世界史
2019年12月08日 16:08
中国は、世界有数の大国であったが、その文明としての覇権競争に乗り遅れたのは、産業革命が起きなかった事、あるいは、日本のように上手く産業革命を取り入れられなかった事にあるという。それは、現代からすると、たかだか150年程度の時間に過ぎない。
中国は、儒教国家であり、科挙において選別される官僚も、儒教を中心とする文科系の知識であり、理系知識や科学技術への理解は乏しかったという。あるいは、文科系でも、文理系を統合した総合的かつ政策的な知識ではなく、机上の空論の儒教であった事が、産業への重要度を薄めて、その技術革新に繋がらなかった理由であるという。
中国で名士というのは、地域の名門の事でもあるが、そもそも、儒教が名士を生んだのは、中央の失政にあり、そうした政権内部での権力闘争に腐心するのではなく、儒教による改革と刷新に向けた、人材を囲い育てる為に文科知識が重視されたからである。だから、中国の名士とは、必ずしも政界や官界の有力者の事では無く、互いを論評し合いながら、政権交代を期して雌伏した階層の事である。党錮の禁であったり、大々的な粛清を避けて、地方に移住した人々であり、徐州侵攻から逃れた諸葛亮などもこの名士に当たる人材であろう。
また、中国では、易姓革命によって戦乱の多い国柄であり、それが、都市城塞文化を生んだのであるが、そもそも、どんな堅牢な城塞でも大軍に包囲されれば陥落するから、土地支配に対する考え方が西洋とは全く違ったのである。西洋は契約によって、人民と領土を守るが、中国は人の支配であり、それは、軍事力を持った王朝や群雄、軍閥などであった。革命が多いから、土地に対する財産権が希薄であり、また、戦乱などで荒廃した土地を棄てて、流民となる階層も多かった。
西洋では、都市文化は発展したが、中国のように革命と戦乱の多さから軍事や国防的な意味合いでの都市城塞文化ではなく、政治、経済や文化、芸術などによるソフトパワーによる労働力や財の集積であり、自然と繁栄と安定へと向かい、都市部での労働や手工業による人件費が跳ね上がった。それによって、人件費を軽減する必要性が増して、それが機械による労働の代替えの発明へと繋がったという。更には、知的財産権への意識が強かった為に、発明家が独自の開発をしてもそれによって、大いに知識や技術の発明者が報酬を受けた事から、アイデアが豊富に提唱されたという。これもまた、中国には無い知的財産権への保護意識である。
また、大航海時代が無かった事は、中国人が大陸国家気質であり、台湾や日本のように海洋国家では無かった事からの差異であろう。海洋政策による国家間貿易が起こるようになって、イギリスは食料や資源を他国から輸入出来るようになった。これは、アメリカが大きな貿易相手国であったが、それによって、イギリスは米中に比すれば小さな島国に過ぎなかったものが、貿易経済を梃子にして覇権を担えるようになったのである。つまり、イギリスは貿易経済によって、他国への経済進出が出来るようになり、また、国内において都市経済によって、工業や技術、新産業といった稼ぎ頭へと、土地や設備や労働力を集中出来るようになったのではないか。
一部、異論は咀嚼したが、これらが、中国で産業革命が起きなかった根拠である。
中国は、儒教国家であり、科挙において選別される官僚も、儒教を中心とする文科系の知識であり、理系知識や科学技術への理解は乏しかったという。あるいは、文科系でも、文理系を統合した総合的かつ政策的な知識ではなく、机上の空論の儒教であった事が、産業への重要度を薄めて、その技術革新に繋がらなかった理由であるという。
中国で名士というのは、地域の名門の事でもあるが、そもそも、儒教が名士を生んだのは、中央の失政にあり、そうした政権内部での権力闘争に腐心するのではなく、儒教による改革と刷新に向けた、人材を囲い育てる為に文科知識が重視されたからである。だから、中国の名士とは、必ずしも政界や官界の有力者の事では無く、互いを論評し合いながら、政権交代を期して雌伏した階層の事である。党錮の禁であったり、大々的な粛清を避けて、地方に移住した人々であり、徐州侵攻から逃れた諸葛亮などもこの名士に当たる人材であろう。
また、中国では、易姓革命によって戦乱の多い国柄であり、それが、都市城塞文化を生んだのであるが、そもそも、どんな堅牢な城塞でも大軍に包囲されれば陥落するから、土地支配に対する考え方が西洋とは全く違ったのである。西洋は契約によって、人民と領土を守るが、中国は人の支配であり、それは、軍事力を持った王朝や群雄、軍閥などであった。革命が多いから、土地に対する財産権が希薄であり、また、戦乱などで荒廃した土地を棄てて、流民となる階層も多かった。
西洋では、都市文化は発展したが、中国のように革命と戦乱の多さから軍事や国防的な意味合いでの都市城塞文化ではなく、政治、経済や文化、芸術などによるソフトパワーによる労働力や財の集積であり、自然と繁栄と安定へと向かい、都市部での労働や手工業による人件費が跳ね上がった。それによって、人件費を軽減する必要性が増して、それが機械による労働の代替えの発明へと繋がったという。更には、知的財産権への意識が強かった為に、発明家が独自の開発をしてもそれによって、大いに知識や技術の発明者が報酬を受けた事から、アイデアが豊富に提唱されたという。これもまた、中国には無い知的財産権への保護意識である。
