地域創生・観光
2024年03月21日 18:00
一所懸命にやって居て、黴が生えて居た、或いは、抜けて居ても問題の核心を炙り出さねば、改革の余地は無いだろう。今の日本が流動的になって居るのは、漂流する若者のせいではなく、個人主義も若者だけの属性では無い。都市圏のメガロポリス化、地方の都市化によって、東京、大阪などの大都市に魅力があって、それに惹かれて、若者が急増した理由とは、物質的な豊かさの放逸によって、選び取れるものが無制限に増えたからだと思う。
地方であっても、郊外型経済の発達によって、メガストラクチャーのような大型ショッピングセンターとかモールによって都市と同じものが安価に買える、という現象もあるが、それは、「モノ」が同じというだけで、そこに「コト」が付いて来ないと、経験となる「物事」とはならないから、地方の都市化における東京・大阪の模倣とは、地方都市の本当の魅力を発掘する事には成って居ない筈であって、更には、ビジネスモデル不足という地方行政の不全に対する批評こそが、ジャーナリズムの仕事では無いでしょうか。
つまり、若者はクールなモノを求める一方で、それに宿る「物語」を欲するから、コトという裏付けとか関係性が無いと、それは本当にクールだとは言えないのであって、或いは、熱くて覚めた感性がかっこ良く見えたりするし、ブラック&ホワイトではバランシングに加えて、多様性とか平等のアイコンになって居る。そうした、説得力を自生出来る大地こそが、本当に必要な農耕民族のメンタリティであって、それは根っ子であるから、今の時代には生産とは農業だけを選ばない。枯れた「社会的土壌」を耕すことは苦難だが、仮に、修正資本主義において、街を起こすこと、古民家を補修すること、小さな改革をする、地方発のイノベーションなどは、開拓精神に通じるものが無いだろうか。若者が感情やインセンティブで動く理由は、移住の流行、にも表れては無いか。
東京一極集中、地方移住、とでは”正反対の行動”に見えるが、実際には、新天地において成功や安定を望む事で、キャリアの改革や大成功を望んで居る意味では、同じベクトルが働いて居る、と言えるだろう。これは、合わせ鏡のようであって、この正反対の行動を、社会の流動化と一所懸命とに重ねると、時代の変貌ぶりを理解出来ると思う。つまり、一所懸命とは経営者に使われる立場であって、労働者の宿命であるが、組織的に仕事や業を行う仕事場であっても、そうした、個々の労働者をただ消費するのか、それとも、命令とか口調の悪さがあっても、人事の有能によって、能力とか才能を見抜いて、適材適所に配置して、ベストバランスによる組織的統御が取れるか、は、制度や人事の充実に負う所が多いだろう。
つまり、流動化とは、過渡期であって、それが永遠に続く訳では無いと思う。ただ、モラルの放逸とかケイオスをただ放任して、何も模範的なロールモデルとか、成功例を提示して行くことが出来ねば、大都市には移住者が集中して、その結果、地方の地場産業とか知識集約的の職場は徐々に衰退して行くだろう。
ただ、デジタル化によって、ホワイトカラーの業務とか仕事内容は多様化して居て、実質的にシステムとかデジタル技術を理解して居る、使える、事務、実務の労働者も増えているので、イノベーションの全てを肯定する訳では無いですが、地方移住はその土地の魅力やコンテンツを開拓し、今までの当り前の仕事内容を、ウィンウィンで刷新出来るのでは無いでしょうか。
地方であっても、郊外型経済の発達によって、メガストラクチャーのような大型ショッピングセンターとかモールによって都市と同じものが安価に買える、という現象もあるが、それは、「モノ」が同じというだけで、そこに「コト」が付いて来ないと、経験となる「物事」とはならないから、地方の都市化における東京・大阪の模倣とは、地方都市の本当の魅力を発掘する事には成って居ない筈であって、更には、ビジネスモデル不足という地方行政の不全に対する批評こそが、ジャーナリズムの仕事では無いでしょうか。
