家族・コミュニティ
2024年02月01日 17:00
「性加害問題」とか、悪のモラルハザードとして問題視されている状況であるが、これは、大人としてはお痛なのだろうが、大事となる時代は厳しいと思う。こういう時代の男女平等とは、チカラの均衡がパブリックな社会関係の中で作られて居るものだろう。つまり、マナーやルール面でのレディファーストだろうが、これには、抵抗感もあると思う。つまり、大人の遊びには、男性の甲斐性で熱い友情の物語とか、或いは、女性同士での交友とバカンスに費やされるマネーの浪費である。
つまり、人権とか女性の権利、子供の権利もそうだろうが、それらは社会によって守られて居るし、社会運営が成り立つには欠かせない、寛容のココロであり、人生に必要なモノだということだろう。公の場に対する、プライベートな個人関係では、特にセクシャルな部分で、男性が”女性依存”であったり、支配したりマウントを取りたがる関係があるのでは無いだろうか。欲する男性を強くするのが異性とのパートナーシップだが、実際には、人生観を変えるような恋愛を経ることが、本当に大事で堅い絆のある家族を作るに至る、ということでは無いだろうか。
だが、家族とは自由に対しては、権利だけでなく義務の方が遥かに大きく成りつつあるのが、不倫とか浮気に対して厳しい、今の社会風潮だろうと思う。無論、父親となったなら義務を果たすべきで、母親にも相応のものがあるが、概ね、結婚して家族を持つと、それを「檻」とか「足枷」と感じて、そういう魂の監獄から逃れたい、という不届きな気持ちを誘惑を交えた一瞬に感じるのが、また、大人の弱さでは無いか。
つまり、家族とは、当然ながら、人間関係が生まれるし、”子は枝葉”と言いながらも、親が子供を教育するのではなく、支配することが子供の人権抑圧だと感じるなら、守るのが社会の中にある大事な子供の存在では無いか。
だから、親しい家族とは、親子が個人的関係でも繋がって、深いコミュニケーションが取れる、暖かなものだと思う。
対する、”家族というペルソナ”を被るとか、マナー上での家族関係があるにすぎない場合は「形式的なコミュニケーション」であろう。ただ、プロセスとして観るならば、反抗期や倦怠期で、対話や時間と共に解決可能かも知れない。反抗によるすれ違いがあっても、青少年を含めて子供は過失を理解されるのを必要として居るし、受け皿となる包容力を強い存在が持って無いと、家は冷たい場となるだろう。
映画『aftersun/アフターサン』(シャーロット・ウェルズ監督)では、旅をする父娘のバカンスでの交流を描くが、互いにココロの距離感がある絆は、脆そうで強固であるが、この間合いを守って居るのは個人的な性格とか楽しむチカラが、ローテンションながらビビッドに描かれる。事情があって楽しい旅にも変化の時が訪れるが、それから生まれる悲しみはパートナーを欲する人の自然な感情で、本能であろう。失うことに対して、家族がある時代のありがたみとは、大人だから痛みが分かるし、子供だからと言って悩みが無い、ということでも無い。この父娘関係には、そういう噛み合わない距離感があることで、物語半ばまで退屈でハードボイルド調にすら感じられる。太陽があっても水がないと大いに渇くことはある、のでは無いか。
つまり、家族関係がユニークであるとか、変わった個性でも容れられる、居場所、となることで、育つのは子供だけでなく、大人も同様だと思う。だから、親が人生修正の為の「メンター」が生まれて来た自分の子供であっても良いし、若者を目下の存在だと高圧的に観るのではなく、学びの姿勢を持ち、恩恵を感じるココロが無いと、子育ても家庭生活も渇きを感じる時間帯が長くなる。そうすると、年齢が支配するような、退屈な「居合わせの場所」に成ってしまい、それは、家族内で育つヒューマニズムにとって由々しき事態では無いだろうか。
恋愛とは、人生を修正するもので、そこに、肉欲とか快楽ばかりを求めると、若い内は良いが、年老いてから周りに本当に愛する家族が居ない事態があり得るかも知れない。そして、核家族におけるパートナーシップでのすれ違いとか、一瞬肌で感じられるような不協和音においては、家によってカヴァーされるべき問題もあるだろう。つまり、父親らしさ、母親らしさであって、子供らしさは小さな存在のエキセントリックな個性を面白がれるのが大人であるから、課題とは父母のイズムでは無いだろうか。ただ、形式的な家族関係で父を演じる、妻として振る舞うのでは無く、「そして、父となる」ことが双方の性による、家族内でのヒューマニズム、においては非常に重要なのでは無いだろうか。
