2022年06月
2022年06月25日 14:44
2020年、夏。北海道の旧炭鉱町、里宮に住む、同じ学校に通う6人の高校生と、一人のタイ人の子供の物語。彼の有名な実写版「僕らの七日間戦争」のリメイク作品であり、完全なるアニメヴァージョンである。反抗の理由は、大人への反発であるが、それが、学校とか信念によるもの、と言うよりは、個人的な恋愛とか、初恋の事情から、ひょんなことに、七人の少年少女らの炭鉱工場での立てこもりが始まる。
ハードボイルド、における、世の中に正義を問う、とは、日常からは気付かない不満があって、そこを盲点から突く事によって、常識だけの価値観を、悪だとする対立構図があり、特に、少年少女らの反抗期というのは、そうした、子供の視点から導き出された盲点に、ストーリーの醍醐味があると思う。だから、そういう反抗期における打ち上げ花火のような、華々しいイベント性とは、記憶にとどまるという意味では、瞼に焼き付けられる心の中でのランドマーク、となるのでは無いか。
つまり、ひと夏の恋、的な、花火の後の静寂、における闇夜に、朧げな満月を観る事で、侘び寂び、の心情が湧き上がって来るのでは無いだろうか。つまり、本作では、大々的かつ、決定的な大人との確執があるのでは無いのは、作戦開始の理由が、高校生の読書好きな守が、幼馴染の綾に長年募って来た恋心による事からも明らかなのである。綾の父親は政治家なのだが、これが出来が悪く、男尊女卑で父権的な親父なのであるが、その父親への反抗が、この小さな戦争の火種となって居る事、その戦線は膠着して一筋縄では行かない事は、オリジナルの実写版での徹底抗戦からも、周知であり、また、戦争と銘打っているから不可避な対立であろう事は、物語の核心に触れる、とは言えないだろう。
北海道の旧炭鉱町と言う事で、夕張とか空知のような経済的にはとても、古豪とは言えないような街が舞台と言う事である。だが、繁栄に対して、住民の幸せも、必要とされる政治家、政策提唱もまた、復興への願いと言う意味では、ただ、数を揃えるという事では無いだろう。つまり、綾の父親で議員であり、東京への移転を考えている秀雄は、子離れと言う意味では、非常にロリータ趣味であり、また、そうした性癖が、異性の理解には本質的に至らない事であり、単なる欲求不満であろう。
また、秀雄が望んだものは、政治家の令嬢としての淑やかで、何でも父親の言う事を聞く従順な子供のモデルであり、通用しない教育観であると思う。それは、最早、教え育てる事では無く、一方的な干渉であるから、父権的な父親がその専権を奮う事で、却って、より、子供の反抗期を深刻にする。つまり、時代遅れの体制の崩壊する理由というのは、外や他人の家族からの圧力では無く、誤った理屈を持って、集団として自壊する自然作用にある、と言って良い。
つまり、この物語における戦場が、今は使われていないうらぶれた廃坑である事は、この戦争の時代性とか、タイムリーなものだ、と言う事では無い、という、瀟洒な後進性を示している。また、性善説と性悪説との根源的な争いの要因があり、それが、世代間抗争を避ける事で、却って、秀雄の悪徳ぶりを際立てるのでは無いか。孤独な人間は、肉親であれ、大成し幸せになる事に我慢がならない。或いは、ズレた正義感である秀雄においては、綾に従順さを要求するものの、それは、翻せば、目下の人間には強圧的だが、実際には、目上の人間ばかりなのが政界だろうから、威張り腐った犬ほど見苦しく、アンラッキーな存在は無い、と言う事かも知れない。
だが、この戦争物語において、最重要だと思えるのは、やはり、少年少女らが本気でバカンスを楽しんでいる事にあり、それは、むしろ、戦争という潰し合いの悪の意識よりも、テーマパークに迷い込んだかのような享楽ぶりにあり、本気、によって、廃坑で過ごそうとしたならば、子供心としては楽しまねば大損だ、という、思春期独特の感性が、全開に活かされているのでは無いか。つまり、この戦争は不毛だと言う事であるが、性善説として、開戦が愛を基とするものであるならば、対立する性悪説の側として、何を終戦の決定打とするか、が問題であり、前向きに提唱されねばならない、という事だと思う。
ハードボイルド、における、世の中に正義を問う、とは、日常からは気付かない不満があって、そこを盲点から突く事によって、常識だけの価値観を、悪だとする対立構図があり、特に、少年少女らの反抗期というのは、そうした、子供の視点から導き出された盲点に、ストーリーの醍醐味があると思う。だから、そういう反抗期における打ち上げ花火のような、華々しいイベント性とは、記憶にとどまるという意味では、瞼に焼き付けられる心の中でのランドマーク、となるのでは無いか。
つまり、ひと夏の恋、的な、花火の後の静寂、における闇夜に、朧げな満月を観る事で、侘び寂び、の心情が湧き上がって来るのでは無いだろうか。つまり、本作では、大々的かつ、決定的な大人との確執があるのでは無いのは、作戦開始の理由が、高校生の読書好きな守が、幼馴染の綾に長年募って来た恋心による事からも明らかなのである。綾の父親は政治家なのだが、これが出来が悪く、男尊女卑で父権的な親父なのであるが、その父親への反抗が、この小さな戦争の火種となって居る事、その戦線は膠着して一筋縄では行かない事は、オリジナルの実写版での徹底抗戦からも、周知であり、また、戦争と銘打っているから不可避な対立であろう事は、物語の核心に触れる、とは言えないだろう。
