2022年04月
2022年04月28日 19:44
米西部アリゾナ。主人公はハーモニカを奏でる、先住民のガンマン。彼には、とある壮絶な過去がある、だか、無名に等しい過去を隠しつつ、屈強な男である。梟雄フランクは、郊外に居を構える家を襲撃し、山賊シャイアンの仕業に見立てさせる。その家に嫁に迎えられるはずだった美女ジル。これらの4者を、一応の主役たちとしつつ、他にも、ガンマンや悪漢たちが蔓延る無法地帯。そのダークサイドに光を当てる人間群像のブライトサイド、その、秘めたる素晴らしいドラマは、今に連なる。西部劇の金字塔に相応しい大作だと言える。
数多のラブストーリーとか、乙女心を瑞々しく描いた物語は沢山あれど、この作品には、漢心を雄々しく描いたリアリティがあり、このポートレートが成功した理由とは、人間群像に迫るだけでなく、漢心がリアリティのままに、生き生きと発散され、自由に放逸な本能を発揮出来るからでは無いか。漢心は分からないのだ。
それは、いにしえの漢たちが、水を得たように、自由に正義と武力を発揮出来る、甘やかされた、環境があるからに過ぎない。しかし、ハードボイルドであるから、厳しい世界観には、とても、甘えは観えない。だが、誠に強かなマイノリティが漢たち、では無いか。
西部にやって来たジルが向かうは、嫁ぎ先のスイートウォーターという、田舎の地区ではあるが、道中に立ち寄ったパブにて、この作品を彩る英雄たちが一堂に介する。大陸は広大だから、西部劇の中において、この星々の出逢いのクロスとは、ロマンチックでもある。とまれ、世界観は日本の時代劇に近いだろうが、武勇と手に持つ道具が、ガンである事と、刀との違いは、マテリアルに堕ちた世界観では大きな違いだが、メンタリティにおいて武器の違いと武勇の誇りとは大差がない。いにしえの理想郷が西部世界なのだ。
ともあれ、4人の主人公たちは、殺傷や掠奪を生業とする賊を倒したり、あるいは、フランクに至っては、極悪非道な策略を巡らせる。彼は、とても重厚だから、敵に回したくないが、白人であり、青い瞳はアイスや水晶のようであり、ノースアイズの漢、と呼べるかも知れない。不毛なガンマンたちは、主人公をいつ倒すか分からない。しかし、運命が導くとしたら、元高娼であるジルの、しぶとく、しかし、逞しく乱世を生き抜く変化である。彼女は、未亡人であり、また、新たな伴侶になびく新妻であり、更には、可憐なるも無力な姫、である。
その変貌とは、取りも直さず、彼女が保守的な女性であり、武勇やガンの取り扱いに長けた漢たちが生きる時代における、至極、当然の生き方による、のだろう。何故なら、そこには、節操の無さ、否、生き方や結婚の自由があるから、であり、ジルはフランクの策略によって、遺産と成ってしまった、場の空白、心の空白、であり、人生を大きく変えてしまったからだが、彼女の逞しさは、そこから、新たな開拓を、場の再生、だけでなく、心の開拓、に振り向けるべく、リバウンドを果たそうとするタフさ、柔らかな強かさにある。具体的には、更なる、アリゾナの未開の地に街を築く試みである。
それは、序幕にて、駅を襲い、汽車を攻撃しようとしていた3人の賊、雄々しいガンマンの本能からは、新たな駅街を開拓する、地道に一生懸命に地ならしをするものとは、決定的に異なる発想である。だが、その開拓心の発露によってこそ、ジルは独立した強い女性に成ったと言える。無論、一人で何とかなるものでは無いから、時は乱世により、そのリバウンドの為には、濡れ衣を着せられたシャイアンの自己犠牲がある。しかし、何故、情事を交わした訳でもない未亡人の為に、山賊と目される、賞金首でもあるシャイアンが、尽くしたかは分からない。だから、物語において、描き切られるのは、分からない漢心、だと言う事である。