また、大航海時代が無かった事は、中国人が大陸国家気質であり、台湾や日本のように海洋国家では無かった事からの差異であろう。海洋政策による国家間貿易が起こるようになって、イギリスは食料や資源を他国から輸入出来るようになった。これは、アメリカが大きな貿易相手国であったが、それによって、イギリスは米中に比すれば小さな島国に過ぎなかったものが、貿易経済を梃子にして覇権を担えるようになったのである。つまり、イギリスは貿易経済によって、他国への経済進出が出来るようになり、また、国内において都市経済によって、工業や技術、新産業といった稼ぎ頭へと、土地や設備や労働力を集中出来るようになったのではないか。
一部、異論は咀嚼したが、これらが、中国で産業革命が起きなかった根拠である。
2019年10月17日 17:41
中国と日本というのは、全く異なる国である。
近世においては、日本は江戸時代における、非戦平和主義を取り、アジアは互いに距離を置きながら、遠距離的に共存していたと言える。中国に比して、アジアの思想とはいえ、影響はさほど無かったようなのだが、儒教は日本においても学ばれている。朱子学が江戸時代の陽明学よりも先だった思想であったが、主に日本では、統治層たるサムライが学んだものであり、庶民にはさほど学ばれなかったという。共通しているのは、中国での儒教士大夫が、易姓革命を肯定したように、日本でも幕末の徳川政権に対する、批判精神となり、中国の有徳者への禅譲というのは、天皇親政による王朝復古にあったと言えよう。
朱子学も尊王論に繋がったが、幕末志士が強い影響を受けたのは陽明学であり、権威への盲従ではなく、自由と意志を尊重するという考え方であり、大塩平八郎や吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛などが影響を受けている。いずれにしても、儒教というのが社会の主流たる精神ではなくなっても、道徳や倫理といった潜在的な思想とはなるべきだと思う。政治権力への徳や正義のあるやを問い、失政があれば批判精神を持った知識人が必要とされるべきは、それが、自由と民主主義を守るものになるからである。
中国では、日本とはハンチントンにおける八大文化圏における異文化であり、また、中国というのは柵封体制における儒教国家であって、アジアの知性や政治的道徳の拠り所であったのも確かである。それは主に、中華思想におけるアジアの周辺を夷狄と見なした事から、対外的には厳しく、外征に対して儒教が失政として批判した例は余り無いと思う。むしろ、中国の自国一尊主義であり、国内政治や政局に対しては、強い影響力を持ったのが中国における儒教であり、それは、戦前の日本にも共通するものであり、儒教には国内における距離の近い為政者には厳しいが、遠い世界である国益であったり、大局眼における先見性というものは欠如していたと言えよう。
だから、戦後の中共政権時代においては、儒教と言うのは近代化に対する改革への警戒と批判を強めて、抵抗したのも確かである。毛沢東による文革というのは、そうした儒教への弾圧であり、知識人や文化人、学校教員といった儒教文化に近い人々がパージの対象となった。これが、毛によるただの失政として、十分な暴挙ではあるが、国家の失敗たり得なかったのは、その創造的破壊を受け継いだ名君が続いたからであり、それは、開明派の鄧小平である。かれは、自由経済と市場主義を取り入れて、経済大国化の扉を開いたが、それは、毛の強権による、抵抗する人々に対する徹底的な破壊があったからである。
三国時代、魏の曹操は儒教を抵抗する人々と見なして、政治と改革において牽制し合ったが、それは、毛のように徹底的な破壊を生んだものでは無かった。むしろ、後継者の曹丕が、名士への譲歩をして、彼らを重用したのは、簒奪による権力への正統性が揺らいだ間隙を埋めて、批判を鎮めるという、短期的な利益を曹丕が追ったからではないか。だから、晋時代以降の中国への異民族の侵入による大混乱というのは、魏の後継者達が曹操ほどのスケールを持たなかった事であり、貴族層などの官僚主義に迎合する人々が有利になるような、門閥的な体制を敷いたからではあるまいか。
ともあれ、儒教が批判精神を持って、政治のあり方への提言をし続けるという事は、現在の香港を観ても、分かる事だと思う。香港において、抵抗している人々の中には少なからず、儒教への造詣がある人が居ると思う。儒教には現世を謳歌する、その為には批判と自由な言論が必要だとする秩序が必要だと主張する。自由と秩序の護持とは、矛盾する処もあると思う。だが、それは、権力という絶対者への民間との対話と協調によって為されるものであり、儒教とは一定の門閥を築くのは、古今から変わっていない気質である。だが、儒教それ自体が評価する行為というのは、批判と自由な言論によるものだから、何らかの才能や見どころがあれば、儒教の評価、叱咤激励というのは、先方からやって来るものである。
中国では、中国人本来のメンタリティというのは儒教をルーツとしており、粛清や弾圧に対する抵抗にして、意義ある提言となるべく、再評価されて行くのではないだろうか。
