2021年10月08日 18:48
バスケットボール・ダイアリーズ
アメリカのミッションスクールに通い、バスケットボール部に所属、ストリートギャングのように、野蛮で、自由奔放なジムは、その選手としての力量からも、将来を嘱望されるちょっとしたスターであった。だが、素行が悪く、厳格な教員からは、常に叱られ、また、他校と試合をすれば、四人の悪友でつるんで、敵チームのロッカーに侵入、お約束のように盗みを働く始末であり、スクールの教員のみならず、花形たる部活動においても、コーチ教員が持て余す悪童でもある。彼には顔だけではなく、文才も備わり、創作物を書いたりもするも、ヤクの誘惑に負け、遍歴を崩して行く事になる。果たして、ジムは何を夢とし、目標にして生きているのだろうか。
正直、深いレベルで二面性、光と闇、毀誉褒貶に溢れた作品ではある。バスケットボールや遊びに熱中する、健強なジムら、四人による青春群像、と言う入口なので、野蛮さや争いもありながら、それらは、一応、アオハルらしい、とは言えるのだ。だから、前後半で、アオハルから、ディストピアへの転落劇は、ギャップが甚だしいだけに、とても、切実に観る者への問いとなるし、胸にせまるシリアスさが付きまとう、のである。
四人の悪友達の中にあっても、ジムは、とにかく、我が強く、多才で繊細であり、刺激を求めつつ、決められたレールに従う事に、抵抗を示す。それは、彼がバスケットボールをしている時には、軽快なアップテンポのロックンロールが流れ、実に爽やかだが、そのビートは率直にジムの心境や深いレベルを映し出すビビッドなのである。
つまり、敵やルールが定まった公式の場では、やや、スローテンポであり、逆に、自由奔放にストリートを足場としながら、好きな時、年上の黒人のバスケ友達ラジーと興じるシークエンスでは、アップテンポの音楽が流れるのは、ジムが本当に愛したものとは、バスケットボールやフィジカルの解放や躍動を通した、自由なのではあるまいか。
その自由とは、当然ながら、スポーツだけで無く、人生観や宗教観、それらによって支えられる、彼の真面目な一面、つまり、詩人としての顔にも通じて居るが、反骨心豊かなジムには、やはり、決められたレールをママチャリで疾走するような、ダサいシークエンスは承服しかねる、のだろう。ジムは、カオスを生来、信奉しているとか、根っからの悪では無い。少々、弱い面があり、このストーリーを貫く、ガラスのようなやわなヒロイズムですら無く、ひたすら、強さ、才能に対するギャップとしての、繊細さと言う彼の唯一の個、こそが、本作の物語りを不安定にする、かつ、一貫性の無さのゆえんでもあろう。
四人はすこぶる健強で、自由奔放な生き方をしている。つまり、至高に恵まれている様は、難病を抱えて、16歳にして薬剤漬けの入院生活を送っているボビーの不運に対して、付き合って理解もしようとするジムの優しさは、まさに、詩人としてのもう一つの顔が現れている、と言えようか。彼は、病床にして女遊びにも旺盛な年頃ながら、不自由極まるボビーを街に連れ出したり、また、懐疑的にも見えた、祈りをすらキリストに捧げる程の優しさを垣間見せる。この厚遇と言うのは、四人の悪友に、ボビーを加えたメンバーは不動であり、バスケットボールを人生観に見立てたチームだから、と言う事では無いか。つまり、5人目とは、ボビーその人が当たると言う事では無いか。
だから、前半に彼は亡くなってしまうが、その直後のシークエンスにて、嵐の中、夜間にストリートバスケにがむしゃらに打ち込む四人が躍動するも、これは、残念ながら、一人が欠けてしまったチームからのレクイエムとしての、好きなバスケットボールのシークエンスに重ねた、ボビーにとっての引退試合を喩えたものに思える。
この友情の極みに対して、ヤクの誘惑に敗けて、人生が変わって行くのだが、この作品の前後半のギャップの激しさは、誇張では無く、まさに、天国と地獄に思える。何しろ、選手として、僅かな期待度だとしても、大学とかNBAへの道をすら、目を輝かせて語った夢のアオハルが終わるからである。大好きなバスケットボールが出来るなら、ラジーとの1on1、ストリートでも一向に構わない、と考えているジムには、もしかしたら、これは痛手でも無きにしもあらず、だが、無傷とは行かないだろう。
また、ジムは、詩人のように言葉を書き連ねて、文章にするのが大好きだから、彼が中毒に苦しむ正念場にも、文章があったから、彼は底の中にも、天国への福音を思い浮かべ、聞き耳を立てているのかも知れないのだ。
正直、酷い落差であり、人が堕落する事に対する歯止めとは、如何なるカタチであれ、セーフティネットとして、抱きとめるべきでは無いか。ディストピアにおいて、ヤクへの依存症があるから、簡単にはリバウンド出来ないのだが、ヤクにアオハルを狂わされた作品としては、イギリス映画「トレインスポッティング」が連想されたが、あれには、バグと言う狂犬のような男のミスリードと、失敗に対する因果応報があったが、本作には、ただ、愚かな自壊、があるのみである。特に、ディストピアにこそ、彼の五人が必要なはずだが、これが、ゲームにおいて全く機能しない。
色々と、アオハルの単純明快さとか、ゲイのコーチ教員、バスケットボールにも、好きな時間帯と、嫌な事もある、多彩、かつ、ビビッドなシークエンスに恵まれながら、これは、余りにお粗末としか言いようが無い。トラウマ的な、アオハルの記憶を悲劇的に反計を掛けたネガティブなデジャブすら描かれる。
ただ、ジムがそれでも、生きて行かねばならないから、そこの、人生のどん底から、上辺にリバウンドして、何とか飛翔しようと、何者に身をやつしてでも、生き抜こうとする。そこには、繊細なジムの葛藤が生々しく描かれるから、不屈の意志とか、追われて見せる力強さも、一縷の望みすら遠く、光と闇の対立と言う均衡にすら無い。だが、人間とはこうした矛盾を抱え、弱さもある存在では無いか、と言う事である。天国を知る詩人としての一面を持つが、それを足場にリバウンド出来るか内なる試練がある。