2022年09月24日 22:40
コーラス
戦後間もない1949年のフランス。「池の底」と呼ばれる寄宿舎があり、そこでは、様々な問題を抱えた問題児たちが教育を受けていた。障害者の学校のような学びの舎であり、多くの児童らは権威的な校長を始め、寄宿舎そのものを憎んでおり、それは、舎監ら大人達への度を超えた悪戯、として、暴力にも及ぶ事があった。児童らはまだ小中学生ぐらいであり、あどけなさの残った紅顔に染まる、笑顔のまぶしい子らでもある。舎監として赴任して来たクレマン・マチューは、そうした心の面の荒廃した池の底の児童らに対して、献身的な教育を推し進める。そんな彼の最大の武器が、音楽、であった。
正直、この寄宿舎は、吹き溜まりのようであり、最悪だと言える。マチューが赴任して来たその日から、問題は始まる。校長の方針はスパルタ教育であり、目には目を、歯には歯を、と言う事で、倍返し、のような事ですらやってのける。対する、マチューは、教育者として、彼らの倍どころか、将来の指針を付けるアドヴァイス、指導をして、個々と向き合う方針を取る。
学校側とは、教育的な権力を担って居るという自覚がある場合は良いが、そうでない場合、この最悪の校長の支配する池の底では、このまま、最悪が順調に進んで行けば、愚連隊になりかねない、問題児揃いなのである。彼らは常に騒いで居て、喧嘩に悪戯、たばこは日常茶飯事だ。これは、観方によっては、寮生活が日々、キャンプのようであり、冒険に事欠かないという事だ。だが、冒険とは危険が伴うから、児童らは互いを守り合い、しばしば、横並びになって、大人から観た教育のシステム性に利用されがちなのである。
牢獄を彷彿とさせる反省室、があり、また、一糸乱れぬ支配に下に置かれた児童らは、軍隊のようである。だから、互いに戦う。しかし、それは、見せかけのモラル、忠誠心であるから、彼らが兵隊として戦う相手、悪戯の標的は、他ならぬ寄宿舎の大人達で、校長は特に嫌われている。これは、安定と平穏との間にあるイカサマのパラドックスであり、強権的な支配とは憎しみを買う事が表れている。だから、マチューが考えたのは、そんな彼らの不満の矛先を変える事で、アオハルの無駄遣い、人生の隘路に陥って、不良となり人生の迷路に堕ちないように、一つ一つの才能を見付け出し、伸ばす事によって、救済をする事。
自らを、夢破れた音楽家、と自負して居るマチューの授業は、思いの外に素晴らしいが、それは、児童らのやれば出来る、という、引き出された、若者としての潜在力であり、可能性であると思う。マチューの手に負えない存在として、モランジュやモンダン、といった、暴力も辞さない悪戯大好きな問題児があるが、鉱脈とは深いほどに、そこには、眠れる天賦の才能、もあるのだ。音楽と暴力とでは、正反対で美と醜である、とも言える。しかしながら、剛腕で強いモンダンに対しても、下と上、として、才能を見下し、美と醜とには分けないのがマチュー一流のやり方なのだ。
彼の教育方針は至って現実的であり、「草の根」で児童らをしっかり学べる普通の集団にする事だ。校長やマチューらに対してすら、叛旗を翻すカオスの軍隊のようであった吹き溜まりの児童らは、普通とは何か、に立ち返る事によって、友好的な大人達や、同輩の仲間達と協力する意味を、最後の繋がりの部分で知る。つまり、他者へのお茶目な悪意を持った攻撃する集団から、戦うのは自分とであり、内省的に普通に生きて行く事を真面目に考えられる児童らにする事を目指して行く。このプロセスが非常に面白い。
教室で指揮を執るマチューと、唄って叫ぶチームと言うべきか、児童らが美声を奏でる間は、寄宿舎を吹き溜まりだと忘れられる、木漏れ日が差すような太陽の真下、理想郷のように思えて来る。そこは、マチューの指導によって、草が芽生えて白樺の樹が生えた涼し気な大地のようにすら感じられる。そこで培われた、荒廃した想いを抱えて来た児童らが、初めて、自分達の生命の美しさに気付く。ここが居場所と、学びがあるに違いない。
コーラスでは、モランジュの天使の美声が素晴らしい。彼は、音楽家として大成出来なかったマチューが、自分の代わりに夢を叶える、希望を持って生きて欲しい、との強い願いを託された児童ではないか。ただ、彼には克服すべき深刻な欠点がある。
池の底は、映画「ハリー・ポッター」のように恵まれた育成校では無いし、それゆえに、トム・リドルのように抜けたようなエリートの卵も居ないのである。だから、そこでは、雑草ばかりの寒々しい高原から、天使の卵、を発掘したマチューの奇跡に対する感激のほど、大きな運命を感じた僥倖は、論じ切れない幸運では無いだろうか。マチューは彼への教育に特に熱を上げ、ここに、本物の信頼関係が芽生えて行く。