恋愛をヒューマニズムが育つ場だとすると、良い恋愛とは形とか常識を問わないものも含まれるのでは無いだろうか。ただ、それを、本人同士が対等な立場で、良い恋愛だ、と思い合えたり、相思相愛である必要があることは言を俟たない、と思います。
つまり、人権とか女性の権利、子供の権利もそうだろうが、それらは社会によって守られて居るし、社会運営が成り立つには欠かせない、寛容のココロであり、人生に必要なモノだということだろう。公の場に対する、プライベートな個人関係では、特にセクシャルな部分で、男性が”女性依存”であったり、支配したりマウントを取りたがる関係があるのでは無いだろうか。欲する男性を強くするのが異性とのパートナーシップだが、実際には、人生観を変えるような恋愛を経ることが、本当に大事で堅い絆のある家族を作るに至る、ということでは無いだろうか。
だが、家族とは自由に対しては、権利だけでなく義務の方が遥かに大きく成りつつあるのが、不倫とか浮気に対して厳しい、今の社会風潮だろうと思う。無論、父親となったなら義務を果たすべきで、母親にも相応のものがあるが、概ね、結婚して家族を持つと、それを「檻」とか「足枷」と感じて、そういう魂の監獄から逃れたい、という不届きな気持ちを誘惑を交えた一瞬に感じるのが、また、大人の弱さでは無いか。
つまり、家族とは、当然ながら、人間関係が生まれるし、”子は枝葉”と言いながらも、親が子供を教育するのではなく、支配することが子供の人権抑圧だと感じるなら、守るのが社会の中にある大事な子供の存在では無いか。
だから、親しい家族とは、親子が個人的関係でも繋がって、深いコミュニケーションが取れる、暖かなものだと思う。
対する、”家族というペルソナ”を被るとか、マナー上での家族関係があるにすぎない場合は「形式的なコミュニケーション」であろう。ただ、プロセスとして観るならば、反抗期や倦怠期で、対話や時間と共に解決可能かも知れない。反抗によるすれ違いがあっても、青少年を含めて子供は過失を理解されるのを必要として居るし、受け皿となる包容力を強い存在が持って無いと、家は冷たい場となるだろう。
映画『aftersun/アフターサン』(シャーロット・ウェルズ監督)では、旅をする父娘のバカンスでの交流を描くが、互いにココロの距離感がある絆は、脆そうで強固であるが、この間合いを守って居るのは個人的な性格とか楽しむチカラが、ローテンションながらビビッドに描かれる。事情があって楽しい旅にも変化の時が訪れるが、それから生まれる悲しみはパートナーを欲する人の自然な感情で、本能であろう。失うことに対して、家族がある時代のありがたみとは、大人だから痛みが分かるし、子供だからと言って悩みが無い、ということでも無い。この父娘関係には、そういう噛み合わない距離感があることで、物語半ばまで退屈でハードボイルド調にすら感じられる。太陽があっても水がないと大いに渇くことはある、のでは無いか。
つまり、家族関係がユニークであるとか、変わった個性でも容れられる、居場所、となることで、育つのは子供だけでなく、大人も同様だと思う。だから、親が人生修正の為の「メンター」が生まれて来た自分の子供であっても良いし、若者を目下の存在だと高圧的に観るのではなく、学びの姿勢を持ち、恩恵を感じるココロが無いと、子育ても家庭生活も渇きを感じる時間帯が長くなる。そうすると、年齢が支配するような、退屈な「居合わせの場所」に成ってしまい、それは、家族内で育つヒューマニズムにとって由々しき事態では無いだろうか。
恋愛とは、人生を修正するもので、そこに、肉欲とか快楽ばかりを求めると、若い内は良いが、年老いてから周りに本当に愛する家族が居ない事態があり得るかも知れない。そして、核家族におけるパートナーシップでのすれ違いとか、一瞬肌で感じられるような不協和音においては、家によってカヴァーされるべき問題もあるだろう。つまり、父親らしさ、母親らしさであって、子供らしさは小さな存在のエキセントリックな個性を面白がれるのが大人であるから、課題とは父母のイズムでは無いだろうか。ただ、形式的な家族関係で父を演じる、妻として振る舞うのでは無く、「そして、父となる」ことが双方の性による、家族内でのヒューマニズム、においては非常に重要なのでは無いだろうか。