更には、西部劇としては正統なのだが、複線が中々、消化されない事で、これは、終盤までは、消化不良をガンアクションによる、ハードボイルドにて捌く、力業の未熟な物語、に観られる。しかし、だからこそ、クライマックスにおいて、複線が、素晴らしいまでの人間群像に勝るドラマによって処理される。これは素晴らしいし、騎馬にまたがるガンマンたちの闘争は、勧善懲悪と言う単純な時代劇のものでは無いが、「七人の侍」に近いと思う。黒澤明が農耕社会において、一所懸命に、義の為に倒れて行く侍たちを描き切ったのに対して、本作は、セルジオ・レオーネが移動し続ける西部時代を、一生懸命なるも、愛や憎、或いは、策略とルサンチマンによって多彩なるも、やはり、武力によって倒し、倒され、宿命に挑んだ主人公のメンタリティを描いている。勝敗の結末もまた、シンプルな勝ちの味、とは言い難いのである。
2022年04月23日 12:55
恩師を侮辱した暴漢たちに逆襲した罪から、入所したフランク・レオン。義理堅い性格から、祖父の死に目に遭うために脱獄した事があったが、メディアに同情され、巷では大きな問題にはならなかった。重厚で落ち着き払っているも、他人にも寛容であり、脱獄も、理由があって、所長ドラムグールが特例を与えなかったからだという。元々が、人当りが良くマッチョで体力もあり、非の打ち所の無い男であるから、服役中は模範囚として慕われていた。刑期明けまで6ヶ月となり、恋人メリッサとの生活を想い、人並みの暮らしを取り戻そうとしていた、フランクに、理不尽な権力からの魔手が迫っていた。
まず、閉鎖的な刑務所における、囚人への虐待や看守たちのパワハラ、所長が権勢を振るい苦しめる物語り、には、「ショーシャンクの空に」が有名だが、刑務所における、パワーゲームや暴力、という理不尽なパワーが存在するのは、似通った所があるが、これらのシークエンスこそが、リアリティなのだと思う。ショーシャンクのアンディも、本作のフランクも、そうした有象無象、パワハラに晒されるのは同じである。
だが、屈強な身体をしたフランクですら、囚人たちのマナーには従い、それゆえに、自分を刺そうとしたチンクを、これからの、最悪刑務所ゲートウェイでの服役生活を思い、敢えて、彼は凶器を持っていない、と、庇いだでしたのだろう。
塀の中では、皆同じだから、英雄も悪漢も、等しく力や栄誉を奪われるが、それも、社会的なステータスとしてのプライドの事である。だから、まるで、ヘラクレスのような肉体をしたフランクが、一転して、ガンジーのような無抵抗な態度を取る、ムラにあるチンクからの卑劣な挑発にも乗らない人格へと、変えてしまうのであって、この理不尽な暴力と、正当な自衛力との間にある、一塊のプライドとは、あくまで、自分の親友やパートナーへの暴力に対するもの、なのである。
だから、パートナーの居ない刑務所生活には、アダムにとってイブレス、のようなものだが、アダムが彼らしく度量を発揮出来るなら、普通の刑務所生活は、ラブレスなだけでは無い、なけなしの希望を抱けるかも知れない。しかし、最悪刑務所ゲートウェイには、逆恨みに燃える所長や、悪徳看守に囚人たちが居るから、まさしく、イブレスな上に、名を奪われナンバー化し、それで、自我を抑圧され続けた無力な囚人らは、大変に窮屈そうだ。
フランクは、囚人たちとアメフトに興じたり、他にも様々なアクティビティを通して、仲間を見出して行く。その傍らにあっても、メリッサを想い続ける。こうした、普通の社会活動を封じられた人々には、フィードバックによる心の支えが必要であって、そこには、人離れしたハンディを抱えた人も居るかも知れない。しかし、フランクは、厳しい試練においても、腐った林檎にはならず、愛を温め続けた。