つまり、若者はクールなモノを求める一方で、それに宿る「物語」を欲するから、コトという裏付けとか関係性が無いと、それは本当にクールだとは言えないのであって、或いは、熱くて覚めた感性がかっこ良く見えたりするし、ブラック&ホワイトではバランシングに加えて、多様性とか平等のアイコンになって居る。そうした、説得力を自生出来る大地こそが、本当に必要な農耕民族のメンタリティであって、それは根っ子であるから、今の時代には生産とは農業だけを選ばない。枯れた「社会的土壌」を耕すことは苦難だが、仮に、修正資本主義において、街を起こすこと、古民家を補修すること、小さな改革をする、地方発のイノベーションなどは、開拓精神に通じるものが無いだろうか。若者が感情やインセンティブで動く理由は、移住の流行、にも表れては無いか。
東京一極集中、地方移住、とでは”正反対の行動”に見えるが、実際には、新天地において成功や安定を望む事で、キャリアの改革や大成功を望んで居る意味では、同じベクトルが働いて居る、と言えるだろう。これは、合わせ鏡のようであって、この正反対の行動を、社会の流動化と一所懸命とに重ねると、時代の変貌ぶりを理解出来ると思う。つまり、一所懸命とは経営者に使われる立場であって、労働者の宿命であるが、組織的に仕事や業を行う仕事場であっても、そうした、個々の労働者をただ消費するのか、それとも、命令とか口調の悪さがあっても、人事の有能によって、能力とか才能を見抜いて、適材適所に配置して、ベストバランスによる組織的統御が取れるか、は、制度や人事の充実に負う所が多いだろう。
つまり、流動化とは、過渡期であって、それが永遠に続く訳では無いと思う。ただ、モラルの放逸とかケイオスをただ放任して、何も模範的なロールモデルとか、成功例を提示して行くことが出来ねば、大都市には移住者が集中して、その結果、地方の地場産業とか知識集約的の職場は徐々に衰退して行くだろう。
ただ、デジタル化によって、ホワイトカラーの業務とか仕事内容は多様化して居て、実質的にシステムとかデジタル技術を理解して居る、使える、事務、実務の労働者も増えているので、イノベーションの全てを肯定する訳では無いですが、地方移住はその土地の魅力やコンテンツを開拓し、今までの当り前の仕事内容を、ウィンウィンで刷新出来るのでは無いでしょうか。
2024年02月24日 18:57
旅先の名所、景勝地と言っても、インバウンド客に対しては、無限とも見える人流とか爆買いの恩恵があるのですが、産業としての観光立国を日本は目指すのか、という問いは、熟考する時間すらなく、ただ、日常の経営において、大きな利益をもたらすほどに、持続性が次に繋げていく鍵になる、と思います。外向きでは無く、内向きというか、個の生活者である日本国民の余暇や暮らしぶり、移住などの志向も尊重すべきです。
従って、商品サービスを提供する地域としては、店単位でどんな競争をするか、といった事が観光客の持って居るマネーを誘うパイを多く得られるかが、生存戦略になる。オーバーツーリズムへの対応としては、国の入国税が基本でしょうか、地域側でも人流のコントロール、政策的な余暇トレンドの調整によって、各地域が成すべきですが、それは、住民のQOLに繋がるので、例えば、都心に対して、郊外に余暇の穴場でも、国内観光向けにあると、「住環境も良い快適な地域」として、息づいて居る国民や、新規の移住者からも好まれるのでは無いでしょうか。
観光客は丸腰で来日して来ますから、彼ら自身がトラブルに巻き込まれる可能性はあっても、遊びに来ている人々には、モラルを共有してもらい、地域と馴染む事を基本とすべきでしょう。そして、移動手段としては、大量消費、暴飲暴食は、都心における観光客の需要を満たす一方で、旅のニーズも多様化して居るので、郊外とか地方への移動手段も、多くは鉄道やバスなどの公共交通機関を使うでしょう。ライドシェアは観光という大きなパイの存在によって、地域の文化、生活のコアである住民側が影響を受けて、生まれたビジネスモデルで、この外圧は、多くの商品サービスの生産性やビジネスモデルにも影響を与えるでしょう。
