書籍
2024年03月10日 16:14
舞台は未来、王によって統治された世界では、叛乱を企てた「囚人ZAP」を罰し殺す為の処刑場が、仮想空間の世界に用意されていた。王である猊下(げいか)は冷酷で好奇心が強いという妙な性格であって、その姿は麗しい佳人のようであるが、ZAPに対しては厳しく臨み、もてあそび、他の民を歓喜と恐怖によって支配する、古い王道を掲げる愚昧な人物だ。処刑場は、”終戦直後の東京”であって、ケイオスの中に、多種多様な人間が息づいて居る。闇市や荒廃した街では、やくざやテキ屋、闇商売、売春業に、ただっ広い焼野原の跡に、その火種となったGHQのMPなども登場する。SFにしてはリアリティのある、下町根性が溢れた物語世界では、人が資本であるという事だろう。実に、豊かな人間群像は「待ってました」、の作風なのだと思う。
これは、日本の戦災地がなんだと言えば、再生を待つ都市の生命であって、それを預かるのが権力であって、本来の王の仕事であろう。だが、不夜城となった東京、に対して、特級戦闘員であり、理不尽な極刑を受けた囚人であるZAPの処刑場として居るのは、猊下が政を一切放棄して居る、という本質が見えるのでは無いだろうか。だから、主人公はザジであり、ZAPのメンバーであって、彼らは「やくざもの」としての役割を与えられた大いなる物語に下に、ほぼ運命を決定づけられている。つまり、これは、王への本当の抵抗として「ディストピアとの戦い」を叫ぶ、魂の書、であり、血の物語ではあるまいか。
だから、東京を描く、この仮想舞台である「エバーランド」とは、映画『マトリックス』における、ネットや仮想世界でのレジスタンスと、人間の尊厳を奪うシステムや、勝つことが出来ない敵の存在においては、被って居る部分がある。多くの人間はデータ化されて居て、記憶を奪われているから、ZAPの受難劇はいつまでも続くので、これは、極刑以上の責め苦で、無間地獄だと言えるだろう。そもそも、仮想空間とは、デジタル・トランスフォーメーションにおける希望であって、テックの最前線であるから、エバーランドがディストピアで誰も望まない辺境、である事は、情報時代の需要に背く、ミスマッチ、であり、更には世界観を読み違えて居る猊下の愚昧さ、を表わすものに違いないと思う。
だから、如何に、ライオン王国のように、猊(げい)、という「アイコンの化物」が居て、その無尽蔵の負のエネルギーがエバーランド、終戦直後の東京、ゲームの舞台を造って居るとしても、そもそもが、間違った物語であって、それは、叛乱を画したZAPのことなのか、愚昧な王のミスマッチなのか、それとも、処刑ドラマに歓喜の声を上げる大衆なのか、誰の失敗なのか、という事である。エバーランドでの、ザジ達は下町での人情舞台において、体当たりで人々と向き合うし、明るく健やかであって、徒手空拳でジャイアントキリングを志すザジ達も強かでドラマに溢れているから、ディストピアにも気丈に振る舞える強さ、が必要なのだろう。
猊という、巨大な化物のしっぽを踏んで、その怒りに遭った。その正義とは猊下の統治する独裁国では、裁かれることも無く、政府が正しい。知らず知らずの内に、兵隊になって居ることがあり、ZAPとは、猊下に対する「奴隷のくびき」から逃れたい、と自然体に考えた、人間らしい存在では無いだろうか。レジスタンスの発生は成否とは関係なく、実は、将への弾圧のリスク以上に、国家権力の側の”死亡フラグ”であって、つまり、体制が支持されて居ない、民から嫌われている、という事でもある。
ZAP弾圧に恍惚の表情を浮かべる、といったサド気質は、リーダーとしては愛されがたい、失敗だと言えるだろう。エバーランドでの抗争劇は世界同時中継だから、本当は、猊下も、優秀な戦闘員であるZAPの叛乱や、その武力と闘志に不安を抱いて、見せしめとして居るのでは無いか。実際に、エバーランドでは、抗争とか小さな喧嘩沙汰でも、血みどろのドラマがあるから、その中でこそ、ザジ達の「不屈の闘志」は鮮やかに引き立つ。だが、こんな「処刑劇場」やゲームの舞台に真面目に向き合ったのは発狂したジーザスぐらいで、ザジには事の本質が理解出来て居ないがゆえに、リーダーとして楽天的なのは、これしかない、唯一の対抗手段だと言えるだろう。
だから、エバーランドというアンチテーゼでは、楽天主義もブラックに塗り替えられ救いようがない。そして、ナルシストで、好奇心の強い猊下は仮想東京にまでログインして、アバターのプレイヤーとなって入り込んで来る、物好きの酔狂だから、とにかく、大局にそった英断が出来ない。彼は何故、こんな火遊びを続けているのだろうか。確かに、エバーランドには、昭和の東京のドヤ街とか、下町情緒に溢れる”新世界”が広がって居るから、もしかしたら、ZAPが全滅した暁には、物好きの猊下はネット上に「ネバーランド」を作ろうとして居るのかも知れない。いずれにしても、猊下(王様)が、ZAPメンバーらの命をおもちゃにして居ることには変わりは無い。
