2023年01月09日 17:00
シェイクスピアの庭
1600年代。偉大な文豪ウィリアム・シェイクスピアの晩年、心温まる家族との関係があるかと思いきや、全く、そういった博愛的な家族関係では無かった。彼は、ロンドンのグローブ座で主として仕事をしており、華やかな生活を送っていて、一方で、ストラトフォードに住まう家族には、金だけを送っていた。グローブ座が炎上してしまい、高齢と言う事もあり、引退を決意して隠遁するも、田舎の妻子は戸惑うばかりであり、寝る部屋も別々であった。若くして疫病で死んだ長男ハムネットの為に、新しく庭を作ると言い出すなど、奇矯な行動が目立って来る。
シェイクスピアが筆を折る事によって、文豪の道を閉ざす事は、中々に厳しい判断であったろう。ジャーナリズムもそうであろうが、何しろ、創作の源とは、生活そのものにあるから、彼が、長年のキャリアをロンドンで積みながら、好きなようにそれなりに派手な生活を送ったろう事は、グローブ座が堕落に対する罪を被って炎上したわけでは無いが、彼には、自分の分身である「四大悲劇」以上の、生活の激変であって、キャリアを閉ざす事だ。劇物語とは違い、そこに、恵みの雨は降らないし、彼が独り涙に頬を濡らしたのだけは、遠目にも観える事である。
要は、文豪とは劇物語を作る才能に頼るのは当然であるが、その生活からも、多大な影響を受けるし、内助の功とか妻が大事ながら、彼の場合は、多くの女性との遊びの対話、或いは、深い恋愛関係から、多大なインスピレーションを享受して、それが、劇物語の内容を左右するのは言うまでも無かろう。つまり、ストラトフォードの田舎には、家族を含めて、彼の話し相手が居ない事が、創作の源を断たれる、という意味では、最大の痛手であり、大きな変化なのであろう。
何故、シェイクスピアほどの熱烈な深い劇物語を書ける激情家が、家族に恵まれていないか、という問いは、彼らの関係が偉大な者に対する忖度無く、フラットである事から全くのナンセンスである。何故なら、家族側の視点に立てば、父親に恵まれて居ない、という逆説が成り立ち、語彙が多い洒脱に飛んだ文豪ですら、最後の味方である家族に対しては、攻め手を欠くからである。その通りで、彼もまた、無関心という形で、悪い事をして来て、妻を冷遇して来たのだ。
だから、庭を作る、という計画が、絵に描いた餅であって、遅々として進まないのは、シェイクスピアの亡き長男に対する愛情ある行動が、思うように、家族からの協力を得られていないからだ。新たな庭は、イングリッシュ・ガーデンの草分けと言うか、上品で清楚なものを彼は好むだろう。家の関係からすれば、建物の外に当たるから、要するに、彼には家の内に居場所が無く、長年の感情的不満を抱えた妻子の抵抗も頑強であるから、庭先に出て外の居場所を変えてみようと思った、という事なのだろう。
パトロンであった伯爵が、ロンドンから訪ねて来るが、彼こそが「話し相手」に成れる、同レベルの人であり、或いは、高い知的水準から、シェイクスピアとの対話から、詩作を導き出せる魔法使い、でもあるのでは無いか。とにかく、この旧友も詩人としての彼をリスペクトして居るのだが、引退して用済み、という事では無いので、伯爵には一塊の友情があるように思えてならない。他人なのに、もっと相性が良い筈の家族関係との温暖の違いは何であろうか。僕が思うに、その意識の格差とは、詩人としてのシェイクスピアと、家族人としてのウィリアムとの違いだと思う。つまり、家族には金を送っただけであって、その教育とか「運営には全くのノータッチ」であった。対する、ロンドンには多数の劇場があって、シェイクスピア劇物語は、やはり、花形であろうから、レガシーたる作品を通じて、都市の文化絢爛の盛り上がり、それらの「経営と関わって居る」という事になる。