生業として、本業と副業との線引きが明確にはなって居ないで、副業の方が稼げるという人々も居ます。しかし、観光における、おもてなし、とは、観光客も目が肥えていると思うので、プロ化しないで、ライドシェアなどの「コミュニティビジネス」にアラがあるようだと、日本と言う国の民度を軽視されるかも知れません。そして、観光にはシーズンがありますから、観光地側にも安定した”客が一定数来ること”で、経営を持続できて、雇用創出も続いて、更には、プロフェッショナルとしてモラルや商品サービスの技能水準を維持できるのでは無いか。
オフシーズンがあって、暇な時期があることに観光地側は慣れているかも知れませんが、シーズンが限定的だと、商品サービスの価格に影響があって、店側も”高いもの”を出さざるを得ない。それは、観光客の足元を見ているのでは無く、繁忙期に稼いでおかないと、年間の生活がままならないから、だと思います。だから、北国などオフシーズンには、インバウンドが大きく減少するから、観光需要の調整として、日本人向けだった「GoTo」を参考とした「国内観光の景気浮揚策」を、実施する必要があるのでは無いでしょうか。
国内観光は、今や、バブル期の感覚のような金儲けとか、大量生産・消費、というよりは、生活を楽しんだり、おもてなしをして、互いに刺激し合う事がトレンドだと思うので、過疎地でも移住先となるポテンシャルや、古民家とかインフラが整って居て、再生コストが安い土地ほどに、国内観光地としての新たな芽がある、と思います。ただ、移住を実行できるには、資本やアイデア、人脈などが必要ですから、ある程度の年齢層で働いて来たキャリアを持って居て、その変化を望んで居る社会人が行き会える小さな奇跡、が旅の恩恵になれば、国土の均衡な発展、をマンパワーが主導することで、田舎にある手つかずのハード、インフラが再生される可能性も、良い塩梅で散り散りに広まるのでは無いでしょうか。
社会人が主体である一般の観光客は、計画的に余暇休日を取って、旅に来ますが、一方で、若者や学生などはインバウンドでも、バックパッカーが多く居ると思います。気ままに風のように好きな土地を訪れ、探し当てて、美味しいものを食べたりするのですが、旅行者の気質としてこだわりが無い事、計画性よりも、状況に対する適応力が高い特徴があると思うので、移住者の心理を知る為には、バックパッカーの足跡を追う事だと思います。滞在して、良いと思ったところ、人や食や土地、コミュニティが友好的で、また来たいと思わせるのが条件でしょう。
移住者の心理は、地域での負の経験が希薄ですから、争わず喧嘩せずで、新天地にも本当は苦楽があるものの、若者が立ち寄ったり、好んでいるコミュニティには概して、何らかのリソースや魅力があると思います。だから、政府肝煎りとはいえ、キャンペーンには広報や情報共有が大事なように思いますし、新しい動きに対しては歓迎ムードを高めることが、自然的な改革に繋がり、政策上のコストは軽減されるのでは無いでしょうか。
従って、商品サービスを提供する地域としては、店単位でどんな競争をするか、といった事が観光客の持って居るマネーを誘うパイを多く得られるかが、生存戦略になる。オーバーツーリズムへの対応としては、国の入国税が基本でしょうか、地域側でも人流のコントロール、政策的な余暇トレンドの調整によって、各地域が成すべきですが、それは、住民のQOLに繋がるので、例えば、都心に対して、郊外に余暇の穴場でも、国内観光向けにあると、「住環境も良い快適な地域」として、息づいて居る国民や、新規の移住者からも好まれるのでは無いでしょうか。