北海道の旧炭鉱町と言う事で、夕張とか空知のような経済的にはとても、古豪とは言えないような街が舞台と言う事である。だが、繁栄に対して、住民の幸せも、必要とされる政治家、政策提唱もまた、復興への願いと言う意味では、ただ、数を揃えるという事では無いだろう。つまり、綾の父親で議員であり、東京への移転を考えている秀雄は、子離れと言う意味では、非常にロリータ趣味であり、また、そうした性癖が、異性の理解には本質的に至らない事であり、単なる欲求不満であろう。
また、秀雄が望んだものは、政治家の令嬢としての淑やかで、何でも父親の言う事を聞く従順な子供のモデルであり、通用しない教育観であると思う。それは、最早、教え育てる事では無く、一方的な干渉であるから、父権的な父親がその専権を奮う事で、却って、より、子供の反抗期を深刻にする。つまり、時代遅れの体制の崩壊する理由というのは、外や他人の家族からの圧力では無く、誤った理屈を持って、集団として自壊する自然作用にある、と言って良い。
つまり、この物語における戦場が、今は使われていないうらぶれた廃坑である事は、この戦争の時代性とか、タイムリーなものだ、と言う事では無い、という、瀟洒な後進性を示している。また、性善説と性悪説との根源的な争いの要因があり、それが、世代間抗争を避ける事で、却って、秀雄の悪徳ぶりを際立てるのでは無いか。孤独な人間は、肉親であれ、大成し幸せになる事に我慢がならない。或いは、ズレた正義感である秀雄においては、綾に従順さを要求するものの、それは、翻せば、目下の人間には強圧的だが、実際には、目上の人間ばかりなのが政界だろうから、威張り腐った犬ほど見苦しく、アンラッキーな存在は無い、と言う事かも知れない。
だが、この戦争物語において、最重要だと思えるのは、やはり、少年少女らが本気でバカンスを楽しんでいる事にあり、それは、むしろ、戦争という潰し合いの悪の意識よりも、テーマパークに迷い込んだかのような享楽ぶりにあり、本気、によって、廃坑で過ごそうとしたならば、子供心としては楽しまねば大損だ、という、思春期独特の感性が、全開に活かされているのでは無いか。つまり、この戦争は不毛だと言う事であるが、性善説として、開戦が愛を基とするものであるならば、対立する性悪説の側として、何を終戦の決定打とするか、が問題であり、前向きに提唱されねばならない、という事だと思う。
2022年06月17日 22:51
戦争の次に来たる時代は何か。平和な世の為には、同盟が最重要で、そのための政略結婚、であるのか。駒となる三人の王女たちにとっての幸せとは?この中国皇帝は賢明である。判断を決して誤らない。それは、同盟国に王女を嫁がせて、蒙古への備えとして関係を強化する事であった。中国より北西の同盟国にたどり着くまでに、護衛として選ばれたのは、ムーランに、シャン将軍、それに、前作とのシャンの将軍繋がりで、成熟した友人関係にある三人の熱血義勇兵たちであった。少数精鋭なるも、必ずしも、「戦争の英雄」となった彼らが、「私生活の成功者」となる訳では無さそうだ。
だが、ストーリーとして白眉なのは、ムーランとシャンという、ヒーロー&ヒロインの絆にある主人公たちの幸せとは、多くの人の心にさざ波を立てるものだという事である。
そこに来れば、王女らは約束されたマリッジによって、親が決めた相手が治める国に君臨し、約束の地が安楽に近い特等席だ。だが、ムーランはそんな、籠の中の鳥のように、生きねばならぬ王女ら、を不憫に思い、それは、彼女のこれからの人生が洋々と開けているからでもある。市井目線からすれば、普通の少女、に過ぎない三人である。兵隊の目線は、王女らを畏れ多く感じて、平伏すばかりで、ここには予定調和しかない筈であったが、その段取りを失った時、つまり、旅路における非日常は、カオスを生むものでは無いだろうか。その中から、きらりと光る純愛が生まれるかも知れない。
前作における、烈女ムーランが受けた試練と、その果実としての愛、成功と失敗にたどり着くまでの経験値を、他人と分かち合う事だ。そのパワーの入れ替わりとか、注入というのは、厳しい真実として酷評されている。だが、それは、英雄が、自らの功績をパイのように切り分けする、と言う事であるから、何とも思わない、と言う事は無い。
それでも、もし、古の英雄が自身のプライドを必要以上に誇り、傲慢に構えるならば、彼はパイを独占するかも知れない。否、チャンピオンのプライドが鋼よりも硬いならば、そのベルトは、決して切り分け出来るような脆い食べ物では無い筈である。だが、その頂きにいる者は、当代随一であるから、誰も敢えて、挑もうとはしないのだろう。だから、そうした立場にあって、尚、ムーランという救国の乙女の個性が、自信過剰どころか、謙虚で穏やかだ、という、奇跡にこの映画は立ち会わせているのかも知れない。
中国の内陸部で競い合った異なる時代の草原の覇者、フン族と蒙古は同時期に覇権に絡んでは無い筈だから、たかだか、一カ月の間に二強を相当な負荷で相手にする国難は、相手国の騎馬民族の勢力関係上、あり得ない。だから、この中国王朝がいつの時代柄なのかは、不明であり、フィクションの王朝であろう。儒教国家とはいえ、若者たちの自由恋愛とは、このプリンセス達が自分たちを束縛する宿命と戦うという事であり、その甘いゲームの勝者となるだけで、幸せになれる、驚愕の真実が、非常に、穏やかに、平和裏に描かれるのである。これは、賢明で穏やかな皇帝が、同盟を壊しかねない、とある出来事をどう応じるか、であり、彼個人は鷹揚でも、立場が寛容を許さないだろう。
