2022年09月30日 18:11
ショコラ
スイーツ作りには、レシピはあっても、バイブルは無いのか。1959年のフランス。ある村は教会と、キリスト教を熱心に信仰するレノ伯爵の導きの下、平和が保たれていた。古い時代であるが、村の伝統的な暮らしは、さほど窮屈でも無く、それなりに幸福に観える。そこに、チョコレートを作って生計を立てる流れ者ヴィアンヌという女性がやって来る。そのチョコレートには、一粒万倍であって、元気の源となり、村人達を不思議に元気づけて、何が本当の幸せか、と言う事を村人達が考えるようになる。レノ伯爵はこれをまるで魔女、と見なして、強硬に反感を持ち、弾圧しようとする。美魔女がもたらした「小さな戦争」の武器は、ペンであり、バイブルであり、チョコレートである。不思議なチョコレートのように小粒なれど甘く成熟して行くと良いのだが。
まず、性悪説の物語とは、リアリティがあるが、救いの無い世界観である事もあると思う。自分が善いと思ってやって居る事が、必ずしも、誰か、万人受けするとは限らない。いわば、ヴィアンヌの作る幸せのチョコレートが、村のそれまでの絆や人間関係を破壊する、という、思いも寄らない反動となって発破を起こす起爆剤にすらなるのは、変化に対する過剰な警戒感のせいだ、と言えるだろう。
その基となっているのがレノ伯爵だが、小さな村ながら、瀟洒で立派な教会の責任者であるから、それまで、村が平穏無事に収まって来たやり方を変えたくは無い、のだろう。甘いもので人を幸せにする、と言う願いの為には、チョコレートがどれだけ美味であるか、による。つまり、パティシエの技術によって、味は大きく変わるけれども、村の空家となって居た古民家に、お洒落なスイーツ店をオープンさせるヴィアンヌの力量たるや、本物であって、これは、固陋な村にとって都市のポップカルチャーが一気に流入して来た事に比肩するだけの大きな変化だと言える。
どれだけ美味しいものを求めるか、と言う事が、生活を変えるのだから、村の生活に恵まれている、と考えられて来た事も十分に幸せだった、と思うが、そこに、新たなチョコレートによって、豊富な選択肢が、一つや二つでは無く、広がって行くのは、まるで、パラダイムシフトの前夜祭のようではある。パティシエとしてのヴィアンヌの腕前は申し分ないし、店も人もお洒落で当たりが良い、居心地の良い空間が村の一角に聳えるのであって、この茶色く光るスイーツが、敵対者にとっては、悪魔の誘惑にすら観えるのはいささか滑稽だ。
そこにある理由も取るに足らないが、純粋な好き嫌いで、社会的に立派であり、栄誉職である伯爵風情が、村と宗教が結び付いたアジールで長命に生き延びて行く、という、トリックがある。つまり、彼は貧乏貴族に過ぎないが、流れ者、フリーマンであるヴィアンヌにとっては、エスタブリッシュメントの側にある、一翼を担う大きな存在であり、宿命をつかさどる壁でもある。何故なら、伯爵こそが、自守の為だけに、優れたチョコレートの匠の技を、村人を誘惑する、悪魔の実、だと誇大妄想を吐くからである。だが、それは、悪魔の実、が村人達を変える薬となって居る真実の前では、正義崩れ、という思わぬ自傷となって行く。
ほとんど、これは、一方的な善と悪であって、正義の反対にあるのが悪とは限らず、異なる正義である事がほとんどであるから、その法則、をバイブルのように金言として一言一句を咀嚼するのであれば、それは生きる糧になる。まさに、バイブルを精読する為に、脳の栄養となる副産物が豊富に滋味を持った美味しいチョコレート、である事は言を俟たない、と思う。だから、ヴィアンヌがもたらした新たな選択肢は、伯爵の「ヴィアンヌが嫌い」という感情と保身だけでこきおろされ続けているロジックがあるのであって、この構図化された偽りの正義と悪との戦い、は果てが無いし、人間が秘めている生き伸びる本能の部分と、嗜好品としてのカルチャーとの対立だと思われるのであるから、伯爵もまた、生身の人間なのであって、ヴィアンヌの側が役不足、だという事だ。
扱いよう次第で、チョコレートが美食によって、生活の質を改善して、村人達を幸福にする事は言を俟たない。フリーマンであるヴィアンヌにとっては、ただチョコレートを調理し続けるだけの平穏な、木漏れ日のような暮らしがあるだけだが、伯爵には、これは、古いものを代表して背負って居る、聖戦ですらあって、そのミスマッチが最大化された事から、誇大妄想の聖戦が勝手に彼の脳内で始まって居て、それは、リアリティの視点からしても、奇妙極まる、被害妄想であり、実際には、ヴィアンヌへの加害行為であるから、狂信、の歪な感覚とは、村人達一人一人も向き合うべきで、そこには、人生を好転させる為の、権利としての選択肢があって、義務としての転換点、があるのでは無いか。