観光客は丸腰で来日して来ますから、彼ら自身がトラブルに巻き込まれる可能性はあっても、遊びに来ている人々には、モラルを共有してもらい、地域と馴染む事を基本とすべきでしょう。そして、移動手段としては、大量消費、暴飲暴食は、都心における観光客の需要を満たす一方で、旅のニーズも多様化して居るので、郊外とか地方への移動手段も、多くは鉄道やバスなどの公共交通機関を使うでしょう。ライドシェアは観光という大きなパイの存在によって、地域の文化、生活のコアである住民側が影響を受けて、生まれたビジネスモデルで、この外圧は、多くの商品サービスの生産性やビジネスモデルにも影響を与えるでしょう。
生業として、本業と副業との線引きが明確にはなって居ないで、副業の方が稼げるという人々も居ます。しかし、観光における、おもてなし、とは、観光客も目が肥えていると思うので、プロ化しないで、ライドシェアなどの「コミュニティビジネス」にアラがあるようだと、日本と言う国の民度を軽視されるかも知れません。そして、観光にはシーズンがありますから、観光地側にも安定した”客が一定数来ること”で、経営を持続できて、雇用創出も続いて、更には、プロフェッショナルとしてモラルや商品サービスの技能水準を維持できるのでは無いか。
オフシーズンがあって、暇な時期があることに観光地側は慣れているかも知れませんが、シーズンが限定的だと、商品サービスの価格に影響があって、店側も”高いもの”を出さざるを得ない。それは、観光客の足元を見ているのでは無く、繁忙期に稼いでおかないと、年間の生活がままならないから、だと思います。だから、北国などオフシーズンには、インバウンドが大きく減少するから、観光需要の調整として、日本人向けだった「GoTo」を参考とした「国内観光の景気浮揚策」を、実施する必要があるのでは無いでしょうか。
国内観光は、今や、バブル期の感覚のような金儲けとか、大量生産・消費、というよりは、生活を楽しんだり、おもてなしをして、互いに刺激し合う事がトレンドだと思うので、過疎地でも移住先となるポテンシャルや、古民家とかインフラが整って居て、再生コストが安い土地ほどに、国内観光地としての新たな芽がある、と思います。ただ、移住を実行できるには、資本やアイデア、人脈などが必要ですから、ある程度の年齢層で働いて来たキャリアを持って居て、その変化を望んで居る社会人が行き会える小さな奇跡、が旅の恩恵になれば、国土の均衡な発展、をマンパワーが主導することで、田舎にある手つかずのハード、インフラが再生される可能性も、良い塩梅で散り散りに広まるのでは無いでしょうか。
社会人が主体である一般の観光客は、計画的に余暇休日を取って、旅に来ますが、一方で、若者や学生などはインバウンドでも、バックパッカーが多く居ると思います。気ままに風のように好きな土地を訪れ、探し当てて、美味しいものを食べたりするのですが、旅行者の気質としてこだわりが無い事、計画性よりも、状況に対する適応力が高い特徴があると思うので、移住者の心理を知る為には、バックパッカーの足跡を追う事だと思います。滞在して、良いと思ったところ、人や食や土地、コミュニティが友好的で、また来たいと思わせるのが条件でしょう。
移住者の心理は、地域での負の経験が希薄ですから、争わず喧嘩せずで、新天地にも本当は苦楽があるものの、若者が立ち寄ったり、好んでいるコミュニティには概して、何らかのリソースや魅力があると思います。だから、政府肝煎りとはいえ、キャンペーンには広報や情報共有が大事なように思いますし、新しい動きに対しては歓迎ムードを高めることが、自然的な改革に繋がり、政策上のコストは軽減されるのでは無いでしょうか。
2023年11月23日 17:50
デジタル田園都市構想、は、非常に理に適ったビジョンだと思うし、旧来の利益誘導とか公共事業の大規模な整備計画による、均衡な発展、では財政再建が求められる時代柄には合わないように思います。