それに対して、所長は、憎しみを増幅させて、その生き方には大きなクエスチョンが付きまとうのである。これは、閉鎖病棟、とか、閉ざされた場所や組織は、務めて官僚的にあるのかも知れない。しかし、そういう刑務所のような箱物が、独立と言う健康的な改革に至らず、独裁によって悪い事や迫害、暴力を振るい続ければ、ゲートウェイ刑務所は、所長による、歪んだサディズムの表現の場になってしまうのでは無いか。つまり、閉鎖的な場には、多様な人々から、名やプライドを奪ったり、その代わりに、所長のあらゆる欲望や夢をかなえる場となり、囚われの身になるのは、囚人たちばかりでは無く、看守らも従わざるを得なくなるのだろう。狂気が描かれ続ける。
フランクが如何に屈強でも、人当りの良い好漢であっても、さしたる影響力は、刑務所と言うパンドラの箱の常には、鍵が閉ざされているから、開けたり、固い壁を壊す変、は、日常の中には無いと言える。シルベスター・スタローンらしい、アクションがお家芸なのだが、この物語りに観られる、ショーシャンクのような人情やドラマの流れに対して、常を変で力によって覆す、スタローンの武勇は、構成において、まさに見事、であり、マテリアルにはバランスを作り、アクションにはバランスを壊す事により、痛快な立ち回りを演じるのは、お約束と言えばお約束、ではある。
2022年04月18日 21:11
女子大生の新井直美は、アメリカ行きまで1週間を控えたリッチなご令嬢であった。異性との交遊には奥手だったものの、あこがれの先輩とデートをし、海辺のホテルに行く事になる。積極的な永井にリードされるものの、戸惑う新井。女好きと純潔との男女の綱引きに、第三者が入って来て、それがかの有名な名探偵辻村秀一であった。ただ、リッチな親の愛娘をガードするだけの簡単な仕事である筈だった。しかし、離婚した元妻やナイトライフの住人たちに、ヤクザまでが絡み、物語りは安全な深海には居られなくなり、水魚の交わりの水は干上がるのであった。果たして、新井と辻村の奇妙なタッグは、この難事件を解決する事が出来るのか。
時代は昭和後期であり、まだ、バブリーな好景気の遺風をまとったはなやかな空気感に溢れている、とは言えよう。この国が豊かだ、と言う事は、資本主義が上手く回って居た時代だと言えるし、政治経済が、失敗を避けながら、あるがままのやり方が崩れないと言う事は、哲学によってリアリティに問いを発したり、失敗を予見されない。つまり、利益を上げる今までと同じ保守、と言う事は、それだけ、大人の立場が強い、と言う事である。
だから、相対的に、大人が強い、と言う事は、大人に可愛がられる子供が強い、と言う事でもあり、本作では、松田優作演じる辻村と、薬師丸ひろ子演じる新井とが、大人と子供とのタッグであり、それぞれの主人公だ、とは言える。
辻村は、探偵だけにちょっとあやしい行動もしているが、純潔な新井にとっては、大人として映るのが永井であり、更なる、大先輩は辻村だ、と言う事に成る。しかし、先輩後輩の関係性とは、心が通じて、互いにエモーショナルに成れる間柄だと思うから、江ノ島か熱海かは知らないが、永井とのデートは、新井にはカオスそのものでは無いか。なぜなら、女好きな永井がどのようなキスをし、愛撫をして来るかは、分からないからである。だから、大人と言う意味で、あやしげな辻村が子供をリード出来るのは、ハチャメチャに見える辻村が、実際には、哀愁を秘めた成熟した大人だからでは無いか。