ディストピアを作って居る、誰が悪い、元凶なのか、抵抗が悪いのか、猊下が悪いのか。こうなると、読者も我慢や知力比べで、誰が”彼ら全員を救ってやれる”のか、ネオが外の世界にしか居ないこと。それが、物語の過不足として最大の問題では無いだろうか。
これは、日本の戦災地がなんだと言えば、再生を待つ都市の生命であって、それを預かるのが権力であって、本来の王の仕事であろう。だが、不夜城となった東京、に対して、特級戦闘員であり、理不尽な極刑を受けた囚人であるZAPの処刑場として居るのは、猊下が政を一切放棄して居る、という本質が見えるのでは無いだろうか。だから、主人公はザジであり、ZAPのメンバーであって、彼らは「やくざもの」としての役割を与えられた大いなる物語に下に、ほぼ運命を決定づけられている。つまり、これは、王への本当の抵抗として「ディストピアとの戦い」を叫ぶ、魂の書、であり、血の物語ではあるまいか。
だから、東京を描く、この仮想舞台である「エバーランド」とは、映画『マトリックス』における、ネットや仮想世界でのレジスタンスと、人間の尊厳を奪うシステムや、勝つことが出来ない敵の存在においては、被って居る部分がある。多くの人間はデータ化されて居て、記憶を奪われているから、ZAPの受難劇はいつまでも続くので、これは、極刑以上の責め苦で、無間地獄だと言えるだろう。そもそも、仮想空間とは、デジタル・トランスフォーメーションにおける希望であって、テックの最前線であるから、エバーランドがディストピアで誰も望まない辺境、である事は、情報時代の需要に背く、ミスマッチ、であり、更には世界観を読み違えて居る猊下の愚昧さ、を表わすものに違いないと思う。
だから、如何に、ライオン王国のように、猊(げい)、という「アイコンの化物」が居て、その無尽蔵の負のエネルギーがエバーランド、終戦直後の東京、ゲームの舞台を造って居るとしても、そもそもが、間違った物語であって、それは、叛乱を画したZAPのことなのか、愚昧な王のミスマッチなのか、それとも、処刑ドラマに歓喜の声を上げる大衆なのか、誰の失敗なのか、という事である。エバーランドでの、ザジ達は下町での人情舞台において、体当たりで人々と向き合うし、明るく健やかであって、徒手空拳でジャイアントキリングを志すザジ達も強かでドラマに溢れているから、ディストピアにも気丈に振る舞える強さ、が必要なのだろう。
猊という、巨大な化物のしっぽを踏んで、その怒りに遭った。その正義とは猊下の統治する独裁国では、裁かれることも無く、政府が正しい。知らず知らずの内に、兵隊になって居ることがあり、ZAPとは、猊下に対する「奴隷のくびき」から逃れたい、と自然体に考えた、人間らしい存在では無いだろうか。レジスタンスの発生は成否とは関係なく、実は、将への弾圧のリスク以上に、国家権力の側の”死亡フラグ”であって、つまり、体制が支持されて居ない、民から嫌われている、という事でもある。
ZAP弾圧に恍惚の表情を浮かべる、といったサド気質は、リーダーとしては愛されがたい、失敗だと言えるだろう。エバーランドでの抗争劇は世界同時中継だから、本当は、猊下も、優秀な戦闘員であるZAPの叛乱や、その武力と闘志に不安を抱いて、見せしめとして居るのでは無いか。実際に、エバーランドでは、抗争とか小さな喧嘩沙汰でも、血みどろのドラマがあるから、その中でこそ、ザジ達の「不屈の闘志」は鮮やかに引き立つ。だが、こんな「処刑劇場」やゲームの舞台に真面目に向き合ったのは発狂したジーザスぐらいで、ザジには事の本質が理解出来て居ないがゆえに、リーダーとして楽天的なのは、これしかない、唯一の対抗手段だと言えるだろう。
だから、エバーランドというアンチテーゼでは、楽天主義もブラックに塗り替えられ救いようがない。そして、ナルシストで、好奇心の強い猊下は仮想東京にまでログインして、アバターのプレイヤーとなって入り込んで来る、物好きの酔狂だから、とにかく、大局にそった英断が出来ない。彼は何故、こんな火遊びを続けているのだろうか。確かに、エバーランドには、昭和の東京のドヤ街とか、下町情緒に溢れる”新世界”が広がって居るから、もしかしたら、ZAPが全滅した暁には、物好きの猊下はネット上に「ネバーランド」を作ろうとして居るのかも知れない。いずれにしても、猊下(王様)が、ZAPメンバーらの命をおもちゃにして居ることには変わりは無い。
ディストピアを作って居る、誰が悪い、元凶なのか、抵抗が悪いのか、猊下が悪いのか。こうなると、読者も我慢や知力比べで、誰が”彼ら全員を救ってやれる”のか、ネオが外の世界にしか居ないこと。それが、物語の過不足として最大の問題では無いだろうか。