そもそも、デジタル化がこのビジョンの先見性のゆえん、だと思いますが、田園都市構想とは実在して居る地方都市で、東京、大阪などの大都市圏の中とか近隣にあるベッドタウンとかの政策導入によるアップデート版(多摩田園都市)だと考えれば良いです。東京などの関東圏では、自治体間での連携の必要性が求められる中で、再開発とか、それを切々と必要だとするインナーシティの類似地域の問題です。
幸い、日本のインナーシティは治安が悪くなく、犯罪の温床になって居る状況にはないのですが、これは、「高度経済成長」が他国では移民の労働力によって担われていたところを、日本人のチカラによって乗り切った事で、日本人の中流層が活躍した事で、低開発地域でも住環境の悪化には無かったとの事です。
アメリカではニューヨークのハーレムとかブロンクス、クイーンズなどが有名ですが、同時に、ニューヨークでは芸術による衰退地区の再生が起きていて、つまりは、芸術家とか若い人材がインナーシティに入ってくる事で、アジア系、黒人などのマイノリティの中での疑似ルネサンス、を起こすという塩梅でしょう。そういうせいか、ニューヨークにはそういう人々の最低賃金を保障する制度があるそうですが、日系の彫刻家のイサム・ノグチも都市とか芸術デザインでリベラルが優勢な中での起死回生を図ったそうですが、結局、彼の窮地を救ったのは外国人からのプロジェクトであり「メキシコの壁」を何とかする、”メキシコ人による壁画制作による再生案”だった、との事です。
ともあれ、日本におけるマイノリティが、インナーシティとか、或いは、ゲットー化する事でマイノリティと移民問題が炎上する事を先手を打って抑制して行く必要があると思います。日本の都市部では、在日とか部落差別民、アイヌとか、ですが、近年では問題視されるほど治安悪化が起こり易いのは、安定雇用の無い日雇い労働者の盛り場で、それがインナーシティに成り易いようですが。これなどは、生活保護者の多い大阪府政も無関係では無く、関東と共有すべき政治的、地域的な問題でしょうね。
日本では、「サロン機能」というのは、よほどの過疎地域で無い限りは、インナーシティであってもある、と思います。しかしながら、そういうコミュニティの場が機能して居るかは別次元の問題であって、地域再生には政策やアイデアが必要で、そういう才能とは芸術、情報、学校、メディア、を母体とするも、または若い人材で、彼らが有して居るインテリジェンスへの期待度があるのでは無いか、と思います。コンパクトシティも、”アーバニズムの一つの道”に過ぎないから、それが無敵の処方箋、では無いと思います。そして、如何に的を射ていても一つの改革単発で満足していると、いつの間にか、地域全体が衰退して居るという事態もあり得るので、土地の価値を高める要素として、駅前や商店街優位のコンパクトシティに対して、歴史的価値とか城址などの文化財を活かしたリソース重視での、”もう一つのニューアーバニズムへの対応”だと思います。
そもそも、デジタル化がこのビジョンの先見性のゆえん、だと思いますが、田園都市構想とは実在して居る地方都市で、東京、大阪などの大都市圏の中とか近隣にあるベッドタウンとかの政策導入によるアップデート版(多摩田園都市)だと考えれば良いです。東京などの関東圏では、自治体間での連携の必要性が求められる中で、再開発とか、それを切々と必要だとするインナーシティの類似地域の問題です。
幸い、日本のインナーシティは治安が悪くなく、犯罪の温床になって居る状況にはないのですが、これは、「高度経済成長」が他国では移民の労働力によって担われていたところを、日本人のチカラによって乗り切った事で、日本人の中流層が活躍した事で、低開発地域でも住環境の悪化には無かったとの事です。