近世においては、日本は江戸時代における、非戦平和主義を取り、アジアは互いに距離を置きながら、遠距離的に共存していたと言える。中国に比して、アジアの思想とはいえ、影響はさほど無かったようなのだが、儒教は日本においても学ばれている。朱子学が江戸時代の陽明学よりも先だった思想であったが、主に日本では、統治層たるサムライが学んだものであり、庶民にはさほど学ばれなかったという。共通しているのは、中国での儒教士大夫が、易姓革命を肯定したように、日本でも幕末の徳川政権に対する、批判精神となり、中国の有徳者への禅譲というのは、天皇親政による王朝復古にあったと言えよう。
朱子学も尊王論に繋がったが、幕末志士が強い影響を受けたのは陽明学であり、権威への盲従ではなく、自由と意志を尊重するという考え方であり、大塩平八郎や吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛などが影響を受けている。いずれにしても、儒教というのが社会の主流たる精神ではなくなっても、道徳や倫理といった潜在的な思想とはなるべきだと思う。政治権力への徳や正義のあるやを問い、失政があれば批判精神を持った知識人が必要とされるべきは、それが、自由と民主主義を守るものになるからである。
中国では、日本とはハンチントンにおける八大文化圏における異文化であり、また、中国というのは柵封体制における儒教国家であって、アジアの知性や政治的道徳の拠り所であったのも確かである。それは主に、中華思想におけるアジアの周辺を夷狄と見なした事から、対外的には厳しく、外征に対して儒教が失政として批判した例は余り無いと思う。むしろ、中国の自国一尊主義であり、国内政治や政局に対しては、強い影響力を持ったのが中国における儒教であり、それは、戦前の日本にも共通するものであり、儒教には国内における距離の近い為政者には厳しいが、遠い世界である国益であったり、大局眼における先見性というものは欠如していたと言えよう。
だから、戦後の中共政権時代においては、儒教と言うのは近代化に対する改革への警戒と批判を強めて、抵抗したのも確かである。毛沢東による文革というのは、そうした儒教への弾圧であり、知識人や文化人、学校教員といった儒教文化に近い人々がパージの対象となった。これが、毛によるただの失政として、十分な暴挙ではあるが、国家の失敗たり得なかったのは、その創造的破壊を受け継いだ名君が続いたからであり、それは、開明派の鄧小平である。かれは、自由経済と市場主義を取り入れて、経済大国化の扉を開いたが、それは、毛の強権による、抵抗する人々に対する徹底的な破壊があったからである。
三国時代、魏の曹操は儒教を抵抗する人々と見なして、政治と改革において牽制し合ったが、それは、毛のように徹底的な破壊を生んだものでは無かった。むしろ、後継者の曹丕が、名士への譲歩をして、彼らを重用したのは、簒奪による権力への正統性が揺らいだ間隙を埋めて、批判を鎮めるという、短期的な利益を曹丕が追ったからではないか。だから、晋時代以降の中国への異民族の侵入による大混乱というのは、魏の後継者達が曹操ほどのスケールを持たなかった事であり、貴族層などの官僚主義に迎合する人々が有利になるような、門閥的な体制を敷いたからではあるまいか。
ともあれ、儒教が批判精神を持って、政治のあり方への提言をし続けるという事は、現在の香港を観ても、分かる事だと思う。香港において、抵抗している人々の中には少なからず、儒教への造詣がある人が居ると思う。儒教には現世を謳歌する、その為には批判と自由な言論が必要だとする秩序が必要だと主張する。自由と秩序の護持とは、矛盾する処もあると思う。だが、それは、権力という絶対者への民間との対話と協調によって為されるものであり、儒教とは一定の門閥を築くのは、古今から変わっていない気質である。だが、儒教それ自体が評価する行為というのは、批判と自由な言論によるものだから、何らかの才能や見どころがあれば、儒教の評価、叱咤激励というのは、先方からやって来るものである。
中国では、中国人本来のメンタリティというのは儒教をルーツとしており、粛清や弾圧に対する抵抗にして、意義ある提言となるべく、再評価されて行くのではないだろうか。
2019年09月29日 14:00
戦前、中国は清朝という王朝政府であり、易姓革命とは中華思想によって基礎を裏付けられたものである。皇帝は地の者では無く、天に近い人の主席であり、中国とはその広大な領土に比べて、中原や泰山といった聖域を守る事によって、統治の正統性があるという事から、天地人における、人の利、つまり、人命の安全や保護といった人権意識が希薄であり、また、中華思想における天の利、地の利へと意識の比重が傾いていると言える。
三国志における王朝の興亡は、特に小国の蜀に顕著なのであるが、どんなに国家と国土が荒廃して、軍隊が消耗し、人民が塗炭の苦しみを受けていても、権力が第一であり、蜀における劉備の暗躍や、諸葛孔明の出師の表と、その実行たる北伐などは、蜀を長年疲弊させた軍国的野心の発露に過ぎない。大陸においておよそ80%の人口が激減した事実があるが、中国のメンタリティというのは、諸葛孔明と対峙した司馬懿に近いものがあると思う。典型的な中国人とは、革命と戦争における興亡を繰り返しただけに、如何にして生き延びるかという事が主眼であり、中国の文化と人民が生き延びる事こそが、国家の存続に繋がったという事である。