2024年03月09日 17:17
古代中国の春秋戦国時代を舞台としながら、人間の本質に迫った物語。戦乱がたえず、決して平和では無かった古の乱世にも、幕を引ける偉大なリーダーが表れる、或いは、大姦雄か。そして、それとは反対に、幕を開ける英雄たちが息吹いて居て、始皇帝へのレジスタンスとなる。史実では描かれなかった、もう一つの真実があり、中国の群雄割拠と天下統一に対する問題と、人間の義や情の切なさ、強さ、がある。
中国は歴史上、戦乱が多いです、革命を経て成長を繰り返して来た「アジアの帝国」ではありますが、この『達人伝』と言う物語は、”最初の帝国、秦”を作り上げた始皇帝を悪玉として、戦国という歴史の転換点に立ち会い、古色蒼然たる物語とビビッドな人間群像を描きます。歴史の表舞台で活躍した人々を、紳士、と呼び、その裏の物語にある人々を、流氓、と呼ぶそうです。
魅力的な武将や軍師、王さまに英雄、など建国史に立ち会った紳士を称えて来たのが今までの歴史だとすると、丁寧に流氓を描く、と言う試みは、今までにない「ネオ戦国」と言えるでしょう。こうした試みは、作者である王欣太先生においては、『蒼天航路』でも見られた新解釈だと言えるでしょう。
歴史的にも秦帝国は世に知られた、中国で最初の統一帝国です。それまでの七つの国に分かれた中国では、それぞれに王による統治が成されて、軍隊を持って戦い合っていました。『達人伝』では、それらの戦乱の世で、政治や外交に、出世のチャンスにあふれた自由な時代、だったとします。それは、戦国四君、と呼ばれる、流氓=無頼者たち、数千人の食客を率いた「ならずもののリーダー」とか、大盗賊の盗跖が堂々たる活躍を見せることで、中国そのものが破格のスケール、であることを示すのでは無いでしょうか。
進歩や発展は、国家とか科学技術の上では正しい事であって、強い国が生き残って来たのは、易姓革命を繰り返した中国王朝時代でも同じ、チカラの支配、があったのだと思います。しかし、古には、メディアが脆弱であって、権力の目にとまらない小さな事件や英雄といった存在は、無視されて記録されて来なかっただけ、という、歴史の不思議と、観る目の無さがある、と思います。戦乱とは、いつの時代にも権力者や、特に独裁者が引き起こすものだとして、それを反対に、終息に導くものは平和において偉大な存在であるのでしょう。
しかし、戦乱に不参加する立場を取る、のも自由であって、民は生活や毎年の農の管理や収穫のことで、今を生きる、ことで精一杯であって、だからこそ、中国では、リーダーの素質を、「何人に食を食わせられるか」、つまり、農本による経済力と広い領土を得られる事に求めたのでしょう。中国には異民族が居ますから、外敵からの侵略に晒されて、常に強い軍隊や文明の帝国である事が求められた。そして、異民族は略奪や侵略だけでなく、ジェノサイドの危機ももたらしましたから、漢民族は異民族に対して覇権を持って優位に立つことで、中華思想としても安心を得て居たのでしょう。
始皇帝は、異民族はおろか、同胞である漢民族をすらジェノサイドする毀誉褒貶のあるリーダーで、本作ではその抵抗運動を描きます。帝国とは、クニや地平を真っ平ですから、流氓というレジスタンス活動や、戦乱への不参加を表明したり、武侠を己の中心に据えて暮らす侠や豪傑などは”慮外の民”であったのかも知れません。そして、権力者は慮外の民を悪として、無視して来たことへの、言葉と活劇、大呼吸による「抗議文」であって、新解釈としての本作は待望の歴史漫画作品である、と言えるのでは無いでしょうか。
始皇帝が戦乱を終息させる過程において、何を重視して来て、何を無視して来たか、という火花のように舞い散る生命の華を、如何にビビッドに描くのか、という事で、正史とは反対に、英雄豪傑にスポットを当てた人間群像は、ヒールとヒーローとの主客逆転が鮮やかに起きています。
「中国史の新解釈」であって、権力への伝統的解釈はネットワークを介して、大陸にて活動して居た儒者(儒教)とか名士が行ってきた評価であって、中国では徳に背く国や為政者には煩い文化が、言論や表現の世界で息づいて居た、と思います。中国は始皇帝によって最初に統一されて、それは、戦乱を解決した功績がありますが、一方で、許されない行為をしては居ないか。それは、個人が行うべき、クニや組織論よりも、個の情や正義で批評されるメンタリティの問題なのでは無いでしょうか。