つまり、現場に居ずして、居るような働きが出来るのが、文学とか創作における劇物語としての知財の社会や文化に対する貢献、という事であり、単なる権利を超えたポテンシャルであろう。つまり、金の価値で割り切れないのが、シェイクスピアの劇物語という知財のブランド力であり、世界観の深みでは無いか。そのリソースは時代を超えて、批評をはねのけ、評価されるジュエルのように硬質の劇物語であるから、彼のレガシーの真価とは、父ウィリアムとして、では無く、文豪シェイクスピアとしての不朽のブランド力にある、と言って良いだろう。
シェイクスピアが筆を折る事によって、文豪の道を閉ざす事は、中々に厳しい判断であったろう。ジャーナリズムもそうであろうが、何しろ、創作の源とは、生活そのものにあるから、彼が、長年のキャリアをロンドンで積みながら、好きなようにそれなりに派手な生活を送ったろう事は、グローブ座が堕落に対する罪を被って炎上したわけでは無いが、彼には、自分の分身である「四大悲劇」以上の、生活の激変であって、キャリアを閉ざす事だ。劇物語とは違い、そこに、恵みの雨は降らないし、彼が独り涙に頬を濡らしたのだけは、遠目にも観える事である。
要は、文豪とは劇物語を作る才能に頼るのは当然であるが、その生活からも、多大な影響を受けるし、内助の功とか妻が大事ながら、彼の場合は、多くの女性との遊びの対話、或いは、深い恋愛関係から、多大なインスピレーションを享受して、それが、劇物語の内容を左右するのは言うまでも無かろう。つまり、ストラトフォードの田舎には、家族を含めて、彼の話し相手が居ない事が、創作の源を断たれる、という意味では、最大の痛手であり、大きな変化なのであろう。
何故、シェイクスピアほどの熱烈な深い劇物語を書ける激情家が、家族に恵まれていないか、という問いは、彼らの関係が偉大な者に対する忖度無く、フラットである事から全くのナンセンスである。何故なら、家族側の視点に立てば、父親に恵まれて居ない、という逆説が成り立ち、語彙が多い洒脱に飛んだ文豪ですら、最後の味方である家族に対しては、攻め手を欠くからである。その通りで、彼もまた、無関心という形で、悪い事をして来て、妻を冷遇して来たのだ。
だから、庭を作る、という計画が、絵に描いた餅であって、遅々として進まないのは、シェイクスピアの亡き長男に対する愛情ある行動が、思うように、家族からの協力を得られていないからだ。新たな庭は、イングリッシュ・ガーデンの草分けと言うか、上品で清楚なものを彼は好むだろう。家の関係からすれば、建物の外に当たるから、要するに、彼には家の内に居場所が無く、長年の感情的不満を抱えた妻子の抵抗も頑強であるから、庭先に出て外の居場所を変えてみようと思った、という事なのだろう。
パトロンであった伯爵が、ロンドンから訪ねて来るが、彼こそが「話し相手」に成れる、同レベルの人であり、或いは、高い知的水準から、シェイクスピアとの対話から、詩作を導き出せる魔法使い、でもあるのでは無いか。とにかく、この旧友も詩人としての彼をリスペクトして居るのだが、引退して用済み、という事では無いので、伯爵には一塊の友情があるように思えてならない。他人なのに、もっと相性が良い筈の家族関係との温暖の違いは何であろうか。僕が思うに、その意識の格差とは、詩人としてのシェイクスピアと、家族人としてのウィリアムとの違いだと思う。つまり、家族には金を送っただけであって、その教育とか「運営には全くのノータッチ」であった。対する、ロンドンには多数の劇場があって、シェイクスピア劇物語は、やはり、花形であろうから、レガシーたる作品を通じて、都市の文化絢爛の盛り上がり、それらの「経営と関わって居る」という事になる。
つまり、現場に居ずして、居るような働きが出来るのが、文学とか創作における劇物語としての知財の社会や文化に対する貢献、という事であり、単なる権利を超えたポテンシャルであろう。つまり、金の価値で割り切れないのが、シェイクスピアの劇物語という知財のブランド力であり、世界観の深みでは無いか。そのリソースは時代を超えて、批評をはねのけ、評価されるジュエルのように硬質の劇物語であるから、彼のレガシーの真価とは、父ウィリアムとして、では無く、文豪シェイクスピアとしての不朽のブランド力にある、と言って良いだろう。