2022年09月20日 21:20
インヒアレント・ヴァイス
1970年代、ヒッピーの活躍が喧しかった自由の時代。私立探偵を営むドックの元に三つの大切な依頼が飛び込んで来る。それぞれは、闇社会の大物ウルフマンと関わりがあって、弱い立場のヒッピーのフリーランスには、極めて、リスキーな事件だ。セックスに放逸な事から、ドックへの恋人たちや旧友らの依頼を受けて、彼は、自身の危険を顧みずに、まずは、ウルフマンの橋頭保である風俗店への調査を開始する。しかし、彼はあっさりノックアウトされた上に、冤罪を駆けられて、堅物の捜査官ビッグフットに目を付けられる事になる。果たして、この深い闇の中でドックは友人らを救う事が出来るのか。
ヒッピーの自由と言うと、快楽主義と結び付くが、私立探偵としてのドックは、立場として極めてグレーであり、安全地帯に居るようだが、上述したように、警察の中に居る実力者と、ずぶ濡れた関係にあると言える。ヒッピーとは、基本的には博愛主義であるが、暴力に対しては結束して立ち上がる。ドックの活躍は、ヒッピーとしてのプライドによるものである事は、アイデンティティには、違った形であってもそれぞれのプライドが湧き上がる小さな泉であるのでは無いか。
従って、言葉とか発信と言った行為には、それをする人の背景が必ずあるという事で、それは、一匹狼でも同じと言う事である。ビッグフットには矛盾があって、彼は、警察の中での殺人などの重大事件を掌握するが、ヒッピーに対する差別的な感情をも持って居る。更には、彼は、もっと上級の捜査機関からはほぼ煙たがられている。これも物語の中では鍵となる謎解きだと思うのだが、そこには、コミカルなドックとビッグフットとの関係性があって、しばしば、ドックは彼に挙げられる事が一度や二度では無く、起こるのである。
だが、一方で、法の公正性としてはごく自然なのだが、FBIの捜査官らとドックが直接対面しながら、彼らとはワンチャンスであって、さほど接触が無いのである。これと比較すると、下級捜査官というべきか、ビッグフットの秘密を抱えている私生活の描写は、かなり、丁寧に行われるので、ドックはただの敵だと思っていたビッグフットに、徐々に、奇妙な感情を抱くようになる。だが、それによって、ドックがディールの関係にある探偵としての調査の手を緩める事は無い。つまりは、人間関係が深いほどに、個人が抱えた問題は露わになるのであって、ビッグフットはヒッピーの性への放逸やドラッグの常用などを嫌って居るのだが、彼も欲望に対しては、矛盾を隠して居て、それが、”根本的な欠陥”だという事になる。だから、物語として、ヒールと言うほどでは無いが、ドックに次いで、不思議な要人であり、正義の番人だという事になる。
要は、彼もまた追い詰められているのである。片翼の彼を通して、ドックが気付いたのは、威厳があるのでは無くて自由への渇望を隠す事こそが、不自然だと言う事だ。ヒッピーらの政治への意見とか提案と言うものは、時に過激に走り、リアリティの無いものもあるが、今や、メディアを通して、悪事も善行も千里を走るので、報道されるようなヒッピーの大物などは、知られる事で公の社会の中では、目立つ存在になる。そして、自身の理想や願いを通して、信じる事によって、信じられる存在、だという事では無いか。
面白いのは、過激な抗議を行い反政府的な罵声をニクソン大統領に浴びせたファナティックな抗議者である͡コーイが、普通の人生を生きたい、と思って居る事だ。これは、彼の社会的地位が砂上の楼閣であり、それを本物らしく見せているのは、他ならぬ彼自身の激情がメディアを通して話題を呼ぶからで、彼が辞めたい、と思い、普通の人としてしおらしく振舞えば、彼が有して居る華は、汗の雫としてひたたって、足元のアスファルトに蒸発するだろう。だが、彼が生きる場として選択した土地によっては、豊穣の土に染み込み、馴染むかも知れない。
だから、立場に固執するアスファルトのランナーが居れば、もう、全てを燃やして土喰に帰してしまいたい堅実なファーマーも居り、それらにおける、自由のあり方が同じと言う事は無いのである。
ドックが調査の過程で、遭遇して行く三つの依頼、というのは、フィクサーであるウルフマン、或いは、もっと大物が控えるかも知れぬ陰部の闇の深さと、その関係者の数からして、とても大きな物語となり、沢山の人物が登場して来る。その人間群像が新自由主義的な生活様式とか、或いは、「性活」によって、乱調にもなる、保守に比べて激しい価値観を通して、行動として具現されるマテリアルの一隅にヒッピーのカウンターカルチャーがあるのだと思う。それらの人間群像を全体を通して、緩やかに鑑賞する事は面白い。