アメリカではニューヨークのハーレムとかブロンクス、クイーンズなどが有名ですが、同時に、ニューヨークでは芸術による衰退地区の再生が起きていて、つまりは、芸術家とか若い人材がインナーシティに入ってくる事で、アジア系、黒人などのマイノリティの中での疑似ルネサンス、を起こすという塩梅でしょう。そういうせいか、ニューヨークにはそういう人々の最低賃金を保障する制度があるそうですが、日系の彫刻家のイサム・ノグチも都市とか芸術デザインでリベラルが優勢な中での起死回生を図ったそうですが、結局、彼の窮地を救ったのは外国人からのプロジェクトであり「メキシコの壁」を何とかする、”メキシコ人による壁画制作による再生案”だった、との事です。
ともあれ、日本におけるマイノリティが、インナーシティとか、或いは、ゲットー化する事でマイノリティと移民問題が炎上する事を先手を打って抑制して行く必要があると思います。日本の都市部では、在日とか部落差別民、アイヌとか、ですが、近年では問題視されるほど治安悪化が起こり易いのは、安定雇用の無い日雇い労働者の盛り場で、それがインナーシティに成り易いようですが。これなどは、生活保護者の多い大阪府政も無関係では無く、関東と共有すべき政治的、地域的な問題でしょうね。
日本では、「サロン機能」というのは、よほどの過疎地域で無い限りは、インナーシティであってもある、と思います。しかしながら、そういうコミュニティの場が機能して居るかは別次元の問題であって、地域再生には政策やアイデアが必要で、そういう才能とは芸術、情報、学校、メディア、を母体とするも、または若い人材で、彼らが有して居るインテリジェンスへの期待度があるのでは無いか、と思います。コンパクトシティも、”アーバニズムの一つの道”に過ぎないから、それが無敵の処方箋、では無いと思います。そして、如何に的を射ていても一つの改革単発で満足していると、いつの間にか、地域全体が衰退して居るという事態もあり得るので、土地の価値を高める要素として、駅前や商店街優位のコンパクトシティに対して、歴史的価値とか城址などの文化財を活かしたリソース重視での、”もう一つのニューアーバニズムへの対応”だと思います。
2023年11月21日 16:50
地方の疲弊とか、農村、過疎地域、離島などの再生が模索されるべきだと思いますが、そもそも、日本では、破壊と再生、における”破壊者が台頭せず、古色蒼然たるものが停滞”して、残留して行くのだと思うので、「停滞と再生」を想定して居た方が地域社会の核心を捉えて居る気がします。
都市部では、企業経済が強いので、商業主義が成り立つのは、都会ならではと言えると思います。対する、地方に対して、何を提供して行くかが、国土の均衡な発展、の対案に成ると思います。されど、コミュニズムの時代では無いし、莫大なコストが掛かる事を思えば、あくまで「民間主導」であり自由意志によって、移住とか開発とか、古民家のリノベ、などによって、地方が存続して、自治発展して行く、第一声は民間に投票権がある、と思います。それを後方支援する事が行政に出来る事では無いでしょうか。
移住して来た人はソフトやアイデアを持って居るので、これを、生かさず殺さず、といった曖昧な態度では無く、支援すべきでしょう。移住して来て成功なのか、失敗なのかの多くの正負の部分は人間関係に適応出来るか、という事にあり、そうした関係は「コミュニティの質」によって左右されるコミュニティビジネスにも強い影響を与えるので、まだ、比較的少数である移住者とコミュニティビジネスを始めたばかりの新米村民というのは、地域にどういう人が住んでいるか、という事を自前に知る事が出来る必要があると思います。