主人公の荘丹は、そういう表現世界で生きて来た、百家争鳴の荘子の子孫であって、彼は大法螺ぶきですが魅力的です。国にとっては、歯牙にかけない流氓の人々だから出来たことが、秦へのレジスタンスであって、そこには、熱い友情や絆が描かれますが、それに絡め取られる必要は無い。しかし、秦や漢帝国の崩壊には、必ず、それまでのチカラの支配の時代には、見えて来なかった、人間群像、が浮かび上がって、大活躍をするのです。荘丹や盗跖は、いわば、秦に対するフライングゲームであって、今にある「支配」に対して、それが覆るかも知れない、そういう「革命」に希望を抱いた若者達の時代を先取っており、そこには、クールを装いながら、人への深く熱い好き、というココロや魂が、この物語には込められているのでは無いでしょうか。
中国は歴史上、戦乱が多いです、革命を経て成長を繰り返して来た「アジアの帝国」ではありますが、この『達人伝』と言う物語は、”最初の帝国、秦”を作り上げた始皇帝を悪玉として、戦国という歴史の転換点に立ち会い、古色蒼然たる物語とビビッドな人間群像を描きます。歴史の表舞台で活躍した人々を、紳士、と呼び、その裏の物語にある人々を、流氓、と呼ぶそうです。
魅力的な武将や軍師、王さまに英雄、など建国史に立ち会った紳士を称えて来たのが今までの歴史だとすると、丁寧に流氓を描く、と言う試みは、今までにない「ネオ戦国」と言えるでしょう。こうした試みは、作者である王欣太先生においては、『蒼天航路』でも見られた新解釈だと言えるでしょう。
歴史的にも秦帝国は世に知られた、中国で最初の統一帝国です。それまでの七つの国に分かれた中国では、それぞれに王による統治が成されて、軍隊を持って戦い合っていました。『達人伝』では、それらの戦乱の世で、政治や外交に、出世のチャンスにあふれた自由な時代、だったとします。それは、戦国四君、と呼ばれる、流氓=無頼者たち、数千人の食客を率いた「ならずもののリーダー」とか、大盗賊の盗跖が堂々たる活躍を見せることで、中国そのものが破格のスケール、であることを示すのでは無いでしょうか。
進歩や発展は、国家とか科学技術の上では正しい事であって、強い国が生き残って来たのは、易姓革命を繰り返した中国王朝時代でも同じ、チカラの支配、があったのだと思います。しかし、古には、メディアが脆弱であって、権力の目にとまらない小さな事件や英雄といった存在は、無視されて記録されて来なかっただけ、という、歴史の不思議と、観る目の無さがある、と思います。戦乱とは、いつの時代にも権力者や、特に独裁者が引き起こすものだとして、それを反対に、終息に導くものは平和において偉大な存在であるのでしょう。
しかし、戦乱に不参加する立場を取る、のも自由であって、民は生活や毎年の農の管理や収穫のことで、今を生きる、ことで精一杯であって、だからこそ、中国では、リーダーの素質を、「何人に食を食わせられるか」、つまり、農本による経済力と広い領土を得られる事に求めたのでしょう。中国には異民族が居ますから、外敵からの侵略に晒されて、常に強い軍隊や文明の帝国である事が求められた。そして、異民族は略奪や侵略だけでなく、ジェノサイドの危機ももたらしましたから、漢民族は異民族に対して覇権を持って優位に立つことで、中華思想としても安心を得て居たのでしょう。
始皇帝は、異民族はおろか、同胞である漢民族をすらジェノサイドする毀誉褒貶のあるリーダーで、本作ではその抵抗運動を描きます。帝国とは、クニや地平を真っ平ですから、流氓というレジスタンス活動や、戦乱への不参加を表明したり、武侠を己の中心に据えて暮らす侠や豪傑などは”慮外の民”であったのかも知れません。そして、権力者は慮外の民を悪として、無視して来たことへの、言葉と活劇、大呼吸による「抗議文」であって、新解釈としての本作は待望の歴史漫画作品である、と言えるのでは無いでしょうか。
始皇帝が戦乱を終息させる過程において、何を重視して来て、何を無視して来たか、という火花のように舞い散る生命の華を、如何にビビッドに描くのか、という事で、正史とは反対に、英雄豪傑にスポットを当てた人間群像は、ヒールとヒーローとの主客逆転が鮮やかに起きています。
「中国史の新解釈」であって、権力への伝統的解釈はネットワークを介して、大陸にて活動して居た儒者(儒教)とか名士が行ってきた評価であって、中国では徳に背く国や為政者には煩い文化が、言論や表現の世界で息づいて居た、と思います。中国は始皇帝によって最初に統一されて、それは、戦乱を解決した功績がありますが、一方で、許されない行為をしては居ないか。それは、個人が行うべき、クニや組織論よりも、個の情や正義で批評されるメンタリティの問題なのでは無いでしょうか。
主人公の荘丹は、そういう表現世界で生きて来た、百家争鳴の荘子の子孫であって、彼は大法螺ぶきですが魅力的です。国にとっては、歯牙にかけない流氓の人々だから出来たことが、秦へのレジスタンスであって、そこには、熱い友情や絆が描かれますが、それに絡め取られる必要は無い。しかし、秦や漢帝国の崩壊には、必ず、それまでのチカラの支配の時代には、見えて来なかった、人間群像、が浮かび上がって、大活躍をするのです。荘丹や盗跖は、いわば、秦に対するフライングゲームであって、今にある「支配」に対して、それが覆るかも知れない、そういう「革命」に希望を抱いた若者達の時代を先取っており、そこには、クールを装いながら、人への深く熱い好き、というココロや魂が、この物語には込められているのでは無いでしょうか。