恋愛をヒューマニズムが育つ場だとすると、良い恋愛とは形とか常識を問わないものも含まれるのでは無いだろうか。ただ、それを、本人同士が対等な立場で、良い恋愛だ、と思い合えたり、相思相愛である必要があることは言を俟たない、と思います。
2023年01月11日 16:28
生きる事への執着心が無い事で、達観しているとか、若くして悟りを開いて居る、という事もあると思うが、憎まれ役を買って出ねばならないのが、為政者に向けられた義務でもあると思う。
リベラルで好まれる人気者になる政治家は個人主義を包容して居るが、
与党に多い保守では人気を博すのは伝統や秩序についての保守主義を護持して居る政治家だ、といった、違いがあると思う。
日本人らしさとは、個人でも集団でも無い、多様性にあると思うのだが、それが、表面に出て居るからと言って、その人がラディカルな人かどうか、パンクかどうかとは限らない。デニムが好きだから、マカロニ・ウエスタンな訳では無く、リベラルなヒッピーの若者かも知れない。自分のアイデンティティとなるカルチャーは、外見やファッションに出るのでは無く、内向きであって、虚心坦懐と志を語り合えるのは、同じ趣味や暮らしを共有する、少数精鋭では無いだろうか。
個人主義が成熟しても、家族は社会の最小単位であり、会社はその上位組織であって、生活の保障の為に賃金を稼ぐ生命の糧だと言える。政治のメンタリティとして、構造改革による規制からの解放とか、開明的な政策によって、支援し得るのは、社会的にアクティブな人々であり、そういう「居場所」に積極参加したり、働いて居る人である事は、国家の税収源が、企業活動によって支えられている事からも、教育無償化や、富の再分配の在り方も、自然、「公」に近く、国家に恩返しが出来る若い世代だ、と言う事になる。
社会福祉については、これは、国家の成熟度とか、幸福度の指標となるもので、例えば、中露のような国々では、如何に、資源や経済が強力でも、社会福祉に対する満足度が薄いと、それは、国民の意に適う理想の国家だとは言えないのである。旧ソ連が、福祉大国であった事からしても、新自由主義のアメリカに対する「対抗国家」であって、社会保障で国民を守る考え方が、資本主義の失敗による政治デザインの穴をふさぐ処方箋であった事を思えば、日本における政策には、改革のアイデアとなるリソースを積極的に取って行くべきで、好き嫌いで選んでいる場合では無いのである。
だから、冷戦で生き延びた資本主義が、全て正しい、と言う事も無いのだが、日本には、義務教育による官僚主義とか、競争を否定してゴールを一緒にする考え方があって、それが、新しい考え方とか、ビジョンに対する柔軟性を欠いている要因ではあるまいか。従って、日本では、資本主義を否定するのでは無く、「ムラ」のようであった、画一的な原理やモデルによるユニバーサルサービスは、改革の的になるべきだ、と思うのである。それぞれの、会社の店舗、事業所、本社、地域によって、多様なやり方が提唱されるべきであり、コンプラは教条的であるよりは、清らかであれば、現場の為に一新される哲学で良いと思う。
こうした考え方を、家族の在り方に振り向けると、人生の事は家族との話し合いや、関係の中で決めて行くべきだ、と思うのである。例えば、高齢者の生き方も、長寿である事は身内として歓迎すべき事だが、どうやって余生を過ごしたいか、と言う事は、本人が家族に掛ける負担とか、愛情の量に応じては、高齢者施設に入るとか、訪問介護の日数を必要最低限にするとか、様々な選択肢が取られるべきだと思う。核家族制も常識となっている今風の人の感情としては、若者世代として社会保障や年金制度を守って行く事が、多数派でありながら顔の見えない高齢者が築き上げて来た日本への恩返しでは無かろうか。
リベラルで好まれる人気者になる政治家は個人主義を包容して居るが、
与党に多い保守では人気を博すのは伝統や秩序についての保守主義を護持して居る政治家だ、といった、違いがあると思う。
日本人らしさとは、個人でも集団でも無い、多様性にあると思うのだが、それが、表面に出て居るからと言って、その人がラディカルな人かどうか、パンクかどうかとは限らない。デニムが好きだから、マカロニ・ウエスタンな訳では無く、リベラルなヒッピーの若者かも知れない。自分のアイデンティティとなるカルチャーは、外見やファッションに出るのでは無く、内向きであって、虚心坦懐と志を語り合えるのは、同じ趣味や暮らしを共有する、少数精鋭では無いだろうか。