こうした数多の試練を乗り越えて、本物の仲間意識が芽生えたのは、児童らも同じであって、無縁という異常が溶けて行き、春の季節がやって来る。モランジュは家族にしか心を開かなかった、池の底では随一の悪質な悪戯っ子であったから、彼の将来が開けて行く事は奇跡に等しい。池の底、の誇りと成るし、また自己を卑下する音楽家崩れのマチューにとっても、生きた証を立てる幸運だ。その幸運を試す星屑は、常に自分達の小さな手中にある。寄宿舎の窓ガラスを割る為に投石を持つのではなく、足元にある大切なものを拾い集めるのである。
正直、この寄宿舎は、吹き溜まりのようであり、最悪だと言える。マチューが赴任して来たその日から、問題は始まる。校長の方針はスパルタ教育であり、目には目を、歯には歯を、と言う事で、倍返し、のような事ですらやってのける。対する、マチューは、教育者として、彼らの倍どころか、将来の指針を付けるアドヴァイス、指導をして、個々と向き合う方針を取る。
学校側とは、教育的な権力を担って居るという自覚がある場合は良いが、そうでない場合、この最悪の校長の支配する池の底では、このまま、最悪が順調に進んで行けば、愚連隊になりかねない、問題児揃いなのである。彼らは常に騒いで居て、喧嘩に悪戯、たばこは日常茶飯事だ。これは、観方によっては、寮生活が日々、キャンプのようであり、冒険に事欠かないという事だ。だが、冒険とは危険が伴うから、児童らは互いを守り合い、しばしば、横並びになって、大人から観た教育のシステム性に利用されがちなのである。
牢獄を彷彿とさせる反省室、があり、また、一糸乱れぬ支配に下に置かれた児童らは、軍隊のようである。だから、互いに戦う。しかし、それは、見せかけのモラル、忠誠心であるから、彼らが兵隊として戦う相手、悪戯の標的は、他ならぬ寄宿舎の大人達で、校長は特に嫌われている。これは、安定と平穏との間にあるイカサマのパラドックスであり、強権的な支配とは憎しみを買う事が表れている。だから、マチューが考えたのは、そんな彼らの不満の矛先を変える事で、アオハルの無駄遣い、人生の隘路に陥って、不良となり人生の迷路に堕ちないように、一つ一つの才能を見付け出し、伸ばす事によって、救済をする事。
自らを、夢破れた音楽家、と自負して居るマチューの授業は、思いの外に素晴らしいが、それは、児童らのやれば出来る、という、引き出された、若者としての潜在力であり、可能性であると思う。マチューの手に負えない存在として、モランジュやモンダン、といった、暴力も辞さない悪戯大好きな問題児があるが、鉱脈とは深いほどに、そこには、眠れる天賦の才能、もあるのだ。音楽と暴力とでは、正反対で美と醜である、とも言える。しかしながら、剛腕で強いモンダンに対しても、下と上、として、才能を見下し、美と醜とには分けないのがマチュー一流のやり方なのだ。
彼の教育方針は至って現実的であり、「草の根」で児童らをしっかり学べる普通の集団にする事だ。校長やマチューらに対してすら、叛旗を翻すカオスの軍隊のようであった吹き溜まりの児童らは、普通とは何か、に立ち返る事によって、友好的な大人達や、同輩の仲間達と協力する意味を、最後の繋がりの部分で知る。つまり、他者へのお茶目な悪意を持った攻撃する集団から、戦うのは自分とであり、内省的に普通に生きて行く事を真面目に考えられる児童らにする事を目指して行く。このプロセスが非常に面白い。
教室で指揮を執るマチューと、唄って叫ぶチームと言うべきか、児童らが美声を奏でる間は、寄宿舎を吹き溜まりだと忘れられる、木漏れ日が差すような太陽の真下、理想郷のように思えて来る。そこは、マチューの指導によって、草が芽生えて白樺の樹が生えた涼し気な大地のようにすら感じられる。そこで培われた、荒廃した想いを抱えて来た児童らが、初めて、自分達の生命の美しさに気付く。ここが居場所と、学びがあるに違いない。
コーラスでは、モランジュの天使の美声が素晴らしい。彼は、音楽家として大成出来なかったマチューが、自分の代わりに夢を叶える、希望を持って生きて欲しい、との強い願いを託された児童ではないか。ただ、彼には克服すべき深刻な欠点がある。
池の底は、映画「ハリー・ポッター」のように恵まれた育成校では無いし、それゆえに、トム・リドルのように抜けたようなエリートの卵も居ないのである。だから、そこでは、雑草ばかりの寒々しい高原から、天使の卵、を発掘したマチューの奇跡に対する感激のほど、大きな運命を感じた僥倖は、論じ切れない幸運では無いだろうか。マチューは彼への教育に特に熱を上げ、ここに、本物の信頼関係が芽生えて行く。
こうした数多の試練を乗り越えて、本物の仲間意識が芽生えたのは、児童らも同じであって、無縁という異常が溶けて行き、春の季節がやって来る。モランジュは家族にしか心を開かなかった、池の底では随一の悪質な悪戯っ子であったから、彼の将来が開けて行く事は奇跡に等しい。池の底、の誇りと成るし、また自己を卑下する音楽家崩れのマチューにとっても、生きた証を立てる幸運だ。その幸運を試す星屑は、常に自分達の小さな手中にある。寄宿舎の窓ガラスを割る為に投石を持つのではなく、足元にある大切なものを拾い集めるのである。