2023年11月11日 03:27
近年の都市デザインのロールモデル、成功例を収めたバイブルと呼べる一冊です。
コンパクトシティが持続性と言う意味で、大流行した時期と一にして居ますから最新情報の書ではありません。今では、「コンパクトシティ万能説」は低迷して居て、防災機能や郊外型の気ままな都市経済モデルも提唱され合っており、どれが正しいというモデルはありません。
しかし、この書では都市を個性として個々に把握して、どの街にもそれぞれに大きく違っている場合もあれば、微妙にテクニックを操ってバランスが取られている場合があります。つまり、”100の都市には100通りのデザインがあり、王道がある”、という言葉を実践している稀なカタログだと思います。
都市がそれぞれに異なる歴史、文化、名物、メンタリティを持って居る以上、ベストな都市モデルは”それぞれの土地柄に応じて変わる”としか言いようがありません。さらに、コンパクトシティは駅前の繁栄ぶりと過疎って感じとを比較できれば、成功して居るのか失敗なのか、は把握出来るものと思います。
結局は、「選択と自由」であって、都市のスプロール化に対応した郊外への分散型で都市の濃淡はレイヤーとして地域を牽引するコアエコノミーとなって居る、駅前、会社、工場などの企業城下町もまた、古い都市モデルながら、再生案は一つではありません。つまりは、ネットワーク化して行くから、コアエリアが単独では無く、地域内にばらばらに点在した複数のエリアがネットワーク化する為に、郊外型ならば自動車、コンパクトシティならばトラムやバス、公共交通機関の保全がなされるという事です。
ただ、大量生産、大量消費による、自然大開発の時代は失敗であり、その負のレガシーを経験的に活かして、自然地はそのまま手つかずで郊外の更に過疎地域にあってその原生のままに保たれるよりも、人の手が入り、保護管理されて、また、人の足も入り散策されたり、静かな環境での保全施設などが併設された方が遥かに環境保全になる。モエレ沼公園然り、「総合公園」もそういったコンセプトに沿って居ます。
都市の「コアエリア」は、既に、開発されて居る場合もあり、駅前となって居たり、市役所、自治体議事堂があったり、何らかの活用されている場合と、少ないですけど、発見されていない場合があります。本書では、公共事業、は積極的に推奨されておらず、大きな開発によって、ベネフィットを引き出す、というやり方は不合理なので、水も漏らさぬ成功モデルにおいては、凡庸な都市政策を打った失敗モデルに対する分水嶺となり、改革プランの提唱や受容を必要として居るところだと思います。
良い都市が多い事は、国として何かをまとまってやる事には直結しません。本書では”安易なデジタル化、も基本的に支持して居ません”。あるのはロハスとか持続性に結び付く、アナログという自然と技術、発想とのコングリマットであり、デザイン都市に宿る帰属心である親愛の情や日常の平穏な感情です。個々の地域での生活はモダンなアーバ二ズムとして浸透しており、個々にはQOLとして、ポストモダンをも形成して行き、末端にまで”日々を実感される”優れた都市デザインには必須の条件となると思う。こちらの「100の成功例」はデザイナー冥利に尽きる悟りの書だと思います。
コンパクトシティが持続性と言う意味で、大流行した時期と一にして居ますから最新情報の書ではありません。今では、「コンパクトシティ万能説」は低迷して居て、防災機能や郊外型の気ままな都市経済モデルも提唱され合っており、どれが正しいというモデルはありません。
しかし、この書では都市を個性として個々に把握して、どの街にもそれぞれに大きく違っている場合もあれば、微妙にテクニックを操ってバランスが取られている場合があります。つまり、”100の都市には100通りのデザインがあり、王道がある”、という言葉を実践している稀なカタログだと思います。
都市がそれぞれに異なる歴史、文化、名物、メンタリティを持って居る以上、ベストな都市モデルは”それぞれの土地柄に応じて変わる”としか言いようがありません。さらに、コンパクトシティは駅前の繁栄ぶりと過疎って感じとを比較できれば、成功して居るのか失敗なのか、は把握出来るものと思います。
結局は、「選択と自由」であって、都市のスプロール化に対応した郊外への分散型で都市の濃淡はレイヤーとして地域を牽引するコアエコノミーとなって居る、駅前、会社、工場などの企業城下町もまた、古い都市モデルながら、再生案は一つではありません。つまりは、ネットワーク化して行くから、コアエリアが単独では無く、地域内にばらばらに点在した複数のエリアがネットワーク化する為に、郊外型ならば自動車、コンパクトシティならばトラムやバス、公共交通機関の保全がなされるという事です。