個人主義が成熟しても、家族は社会の最小単位であり、会社はその上位組織であって、生活の保障の為に賃金を稼ぐ生命の糧だと言える。政治のメンタリティとして、構造改革による規制からの解放とか、開明的な政策によって、支援し得るのは、社会的にアクティブな人々であり、そういう「居場所」に積極参加したり、働いて居る人である事は、国家の税収源が、企業活動によって支えられている事からも、教育無償化や、富の再分配の在り方も、自然、「公」に近く、国家に恩返しが出来る若い世代だ、と言う事になる。
社会福祉については、これは、国家の成熟度とか、幸福度の指標となるもので、例えば、中露のような国々では、如何に、資源や経済が強力でも、社会福祉に対する満足度が薄いと、それは、国民の意に適う理想の国家だとは言えないのである。旧ソ連が、福祉大国であった事からしても、新自由主義のアメリカに対する「対抗国家」であって、社会保障で国民を守る考え方が、資本主義の失敗による政治デザインの穴をふさぐ処方箋であった事を思えば、日本における政策には、改革のアイデアとなるリソースを積極的に取って行くべきで、好き嫌いで選んでいる場合では無いのである。
だから、冷戦で生き延びた資本主義が、全て正しい、と言う事も無いのだが、日本には、義務教育による官僚主義とか、競争を否定してゴールを一緒にする考え方があって、それが、新しい考え方とか、ビジョンに対する柔軟性を欠いている要因ではあるまいか。従って、日本では、資本主義を否定するのでは無く、「ムラ」のようであった、画一的な原理やモデルによるユニバーサルサービスは、改革の的になるべきだ、と思うのである。それぞれの、会社の店舗、事業所、本社、地域によって、多様なやり方が提唱されるべきであり、コンプラは教条的であるよりは、清らかであれば、現場の為に一新される哲学で良いと思う。
こうした考え方を、家族の在り方に振り向けると、人生の事は家族との話し合いや、関係の中で決めて行くべきだ、と思うのである。例えば、高齢者の生き方も、長寿である事は身内として歓迎すべき事だが、どうやって余生を過ごしたいか、と言う事は、本人が家族に掛ける負担とか、愛情の量に応じては、高齢者施設に入るとか、訪問介護の日数を必要最低限にするとか、様々な選択肢が取られるべきだと思う。核家族制も常識となっている今風の人の感情としては、若者世代として社会保障や年金制度を守って行く事が、多数派でありながら顔の見えない高齢者が築き上げて来た日本への恩返しでは無かろうか。
2021年12月26日 08:24
地域間を繋ぐインフラ整備は、国土強靭化と看板を付け替えても、必要ですから、持続する必要はあると思います。しかし、リモートやデジタル化によって、自動車、エネルギーによる移動手段や、新たな道路の需要は減る事が想定され、更には、社会保障など財源として、BIの導入が政策として、挙がって居ます。BIは個人へのばら撒き、ですが、これが施行されると、年金や社会保障は統合され、資産経済の活性化が進むと言われて居ます。
また、中流層以下は、エンゲル係数が高いから、飲食費に、BIの多くが当てられ、スーパーや飲食店などへ、商品を供給する第一次産業の需要が高まると思います。
要は、移動手段も限られるし、エネルギー消費にも、お金を使わず、地元志向が高まる事が望ましいから、地域にコンパクトシティなどのデザイン型の都市ビジョンが望ましく、郊外はそれらしく生産の場で、地域内でSDGsを達成すべき、と言う事です。
それから、公共事業についても、道路や交通インフラが土建政策による利益誘導政治だけれども、インフラは財には成りません。国の富みを表わす事が、通貨の信用や市場の安心感に繋がり、その力学が金本位制の強みだったと思います。
国の富や文明力を具現する、美術館や文化施設、或いは、カジノのような、独立採算や収益性が見込まれ、財として価値収集をハードが、批評やインフルエンサーによる価値蓄積をソフトが、互いに分担し合い、新たな公共事業や投資にも、選択肢が増えれば良い。
また、中流層以下は、エンゲル係数が高いから、飲食費に、BIの多くが当てられ、スーパーや飲食店などへ、商品を供給する第一次産業の需要が高まると思います。