易姓革命とは、国家が敗れても、山河ありというように、国家の基盤たる官僚制は、革命によって勝者となった、新たな覇者に対する降伏を常として、それが異民族であっても受け入れられた。官僚、あるいは、宦官というのは中性的であり、国防に対する意地も面子も気にしないという事である。男性的な徹底抗戦は、宦官然り、司馬懿然り、遺訓を守り得ない事である。ともあれ、王朝とは末期的には、失政や無能な指導者らの跋扈があり、中華思想を具現して来た儒教における、政権批判の精神というのは、時代性に対して、知識人としての責務を果たして来たと言える。ともあれ、易姓革命とは、国家の守護を放棄する矮小な精神でもあるが、人の利の軽視をしており、つまり、戦争という人と人との興亡からのヒューマニズムを重んじない。対する、天の利、地の利という、ハードを重んじる官僚国家らしいメンタリティではある。
中国は、近隣を異民族に囲まれ、特に、北面における騎馬民族の匈奴や蒙古を始めとして精強であった。そうした、異民族を互いに戦い合うように仕向け、国境外での戦闘を起こさせる手腕においては、中国は非常に優れていた。中華思想最後の王朝である清朝においても、イギリスを始めとする列強に対しては、儒教的には進歩思想や科学技術における機械や道具を献上されても、興味を抱かず、技術革新への感覚を失っていたと言える。また、阿片戦争を経ても、易姓革命の観念から、彼らが強大である事が知れながらも、中国には亡国への懸念と焦りが不足していたという。そして、国土を蚕食されているという危機に対しては、各列強に割譲された租界があったが、それも、列強が互いに攻撃し合うように仕向ける事を狙っていたという。つまり、旧来の異民族対策と変わっていなかったのである。
戦後の、ソ連というのは、中国の共産主義の先輩、上位者であり、影響力を受けるものでもあった。だが、ソ連は、中国とは別の道を歩む事を選択して、常に協調関係にあったというわけでは無い。悪名高いアフガンへのソ連の出兵と、それに対抗するアメリカの支援による激戦と戦争経験が、テロの温床となり、また、アルカイダの基礎を作ったという不都合な真実があるが、ソ連の中東への進出というのは、翻せば、その東側に位置する中国を西側から包囲する動きであった。米ソは両国共に、中国を包囲する事を基本的な戦略としている。だから、米ソ両国の高度なインテリジェンスというのは、敵を知る事を王道としており、中国の隣国として、ソ連は東方において、日米韓という敵国と正面から争わず、それによって、仮想敵の中国を利するような行為もしていない。
中国は共産主義ではあるが、極東の帝国というのは、北朝鮮もそうだが、独立心が強く、東欧の衛星国家群のようにソ連の傀儡となる事は非常に嫌っている。北朝鮮は封建体制への反動と主体思想、中国は革命の継続と中華思想へと、自国の意志と独創の考え方に則って、思想の中核を守っているように思われる。だから、毛沢東の大躍進も文革というのも、国内で革命を継続する事によって、毛個人が理想を具現し続ける為の選択肢であったと言える。毛はともかく、周恩来でさえ、文革を乗り切らねばソ連に対抗出来ない、と語っており、つまりは、ソ連への対抗として、国内の抵抗勢力を一掃しておくという事であり、文革とは狂気を通り越して、如何なる悪逆も国家の承認があれば認められるという一つの悪例でもある。
中国は、ソ連とインドシナ半島との連携による北と南からの中国包囲を恐れて、インドシナ統一を目論み、カンボジアと戦争を始めたベトナムへの侵攻を行い、それは、アメリカの承認を受けるという、外交と謀略を交えた非常に周到な方法で行われている。この第三次ベトナム戦争は激戦となり、中国は40万軍を動員しながら、第二次のアメリカの戦死者数に近い規模の損害を受けている。ベトナムはその国力と装備に比して、ゲリラ戦術に長けており、難敵であった。主に、ソ連からの支援によって、兵站を繋いでおり、日々、数百万ドル規模の支援であったという。つまり、ソ連とは、共産圏の連携も絆も無く、謀略によって周辺の国際環境をコントロールしており、非常に老獪であった。
中国は、共産主義における農村部の繁栄は放棄したが、官僚制は科挙官僚制、つまり、儒家官僚制との相性は非常に高かったと言えると思う。ファーウェイのような、リベラルでアメリカ型の新鋭企業が胎動した事に対して、アメリカは危機感を強めたが、それは、人的魅力に欠ける官僚制ではなく、リベラルな人材を抜擢して、アメリカが育成した学生の技術や思想、アイデアが盗まれる事に対する危機感ではないか。つまり、民間のファーウェイが悪いのではなく、その他の中国系大資本が、国営を主体とした官僚主義に陥っているからではないか。ファーウェイが異彩を放つ事、そこに、付け入る隙が生じた。ファーウェイが親米路線、身も心もアメリカ化を受け入れれば、アメリカへの脅威は軽減されるという事である。
中国はソ連と協調だけをしていれば、ペレストロイカの断行によって、崩壊したソ連と共に沈没していただろう。米ソとの対立軸を設定して、その反応と作用によって、第三の道を切り開いたのが中国の習性である。そして、中国も含めた核武装ドミノによって、世界に複数の核保有国が出来てしまったのは、それが、冷戦という乱世であり、いつ何時、ソ連などの大国から攻められるか分からない情勢にあって、中国側は圧力を受けていたからである。現代はむしろ、核武装こそが、批判と懲罰の対象となるリスクを抱えている。無論、核しかない、という小国の事情もあろうが、これは、経済や文化、文明、外交、メディアにおける多様なカードのある中国とは比較し切れない関係性がある。