このタッグの2人が、仕事をしているのか、遊んでいるのか、分からない、ゆるい探偵ごっこ、を仕掛ける。ここは、松田ファンのお約束、であろうし、本作にて起きる危険な火遊びには、カオスが深く絡んでいる。名探偵の元妻直木幸子は、ヤクザの情婦になって居て、普通の女性では無い。ただ、ナイトライフを知る事も、昭和の欲望資本主義が崩れる前のソドムでは、快楽の一種にすぎない、と言う事では無いか。
そして、松田と薬師丸のタッグから、大人と子供との同盟、だと記したが、直木はただ、本能のままに生きている、アニマルでは無いか、と言う事だ。愛人でヤクザの国崎が殺人事件に関わり、その現場に居合わせた意味で、彼らビーストたちの怒りを招くのは分かりきった事で、それでも、彼女は、辻村のアパートに転がり込んだ。それは、殺される事を恐れたからで、元夫婦である言葉や、辻村、国崎とのドロドロした愛欲関係、と、抱えているトラブルの種には枚挙が無い。直木はアニマル・ロジックで動いている。
国崎は、クラブオーナーながら、パンチパーマで如何にもヤクザだが、その愛を買うのも 、怒りを買うにも、ナイトライフの大人たちの消費したる財とは、莫大な金や、欲望と紙一重の、情け、である気がする。ビーストゆえに、雄々しいのであって、彼らの仁義と、夫婦の情愛を繋がない節操の無い猿のようなアニマルとは、似て非なるもの、では無いだろうか。つまり、辻村、新井の探偵タッグを、ヤクザと民間人との間にある中立的な存在だとすると、大人と子供と言う括りは、ビーストとアニマルとの対比に近いから、ビーストを誇り高い存在と捉えるべきかも知れない。
アニマルに成ってしまうと、プライドを再び取り戻す事は難しいかも知れない。否、元々、強く生まれた肉食獣は、異性きりに放逸でアクティブなのかも知れないから、原罪とは、本能を超える、計略的でパフォーマンスに長じて攻撃的な大人の事かも知れない。だから、クールでダンディながら、やって居る事は女子大生の尾行と言う、変態紳士じみた辻村にはコミカルさすら、観てとれて、これは、「ライオンキング」の、更に演じる、更に戦う者たち、の血統と言うものでは無いか。つまり、辻村が秘めたるプライド、心の芯は強いのだ。
はっきり言って、辻村はオールマイティであり、永井などの代わりに、ナイトを演じる事などは、訳もない事だ。探偵ごっこも、遊びも出来る。また、新井の願望とは言え、アオハルを共有出来る大人が、辻村なのだと思う。出鱈目を言ったりギャンブラー気質でもあり、こんな大人が居ても、魅力的で良いと思える。二人三脚はダサいので、それが、そう観えないのは、大人と子供との、社会的存在としての違いと、大人に引っ張られる子供へのカリスマの引力、個人主義があるからかも知れない。
2022年04月16日 19:44
栄光にひたり続けるのは難しい。オールドアメリカ、かつて、50年代にスターダムを独占した大俳優リック・ダルトンは、60年も暮れると時代遅れの一俳優となっていた。アクションにて名を馳せた彼には、スタントを勤めた親友クリフ・ブースが居て、さながら、英雄と影武者、のような対比を成し、更には、調和を生んでいた。西部劇と言うジャンルは不滅ではあるが、ハリウッドのメインストリームでは無くなった時代には抗いがたい。仕事は減り、時代劇をプロフェッショナルとしながら、ジャイアントキリングによる、定見、に対する抵抗が上手く行くのか。リックに対して、クリフは自由気まま。果たして、かつてのスターはどのように、はなやぎを取り戻すのだろうか。
スターとは、歓喜の嵐に包まれ続け、カリスマとして影響力を持つから、権力、に近い事は明らかだろう。ハリウッドと言う映画の聖地、とは、理想郷であり、多士済済の俳優や監督、スタッフらが息づいている。この人間群像へのシフトは、如何にも、落ち目の2人のスターには、物語りを大きく牽引する迫力不足として、スターによる独壇場に代わる多様化の一翼を描いているのでは無いか。