ムーランにも立場があるし、もっと切実なのは、将軍であるシャンの立場であって、彼と同じ境遇となれば、その出来事は最も許されざる、公僕にとっての大罪だろう。しかし、社会の中でも裕福で、快適であり、安全地帯に生まれただけで、それが、王女らのさえずりを明るくするものとは限らない。中国皇帝とはいえ、安泰ばかりの人生を送られるわけでは無い。歴史上、フン族は漢を打ち負かしたし、蒙古は中国をホームランドとしながら、世界的な帝国を作り上げた。その歴々の英雄達に対して、このストーリーの皇帝は、自らの帝室、という、一個の家庭に過ぎない人生を、ホームランドとするのだ。だから、彼なりに、精一杯に王女、娘たちの、女としての幸せを願っての事ではあるまいか。
皇帝の気持ちとしては、北方異民族と対峙して、牽制関係が続く中で、平和こそが為政者が形にすべき愛であり、願い、である事をその個人的な器量人としての雄大さから、普遍的な真理として実現させた。むしろ、頑固でもあるが、指導者にとっては大切な資質だと思われる。
王女という堅苦しいヴェールを、女性として、この三人の王女らは、常々、嫌がって来たのであって、その父権主義の軛、を、最初に解放してみせたのが、ムーランである。だから、その救国の乙女に、三人の王女らは続いた、と言える。そして、それは、英雄から受ける感化に対して、凡人が素直に電撃を受けて、影響を鏡のように映した行動に過ぎない、と思う。如何に、優秀で聡明な皇帝であっても、数少ない失策はある。むしろ、彼の公務では非常に珍しいであろうが、それは、パブリックでは無く、プライベートでの乙女心を理解し損ねた事なのだ。同じ乙女とは言え、救国の乙女の心はがっちり掴んでおり、ムーランには厚い信頼を寄せている。国家の父親として、リスペクトに値し、ハグし合う最大の理解者なだけに、その器の大小を巡る国家の娘たちの扱いの難しさ、が、彼という人の頭にもたげた、乙女たちに兵卒たちとの奇妙なストーリー。
だが、ストーリーとして白眉なのは、ムーランとシャンという、ヒーロー&ヒロインの絆にある主人公たちの幸せとは、多くの人の心にさざ波を立てるものだという事である。
そこに来れば、王女らは約束されたマリッジによって、親が決めた相手が治める国に君臨し、約束の地が安楽に近い特等席だ。だが、ムーランはそんな、籠の中の鳥のように、生きねばならぬ王女ら、を不憫に思い、それは、彼女のこれからの人生が洋々と開けているからでもある。市井目線からすれば、普通の少女、に過ぎない三人である。兵隊の目線は、王女らを畏れ多く感じて、平伏すばかりで、ここには予定調和しかない筈であったが、その段取りを失った時、つまり、旅路における非日常は、カオスを生むものでは無いだろうか。その中から、きらりと光る純愛が生まれるかも知れない。
前作における、烈女ムーランが受けた試練と、その果実としての愛、成功と失敗にたどり着くまでの経験値を、他人と分かち合う事だ。そのパワーの入れ替わりとか、注入というのは、厳しい真実として酷評されている。だが、それは、英雄が、自らの功績をパイのように切り分けする、と言う事であるから、何とも思わない、と言う事は無い。
それでも、もし、古の英雄が自身のプライドを必要以上に誇り、傲慢に構えるならば、彼はパイを独占するかも知れない。否、チャンピオンのプライドが鋼よりも硬いならば、そのベルトは、決して切り分け出来るような脆い食べ物では無い筈である。だが、その頂きにいる者は、当代随一であるから、誰も敢えて、挑もうとはしないのだろう。だから、そうした立場にあって、尚、ムーランという救国の乙女の個性が、自信過剰どころか、謙虚で穏やかだ、という、奇跡にこの映画は立ち会わせているのかも知れない。
中国の内陸部で競い合った異なる時代の草原の覇者、フン族と蒙古は同時期に覇権に絡んでは無い筈だから、たかだか、一カ月の間に二強を相当な負荷で相手にする国難は、相手国の騎馬民族の勢力関係上、あり得ない。だから、この中国王朝がいつの時代柄なのかは、不明であり、フィクションの王朝であろう。儒教国家とはいえ、若者たちの自由恋愛とは、このプリンセス達が自分たちを束縛する宿命と戦うという事であり、その甘いゲームの勝者となるだけで、幸せになれる、驚愕の真実が、非常に、穏やかに、平和裏に描かれるのである。これは、賢明で穏やかな皇帝が、同盟を壊しかねない、とある出来事をどう応じるか、であり、彼個人は鷹揚でも、立場が寛容を許さないだろう。
ムーランにも立場があるし、もっと切実なのは、将軍であるシャンの立場であって、彼と同じ境遇となれば、その出来事は最も許されざる、公僕にとっての大罪だろう。しかし、社会の中でも裕福で、快適であり、安全地帯に生まれただけで、それが、王女らのさえずりを明るくするものとは限らない。中国皇帝とはいえ、安泰ばかりの人生を送られるわけでは無い。歴史上、フン族は漢を打ち負かしたし、蒙古は中国をホームランドとしながら、世界的な帝国を作り上げた。その歴々の英雄達に対して、このストーリーの皇帝は、自らの帝室、という、一個の家庭に過ぎない人生を、ホームランドとするのだ。だから、彼なりに、精一杯に王女、娘たちの、女としての幸せを願っての事ではあるまいか。
皇帝の気持ちとしては、北方異民族と対峙して、牽制関係が続く中で、平和こそが為政者が形にすべき愛であり、願い、である事をその個人的な器量人としての雄大さから、普遍的な真理として実現させた。むしろ、頑固でもあるが、指導者にとっては大切な資質だと思われる。