三国志における王朝の興亡は、特に小国の蜀に顕著なのであるが、どんなに国家と国土が荒廃して、軍隊が消耗し、人民が塗炭の苦しみを受けていても、権力が第一であり、蜀における劉備の暗躍や、諸葛孔明の出師の表と、その実行たる北伐などは、蜀を長年疲弊させた軍国的野心の発露に過ぎない。大陸においておよそ80%の人口が激減した事実があるが、中国のメンタリティというのは、諸葛孔明と対峙した司馬懿に近いものがあると思う。典型的な中国人とは、革命と戦争における興亡を繰り返しただけに、如何にして生き延びるかという事が主眼であり、中国の文化と人民が生き延びる事こそが、国家の存続に繋がったという事である。
易姓革命とは、国家が敗れても、山河ありというように、国家の基盤たる官僚制は、革命によって勝者となった、新たな覇者に対する降伏を常として、それが異民族であっても受け入れられた。官僚、あるいは、宦官というのは中性的であり、国防に対する意地も面子も気にしないという事である。男性的な徹底抗戦は、宦官然り、司馬懿然り、遺訓を守り得ない事である。ともあれ、王朝とは末期的には、失政や無能な指導者らの跋扈があり、中華思想を具現して来た儒教における、政権批判の精神というのは、時代性に対して、知識人としての責務を果たして来たと言える。ともあれ、易姓革命とは、国家の守護を放棄する矮小な精神でもあるが、人の利の軽視をしており、つまり、戦争という人と人との興亡からのヒューマニズムを重んじない。対する、天の利、地の利という、ハードを重んじる官僚国家らしいメンタリティではある。
中国は、近隣を異民族に囲まれ、特に、北面における騎馬民族の匈奴や蒙古を始めとして精強であった。そうした、異民族を互いに戦い合うように仕向け、国境外での戦闘を起こさせる手腕においては、中国は非常に優れていた。中華思想最後の王朝である清朝においても、イギリスを始めとする列強に対しては、儒教的には進歩思想や科学技術における機械や道具を献上されても、興味を抱かず、技術革新への感覚を失っていたと言える。また、阿片戦争を経ても、易姓革命の観念から、彼らが強大である事が知れながらも、中国には亡国への懸念と焦りが不足していたという。そして、国土を蚕食されているという危機に対しては、各列強に割譲された租界があったが、それも、列強が互いに攻撃し合うように仕向ける事を狙っていたという。つまり、旧来の異民族対策と変わっていなかったのである。
戦後の、ソ連というのは、中国の共産主義の先輩、上位者であり、影響力を受けるものでもあった。だが、ソ連は、中国とは別の道を歩む事を選択して、常に協調関係にあったというわけでは無い。悪名高いアフガンへのソ連の出兵と、それに対抗するアメリカの支援による激戦と戦争経験が、テロの温床となり、また、アルカイダの基礎を作ったという不都合な真実があるが、ソ連の中東への進出というのは、翻せば、その東側に位置する中国を西側から包囲する動きであった。米ソは両国共に、中国を包囲する事を基本的な戦略としている。だから、米ソ両国の高度なインテリジェンスというのは、敵を知る事を王道としており、中国の隣国として、ソ連は東方において、日米韓という敵国と正面から争わず、それによって、仮想敵の中国を利するような行為もしていない。
中国は共産主義ではあるが、極東の帝国というのは、北朝鮮もそうだが、独立心が強く、東欧の衛星国家群のようにソ連の傀儡となる事は非常に嫌っている。北朝鮮は封建体制への反動と主体思想、中国は革命の継続と中華思想へと、自国の意志と独創の考え方に則って、思想の中核を守っているように思われる。だから、毛沢東の大躍進も文革というのも、国内で革命を継続する事によって、毛個人が理想を具現し続ける為の選択肢であったと言える。毛はともかく、周恩来でさえ、文革を乗り切らねばソ連に対抗出来ない、と語っており、つまりは、ソ連への対抗として、国内の抵抗勢力を一掃しておくという事であり、文革とは狂気を通り越して、如何なる悪逆も国家の承認があれば認められるという一つの悪例でもある。
中国は、ソ連とインドシナ半島との連携による北と南からの中国包囲を恐れて、インドシナ統一を目論み、カンボジアと戦争を始めたベトナムへの侵攻を行い、それは、アメリカの承認を受けるという、外交と謀略を交えた非常に周到な方法で行われている。この第三次ベトナム戦争は激戦となり、中国は40万軍を動員しながら、第二次のアメリカの戦死者数に近い規模の損害を受けている。ベトナムはその国力と装備に比して、ゲリラ戦術に長けており、難敵であった。主に、ソ連からの支援によって、兵站を繋いでおり、日々、数百万ドル規模の支援であったという。つまり、ソ連とは、共産圏の連携も絆も無く、謀略によって周辺の国際環境をコントロールしており、非常に老獪であった。
中国は、共産主義における農村部の繁栄は放棄したが、官僚制は科挙官僚制、つまり、儒家官僚制との相性は非常に高かったと言えると思う。ファーウェイのような、リベラルでアメリカ型の新鋭企業が胎動した事に対して、アメリカは危機感を強めたが、それは、人的魅力に欠ける官僚制ではなく、リベラルな人材を抜擢して、アメリカが育成した学生の技術や思想、アイデアが盗まれる事に対する危機感ではないか。つまり、民間のファーウェイが悪いのではなく、その他の中国系大資本が、国営を主体とした官僚主義に陥っているからではないか。ファーウェイが異彩を放つ事、そこに、付け入る隙が生じた。ファーウェイが親米路線、身も心もアメリカ化を受け入れれば、アメリカへの脅威は軽減されるという事である。