ただ、大量生産、大量消費による、自然大開発の時代は失敗であり、その負のレガシーを経験的に活かして、自然地はそのまま手つかずで郊外の更に過疎地域にあってその原生のままに保たれるよりも、人の手が入り、保護管理されて、また、人の足も入り散策されたり、静かな環境での保全施設などが併設された方が遥かに環境保全になる。モエレ沼公園然り、「総合公園」もそういったコンセプトに沿って居ます。
都市の「コアエリア」は、既に、開発されて居る場合もあり、駅前となって居たり、市役所、自治体議事堂があったり、何らかの活用されている場合と、少ないですけど、発見されていない場合があります。本書では、公共事業、は積極的に推奨されておらず、大きな開発によって、ベネフィットを引き出す、というやり方は不合理なので、水も漏らさぬ成功モデルにおいては、凡庸な都市政策を打った失敗モデルに対する分水嶺となり、改革プランの提唱や受容を必要として居るところだと思います。
良い都市が多い事は、国として何かをまとまってやる事には直結しません。本書では”安易なデジタル化、も基本的に支持して居ません”。あるのはロハスとか持続性に結び付く、アナログという自然と技術、発想とのコングリマットであり、デザイン都市に宿る帰属心である親愛の情や日常の平穏な感情です。個々の地域での生活はモダンなアーバ二ズムとして浸透しており、個々にはQOLとして、ポストモダンをも形成して行き、末端にまで”日々を実感される”優れた都市デザインには必須の条件となると思う。こちらの「100の成功例」はデザイナー冥利に尽きる悟りの書だと思います。
2022年12月18日 21:20
近頃、ブログの会話で上がったので、思い出して居ますけど、『蒼天航路』という漫画をご存じでしょうか。「ネオ三国志」というコピーで触れ回って居ましたが、本当に新しいストーリーなんです。物語、人物、戦、思想で、特に、僕が感動したのは「批評が新しい」という事。それは、人物への評価というものが、如何に善玉、悪玉、という偏った観方に、我々は頼ってしまって居るか、という、問い、になります。
主人公は曹操ですが、この人は、とにかく、儒教を国教とする中国王朝から目の敵にされて来た人物で、三国志では悪玉であり、彼を打ちのめす、「赤壁の戦い」とかが、ハイライトになって居ます。これは、長江で起きた大戦で、曹操軍20万を劉備と孫権の同盟軍3万ほどで、迎え撃って大勝利し、奇跡的な戦果を挙げました。この戦によって、曹操による統一は阻まれたと言われて居ます。
ちなみに、劉備というのが善玉で、曹操の最大のライバルです。『三国志演義』とか古い三国志では、劉備が主人公となっており、彼の股肱の部下であり、軍師として有名な諸葛孔明も登場します。孔明と呉の周瑜が、色々絡んで起こした奇跡とか、立案した作戦によって、赤壁の戦いは曹操軍に対して、鉄鎖と火攻め、偽投降の計で戦う事になります。結果的に、曹操の大敗であり、演義でも見せ場なので盛り上がりますが、とにかく、古い演義は善玉と悪玉との比較、にこだわり、道徳性が強い解釈なので、あまり斬新なものはありません。
演義は、日本では、吉川英治著の『三国志』が絵に描いたような、道徳と学びを重んじて、孝行息子の劉備が、関羽、張飛といった豪傑と義兄弟となって、衰退にあった漢王朝を復興する正義の為に戦う、義勇兵や傭兵隊のような働きをします。しかし、「義兄弟」という絆に、優等生の劉備像から違和感がありませんか。彼は、本当は粗暴さも持ち合わせた豪族の不良息子で、いわゆる、義侠であって、好きなように生きて居たそうです。曹操とか袁紹とかの大物も、また、公の側に居たエリートの子息にして、英雄の卵もまた、義侠を好んで居て、今の教育の中のエリート像とはかなり違った時代が観えて来ると思うのです。この2人は、若い頃はつるんで花嫁泥棒をしたり、袁紹は出仕せずに家族を大いに困らせたそうです。曹操は「阿瞞」と呼ばれ、良く暴れ回って居たそうなので、周囲は誰も彼が出世するとは思って居なかったそうです。
蒼天航路は連載終了したのが、かれこれ、17年前なので、自宅の本棚に今は置いて居ません。それに、この作品の価値観の全てを支持して居るわけではありません。しかし、善悪を決めるのは、その場その時の人の感情に頼ってしまう事があり、しかしながら、それが、感情が正義、というのは、歴史を知る人であれば、決して容認出来ない考え方だと思うのです。率直に言うと、戦の残酷な場面も躍動感をもって、美しくすら描いて居るので、そうしたダークサイドの美化とかライトを当てている事が、モラルとしてマイナスである事は、読む前に理解しておいた方が良いと思います。それに、会話がとても面白く、特に劉備三兄弟を始めとする、蜀の陣営、は個性豊かで、戦では敗け続きなるも、大徳と呼ばれる劉備の途方もない器の大きさ、義侠というやくざものの大物関羽の風格や、張飛の粗暴な呑んだくれキャラとか、漫画的には粗暴な彼らが何故愛されたのか、辻褄が合うように、魅力的な中国人的な好漢たちとしてみずみずしく描かれて居ます。