ヴィアンヌがチョコレートを作り続ける限り、伯爵の戦いは終わらないが、実に間抜けな被害妄想からの杞憂である事は明らかでは無いだろうか。そして、生活の質、の改善然り、ヴィアンヌの生産たる生きる基、というのは、多くの人の将来への航路に繋がって居るのであって、彼女一人のものでは無いのである。そして、それを敵視する伯爵の側も、酷い、感情的な烙印であるが、根本的にはフェアプレーの人であり、互いに異なるプロフェッショナルとしての最低限のマナーは持って居る。両雄並び立たず、という極限状態を物語における小さな村の問題として客観視出来る。逆に言えば、この物語はエンパシ―が少なく、少々、盛り上がりの波に欠ける「平凡な作品」だと思う。
まず、性悪説の物語とは、リアリティがあるが、救いの無い世界観である事もあると思う。自分が善いと思ってやって居る事が、必ずしも、誰か、万人受けするとは限らない。いわば、ヴィアンヌの作る幸せのチョコレートが、村のそれまでの絆や人間関係を破壊する、という、思いも寄らない反動となって発破を起こす起爆剤にすらなるのは、変化に対する過剰な警戒感のせいだ、と言えるだろう。
その基となっているのがレノ伯爵だが、小さな村ながら、瀟洒で立派な教会の責任者であるから、それまで、村が平穏無事に収まって来たやり方を変えたくは無い、のだろう。甘いもので人を幸せにする、と言う願いの為には、チョコレートがどれだけ美味であるか、による。つまり、パティシエの技術によって、味は大きく変わるけれども、村の空家となって居た古民家に、お洒落なスイーツ店をオープンさせるヴィアンヌの力量たるや、本物であって、これは、固陋な村にとって都市のポップカルチャーが一気に流入して来た事に比肩するだけの大きな変化だと言える。
どれだけ美味しいものを求めるか、と言う事が、生活を変えるのだから、村の生活に恵まれている、と考えられて来た事も十分に幸せだった、と思うが、そこに、新たなチョコレートによって、豊富な選択肢が、一つや二つでは無く、広がって行くのは、まるで、パラダイムシフトの前夜祭のようではある。パティシエとしてのヴィアンヌの腕前は申し分ないし、店も人もお洒落で当たりが良い、居心地の良い空間が村の一角に聳えるのであって、この茶色く光るスイーツが、敵対者にとっては、悪魔の誘惑にすら観えるのはいささか滑稽だ。
そこにある理由も取るに足らないが、純粋な好き嫌いで、社会的に立派であり、栄誉職である伯爵風情が、村と宗教が結び付いたアジールで長命に生き延びて行く、という、トリックがある。つまり、彼は貧乏貴族に過ぎないが、流れ者、フリーマンであるヴィアンヌにとっては、エスタブリッシュメントの側にある、一翼を担う大きな存在であり、宿命をつかさどる壁でもある。何故なら、伯爵こそが、自守の為だけに、優れたチョコレートの匠の技を、村人を誘惑する、悪魔の実、だと誇大妄想を吐くからである。だが、それは、悪魔の実、が村人達を変える薬となって居る真実の前では、正義崩れ、という思わぬ自傷となって行く。
ほとんど、これは、一方的な善と悪であって、正義の反対にあるのが悪とは限らず、異なる正義である事がほとんどであるから、その法則、をバイブルのように金言として一言一句を咀嚼するのであれば、それは生きる糧になる。まさに、バイブルを精読する為に、脳の栄養となる副産物が豊富に滋味を持った美味しいチョコレート、である事は言を俟たない、と思う。だから、ヴィアンヌがもたらした新たな選択肢は、伯爵の「ヴィアンヌが嫌い」という感情と保身だけでこきおろされ続けているロジックがあるのであって、この構図化された偽りの正義と悪との戦い、は果てが無いし、人間が秘めている生き伸びる本能の部分と、嗜好品としてのカルチャーとの対立だと思われるのであるから、伯爵もまた、生身の人間なのであって、ヴィアンヌの側が役不足、だという事だ。
扱いよう次第で、チョコレートが美食によって、生活の質を改善して、村人達を幸福にする事は言を俟たない。フリーマンであるヴィアンヌにとっては、ただチョコレートを調理し続けるだけの平穏な、木漏れ日のような暮らしがあるだけだが、伯爵には、これは、古いものを代表して背負って居る、聖戦ですらあって、そのミスマッチが最大化された事から、誇大妄想の聖戦が勝手に彼の脳内で始まって居て、それは、リアリティの視点からしても、奇妙極まる、被害妄想であり、実際には、ヴィアンヌへの加害行為であるから、狂信、の歪な感覚とは、村人達一人一人も向き合うべきで、そこには、人生を好転させる為の、権利としての選択肢があって、義務としての転換点、があるのでは無いか。
ヴィアンヌがチョコレートを作り続ける限り、伯爵の戦いは終わらないが、実に間抜けな被害妄想からの杞憂である事は明らかでは無いだろうか。そして、生活の質、の改善然り、ヴィアンヌの生産たる生きる基、というのは、多くの人の将来への航路に繋がって居るのであって、彼女一人のものでは無いのである。そして、それを敵視する伯爵の側も、酷い、感情的な烙印であるが、根本的にはフェアプレーの人であり、互いに異なるプロフェッショナルとしての最低限のマナーは持って居る。両雄並び立たず、という極限状態を物語における小さな村の問題として客観視出来る。逆に言えば、この物語はエンパシ―が少なく、少々、盛り上がりの波に欠ける「平凡な作品」だと思う。