中国はソ連と協調だけをしていれば、ペレストロイカの断行によって、崩壊したソ連と共に沈没していただろう。米ソとの対立軸を設定して、その反応と作用によって、第三の道を切り開いたのが中国の習性である。そして、中国も含めた核武装ドミノによって、世界に複数の核保有国が出来てしまったのは、それが、冷戦という乱世であり、いつ何時、ソ連などの大国から攻められるか分からない情勢にあって、中国側は圧力を受けていたからである。現代はむしろ、核武装こそが、批判と懲罰の対象となるリスクを抱えている。無論、核しかない、という小国の事情もあろうが、これは、経済や文化、文明、外交、メディアにおける多様なカードのある中国とは比較し切れない関係性がある。
2019年09月09日 17:14
紀元前12世紀に起きたヒッタイトによる鉄の発明。東西を結ぶシルクロードが確立されたのは、紀元前2世紀が最も古いというが、中国にも、ユーラシア大陸のいずれかを通して、伝わったのだろう。
中国北辺には、ユーラシアの黒海などの北部を経由して伝わり、騎馬民族にとって、鉄器は戦争で決定的な働きをした。朝鮮への鉄器の伝播は北辺から伝わっており、おそらくは匈奴、鮮卑、烏丸などからであろう。
鉄器は戦闘配備される事によって力を発揮したと思うが、経済を重視するのであれば、農具や日常用品から受け入れられ広まったと思う。製鉄は、大きな利益を生み出す金の卵であり、漢帝国は国家の管理にしている。中国では、農具への導入であろうが、朝鮮へ鉄器を伝えた北辺においては、匈奴は掠奪によって、鉄器を得ていたのではなく、製鉄技術があったという。北辺の鉄の伝播した道をメタルロードという。
秦がどの程度、北辺の騎馬民族の鎮撫に苦心したかは分からないが、秦のライバルであり、北方の趙は長城を構え、匈奴と激しく戦い、また、あるいは、騎馬文化を取り入れ、胡服騎射といった異民族の衣装と装備を取り入れている。中華思想における、統一中華を成し遂げた非漢民族が、中国の言語や文化、体制や地域社会を受け継ぐという易姓革命が実現されたのは、漢時代以降だから、春秋戦国時代の七国の興亡、あるいは、騎馬民族への防衛戦というのは、まさに、敗北による国家の破綻を覚悟していたと思う。
易姓革命において、漢は火徳の赤だが、秦は水徳の黒、蒼ではないというのが、分からない処。だが、匈奴が遊牧帝国といっても、農耕文化の中国の旨味を知りながら、征服しようとしなかった事は、遊牧民文化に魅力があったからではないか。モンゴル平原に覇を唱えた元朝が、中原の金はともかく、荊州と漢水の要害による襄陽の堅城に拠り、鉄壁を誇ったとはいえ、南宋の攻略といった、中国の版図の征服を無理強いせず、西方へと進み、中央アジア、中東、東欧への攻略を優先したのは、取りも直さず、中原の農耕文化よりも、中華の外辺に魅力のある生活があったからではないか。
中国北辺には、ユーラシアの黒海などの北部を経由して伝わり、騎馬民族にとって、鉄器は戦争で決定的な働きをした。朝鮮への鉄器の伝播は北辺から伝わっており、おそらくは匈奴、鮮卑、烏丸などからであろう。
鉄器は戦闘配備される事によって力を発揮したと思うが、経済を重視するのであれば、農具や日常用品から受け入れられ広まったと思う。製鉄は、大きな利益を生み出す金の卵であり、漢帝国は国家の管理にしている。中国では、農具への導入であろうが、朝鮮へ鉄器を伝えた北辺においては、匈奴は掠奪によって、鉄器を得ていたのではなく、製鉄技術があったという。北辺の鉄の伝播した道をメタルロードという。
秦がどの程度、北辺の騎馬民族の鎮撫に苦心したかは分からないが、秦のライバルであり、北方の趙は長城を構え、匈奴と激しく戦い、また、あるいは、騎馬文化を取り入れ、胡服騎射といった異民族の衣装と装備を取り入れている。中華思想における、統一中華を成し遂げた非漢民族が、中国の言語や文化、体制や地域社会を受け継ぐという易姓革命が実現されたのは、漢時代以降だから、春秋戦国時代の七国の興亡、あるいは、騎馬民族への防衛戦というのは、まさに、敗北による国家の破綻を覚悟していたと思う。
易姓革命において、漢は火徳の赤だが、秦は水徳の黒、蒼ではないというのが、分からない処。だが、匈奴が遊牧帝国といっても、農耕文化の中国の旨味を知りながら、征服しようとしなかった事は、遊牧民文化に魅力があったからではないか。モンゴル平原に覇を唱えた元朝が、中原の金はともかく、荊州と漢水の要害による襄陽の堅城に拠り、鉄壁を誇ったとはいえ、南宋の攻略といった、中国の版図の征服を無理強いせず、西方へと進み、中央アジア、中東、東欧への攻略を優先したのは、取りも直さず、中原の農耕文化よりも、中華の外辺に魅力のある生活があったからではないか。
2019年09月08日 10:15