初めて三国志を読む人なら、杓子定規に演義から入ってとは僕は言いませんが、蒼天航路を読むならば、その後に三国志を専門とする学術書を読む事をお勧めします。
主人公は曹操ですが、この人は、とにかく、儒教を国教とする中国王朝から目の敵にされて来た人物で、三国志では悪玉であり、彼を打ちのめす、「赤壁の戦い」とかが、ハイライトになって居ます。これは、長江で起きた大戦で、曹操軍20万を劉備と孫権の同盟軍3万ほどで、迎え撃って大勝利し、奇跡的な戦果を挙げました。この戦によって、曹操による統一は阻まれたと言われて居ます。
ちなみに、劉備というのが善玉で、曹操の最大のライバルです。『三国志演義』とか古い三国志では、劉備が主人公となっており、彼の股肱の部下であり、軍師として有名な諸葛孔明も登場します。孔明と呉の周瑜が、色々絡んで起こした奇跡とか、立案した作戦によって、赤壁の戦いは曹操軍に対して、鉄鎖と火攻め、偽投降の計で戦う事になります。結果的に、曹操の大敗であり、演義でも見せ場なので盛り上がりますが、とにかく、古い演義は善玉と悪玉との比較、にこだわり、道徳性が強い解釈なので、あまり斬新なものはありません。
演義は、日本では、吉川英治著の『三国志』が絵に描いたような、道徳と学びを重んじて、孝行息子の劉備が、関羽、張飛といった豪傑と義兄弟となって、衰退にあった漢王朝を復興する正義の為に戦う、義勇兵や傭兵隊のような働きをします。しかし、「義兄弟」という絆に、優等生の劉備像から違和感がありませんか。彼は、本当は粗暴さも持ち合わせた豪族の不良息子で、いわゆる、義侠であって、好きなように生きて居たそうです。曹操とか袁紹とかの大物も、また、公の側に居たエリートの子息にして、英雄の卵もまた、義侠を好んで居て、今の教育の中のエリート像とはかなり違った時代が観えて来ると思うのです。この2人は、若い頃はつるんで花嫁泥棒をしたり、袁紹は出仕せずに家族を大いに困らせたそうです。曹操は「阿瞞」と呼ばれ、良く暴れ回って居たそうなので、周囲は誰も彼が出世するとは思って居なかったそうです。
蒼天航路は連載終了したのが、かれこれ、17年前なので、自宅の本棚に今は置いて居ません。それに、この作品の価値観の全てを支持して居るわけではありません。しかし、善悪を決めるのは、その場その時の人の感情に頼ってしまう事があり、しかしながら、それが、感情が正義、というのは、歴史を知る人であれば、決して容認出来ない考え方だと思うのです。率直に言うと、戦の残酷な場面も躍動感をもって、美しくすら描いて居るので、そうしたダークサイドの美化とかライトを当てている事が、モラルとしてマイナスである事は、読む前に理解しておいた方が良いと思います。それに、会話がとても面白く、特に劉備三兄弟を始めとする、蜀の陣営、は個性豊かで、戦では敗け続きなるも、大徳と呼ばれる劉備の途方もない器の大きさ、義侠というやくざものの大物関羽の風格や、張飛の粗暴な呑んだくれキャラとか、漫画的には粗暴な彼らが何故愛されたのか、辻褄が合うように、魅力的な中国人的な好漢たちとしてみずみずしく描かれて居ます。
初めて三国志を読む人なら、杓子定規に演義から入ってとは僕は言いませんが、蒼天航路を読むならば、その後に三国志を専門とする学術書を読む事をお勧めします。
2020年12月17日 20:11
正直、自分には理解の難しい哲学ではあった。
哲学の特性とは今ある全ての存在を、本当に観るがままであるかどうか、を疑う。
それは、物質を超えて精神の世界に思考を落とし込むもので、それなりに知的探索としての面白い発想ではある。物質主義というわけでは無いし、物質を否定するものでも無い。だが、観たままにある物質の中に、支配と被支配の関係にある事を明確にしている。
鳥とビンの関係が直接語られてるが、人間もまたハードに捉われて、ソフト面からのアプローチや思考を忘れている、という率直な疑問を呈するもので、つまり、ノ氏の哲学的アプローチとは、世界の常識を観たものとして、物資面から導入しながら、その展開において、人間の問題として、物質から自由に成るべき、と論じる事に向かう。
