されている。つまり、男性のプロに顔負けの、トレジャーハンターだと言う事だが、ララの戦う姿は、アマゾネスのように剽悍であり、万能である。
ただ、ひたすら、このシークエンスで描かれるのは、相手を完膚なきまでに叩きのめす戦闘員としてのトレーニングである。更には、ララには文系女子と言うか、富裕層の息女としての手腕や優雅な振る舞いに、学者やメンタリストの幅広い顔を持つ。美女だから、男性に口説かれる事もある。特に、同業者で昔馴染みのアレックスとのコミュニケーションが際立つが、とにかく、ララには、多彩にして、それら戦闘能力以外の、社会的な才能が、物語りの中で明らかに成って行くのである。
だから、そんな彼女を飾り立てるものとして、ジュエリーや名だたる財宝があったとしても、選ばれるものは、心が通じるレガシーであり、それは、父親の遺した言葉であり、忘れ形見としての彼女自身でもあるが、特に、父娘で引継がれたレガシーは、途方も無い人類の宝物なのである。
それは、秘密結社イルミナティが狙う5000年一度の財宝ながら、野心的な彼らが狙う理由は分かるとして、何故、豊かなララが参加するかは、旅や冒険を生業とするトレジャーハンターに聞くのは粋では無いと思う。そして、マンフレッドが、支配される者で忠実な犬である事は、財宝、光のトライアングル、に与する、世界を動かす力の源、に対しては、極端な被支配者は、支配者に成り代わる可能性があり、故に、マンフレッドとララとは、自由を愛好する若者と、それに対する、古き重力として、正反対の関係性にある。
ララの屋敷は、日々、アクロバティックな猛訓練をしている、美獣の庭先のようなものだし、アレックスは彼女を理解、正しく評価して居るから、パウエル軍団が侵入して来ても、不利なアウェイと言う死地は、プロとして避けるべきなのだ。それだけ、光のトライアングル、に関わる財宝の価値が素晴らしいのだが、剽悍でアクロバティックなララは、実に見事であり、一流アスリートに比肩するアクションシーンこそが、白眉である。
ララにも数人の部下、執事は居るから、一人ぼっちでは無いが、フィジカルとして他を寄せ付けないのは確かだ。ギーク、の時代は先取りされるので、物語りが描かれた過去の社会としては、ブライスはエンジニアなのだろう。とにかく、ブライスが屋敷の中の部屋で夜を過ごさず、敷地内のカーハウスで眠るのも、紳士たる証であるが、彼のベッドはまるで、おもちゃ箱であり、訓練場で暴れ回るロボット兵然り、小さなジャンクのような、試作品のロボ達が、せわしなくノイズを発したり、動き回って居る。それに対する、ララがやって居る事は、一流品のトレジャーハンティングであり、そこには、イルミナティのような独占欲は無く、古きレガシーとして財宝の真価を捉えて居るから、公にする事が、謎暴き、と言う、好奇心旺盛な、心のトレジャーハンターとしてのララの、美しさの理由、ではあるまいか。
そういう、複数の思惑が絡んでいるから、レガシーをリスペクト出来る事で、救われているのが、ララの真の姿である。アクションがメインのサクサクした映画故に、人間群像を描き切っては居ないが、エキサイトする感覚には成れると思う。更には、当らずも遠からず、だが、5000年に一度と言う、曰く付きの財宝が、神威を秘めている事なるも、それを、肯定するも、否定するも、選択肢がある時点で、我が手にトランプのエースがあるようなものだ。だから、ララはそのトリックを見破る事で、真実を知り、その一連の経験に対する華麗なる態度は、バルキリーのようですらある。
いずれにしても、財宝のプレゼンスが大きいから、名乗りを上げたのは、ララに対して、マンフレッドの部隊と言う軍隊顔負けの男達なのだが、その死闘の運命を変える瞬間がやって来る。それは、土壇場において、財宝が独占から、公の共有財に、ララを先鞭として、アレックスやマンフレッドにさえ、芽生えた貴重なシークエンス故である。故に、光のトライアングル、と呼ぶ。だが、それも、主人公の立場として、瞬間的に、反抗に揺りもどる、まさに、アクロバットがあるが、アクションに比しても、心のアクロバットと言う転向は、人間として越えない一線でもあり、何よりも稀有であるのでは無いか。