王女という堅苦しいヴェールを、女性として、この三人の王女らは、常々、嫌がって来たのであって、その父権主義の軛、を、最初に解放してみせたのが、ムーランである。だから、その救国の乙女に、三人の王女らは続いた、と言える。そして、それは、英雄から受ける感化に対して、凡人が素直に電撃を受けて、影響を鏡のように映した行動に過ぎない、と思う。如何に、優秀で聡明な皇帝であっても、数少ない失策はある。むしろ、彼の公務では非常に珍しいであろうが、それは、パブリックでは無く、プライベートでの乙女心を理解し損ねた事なのだ。同じ乙女とは言え、救国の乙女の心はがっちり掴んでおり、ムーランには厚い信頼を寄せている。国家の父親として、リスペクトに値し、ハグし合う最大の理解者なだけに、その器の大小を巡る国家の娘たちの扱いの難しさ、が、彼という人の頭にもたげた、乙女たちに兵卒たちとの奇妙なストーリー。
2022年06月15日 17:44
ムーランという、可憐な洟垂れ姑娘か、世にも稀な烈女であるか。彼女は、普通の女子とは程遠い、走り回ったり、馬に乗ったり、遊ぶのが大好きなキャラであるが、これは、中国の女性観からすれば、淑やかな美女である事とか、纏足が強いられていた、凡庸な支配の文化に対する異端児でもある。婦女子の立場とは弱いだろうか。男性が家庭の安寧を守る為に、自分の妻子を守る、立てる事は多々あるが、この何処に、男性の従属する堅苦しい関係性があるだろうか。むしろ、ムーランは、そうした、お転婆な10代女性であり、保守的な家柄からすれば、眉をひそめて見られ兼ねない自分の性格を知り抜きながら、その父親とか、先祖の祭祀に礼を取るなど、親孝行ぶりは目を見張るものがある。
彼女は、自分のキャラを致し方ない、としながらも、唯一無二だ、と感じており、男っぽさと優しさが共存した自分は何者であるか、それなりの器量人である、との、自覚があったのだろう事は、性急な行動力によって裏付けられる事である。彼女は、足に障害を負った父親に代わり、とんでもない事をするのだから。
ムーランには、儒教の規範を地で行くところがあるから、父親に対する考え方が、まず第一にはファ家の父親であり、更には、軍隊の将軍、そして、それらによって守られる全ての中心に皇帝が居る。これは、男勝りと言う事で、また、その非凡な英雄的行為から、異端児でもあるムーランが抱えている矛盾とは、決して、民衆の血の絆から抜け出るものでは無い、と言う事である。そして、それを裏付けるのは、上述したように、お転婆ムーランを溺愛する父親の態度にあるが、そこには、一身の深い愛があり、それは、父娘の間にある強い絆と一本線によって紡がれて行く、成長とか、逆転とか、後継、或いは、離別などといった人生観を、儒教的規範から支えるものである事は間違い無かろう。
むしろ、難しいのは、公の器によって、ムーランが認められる事であり、それには、やはり、可愛いとか可憐な姑娘だ、という女性としての優美さが、軍隊では一転して足枷になる可能性があるという事で、この組織哲学の罠こそが、ムーランの自由とか意志、亡国の危機に対する志に対して仕掛けられた、心の纏足であり、それは、ムーランのみならず、他の同胞女性らも抱えているものでは無いか。そして、普通は、そういうハンディには気付かない事に常識から観た中国の女性社会があり、一向に揺らがない男性社会の真実がありはしないか。
だから、ムーランが、長く時間と運命を共にする事になる、多数の戦友たちに恵まれた軍隊では、万里の長城を超えて来た北方騎馬民族フン族の勇猛な敵との戦いを意識しつつ、同じ郷里から集められた新兵の集まりを育て上げる若手の将軍リー・シャンの指揮下に戦える部隊に成れるように、あらゆる訓練を施される。しかし、軍隊における組織的な拒絶反応と言うか、それとも、ただ、寄せ集めの若者たちの集団であるせいか、彼らをいっぱしの軍隊に仕立て上げるまでに、大変な大喧嘩があったり、ムーランの性別を隠しながらのチラ、ドキ、などのお約束の出来事があったり、また、シャンの個性と熱血指導が、彼らとのエゴや身勝手さとの衝突を超えて、どういう姿に成長して行くのか。
一方で、フン族は兵器を持たない馬上の騎馬民族とはいえ、漢民族にとっては難敵なので、女性であるムーランがどこまで現場現実に適応して行くか、が見物ではある。多数の漢軍が撃破されて、その度に踏破されて来た大騎馬の不気味さは、歩兵がどうやって難敵に当たるか、という戦場の厳しさと、死が近いというストーリーのダークサイドがある。つまり、国を守るとは、こういう苛酷な血を流す戦場のみならず、国が日々平安にある事にあり、生活や市井には血を欲する、つまり、温かさやぬくもりを、身内に感じて、そのために素直に行動したり、表現出来る事であり、それは、まさに、ムーランが父親を日々、尊重して来た事に現れている事では無いだろうか。
何故なら、彼女の最大の武器は、その器量にあるからで、それが、普通ならば、恐縮するだけの皇帝をすら、その立場の違いを観ながらも、彼女一流の素直な愛情表現、リスペクトによって具現される、身分や階級を超えた行動、作品的には、演出があるからこそ、そのいずれから観ても、ムーランには大きな愛、がある、と良い意味での諦観が観えるから。ともあれ、彼女の試練というのは、男性の集団に馴染んだり、従軍したり、策を巡らしたり、とにかく、多彩に傑出している面が多々あって、まことに華やかなりし女傑なのである。
何が戦で必要なのか、という、重大な問いとは、生活を楽しく自由に生きる為に必要なものと、とても似ている、と思う。それが自然に備わっている軍は強く、無理強いされている不自然は弱い。
彼女は、自分のキャラを致し方ない、としながらも、唯一無二だ、と感じており、男っぽさと優しさが共存した自分は何者であるか、それなりの器量人である、との、自覚があったのだろう事は、性急な行動力によって裏付けられる事である。彼女は、足に障害を負った父親に代わり、とんでもない事をするのだから。
