2021年12月30日 22:48
朝が来る
生みの親か、育ての親か。養子となった子供達にとって、親としての認知は、いずれかを選び、残された方を忘れてしまうのだろうか。
栗原清和、佐都子夫妻は、非精子症の為に、実子を作る事の出来ない事情があったが、子は夫婦や家庭の絆であり、どうしても良い子供が欲しいし、否、一度、引き受けた子供の人生は、親にして、生命のサイクル、生まれて来る子らは、生みの親は、必ず、育てねば成らない。そして、一度、家庭を持ったなら、親子は幸せに成る権利がある。
栗原夫妻に、養子として引き取られ朝斗は、誰をまことの親と観るか。
めぐみ幼稚園に通っており、小さなトラブルにも振り回されながら、朝斗は健やかに育ち、夫妻は満足していた。血の繋がらない養子を、実子同然に育てられるかは、試しでもある。だが、家庭を持てる事が、如何に、生みの親、育ての親、との間に横たわる、幸せの格差に成るだろうか。最近の若者は早熟と言うか、早々と子供を授かり、学生とはいえ、作った子供は、大切である事は間違いない。
妊娠し、御子を授かれば、若者の人生を変えるが、それが、放逸な性の自由より軽いのならば、サプライズの子宝を、明るいと観る人の人生は明るく、真っ当だが、そうでは無い人も居る。だから、妊娠した子を、まだ、若すぎるから、堕ろすと言う選択肢があったとしても、生産に反する、その決断にも、明るい人、暗い人とが居り、その決断に宿るのは、光と闇、ですらあるのでは無いか。
もし、闇に与した人間が、誰かを犠牲にして、自らの罪や逸脱行為を人間として、犯したにも関わらず、舌の根も乾かぬ内に、光だと信じる。そういう生き方もあるし、全ての闇に天罰がくだるわけでも無く、人間とはそういう矛盾を抱え、善悪や正しさの是非は、世俗的とか、思想、政見の無さ、から来ると言うよりは、人間の本能として、原理やラディカルな社会正義には、辟易するから、かも知れない。
だから、大人に成ると、眼の輝きや純粋さを失い、擦れた考え方に染まる事、人とは違う事をしている、などが、闇に堕ちる、と言うストレート一本の考え方も、また、ラディカルと言えるから、善悪や正しさ、を追及する社会正義より、リアリティとして、大切にされるのは、社会の総和、であり、その個々のクラスター、否、居場所とは、基盤たる、和、愛、情け、を作り続ける、無数のピース、無為なクラスターに対する、色付けのされたアジール、なのでは無いだろうか。
母子愛の深さは、男性として、推し量りがたい、重みがあると思うから、光の愛の深さには、例の矛盾が、確かにあるし、彼女を完全に擁護する事は、両性のフラットな平等さからは、理解し切れないが、果たして、そういう、擦れた大人の視点や尺度から観ると、光はピュアを越えて、浮世離れした、白痴、ですらある。だが、その白痴とは、良いか、悪い意味でかは、黒澤明の、映画「白痴」のように聖人的ですらあるのだ。だが、リアリティの側が、そうした、他者を毀損しないし、悪巧みもしない人間を、許容し得るかは、別と言い切る、真冬の厳寒のような厳しさもあるストーリーなのだ。
いずれにしても、子が授かりものたる、夫婦関係、パートナーシップは、心や愛がリンク出来れば、実子に肉薄する結晶、に成るのかも知れない。その時、生みの親か、育ての親か、と言う問いへの処し方が、親も子も、人生の彩りを変えてしまう、のでは無いか。テーマとして重みがある。