まずは、危険な調査に取り組む、フリーランスのドックは、まずは生き延びる為に、自分を助けねばならないが、彼の価値基準におけるジャッジの中で、救い得るものと、救い得ないものがある。それは、人が全知全能になろうとストイックに生きる道から、個人として幸せを掴もうと歩み出すのが、普通である事から、止む無し、の物語の展開と結末があるのだと思う。
ヒッピーの自由と言うと、快楽主義と結び付くが、私立探偵としてのドックは、立場として極めてグレーであり、安全地帯に居るようだが、上述したように、警察の中に居る実力者と、ずぶ濡れた関係にあると言える。ヒッピーとは、基本的には博愛主義であるが、暴力に対しては結束して立ち上がる。ドックの活躍は、ヒッピーとしてのプライドによるものである事は、アイデンティティには、違った形であってもそれぞれのプライドが湧き上がる小さな泉であるのでは無いか。
従って、言葉とか発信と言った行為には、それをする人の背景が必ずあるという事で、それは、一匹狼でも同じと言う事である。ビッグフットには矛盾があって、彼は、警察の中での殺人などの重大事件を掌握するが、ヒッピーに対する差別的な感情をも持って居る。更には、彼は、もっと上級の捜査機関からはほぼ煙たがられている。これも物語の中では鍵となる謎解きだと思うのだが、そこには、コミカルなドックとビッグフットとの関係性があって、しばしば、ドックは彼に挙げられる事が一度や二度では無く、起こるのである。
だが、一方で、法の公正性としてはごく自然なのだが、FBIの捜査官らとドックが直接対面しながら、彼らとはワンチャンスであって、さほど接触が無いのである。これと比較すると、下級捜査官というべきか、ビッグフットの秘密を抱えている私生活の描写は、かなり、丁寧に行われるので、ドックはただの敵だと思っていたビッグフットに、徐々に、奇妙な感情を抱くようになる。だが、それによって、ドックがディールの関係にある探偵としての調査の手を緩める事は無い。つまりは、人間関係が深いほどに、個人が抱えた問題は露わになるのであって、ビッグフットはヒッピーの性への放逸やドラッグの常用などを嫌って居るのだが、彼も欲望に対しては、矛盾を隠して居て、それが、”根本的な欠陥”だという事になる。だから、物語として、ヒールと言うほどでは無いが、ドックに次いで、不思議な要人であり、正義の番人だという事になる。
要は、彼もまた追い詰められているのである。片翼の彼を通して、ドックが気付いたのは、威厳があるのでは無くて自由への渇望を隠す事こそが、不自然だと言う事だ。ヒッピーらの政治への意見とか提案と言うものは、時に過激に走り、リアリティの無いものもあるが、今や、メディアを通して、悪事も善行も千里を走るので、報道されるようなヒッピーの大物などは、知られる事で公の社会の中では、目立つ存在になる。そして、自身の理想や願いを通して、信じる事によって、信じられる存在、だという事では無いか。
面白いのは、過激な抗議を行い反政府的な罵声をニクソン大統領に浴びせたファナティックな抗議者である͡コーイが、普通の人生を生きたい、と思って居る事だ。これは、彼の社会的地位が砂上の楼閣であり、それを本物らしく見せているのは、他ならぬ彼自身の激情がメディアを通して話題を呼ぶからで、彼が辞めたい、と思い、普通の人としてしおらしく振舞えば、彼が有して居る華は、汗の雫としてひたたって、足元のアスファルトに蒸発するだろう。だが、彼が生きる場として選択した土地によっては、豊穣の土に染み込み、馴染むかも知れない。
だから、立場に固執するアスファルトのランナーが居れば、もう、全てを燃やして土喰に帰してしまいたい堅実なファーマーも居り、それらにおける、自由のあり方が同じと言う事は無いのである。
ドックが調査の過程で、遭遇して行く三つの依頼、というのは、フィクサーであるウルフマン、或いは、もっと大物が控えるかも知れぬ陰部の闇の深さと、その関係者の数からして、とても大きな物語となり、沢山の人物が登場して来る。その人間群像が新自由主義的な生活様式とか、或いは、「性活」によって、乱調にもなる、保守に比べて激しい価値観を通して、行動として具現されるマテリアルの一隅にヒッピーのカウンターカルチャーがあるのだと思う。それらの人間群像を全体を通して、緩やかに鑑賞する事は面白い。
まずは、危険な調査に取り組む、フリーランスのドックは、まずは生き延びる為に、自分を助けねばならないが、彼の価値基準におけるジャッジの中で、救い得るものと、救い得ないものがある。それは、人が全知全能になろうとストイックに生きる道から、個人として幸せを掴もうと歩み出すのが、普通である事から、止む無し、の物語の展開と結末があるのだと思う。