ムーランには、儒教の規範を地で行くところがあるから、父親に対する考え方が、まず第一にはファ家の父親であり、更には、軍隊の将軍、そして、それらによって守られる全ての中心に皇帝が居る。これは、男勝りと言う事で、また、その非凡な英雄的行為から、異端児でもあるムーランが抱えている矛盾とは、決して、民衆の血の絆から抜け出るものでは無い、と言う事である。そして、それを裏付けるのは、上述したように、お転婆ムーランを溺愛する父親の態度にあるが、そこには、一身の深い愛があり、それは、父娘の間にある強い絆と一本線によって紡がれて行く、成長とか、逆転とか、後継、或いは、離別などといった人生観を、儒教的規範から支えるものである事は間違い無かろう。
むしろ、難しいのは、公の器によって、ムーランが認められる事であり、それには、やはり、可愛いとか可憐な姑娘だ、という女性としての優美さが、軍隊では一転して足枷になる可能性があるという事で、この組織哲学の罠こそが、ムーランの自由とか意志、亡国の危機に対する志に対して仕掛けられた、心の纏足であり、それは、ムーランのみならず、他の同胞女性らも抱えているものでは無いか。そして、普通は、そういうハンディには気付かない事に常識から観た中国の女性社会があり、一向に揺らがない男性社会の真実がありはしないか。
だから、ムーランが、長く時間と運命を共にする事になる、多数の戦友たちに恵まれた軍隊では、万里の長城を超えて来た北方騎馬民族フン族の勇猛な敵との戦いを意識しつつ、同じ郷里から集められた新兵の集まりを育て上げる若手の将軍リー・シャンの指揮下に戦える部隊に成れるように、あらゆる訓練を施される。しかし、軍隊における組織的な拒絶反応と言うか、それとも、ただ、寄せ集めの若者たちの集団であるせいか、彼らをいっぱしの軍隊に仕立て上げるまでに、大変な大喧嘩があったり、ムーランの性別を隠しながらのチラ、ドキ、などのお約束の出来事があったり、また、シャンの個性と熱血指導が、彼らとのエゴや身勝手さとの衝突を超えて、どういう姿に成長して行くのか。
一方で、フン族は兵器を持たない馬上の騎馬民族とはいえ、漢民族にとっては難敵なので、女性であるムーランがどこまで現場現実に適応して行くか、が見物ではある。多数の漢軍が撃破されて、その度に踏破されて来た大騎馬の不気味さは、歩兵がどうやって難敵に当たるか、という戦場の厳しさと、死が近いというストーリーのダークサイドがある。つまり、国を守るとは、こういう苛酷な血を流す戦場のみならず、国が日々平安にある事にあり、生活や市井には血を欲する、つまり、温かさやぬくもりを、身内に感じて、そのために素直に行動したり、表現出来る事であり、それは、まさに、ムーランが父親を日々、尊重して来た事に現れている事では無いだろうか。
何故なら、彼女の最大の武器は、その器量にあるからで、それが、普通ならば、恐縮するだけの皇帝をすら、その立場の違いを観ながらも、彼女一流の素直な愛情表現、リスペクトによって具現される、身分や階級を超えた行動、作品的には、演出があるからこそ、そのいずれから観ても、ムーランには大きな愛、がある、と良い意味での諦観が観えるから。ともあれ、彼女の試練というのは、男性の集団に馴染んだり、従軍したり、策を巡らしたり、とにかく、多彩に傑出している面が多々あって、まことに華やかなりし女傑なのである。
何が戦で必要なのか、という、重大な問いとは、生活を楽しく自由に生きる為に必要なものと、とても似ている、と思う。それが自然に備わっている軍は強く、無理強いされている不自然は弱い。
2022年06月12日 16:14
本当に三國志?とも言い難い、ゆるゆるなストーリーである。戦争のリアリズムから来る悲惨な要素は全く無いが、ただ、三國志という奇跡が、劉備の個性によって支えられ、幸運や一発逆転、軍師諸葛孔明との出逢いなどの綺羅星の光、などがあってあり得た、と言う事では無いか。
劉備三兄弟と言えば、桃園の誓いによって、結び付いた絆があって、英雄として彼ら兄弟を印象付ける演出ではある。人の手による介在があっての事なので、三國志の中では、結果的に、特に劉備にとっての因縁深い絆とはなった。つまり、最後まで生き延びた劉備がその孤独に耐え兼ねられるか、という事であり、その絆を巡る大事件もまた、英雄の数奇な因縁をビビッドに描くものでは無いか。
つまり、史実には拠っており、西田敏行の論評が、一応的を射てはいるものの、何処か、他人行儀であり、そのニヒリズムは劉備にも受け継がれており、風来坊のムシロ売りである彼のやる気の無さとは、民草と足並みを共にして、彼らの願う天下に対するビジョンがあっての事では無いのか。つまり、平和であり、劉備自身が民のように、最後まで生き延びる事、平和に楽しく暮らしたいという、ささやかな欲望で出来ている、凡人である証を描いている、に過ぎないと思う。
そう考えると、桃園より旗揚げで義勇兵としての戦となる黄巾党に対して、中途半端だと、喝破されたのは劉備が情けないやる気の無い漢だから、と言う事では無さそうだ。むしろ、琢の村でムシロ売りをしながら、大志を抱いていた劉備は、くすぶっている所があって、賊軍とはいえ元はと言えば太平道に騙された百姓や民草が敵兵である事を思っての、愛民が、その中途半端な士気の理由なのでは無いだろうか。従って、たかだか砦に駐屯しているだけの賊軍の部将、に、喝破されたとしても、劉備の大志からすれば、激高せず、何も言い返さなかったゆえんとは、大志の前には、言葉の刺激によって揺らぐものも、痛みも大したことは無い、と言う事では無いか。