中国は元々覇権国であり、宋代には、科挙と官僚制が完成して、政府国家の基礎を為し、貿易によって世界の銀の半分が集まり、技術においては、火薬、羅針盤、活版印刷といった三大発明がある。また、元朝においては、中東から東欧まで攻め込んだ事によって、広大な領土と国境が現出して、それが、世界市場への土台となったという。つまり、東西における、未知の悪魔の住む土地としての東方から、文明国を脅かし得る大国が現れる事は、畏怖だけでなく、冒険や好奇心を掘り起こすものなのだ。なぜなら、軍事国家であっても、休戦や平和、交流、貿易などの安定した経済的関係を築く事は可能であるからであり、元朝がナチスのような悪逆非道の国家であったわけではないからである。
確かに、戦争における非情な処遇や、圧制はあったが、敵の完全な絶滅とか、テロリズムなどによって恐怖支配が為されたわけでは無いと思う。中国は、明代には宦官の鄭和が大艦隊を率いて、東南アジアを経由し、インドやアフリカ喜望峰にまで達しているが、それは、欧州の大航海時代をリードするものであった。つまり、海洋技術もあり、海洋国家になる事も可能であった。中国と欧州との間には、苛酷なレースがあり、その文明の実力に差が付き出したのは、大航海時代であり、中国が破棄した処の海洋技術である。鄭和の艦隊は、スペインのアルマダを超える規模と陣容であったという。
大陸国家と海洋国家には、発想の違いがあるし、ナチスドイツやソ連、戦前日本などが、大陸国家であった事を思えば、その侵略思考というのは、国家体制や精神的な要因が影響をもたらす、と見て良いだろう。そして、決定的な中国と欧州の力量差というのは、産業革命が起きた事である。中国でそれが起きなかった理由は、海禁によって、瑞々しい発想やブレイクスルーが芽生えなかった事にもあると思うが、最大の要因とは儒教であろう。儒教は技術を軽視して、科学においても清朝期に列強が持って来た工業用品や機械に全く関心を示さなかった。儒家官僚は、中国を誇りに思い、科学の軽視というのは、国家の発展を阻害するものに他ならない。
儒教のパラダイムというのは、実力や国力を度外視したアンフェアな権力体制である。つまり、儒教において、実力が無くとも、その既得権における地位と権勢によって、砂上の楼閣のような権威を中国は持ち続け、それを下から支えていたのは、アジア諸国の柵封体制であり、朝貢外交である。近隣の外国が認めないと、中国はヴァーチャルな権威を維持できないのであるが、それが安定していたのは、産業革命を経ず、中国という空虚な大家との外交さえあれば、安寧に国家を保てるという属国意識である。つまり、儒教における国家への忠や、御家への孝というのは、翻せば、現世の序列の学習と護持という事であり、それは、アジアの国家連合の雄である中国のフィクションという事である。
そして、その均衡を打ち破ったのが日本であり、開国と革命と維新、産業化によって、アジア第一等の国家に成長した事による。元々、日本は中国の柵封体制には与さず、独自の文化と文明を築く事が国家の伝統的方針であり、それが可能だったのも、日本が鎖国してもやって行ける文化、経済的に豊かな国だったからである。江戸時代というのは、鎖国による国内社会と文化の成熟、つまり、地域主義によって、ただ大きいだけの版図を争い、その為に戦争をするのではなく、地域、愛郷主義によって、地域社会に深みや成熟をもたらした事にある。つまり、中国より遥かに小さな日本ですら、地域主義という、文化と人間の多彩というのは、幕末までおよそ300年持ったのである。幕末にはさすがに、経済発展や技術革新の沈滞によって、飽きも生じ、それが、脱藩浪人や革命思想というと言う幕末独特の文化を煽ったという事もあろう。
つまり、まだ100年にも遠い、歴史の浅い現代中国において、帝国主義と封建主義のミックスによって、侵略思考の見える事は、失敗している国家主義への反動による失敗への道を歩むのではないだろうか。中国は広大な版図があり、そこに地域社会や文化、文明、技術の成熟といった新たなパラダイムを持ち込めば、他国や地域を侵略せずとも、繁栄と幸福にたどり着く事が出来るのではないか。これは、世界皇帝のアメリカの意向によって世界のあり方が決められて来た事に対して、日本などの同盟国は、安倍首相が実行しているように、親密な関係を築き、その意向に対して、仲が良いからこそ通る提言をしたり、褒め倒す事が皇帝には意味のある事だという。これは、G2におけるもう一極の中国も同様であり、甘やかしは禁物だと思うが、地域主義によって、領土と歴史の再興を起こし、新たな政という内からの夢を実現出来るという事を、提言し、平和外交的に変えて行く他に、中国と対峙して行く方法は無いのではないか。
毛沢東時代における、中国の官僚というのは、実務的な政治手腕や政策能力よりも、リスキーなイデオロギーを持った人材が重視されたという。これは、中央集権体制において、官僚が地域の利害や小さな声を聞くのではなく、共産党体制の思想家、肉体無き頭脳としての公僕を必要としたからに他ならない。同盟や政治ではなく、毛沢東は革命思想という、歪なロマンチストであったのだから、その高い理想を常に持続する必要があり、それが、文化大革命を生んだのである。だから、都市と地方との関係、元々都市城塞文化である中国人を変えたのは、共産主義だが、それが、毛沢東主義への変質によって、軍国思想に極めて近似となり、同時に、地方の政治や文化に対する影響力を相互に失って行ったのである。中国において、地域主義が誕生するには、中央権力の強大さや軍国主義などの問題が多いと思う。だが、権力とはダウンサイズされ、合理化されるべきであるし、政を輔弼しつつ、独自の民間ネットワークを形成する動き、とりわけ、ネット社会における地域内交流を推奨する事によって、地域を自由放任して行く事から始めてはどうだろうか。