地方の村に、そういう情報収集も出来たり、他者との横のつながりでのコミュニケーションに触れられるようなサロン機能が、移住者のカフェ、レストランとか民宿、グランピング場の整備、レクリエーション企画などが、接客サービスの付加価値としてのサービスとして広く提供されるべきでは無いでしょうか。だから、行政としては疲弊して居る村に対して、セーフティネットとして修繕的なコミュニティが形成される為のアクティビティ(特に、移住、リノベ、観光)を、環境再生をも副次としたグリーン・ニューディールの元で支援して行く事が大切に思います。
アーバンデザインとは、大規模投資とか公共事業といった古い政治、を基盤としていて、そこから独自に分岐し成熟した”コミュニズムとリアリティとの中和的な政策”である、と思います。だから、如何なるデザインが地方に通用するかは未知数ですが、一つの公園とか農村の小さな地方経済を再生させる上でも、前提として入念な下準備がされて居るものです。日本は国土が限られて居るので、一つの街でパイの奪い合いをするよりは、停滞と再生、に瀕して居る村をリノベーションする方策を練るべきで、それが、理想に対するリアリズムとしての対案だと思います。
都市部では、企業経済が強いので、商業主義が成り立つのは、都会ならではと言えると思います。対する、地方に対して、何を提供して行くかが、国土の均衡な発展、の対案に成ると思います。されど、コミュニズムの時代では無いし、莫大なコストが掛かる事を思えば、あくまで「民間主導」であり自由意志によって、移住とか開発とか、古民家のリノベ、などによって、地方が存続して、自治発展して行く、第一声は民間に投票権がある、と思います。それを後方支援する事が行政に出来る事では無いでしょうか。
移住して来た人はソフトやアイデアを持って居るので、これを、生かさず殺さず、といった曖昧な態度では無く、支援すべきでしょう。移住して来て成功なのか、失敗なのかの多くの正負の部分は人間関係に適応出来るか、という事にあり、そうした関係は「コミュニティの質」によって左右されるコミュニティビジネスにも強い影響を与えるので、まだ、比較的少数である移住者とコミュニティビジネスを始めたばかりの新米村民というのは、地域にどういう人が住んでいるか、という事を自前に知る事が出来る必要があると思います。
地方の村に、そういう情報収集も出来たり、他者との横のつながりでのコミュニケーションに触れられるようなサロン機能が、移住者のカフェ、レストランとか民宿、グランピング場の整備、レクリエーション企画などが、接客サービスの付加価値としてのサービスとして広く提供されるべきでは無いでしょうか。だから、行政としては疲弊して居る村に対して、セーフティネットとして修繕的なコミュニティが形成される為のアクティビティ(特に、移住、リノベ、観光)を、環境再生をも副次としたグリーン・ニューディールの元で支援して行く事が大切に思います。
アーバンデザインとは、大規模投資とか公共事業といった古い政治、を基盤としていて、そこから独自に分岐し成熟した”コミュニズムとリアリティとの中和的な政策”である、と思います。だから、如何なるデザインが地方に通用するかは未知数ですが、一つの公園とか農村の小さな地方経済を再生させる上でも、前提として入念な下準備がされて居るものです。日本は国土が限られて居るので、一つの街でパイの奪い合いをするよりは、停滞と再生、に瀕して居る村をリノベーションする方策を練るべきで、それが、理想に対するリアリズムとしての対案だと思います。
2023年11月16日 16:05
首長というのは、大きな権限と独自性を持って居る。革新派と言うと改革派だろうが、その色合いは国政と地方政治とでは異なるように思える。首長に出来る事は沢山あるが、財源や地方交付金のパイプなどから、国政に対しては従属して居る、とまでは言わないが、管理下にはあるのだと思う。
小さな自治体でも首長が強いという事だ。しかし、パワハラを常套とする人はソトに弱く、ウチに厳しい、というやり方なのだろう。ともあれ、必要とされて居るのはソトに強いリーダーで、それもオラが村、という狭い意識では無く、地域史観をビジョンとして実現出来る事で、利益誘導だと批判を受けながらも、政策重視で自治体間での連携、大都市との協働が取れる柔軟なスタンスなのだと思う。