劉備は黄龍を背に、光をまとっているかのようで、演義ベースからすれば、彼が善玉であるのは間違いが無いのだが、そこには、ただの善人では済まさない、稀代の楽天家にして人たらしのコメディ要素の強い、現代人的な劉備像がある、と思われる。義勇兵として旗揚げをして、中原を転戦した、まさに転がるように試練と苦労を重ねた劉備が、ただ、ストイックなだけでは折れる、だろうから、有能、英雄の極みである曹操に立ち向かい続けただけでも、劉玄徳の功績は認められるべきでは無いか。
彼の股肱となったのは、三兄弟の内の関羽、張飛である事は言うまでもないが、趙雲がイケメンで多少、浮いている感があり、また、床几を並べての軍議には参加していない事から、本当の水魚とは諸葛孔明である事が明らかである。ゆるゆるの極みのようなストーリーなので、彼らの仲の良さが、間となって居ない、癒しやコメディタッチの場面が多いので、リズムが多少取れていない、調子外れでバランスの音痴な所が気になった。ともあれ、劉備と孔明の掛け合いは、絶妙なので、義よりも、何より楽しさを優先する主人公らの中でも、最も仲の良い四兄弟、とでも言うべき、新たな主従の絆が観える所である。
これにおいて、蜀以外の、魏と呉の柱となる、曹操や孫権、周瑜といった、他の国の英雄達に対して、劉備と孔明のキャラによる押し、が何よりも強力であり、その掛け合いによって、呉の地で士や民より周郎と慕われた周瑜を煽ったり、孫権を簡単に篭絡してしまうのである。基本的に、主従の礼儀では無く、コンビのように横に並んで、タメ口で相手を弄っている、つまり、言葉を使いコメディに展開を引き込めば、この水魚の主従ほど、篭絡を基本とした口喧嘩に強いコンビは無い、と思う。
劉備は絶対的に弱い立場にあった人であり、そこから這い上がったからこそ英雄とされるのである。如何に、義弟達が武勇に優れていても、その軍団とのパワーバランスは簡単には覆らない。だから、本作においては、劉備の最大の武器は舌三寸。口から生まれて来たのか、と思わせるような、饒舌で、ちょっと意地悪な語彙に溢れた、コメディアン政治家的な、ポップなスタイルが浮かんでいるからである。だから、この新解釈では、彼は烈士では無いから、最大の敵とは政局によって移り変わり、因縁というよりは、江戸っ子的なその日暮らしであり、この三國志じたいが、日本的な日替わりコメディに席巻されている、と言える。
だから、劉備にとっては、董卓、呂布、曹操、といった因縁のライバル達は居るものの、その戦の佳境には時期があり、最も激しい時と、ほとんど停戦状態の時もある、と言う事である。だから、この劉備は、やる気の無さが目立った特徴で、戦嫌い、サボタージュの多い、浮付いた英雄、ながら、愛民という考えだけは一貫したものがあるのだ。これは、多彩な曹操の複雑怪奇さに対して、唯一、他の武将が対抗し得る型なるも、誰も敢えて目指そうとしなかった単純さがあり、シンプル・イズ・ベスト、と言う意味では、この現代人のように個人主義的、博愛者である劉備は、リベラルな世界の住人なのでは無いだろうか。
劉備三兄弟と言えば、桃園の誓いによって、結び付いた絆があって、英雄として彼ら兄弟を印象付ける演出ではある。人の手による介在があっての事なので、三國志の中では、結果的に、特に劉備にとっての因縁深い絆とはなった。つまり、最後まで生き延びた劉備がその孤独に耐え兼ねられるか、という事であり、その絆を巡る大事件もまた、英雄の数奇な因縁をビビッドに描くものでは無いか。
つまり、史実には拠っており、西田敏行の論評が、一応的を射てはいるものの、何処か、他人行儀であり、そのニヒリズムは劉備にも受け継がれており、風来坊のムシロ売りである彼のやる気の無さとは、民草と足並みを共にして、彼らの願う天下に対するビジョンがあっての事では無いのか。つまり、平和であり、劉備自身が民のように、最後まで生き延びる事、平和に楽しく暮らしたいという、ささやかな欲望で出来ている、凡人である証を描いている、に過ぎないと思う。
そう考えると、桃園より旗揚げで義勇兵としての戦となる黄巾党に対して、中途半端だと、喝破されたのは劉備が情けないやる気の無い漢だから、と言う事では無さそうだ。むしろ、琢の村でムシロ売りをしながら、大志を抱いていた劉備は、くすぶっている所があって、賊軍とはいえ元はと言えば太平道に騙された百姓や民草が敵兵である事を思っての、愛民が、その中途半端な士気の理由なのでは無いだろうか。従って、たかだか砦に駐屯しているだけの賊軍の部将、に、喝破されたとしても、劉備の大志からすれば、激高せず、何も言い返さなかったゆえんとは、大志の前には、言葉の刺激によって揺らぐものも、痛みも大したことは無い、と言う事では無いか。
劉備は黄龍を背に、光をまとっているかのようで、演義ベースからすれば、彼が善玉であるのは間違いが無いのだが、そこには、ただの善人では済まさない、稀代の楽天家にして人たらしのコメディ要素の強い、現代人的な劉備像がある、と思われる。義勇兵として旗揚げをして、中原を転戦した、まさに転がるように試練と苦労を重ねた劉備が、ただ、ストイックなだけでは折れる、だろうから、有能、英雄の極みである曹操に立ち向かい続けただけでも、劉玄徳の功績は認められるべきでは無いか。