要は、移動手段も限られるし、エネルギー消費にも、お金を使わず、地元志向が高まる事が望ましいから、地域にコンパクトシティなどのデザイン型の都市ビジョンが望ましく、郊外はそれらしく生産の場で、地域内でSDGsを達成すべき、と言う事です。
それから、公共事業についても、道路や交通インフラが土建政策による利益誘導政治だけれども、インフラは財には成りません。国の富みを表わす事が、通貨の信用や市場の安心感に繋がり、その力学が金本位制の強みだったと思います。
国の富や文明力を具現する、美術館や文化施設、或いは、カジノのような、独立採算や収益性が見込まれ、財として価値収集をハードが、批評やインフルエンサーによる価値蓄積をソフトが、互いに分担し合い、新たな公共事業や投資にも、選択肢が増えれば良い。
2020年11月04日 17:10
日本の人口を保つために、少子化対策は急務であり、若い現役世代を主人公として、イクメンや教育に絡めた両親の学び、そして、子供の学びについての政策案を考えたいと思う。
子供のイクメンについては、母親の育休であったり産婦人科への入院と言った母親にとってのサポートと言うのは、政治としては入院や生活、子供のための購入行為と言った者に対する支援金を用意する事が出来る一方で、家族として出来る事や良好な環境整備こそが本当に必要な事であり、つまりは、古い政治に不足して来て、尚且つ、これから必要なものと言うのはマンパワーへの煽りであり、刺激策となる新たな視野である。それには核家族を超えた祖父母世代への役割をも期待すべきであり、世代間の意識や協力というものは、祖父母にとっての孫という子宝によって改善される。
つまり、現代の核家族において制度としては、家族の役割を合理化しており、また、ダウンサイズしており、家族制度の悪い面として、現役世代や子供の自由を抑制しようとする、父権主義への拒否、あるいは、母親における姑からのパワハラといった家庭の問題を思えば、核家族には個人主義を守る機能がある事が見える気がするのである。
だから、そうした現役世代には家事や生活において有利な環境が揃って居るという事で、その個人主義というのは現役世代や次世代たる子供達が自由に伸び伸びと育ちながら、また、祖父母の高齢世代もお家の義務から解放されているという意味では、ウィンウィンにして楽な生き方だと言える。だから、家族の役割を期待するのであれば、それは義務的な感覚から、では無く、楽な個人主義を極力維持して、具現した形での新たな核家族のあり方を模索すべきでは無いか。
セーフティネットには法の支配に加えて、子供を巡る自由と消費における家族産業としての経済効果とサービス産業の視点が必要だと自分は思う。また、コロナ禍を受けた逆境の中で考案されたGoToキャンペーンの活用が有効だと思います。つまり、核家族において祖父母とは別居して居たり、遠方にある場合があると思います。母方の実家は特にそうで、滅多に家族の再会が無い事は絆を再生する上で、改善すべき事態だと思います。GoToトラベルで夫婦が出産した場合には、祖父母が面会に来れるようにGoToトラベルのような支援制度を整備してはどうでしょうか。祖父母の住まいが市外県外である場合など制約を決めて、交通費、電車代やガソリン代を補助してはどうでしょうか。いわば、「マタニティー・ツーリズム」です。
夫婦世帯と孫に逢いに行く「家族のための旅」がお得となれば、祖父母は旅行気分で上京して来ると思います。また、孫は可愛いし子である夫婦らへの土産であったり、特別な日としての皆での飲食代、孫の玩具や用具、雑貨を買い与えるなどの経済効果が期待出来ると思います。これは、ツーリズムが特別な機縁であるがゆえに想定される出費へのインセンティブであり、例えば、祖父母の生活圏が両親より遠方であるほどに強く成る経済効果だと思います。
更には、宿泊先にはホテル、旅館などを使っても良いのですが、特に中流層でも孫は可愛いが出費を極力抑えたいという気持ちはあると思いますから、両親の家に泊まる事がし易いと良いのでは無いでしょうか。公営住宅において、老朽化やデザインから人気が落ちている事があると思いますが、公営住宅の再整備において、現役の核家族だけが生活出来る広さでは無く、子供が成長した上で部屋の必要性が増える事もあり、今の公営住宅のデザインとサイズでは無く、LDKに加えて部屋が多いものが望まれると思います。そこに、孫が小さい間にはその将来の子供部屋に、マタニティー・ツーリズムで上京して来た祖父母が宿泊出来るスペースが出来るのでは無いでしょうか。孫が成長したら、そのままゲストの部屋は彼らの勉強部屋にすれば良いのです。