いずれにしても、リックはいささか執着心が強く、ハリウッドの、更なるミクロな界隈、つまり、スタジオでのコミュニケーションや仕事に没頭していて、それは、彼が一時代にスターダムに登りつめた、同じ道をロードするかのようだが、美貌も声も衰えて来たリックは、果たして、ファンと知名度頼みにした同じやり方で、やるしかない。自分にはこの世界しかない、と、片隅に身を置いているばかりで、やはり、プレイヤーとしての迫力には欠けるのだ。
ただ、彼がプライドを抱き続けるには理由があって、確かに、物語り中に流される傑作のアクションのシークエンスは、痛快で、あり得なくて、バイオレンスと言うよりはコメディタッチであり、それは、同時に、彼が映画のイメージの中で、英雄としてのモデルと、現実とでレースをしているのでは無いか。リスクを冒して、身体を張る時には、スタントのクリフとの交代劇が起きる。ただ、クリフは、元々が、リックの人気頼みなのだから、キャリアにはさしたるこだわりは、無いのだ。
だから、ビジネスとエモーションで協力し合って来た二人三脚の2人の主人公は、俳優とスタント、ながら、物語りは、個人主義的なクリフの部分の方がアクティブであり、また、核心となるヒッピーらの集団とも、リスキーなニアミスをする事から、重要な働きをする。
ともあれ、リックは相変わらず、西部劇にて活躍の場を見いだしているから、いぶし銀の演技だ、とは言えよう。しかし、ハリウッドの大樹の下にて働き続ける人生もあれば、クリフのように、クラシックカーをかっ飛ばして、軟派をしたり、ヒッピーの集落に旧友と会いに行ったり、開拓者クリフは、リックよりも価値のある、金、と言えようか。クリフは、同業者で、ブルース・リーのような肉体派の俳優とすら喧嘩をする、つまり、ポジション喪失に対する恐れの無さが、却って、アウトローすらを演じさせている。つまり、前者は過去に生きて、後者は今を生きて、今や2人の二人三脚は、逆方向を向いているが、その逆行とはフリースタイルを恐れないクリフの行動力にある事は間違いないと思う。
また、本作は、ハリウッドと冠しているタイトルにあるように、映画好きの為のマスターピースであり、金言の積み重ねであると思う。人間群像にフラットに光を当てるスタイルは、「それぞれのシネマ」のようであるが、日本代表として、北野武監督らを含めた監督達の挽歌であったのに対し、俳優達の生き方、にダウンサイズしている。更には、クリフの驚くべき反射神経にあるように、個人主義の下に、俳優と言うプロフェッショナルのイメージ、或いは、幻想なりが分解されて、それが、ひいては、ヒッピーらのスパーン牧場において、集団生活を送る人々の幻滅を招く複線とも成っている。非常に巧みな手腕だと言える。
また、英雄として、人気を博した俳優がどう生きて行くのか。答えは曖昧だが、そこは、アクションシーンの鮮烈さに長けたタランティーノ監督の盲点でもあるのだが、凄まじいアクションと言うお家芸によって、あらゆる、不協和音を呑み込んで、ブラックアウトする剛腕的なスタイルで、そうした、フィジカルから栄光と陰りに満ちた人生への答えは、あるがままに、では無いだろうか。まるで、「レット・イット・ビー」の音楽が、アクションシーンには不協和音ながら、深層にてシンクロしていた。無論、タラ監督のクライマックスに、ビートルズもリンゴ・スターも登場する事はない。
2022年04月15日 21:58