或いは、地球という物質の集積地に対する新たな思考が、宇宙への飛躍に限るならば、巷にある書籍にありがちな定説に墜ちる処ではあるが、ノ氏が日本の侍における「間」や「道」と言った保守的な世界観に繋がる処には、正直言って、思考の大宇宙というか銀河の広がりを感じる処ではある。これも、ノ氏が武道を20年間修練した経験値と密接に繋がってるのだと思う。
理論における宇宙への飛躍とは、やもすれば定説を超える新機軸となる可能性はあるものの、この視点からすれば、宇宙計画が今だ未完成であり、科学技術による合理性からのリスク回避と航行が徹底されている今の宇宙には哲学の介在する余裕がまだ無いだろう。つまり、ノ氏の令和哲学とは、哲学の草創期たる全ての学問の基礎、と言うよりは、文明の進化と成熟の先にあるアナログを基礎とする人間社会の完成とその為の教育の在り方として、侍を倣うべし、という持論がある。
デジタル化によって科学技術の進歩と技術革新ばかりが、進歩には必要だとする、誤った「常識」となって居る事に対して、精神や心の面から改革案、或いは、思考のアクロバットを観せるのは、一種のキャスティングボートを握る行為であり、ノ氏の方法論ではある。これは、理論というよりは深謀遠慮に当たると思う。そして、哲学的思考とは本物のパラダイムシフトを絶えず望むべきだとは思う。それは、技術革新が欧米型のパラダイムシフトに当たるかと言えば、技術や便利さと言うのは、体制の強化には奏功している。
それを、アジア、特に日本発の改革を望むと言う意味では、必要とされるのはアナログの改革であり、それは、既存の西洋型の思想や技術では為し得ないものではある。だが、世界的には資本主義が築いて来た軌跡やレガシーがあり、また、利益や恩恵無しには、社会主義でさえ運営が上手く行く事は無い。だから、この改革と言うのは、システムの画期的なパラダイムシフトが観えたのであれば、哲学的探求という思考の反復から、実質的な改革の理論へと歩を進めるべきでは無いか。
哲学の特性とは今ある全ての存在を、本当に観るがままであるかどうか、を疑う。
それは、物質を超えて精神の世界に思考を落とし込むもので、それなりに知的探索としての面白い発想ではある。物質主義というわけでは無いし、物質を否定するものでも無い。だが、観たままにある物質の中に、支配と被支配の関係にある事を明確にしている。
鳥とビンの関係が直接語られてるが、人間もまたハードに捉われて、ソフト面からのアプローチや思考を忘れている、という率直な疑問を呈するもので、つまり、ノ氏の哲学的アプローチとは、世界の常識を観たものとして、物資面から導入しながら、その展開において、人間の問題として、物質から自由に成るべき、と論じる事に向かう。
或いは、地球という物質の集積地に対する新たな思考が、宇宙への飛躍に限るならば、巷にある書籍にありがちな定説に墜ちる処ではあるが、ノ氏が日本の侍における「間」や「道」と言った保守的な世界観に繋がる処には、正直言って、思考の大宇宙というか銀河の広がりを感じる処ではある。これも、ノ氏が武道を20年間修練した経験値と密接に繋がってるのだと思う。
理論における宇宙への飛躍とは、やもすれば定説を超える新機軸となる可能性はあるものの、この視点からすれば、宇宙計画が今だ未完成であり、科学技術による合理性からのリスク回避と航行が徹底されている今の宇宙には哲学の介在する余裕がまだ無いだろう。つまり、ノ氏の令和哲学とは、哲学の草創期たる全ての学問の基礎、と言うよりは、文明の進化と成熟の先にあるアナログを基礎とする人間社会の完成とその為の教育の在り方として、侍を倣うべし、という持論がある。
デジタル化によって科学技術の進歩と技術革新ばかりが、進歩には必要だとする、誤った「常識」となって居る事に対して、精神や心の面から改革案、或いは、思考のアクロバットを観せるのは、一種のキャスティングボートを握る行為であり、ノ氏の方法論ではある。これは、理論というよりは深謀遠慮に当たると思う。そして、哲学的思考とは本物のパラダイムシフトを絶えず望むべきだとは思う。それは、技術革新が欧米型のパラダイムシフトに当たるかと言えば、技術や便利さと言うのは、体制の強化には奏功している。
それを、アジア、特に日本発の改革を望むと言う意味では、必要とされるのはアナログの改革であり、それは、既存の西洋型の思想や技術では為し得ないものではある。だが、世界的には資本主義が築いて来た軌跡やレガシーがあり、また、利益や恩恵無しには、社会主義でさえ運営が上手く行く事は無い。だから、この改革と言うのは、システムの画期的なパラダイムシフトが観えたのであれば、哲学的探求という思考の反復から、実質的な改革の理論へと歩を進めるべきでは無いか。
令和哲学は、思考の懐疑性や成熟といった生産性のベクトルを向いており、頑迷な哲学の破壊力を緩やかにしている。また、資本主義のパラダイムシフトを望みながら、物事の持続や人間社会の環境の保全といった国士的な態度をも有している。