子供のイクメンについては、母親の育休であったり産婦人科への入院と言った母親にとってのサポートと言うのは、政治としては入院や生活、子供のための購入行為と言った者に対する支援金を用意する事が出来る一方で、家族として出来る事や良好な環境整備こそが本当に必要な事であり、つまりは、古い政治に不足して来て、尚且つ、これから必要なものと言うのはマンパワーへの煽りであり、刺激策となる新たな視野である。それには核家族を超えた祖父母世代への役割をも期待すべきであり、世代間の意識や協力というものは、祖父母にとっての孫という子宝によって改善される。
つまり、現代の核家族において制度としては、家族の役割を合理化しており、また、ダウンサイズしており、家族制度の悪い面として、現役世代や子供の自由を抑制しようとする、父権主義への拒否、あるいは、母親における姑からのパワハラといった家庭の問題を思えば、核家族には個人主義を守る機能がある事が見える気がするのである。
だから、そうした現役世代には家事や生活において有利な環境が揃って居るという事で、その個人主義というのは現役世代や次世代たる子供達が自由に伸び伸びと育ちながら、また、祖父母の高齢世代もお家の義務から解放されているという意味では、ウィンウィンにして楽な生き方だと言える。だから、家族の役割を期待するのであれば、それは義務的な感覚から、では無く、楽な個人主義を極力維持して、具現した形での新たな核家族のあり方を模索すべきでは無いか。
セーフティネットには法の支配に加えて、子供を巡る自由と消費における家族産業としての経済効果とサービス産業の視点が必要だと自分は思う。また、コロナ禍を受けた逆境の中で考案されたGoToキャンペーンの活用が有効だと思います。つまり、核家族において祖父母とは別居して居たり、遠方にある場合があると思います。母方の実家は特にそうで、滅多に家族の再会が無い事は絆を再生する上で、改善すべき事態だと思います。GoToトラベルで夫婦が出産した場合には、祖父母が面会に来れるようにGoToトラベルのような支援制度を整備してはどうでしょうか。祖父母の住まいが市外県外である場合など制約を決めて、交通費、電車代やガソリン代を補助してはどうでしょうか。いわば、「マタニティー・ツーリズム」です。
夫婦世帯と孫に逢いに行く「家族のための旅」がお得となれば、祖父母は旅行気分で上京して来ると思います。また、孫は可愛いし子である夫婦らへの土産であったり、特別な日としての皆での飲食代、孫の玩具や用具、雑貨を買い与えるなどの経済効果が期待出来ると思います。これは、ツーリズムが特別な機縁であるがゆえに想定される出費へのインセンティブであり、例えば、祖父母の生活圏が両親より遠方であるほどに強く成る経済効果だと思います。
更には、宿泊先にはホテル、旅館などを使っても良いのですが、特に中流層でも孫は可愛いが出費を極力抑えたいという気持ちはあると思いますから、両親の家に泊まる事がし易いと良いのでは無いでしょうか。公営住宅において、老朽化やデザインから人気が落ちている事があると思いますが、公営住宅の再整備において、現役の核家族だけが生活出来る広さでは無く、子供が成長した上で部屋の必要性が増える事もあり、今の公営住宅のデザインとサイズでは無く、LDKに加えて部屋が多いものが望まれると思います。そこに、孫が小さい間にはその将来の子供部屋に、マタニティー・ツーリズムで上京して来た祖父母が宿泊出来るスペースが出来るのでは無いでしょうか。孫が成長したら、そのままゲストの部屋は彼らの勉強部屋にすれば良いのです。
2020年04月28日 20:00
ベーシックインカムは、政府による富の再分配においては、土建政策、ゼネコンへの公共事業の受注よりも、公平かつ柔軟な制度である。公共事業とは、肉体労働を媒介とした富の再分配であり、男性を中心とした社会事業である。対する、ベーシックインカムは、全世代型の社会保障であり、若い家族の生活費、子供の養育費であったり、または、失業保険や生活保護、ひいては年金制度をフォローする総合的な保障である。
これは、支給金が一人当たり10万円にも満たない金額である事が議論されているがゆえに、大きな所得における格差の是正には為り得ない。あくまで、最低限の文化的生活を送る為の社会保障であり、それによって、労働意欲が削がれ、働かない人間が出て来る事は考えづらい、と思う。あるいは、そうした、子供の弛緩であったり、給付の価値を高める為には、柔軟な制度を取り入れるべきである。