関東では都政を主軸として、そういった自治体連携が有力知事などの協力関係に観られる。これは、国政に近い地政学にあって、都政の権限が非常に大きいからだろうと思う。つまり、改革の推進の為にはリーダーシップを牽引するエンジンを共有したいのだと思う。
市政、村政などにおいては、公共事業を誘致するのは大事であり、国政に泣きついたり、政策の投下に非常に従順であったり、独自裁量による事業が中々出来ないと思うが、行政が大規模なインフラを計画するだけでなく、旧来のカタチに対する、工夫を凝らした小さなインフラを市村単位で必要とするもののであって、事業に必須の情報共有をする事では無いだろうか。例えば、越境バイパスを建設するにおいて、国道や大きな道路、あるいはその予定地を経由する形で開通すれば、環状道路の機能を果たして、越境移動のコストや時間、渋滞の緩和を期待出来る。
道路は人流をコントロールするから、沿路には経済特区を指定したり、地域でチカラを入れたい分野の施設や店舗、事業所を誘致出来るようにするのである。公共投資とか政策、アイデアにも玉石があるが、到底、民間の方がフットワークが軽く、時代を先読みして居るから、産業のコンテンツについては民間主導で、個々での交渉事が必要かも知れない。バイパス間で地域が異なるから、道路の両サイドで地域間競争が起きて、地場産業としても盛り上がるかも知れない。SNS広告でも地域内でのライバル店や同業を意識して居るのが普通だが、ロードサイド型で多数見られる飲食店系の地域ブランドが、両サイドで拮抗し合い、より越境地帯を開拓出来るかも知れない。地政学が地域創生には非常に重要に思える。
小さな自治体でも首長が強いという事だ。しかし、パワハラを常套とする人はソトに弱く、ウチに厳しい、というやり方なのだろう。ともあれ、必要とされて居るのはソトに強いリーダーで、それもオラが村、という狭い意識では無く、地域史観をビジョンとして実現出来る事で、利益誘導だと批判を受けながらも、政策重視で自治体間での連携、大都市との協働が取れる柔軟なスタンスなのだと思う。
関東では都政を主軸として、そういった自治体連携が有力知事などの協力関係に観られる。これは、国政に近い地政学にあって、都政の権限が非常に大きいからだろうと思う。つまり、改革の推進の為にはリーダーシップを牽引するエンジンを共有したいのだと思う。
市政、村政などにおいては、公共事業を誘致するのは大事であり、国政に泣きついたり、政策の投下に非常に従順であったり、独自裁量による事業が中々出来ないと思うが、行政が大規模なインフラを計画するだけでなく、旧来のカタチに対する、工夫を凝らした小さなインフラを市村単位で必要とするもののであって、事業に必須の情報共有をする事では無いだろうか。例えば、越境バイパスを建設するにおいて、国道や大きな道路、あるいはその予定地を経由する形で開通すれば、環状道路の機能を果たして、越境移動のコストや時間、渋滞の緩和を期待出来る。
道路は人流をコントロールするから、沿路には経済特区を指定したり、地域でチカラを入れたい分野の施設や店舗、事業所を誘致出来るようにするのである。公共投資とか政策、アイデアにも玉石があるが、到底、民間の方がフットワークが軽く、時代を先読みして居るから、産業のコンテンツについては民間主導で、個々での交渉事が必要かも知れない。バイパス間で地域が異なるから、道路の両サイドで地域間競争が起きて、地場産業としても盛り上がるかも知れない。SNS広告でも地域内でのライバル店や同業を意識して居るのが普通だが、ロードサイド型で多数見られる飲食店系の地域ブランドが、両サイドで拮抗し合い、より越境地帯を開拓出来るかも知れない。地政学が地域創生には非常に重要に思える。