彼の股肱となったのは、三兄弟の内の関羽、張飛である事は言うまでもないが、趙雲がイケメンで多少、浮いている感があり、また、床几を並べての軍議には参加していない事から、本当の水魚とは諸葛孔明である事が明らかである。ゆるゆるの極みのようなストーリーなので、彼らの仲の良さが、間となって居ない、癒しやコメディタッチの場面が多いので、リズムが多少取れていない、調子外れでバランスの音痴な所が気になった。ともあれ、劉備と孔明の掛け合いは、絶妙なので、義よりも、何より楽しさを優先する主人公らの中でも、最も仲の良い四兄弟、とでも言うべき、新たな主従の絆が観える所である。
これにおいて、蜀以外の、魏と呉の柱となる、曹操や孫権、周瑜といった、他の国の英雄達に対して、劉備と孔明のキャラによる押し、が何よりも強力であり、その掛け合いによって、呉の地で士や民より周郎と慕われた周瑜を煽ったり、孫権を簡単に篭絡してしまうのである。基本的に、主従の礼儀では無く、コンビのように横に並んで、タメ口で相手を弄っている、つまり、言葉を使いコメディに展開を引き込めば、この水魚の主従ほど、篭絡を基本とした口喧嘩に強いコンビは無い、と思う。
劉備は絶対的に弱い立場にあった人であり、そこから這い上がったからこそ英雄とされるのである。如何に、義弟達が武勇に優れていても、その軍団とのパワーバランスは簡単には覆らない。だから、本作においては、劉備の最大の武器は舌三寸。口から生まれて来たのか、と思わせるような、饒舌で、ちょっと意地悪な語彙に溢れた、コメディアン政治家的な、ポップなスタイルが浮かんでいるからである。だから、この新解釈では、彼は烈士では無いから、最大の敵とは政局によって移り変わり、因縁というよりは、江戸っ子的なその日暮らしであり、この三國志じたいが、日本的な日替わりコメディに席巻されている、と言える。
だから、劉備にとっては、董卓、呂布、曹操、といった因縁のライバル達は居るものの、その戦の佳境には時期があり、最も激しい時と、ほとんど停戦状態の時もある、と言う事である。だから、この劉備は、やる気の無さが目立った特徴で、戦嫌い、サボタージュの多い、浮付いた英雄、ながら、愛民という考えだけは一貫したものがあるのだ。これは、多彩な曹操の複雑怪奇さに対して、唯一、他の武将が対抗し得る型なるも、誰も敢えて目指そうとしなかった単純さがあり、シンプル・イズ・ベスト、と言う意味では、この現代人のように個人主義的、博愛者である劉備は、リベラルな世界の住人なのでは無いだろうか。
2022年06月11日 18:01
1955年、ジェームズ・ディーンが居た時代。「理由なき反抗」「エデンの東」などの名画に主演を務める前の、まだ、無名の新人「ジミー」のスターダムへの挑戦がある。ジミーの写真を撮るのは、デニス・ストックであり、他ならぬ彼の直感によって、いずれスターになるだろうジミーを追い掛ける事になる。だが、スクープ狙いという訳では無く、この二人は年齢が近い事もあって、親友として打ち解けて行く。デニスが撮る写真もまた、生活感に溢れるシーンが多く、それが逆に、ジミーのスター性を裏付けていると言える。つまり、芸術として写真とスターとの融合によって、この二人にはWinWinの関係が成り立っている、と言う事だろう。
その美麗な写真には、構図の上手さはデニスのものであるが、それが目立つ理由には、ジミーがちょっと普通とは違う、変わっている存在だからだろう。カメラマンとして、モデルと対話する事、その容姿や心の内面ですら、理解して、最も好ましい絵柄を撮る難しさがある。スターと言えども、同じ人間であり、それは、まだ流行って居ないジミーにこそ、等身大の姿、の根幹に何があるか、を、デニスは理解したがっている。それは、反骨のカリスマ、と言われたジミーに負けないぐらいの静かな闘志であり、想いである。
本来、スターの写真集とか、LIFE誌に載るようなスクープとは、彼自身のものである。そこに、カメラマンとして評価され、認められるまでには長い時間とキャリアが必要であろう。また、デニスだけにしか撮れない、という腕が分かってからであるが、その将来の大スターたるジミーとデニスの関係は、2人の彼にとって、大した問題では無いようだ。つまり、ジミーもデニーも、自分自身のために仕事をしていて、時に独創性を発揮するのは、それだけ独立心と能力が高いからだ、と言える。
それゆえに、ジミーの反骨とは、日々の生活から形付けられたものでは無いか、と言う事である。ハリウッドに象徴されるスターダムとは、個のものでは無いからで、そこには、製作陣、プロデューサー、外注にファンまで、様々なステイクホルダーが関わって居るからである。だから、そうした利害関係を仰ぎ見つつ、まだ、無名の新人であるスターの卵、を、デニスが撮りたいと追い掛ける決意をするのは、その光を吟味してみる事である。まだ、世が知らざる存在が、玉か石か、を見極める慧眼がデニスの好奇心を支えている。それは、親友にしてファンとしての熱い視線でもありはしないか。
つまり、何処でも、ニューヨークであっても、故郷インディアナへの帰路においても、この2人の間には、一対一の間合いがあって、それを信頼関係として尊重している。普通のカメラマンであれば、商魂もあってのことで、行動を共にしながら、常にシャッターチャンスを狙っているのが自然であると思う。それは、スターという綺羅星にして、人間としてのリアルの姿を暴く行為であり、大物に対して狩りをする、野犬とかドーベルマンとしてのハンターに近い野性の感覚でもあると思う。
それに対する、デニスは、ジミーのリアルの生活、床屋でくつろぐ、本を読む、ストリートを歩くなど、を撮るだけで、ごく自然体であり、優しいのであって、共に、ストーリーを作って行くスタンスなのである。本当の姿を丸裸に剥いて、利益を掠めてやろう、というような乱暴な、紳士的でない本心は皆無であって、これを、デニスの上司である編集長は、スクープとしては前代未聞だ、と辛辣な評価を受ける始末ではある。だが、デニスは必ずモノになるだろうジミーを信じ切ったのである。