つまり、ベーシックインカムは、全世代型ではあるものの、その支給金が中流層以上の富裕層などの生活にとって、さしたる助けに為らないけれども、失業時や、家庭に問題が起きた時など、必要になる時がやって来る事を想定して、それに応じて、支給期間を調整出来るようにしてはどうか。つまり、今回のコロナショックであったり、地震による大震災、有事といった、大不況によって失業リスクが高まる時に備えて、支給期間を普段は停止して、仕事が好調な時はもらわない期間を作る。そうして、変事が起きた時に、仕事が不調になったり、失業した時に備えて、支給を開始するのである。無論、その支給額は一定であるべきであり、停止期間を設けた国民には、その分、開始期間に蓄積分を貰えるようにしてはどうか。
これは、農水省の元官僚の長男殺人事件があったように、男性とはその情熱と人生を懸けて、仕事にひたすら打ち込むものであり、それは、保守的な労働者にこそ顕著な状態だと思う。だが、元官僚の父親が、省内でのヒエラルキーを競うばかりでは無く、堂々と仕事を休んで、プライべートにおいて、息子や家族の為に時間を使えて居たならば、こうした不幸は起きなかったかも知れない。つまり、ベーシックインカムを停止して蓄積しておけば、こうした、まともな社会的な職業に就いた公職者が、人の親たる本分を大切にして休職する事もし易く為るのではないか。そして、蓄積分だけの多額の受給を受けるから、急速に生活レベルを落とす必要に迫られる事もなくなるのでは無いか。
生活保護は、資産の処分という厳しい条件があるし、年金においても、家族に応じて、現役時代にはベーシックインカムを停止、蓄積しておいて、老後の備えを充実させるという、そういう制度の運用方法もあると思う。人生において、一寸先は闇であり、そのイレギュラーバウンドに備えるべく、自由度と選択制の高い制度設計をすべきでは無いだろうか。
これは、支給金が一人当たり10万円にも満たない金額である事が議論されているがゆえに、大きな所得における格差の是正には為り得ない。あくまで、最低限の文化的生活を送る為の社会保障であり、それによって、労働意欲が削がれ、働かない人間が出て来る事は考えづらい、と思う。あるいは、そうした、子供の弛緩であったり、給付の価値を高める為には、柔軟な制度を取り入れるべきである。
つまり、ベーシックインカムは、全世代型ではあるものの、その支給金が中流層以上の富裕層などの生活にとって、さしたる助けに為らないけれども、失業時や、家庭に問題が起きた時など、必要になる時がやって来る事を想定して、それに応じて、支給期間を調整出来るようにしてはどうか。つまり、今回のコロナショックであったり、地震による大震災、有事といった、大不況によって失業リスクが高まる時に備えて、支給期間を普段は停止して、仕事が好調な時はもらわない期間を作る。そうして、変事が起きた時に、仕事が不調になったり、失業した時に備えて、支給を開始するのである。無論、その支給額は一定であるべきであり、停止期間を設けた国民には、その分、開始期間に蓄積分を貰えるようにしてはどうか。
これは、農水省の元官僚の長男殺人事件があったように、男性とはその情熱と人生を懸けて、仕事にひたすら打ち込むものであり、それは、保守的な労働者にこそ顕著な状態だと思う。だが、元官僚の父親が、省内でのヒエラルキーを競うばかりでは無く、堂々と仕事を休んで、プライべートにおいて、息子や家族の為に時間を使えて居たならば、こうした不幸は起きなかったかも知れない。つまり、ベーシックインカムを停止して蓄積しておけば、こうした、まともな社会的な職業に就いた公職者が、人の親たる本分を大切にして休職する事もし易く為るのではないか。そして、蓄積分だけの多額の受給を受けるから、急速に生活レベルを落とす必要に迫られる事もなくなるのでは無いか。
生活保護は、資産の処分という厳しい条件があるし、年金においても、家族に応じて、現役時代にはベーシックインカムを停止、蓄積しておいて、老後の備えを充実させるという、そういう制度の運用方法もあると思う。人生において、一寸先は闇であり、そのイレギュラーバウンドに備えるべく、自由度と選択制の高い制度設計をすべきでは無いだろうか。