2021年12月13日 00:25
カツベン!
大正4年、古きしたたかな時代の日本。映画はサイレントであり、染谷俊太郎は、少年時代に映画と出逢った事により、強い憧れを抱き、トーキーに美声により魂を吹き込む活弁士を志す夢を抱いた。映画とは、大人の表現の場であり、回路でもあるが、少年達のアオハルのシークエンスが、銀幕の中ではリアリティに成るかも知れない。俊太郎は遍歴を重ね、活弁士を志し、國定天聲、と名乗るが、果たして、夢は叶うのだろうか。
映画とは、スターダムの真価が、役者の力量やカリスマ性にあり、活弁士はそのシークエンスを、一つ一つのセリフ、愛の言葉を代弁し、さながら、ムービースターのようですらある。だから、少年時代の彼が、栗原梅子と出逢ったのも、幼馴染の少年達と悪戯をするのも、シークエンスとして、活弁士、或いは声優としての天性を持つ俊太郎には、常人とは異なる展望が開けていた筈だ。
だから、子供達にとっての表現の場とか、感情的になる手法も、また、銀幕への憧れにあった、と言う事だろう。また、彼は早熟でもあり、梅子の手引きにより、映画館の厠の隙間から中に入り込み、タダ観する、小さな不正ではあるが、余りに大正の銀幕のスター達が煌びやかだから、自然に惹き込まれた、と言えよう。
つまり、映画なり、財産として物語の付随するものとは、世界観から強い、魅力に溢れたメッセージを発するのだから、どんな事をしても、映画が観たい事には理解が出来るのである。また、彼は活弁士を目指し、國定天聲、として大成するまでのドラマは、彼にとって、黒歴史ではあるが、同時に、苦労を通した人生経験には成って行く。
この過去の中には、彼には負のレガシーとなり、活弁士としてのキャリアには妨げとなり、また、同時に他責に溺れる、のではなく、自責による処も大である、と言う理由がある。
さながら、大地に根差した大樹のように、夢が活弁士に結び付くと、安定が呼び込まれ、キャリアは一本線に成り、それにより、道に迷う事や失敗に惑わされる事は少なくなる。更には、根無し草である梅子を援けたい、或いは、共に生きて行きたいと考える、遠大な器の視野が眼前に開ける。だから、自身の才能に中々気付かずに、ビッグネームの引退した活弁士を詐欺って、演じ切る事が出来るだけでも、小粒な詐欺師に人間の価値の針が振れるのでは無く、物真似師と言う芸人の域に達している。この潜在力に俊太郎は中々気付かないのである。
だから、國定天聲、と言う芸名の活弁士への変身は、誠であるか、嘘なのか。何しろ、長年の想いの詰まった黒光の夢だから、彼自身の才能の証明ではあるが、キャリアが駄目な彼らしい、と言うか、中々、下積み時代の苦難から、すんなり抜けられない。この悲喜こもごもと、青木座と言う映画館を拠点とする人間群像劇の見応えに、個性豊かなキャラクター達による、場の安定に対する、人の混乱劇が非常に面白い。
個性派の國定天聲然り、ストイックで公正な木村刑事然り、守銭奴の安田然り、群像劇の皆んなが皆んな、追い掛けあっこをしている。過去の軛から脱せられるのは、努力を惜しまなかった強い人々、であるのでは無いかな。誰も変わって居ないのか、本質とは、追い詰められたり、晒された時に現れる。つまり、本能をこそ守る、人間は複雑な絆に疲れたとしても、平和裏に生き易いのが好きならば、ひた隠しにする性格なのかも知れない。だから、このストーリーにおける群像劇は、一期一会のクロスロードの爽やかさ、に対して、ウェットであり、湿り気のあるグランドラインのようであり、一種の根深い縁、宿業がある。それは、一期一会を望む情けに価値を置かない天聲には、身を焦がすような業火を受けるようなものだ。活弁士としての夢、それに対する、炎上は如何なる帰結をもたらすか、ワクワクする奇妙なストーリーである。