逆に、デニスが、こうした事で、今のスターよりも、まだ、卵であるスターを、自分のキャリアとは無関係に撮れるのは、プロフェッショナルに徹しているからだと言えるし、スクープを追うだけではない、リアルを残して行く、カメラマンの良心があるものとして、その立場を支えているのは、社会派では無く、こうした、ヒューマニズムというべきか、スターを個として捉えられて、互いにタッグを組める人間関係にあるのでは無いだろうか。つまり、社会的なメッセージを発信するのは個であり、その正当性であり、また、言葉の力を支えるビビッドな人間性を第一に描く事が、自然、正しい世界観に行きつく、ものと思うのである。
未来を見据えて、その道程に希望を抱く事に掛けては、この2人、盟友関係にあるジェームズ・ディーンとデニス・ストックは、若く、才能もある事もあって、傑出している。このスターのリアリズムは、ファンによる支持も応援もあって、熱量の高いエールを受ける事もあろうが、そのコミュ力というのは、多数の人が強要されてやっている事では無い。むしろ、自分たちから積極的に反骨のカリスマを支持しており、それを、描く、演じる、自分のリアリティと重なって行くジミーの成長と、スターダムとしての躍進に大きな期待を持っているのだと思う。
その美麗な写真には、構図の上手さはデニスのものであるが、それが目立つ理由には、ジミーがちょっと普通とは違う、変わっている存在だからだろう。カメラマンとして、モデルと対話する事、その容姿や心の内面ですら、理解して、最も好ましい絵柄を撮る難しさがある。スターと言えども、同じ人間であり、それは、まだ流行って居ないジミーにこそ、等身大の姿、の根幹に何があるか、を、デニスは理解したがっている。それは、反骨のカリスマ、と言われたジミーに負けないぐらいの静かな闘志であり、想いである。
本来、スターの写真集とか、LIFE誌に載るようなスクープとは、彼自身のものである。そこに、カメラマンとして評価され、認められるまでには長い時間とキャリアが必要であろう。また、デニスだけにしか撮れない、という腕が分かってからであるが、その将来の大スターたるジミーとデニスの関係は、2人の彼にとって、大した問題では無いようだ。つまり、ジミーもデニーも、自分自身のために仕事をしていて、時に独創性を発揮するのは、それだけ独立心と能力が高いからだ、と言える。
それゆえに、ジミーの反骨とは、日々の生活から形付けられたものでは無いか、と言う事である。ハリウッドに象徴されるスターダムとは、個のものでは無いからで、そこには、製作陣、プロデューサー、外注にファンまで、様々なステイクホルダーが関わって居るからである。だから、そうした利害関係を仰ぎ見つつ、まだ、無名の新人であるスターの卵、を、デニスが撮りたいと追い掛ける決意をするのは、その光を吟味してみる事である。まだ、世が知らざる存在が、玉か石か、を見極める慧眼がデニスの好奇心を支えている。それは、親友にしてファンとしての熱い視線でもありはしないか。
つまり、何処でも、ニューヨークであっても、故郷インディアナへの帰路においても、この2人の間には、一対一の間合いがあって、それを信頼関係として尊重している。普通のカメラマンであれば、商魂もあってのことで、行動を共にしながら、常にシャッターチャンスを狙っているのが自然であると思う。それは、スターという綺羅星にして、人間としてのリアルの姿を暴く行為であり、大物に対して狩りをする、野犬とかドーベルマンとしてのハンターに近い野性の感覚でもあると思う。
それに対する、デニスは、ジミーのリアルの生活、床屋でくつろぐ、本を読む、ストリートを歩くなど、を撮るだけで、ごく自然体であり、優しいのであって、共に、ストーリーを作って行くスタンスなのである。本当の姿を丸裸に剥いて、利益を掠めてやろう、というような乱暴な、紳士的でない本心は皆無であって、これを、デニスの上司である編集長は、スクープとしては前代未聞だ、と辛辣な評価を受ける始末ではある。だが、デニスは必ずモノになるだろうジミーを信じ切ったのである。
逆に、デニスが、こうした事で、今のスターよりも、まだ、卵であるスターを、自分のキャリアとは無関係に撮れるのは、プロフェッショナルに徹しているからだと言えるし、スクープを追うだけではない、リアルを残して行く、カメラマンの良心があるものとして、その立場を支えているのは、社会派では無く、こうした、ヒューマニズムというべきか、スターを個として捉えられて、互いにタッグを組める人間関係にあるのでは無いだろうか。つまり、社会的なメッセージを発信するのは個であり、その正当性であり、また、言葉の力を支えるビビッドな人間性を第一に描く事が、自然、正しい世界観に行きつく、ものと思うのである。
未来を見据えて、その道程に希望を抱く事に掛けては、この2人、盟友関係にあるジェームズ・ディーンとデニス・ストックは、若く、才能もある事もあって、傑出している。このスターのリアリズムは、ファンによる支持も応援もあって、熱量の高いエールを受ける事もあろうが、そのコミュ力というのは、多数の人が強要されてやっている事では無い。むしろ、自分たちから積極的に反骨のカリスマを支持しており、それを、描く、演じる、自分のリアリティと重なって行くジミーの成長と、スターダムとしての躍進に大きな期待を持っているのだと思う。