確かに、戦争における非情な処遇や、圧制はあったが、敵の完全な絶滅とか、テロリズムなどによって恐怖支配が為されたわけでは無いと思う。中国は、明代には宦官の鄭和が大艦隊を率いて、東南アジアを経由し、インドやアフリカ喜望峰にまで達しているが、それは、欧州の大航海時代をリードするものであった。つまり、海洋技術もあり、海洋国家になる事も可能であった。中国と欧州との間には、苛酷なレースがあり、その文明の実力に差が付き出したのは、大航海時代であり、中国が破棄した処の海洋技術である。鄭和の艦隊は、スペインのアルマダを超える規模と陣容であったという。
大陸国家と海洋国家には、発想の違いがあるし、ナチスドイツやソ連、戦前日本などが、大陸国家であった事を思えば、その侵略思考というのは、国家体制や精神的な要因が影響をもたらす、と見て良いだろう。そして、決定的な中国と欧州の力量差というのは、産業革命が起きた事である。中国でそれが起きなかった理由は、海禁によって、瑞々しい発想やブレイクスルーが芽生えなかった事にもあると思うが、最大の要因とは儒教であろう。儒教は技術を軽視して、科学においても清朝期に列強が持って来た工業用品や機械に全く関心を示さなかった。儒家官僚は、中国を誇りに思い、科学の軽視というのは、国家の発展を阻害するものに他ならない。
儒教のパラダイムというのは、実力や国力を度外視したアンフェアな権力体制である。つまり、儒教において、実力が無くとも、その既得権における地位と権勢によって、砂上の楼閣のような権威を中国は持ち続け、それを下から支えていたのは、アジア諸国の柵封体制であり、朝貢外交である。近隣の外国が認めないと、中国はヴァーチャルな権威を維持できないのであるが、それが安定していたのは、産業革命を経ず、中国という空虚な大家との外交さえあれば、安寧に国家を保てるという属国意識である。つまり、儒教における国家への忠や、御家への孝というのは、翻せば、現世の序列の学習と護持という事であり、それは、アジアの国家連合の雄である中国のフィクションという事である。
そして、その均衡を打ち破ったのが日本であり、開国と革命と維新、産業化によって、アジア第一等の国家に成長した事による。元々、日本は中国の柵封体制には与さず、独自の文化と文明を築く事が国家の伝統的方針であり、それが可能だったのも、日本が鎖国してもやって行ける文化、経済的に豊かな国だったからである。江戸時代というのは、鎖国による国内社会と文化の成熟、つまり、地域主義によって、ただ大きいだけの版図を争い、その為に戦争をするのではなく、地域、愛郷主義によって、地域社会に深みや成熟をもたらした事にある。つまり、中国より遥かに小さな日本ですら、地域主義という、文化と人間の多彩というのは、幕末までおよそ300年持ったのである。幕末にはさすがに、経済発展や技術革新の沈滞によって、飽きも生じ、それが、脱藩浪人や革命思想というと言う幕末独特の文化を煽ったという事もあろう。
つまり、まだ100年にも遠い、歴史の浅い現代中国において、帝国主義と封建主義のミックスによって、侵略思考の見える事は、失敗している国家主義への反動による失敗への道を歩むのではないだろうか。中国は広大な版図があり、そこに地域社会や文化、文明、技術の成熟といった新たなパラダイムを持ち込めば、他国や地域を侵略せずとも、繁栄と幸福にたどり着く事が出来るのではないか。これは、世界皇帝のアメリカの意向によって世界のあり方が決められて来た事に対して、日本などの同盟国は、安倍首相が実行しているように、親密な関係を築き、その意向に対して、仲が良いからこそ通る提言をしたり、褒め倒す事が皇帝には意味のある事だという。これは、G2におけるもう一極の中国も同様であり、甘やかしは禁物だと思うが、地域主義によって、領土と歴史の再興を起こし、新たな政という内からの夢を実現出来るという事を、提言し、平和外交的に変えて行く他に、中国と対峙して行く方法は無いのではないか。
毛沢東時代における、中国の官僚というのは、実務的な政治手腕や政策能力よりも、リスキーなイデオロギーを持った人材が重視されたという。これは、中央集権体制において、官僚が地域の利害や小さな声を聞くのではなく、共産党体制の思想家、肉体無き頭脳としての公僕を必要としたからに他ならない。同盟や政治ではなく、毛沢東は革命思想という、歪なロマンチストであったのだから、その高い理想を常に持続する必要があり、それが、文化大革命を生んだのである。だから、都市と地方との関係、元々都市城塞文化である中国人を変えたのは、共産主義だが、それが、毛沢東主義への変質によって、軍国思想に極めて近似となり、同時に、地方の政治や文化に対する影響力を相互に失って行ったのである。中国において、地域主義が誕生するには、中央権力の強大さや軍国主義などの問題が多いと思う。だが、権力とはダウンサイズされ、合理化されるべきであるし、政を輔弼しつつ、独自の民間ネットワークを形成する動き、とりわけ、ネット社会における地域内交流を推奨する事によって、地域を自由放任して行く事から始めてはどうだろうか。