未亡人のダイアンは、息子であるスティーブを愛しては居るが、ADHDの障害を抱え、不安定であり時に暴力を振るう事があった。余りに問題行動がある為に、入院していた病院から強制退院をさせられ、ダイアンは自宅に帰り、サポートをしながら2人暮らしを始める。果たして、スティーブは平和を保ち、娑婆での幸せな母子生活を送る事が出来るのだろうか。
いつか観た景色が戻って来たと、母親は感じているのでは無いか。無論、障害と言うハンディに対する不満が無くはない。しかし、息子とは悪い部分をも含めての母子関係が正常であり、何を与えてやれるかを、まだ、15歳のスティーブには感じている筈で、彼の暴力には倦みながらも、スティーブ自身も自らの希望に、母親の幸せが掛かって居るには違いない。
スティーブの暴発とは、誰かに迷惑を掛けたり、巻き込んだりした場合を除いては、さしたる無軌道な行動と言う訳ではなく、母子関係を非常に大切にして居る。生来の彼は、愛情表現を知る、愛され上手なキャラである。だから、病院にまで見放される事で、負荷が増えた訳では無く、愛息と暮らす事のメリットは良く分かって居て、スティーブに対して、自分にとってのレガシーは、母子家庭でなけなしの財ではあるから、マテリアルに頼らないだけの、ソフトな愛情を残したいと、ダイアンは考えているだろう。
思春期と言う異性に対する好奇心は強いし、社交的である事は、スティーブを軽やかに、宙を舞うかのように、行動的にする。つまり、障害を抱えた闘病生活を明るくしている事は、強がりでは無いし、内なる病との闘いには、光を灯して、今までの経緯よりも、これからを考え、物事に向き合ったり、自分自身ですら理解し切って居ない痛みを感じ始めるのが、闘病の好転する回復期の初期段階の試練では無いか。
また、確かに、スティーブの沸点の低さ、暴力性はマナーを共有しない見ず知らずの他人には迷惑千万だが、ダイアンの包容力と言うべきか、自然に好きなものは好きだ、と言いたい心の厚みに溢れている。売り言葉に買い言葉、か、互いに口は悪いが、こうしたトラブルメーカーの母子に良さを見出す真の親友こそが、外からの包容力だと思う。
つまり、スティーブに必要なのは、内なる愛に外への導き、であり、母親と、隣人カイラの存在こそが、社会的リハビリには必要な鍵であり、決して、外してはいけない社会復帰に必要なポイントなのである。ADHDや暴力衝動から、口や態度の悪さゆえに孤独になりがちで、恐らく、病院側からは異端児と観られがちな人ほど、理解者なれば、人間関係を誰よりも大事に想える、重力を感じさせる理由は、愛ゆえだ、と言えると思う。
ただ、スティーブはかなりの重症であり、ダイアンは大変な苦労もする。周囲には大迷惑な息子だと映った事だろう。しかし、闘病生活とは言え、底抜けに明るい母子ゆえに、甘い生活がある。しかも、それは、ミドルロー程度の、だれにも手の届く財政的には、慎ましやかな暮らしに過ぎないから、スティーブの放逸的な自由、とか、精神の根にある美徳における真っ直ぐさ、を主柱として居る。つまり、財政的には母親頼みながら、心の大黒柱にはスティーブがしかと収まり、傷付ける人々を支え、印象付けているのである。
ダイアンとカイラは、好きでスティーブと居るのであって、倒れそうになる彼の肉体を支え、起こして、二人三脚で歩む必要に迫られても、決して、重苦しい息詰まる修羅場では無い。彼は軽やかなのであって、自由も不自由も感染する事を思えば、2人の大人の女性の看護の不自由を、自由に変えられるのは、大人の変化だけで無く、子供の急速な変化により、風が吹く事である。成長期ゆえに彼らは変わりやすいが、そこには、大きなミステイクが秘されて居る場合もある。しかし、本作では、スティーブに秘された人格的な真価は、不自由の破壊、にして、母子関係を中心とした、自由な人生の再生、にあると思えてならない。