キャロライン・トンプソン
2022年10月01日 17:20
普通じゃない、何もかも異常なファミリー。アダムス一家は、墓場の上に不気味さと瀟洒さをあわせ持つ黒い屋敷に住んで居た。お化け一家と呼ばれるにふさわしい、異常な人々ではあり、特に、フランス語をも操る、饒舌だが、何処かおバカな夫妻のエクスタシーは貴族への拷問をすら快楽に感じるほどの、癖があった。実は、大富豪であって金庫には莫大な金貨や財宝が納められている。そこを狙ったのが、強欲なクレイブン母子であって、その執念の策略によって、この時代錯誤でエキセントリックな「貴族の一家」は窮地に立たされる事になる。果たして、観るも不快なアダムス一家は強欲な詐欺師とどのように戦うのであろうか。
はっきり言って、ハチャメチャだが隙だらけなのが、このアダムス一家であり、特に、その原因は頭のいかれた当主ゴメズが駄目男である事にある。彼は一家の安泰をすら保つ事が出来ないので、とても弱い存在だと言える。ほとんど憎めないキャラであるのは確かだが、この不快な異様家族としては、まるで、ミスター・ビーンが家族を持ったら、恐らくは、このように大迷惑な家族が出来るだろう、というぐらいの、ある意味での千両役者ぶりなのである。
だから、平凡な感覚でこの家族を批評するのは野暮というもので、そもそも、銀幕の世界は異論を排除しないのであるが、それでも、心からエンターテイメントを楽しむのであれば、常識とは一度、おさらばする必要があるのは確かだろう。貴族とか、特権階級は嫉妬の対象となる事が多々あるから、おとなしく暮らすかと言えば、そんな自己保身は全くなく、彼らは、独自の人生を強烈な個性に恥じることなく、堂々たる生き方をしている。
このように、好意的に彼らを観ていると、このアダムス家の不気味な館は、敵から家族を守る城、というよりは、アイデアの宝庫だと観えて来るのであって、それは、小説とも映画ともなった某魔法学校の物語における、荒ぶる魔や闇の存在が、遡る事、20世紀の作品において、すでに、表現されているのである。彼の大叙事詩を彩った魔法の数々が、こんな一家が住まうぐらいの大きさの館に集約されて居れば、どうなるか、お分かりだろう。すなわち、これは、テーマパークのストーリーなのである。
貴族とは、愚かな子弟や深窓のご令嬢を生む事もあるから、普通の市民階級からは嫉まれる事もあるし、その代表格として、財産を掠め取ってやろうとする強欲の塊がクレイブン夫人であり、その手法は詐欺である。だが、ここにおいて、武器とか悪意に対して無防備なアダムス館が、その本領を発揮する。つまり、テーマパークとは、怒りや悲しみを中和すると同時に、笑いや驚きといった癒しを生み出す源泉の場である、と言う事である。
それゆえに、ストーリーとか舞台仕掛けとしては奇想天外なるも、感情的には、貴族に対する、或いは、大迷惑なホラー家族に向けられる感情的なリアリティは、ほぼ満たされている。だから、それにも関わらず、ファミリーは多くの人々を招いたり、独自の悪戯を交えた持成しをしたり、そういう善性が世の毒を解毒して居るし、めちゃくちゃ面白いのに、彼女は唯一人、強欲である猛毒を保ち続けるのである。これは、観方によっては、誰も彼女を救えないという事になり、大変、哀れではある。
それと同時に、不快に観えるアダムス一家が、本当は快楽を求めている事が対比的にとても際立って、彼らのエクセントリック性が、一種の毒の暗さに対する救いともなるのでは無いか。いずれにしても、快楽家族が世人からのリスペクトなどを受ける事は無いのだが、そもそも、偉大な人物であっても、二枚舌の大詐偽師であっても、同じ事なのでは無いか。当主のゴメズは愚かで、騙され易いが、子供たちは案外しっかりして居るというか。
面白い、破格のコメディではあるので、大変批評し易い内容ではあった。逆に言えば、批評を生む源泉としてのテーマパークには、如何なる恩恵があるか、との事を今一度、熟慮したいものである。
はっきり言って、ハチャメチャだが隙だらけなのが、このアダムス一家であり、特に、その原因は頭のいかれた当主ゴメズが駄目男である事にある。彼は一家の安泰をすら保つ事が出来ないので、とても弱い存在だと言える。ほとんど憎めないキャラであるのは確かだが、この不快な異様家族としては、まるで、ミスター・ビーンが家族を持ったら、恐らくは、このように大迷惑な家族が出来るだろう、というぐらいの、ある意味での千両役者ぶりなのである。
だから、平凡な感覚でこの家族を批評するのは野暮というもので、そもそも、銀幕の世界は異論を排除しないのであるが、それでも、心からエンターテイメントを楽しむのであれば、常識とは一度、おさらばする必要があるのは確かだろう。貴族とか、特権階級は嫉妬の対象となる事が多々あるから、おとなしく暮らすかと言えば、そんな自己保身は全くなく、彼らは、独自の人生を強烈な個性に恥じることなく、堂々たる生き方をしている。
このように、好意的に彼らを観ていると、このアダムス家の不気味な館は、敵から家族を守る城、というよりは、アイデアの宝庫だと観えて来るのであって、それは、小説とも映画ともなった某魔法学校の物語における、荒ぶる魔や闇の存在が、遡る事、20世紀の作品において、すでに、表現されているのである。彼の大叙事詩を彩った魔法の数々が、こんな一家が住まうぐらいの大きさの館に集約されて居れば、どうなるか、お分かりだろう。すなわち、これは、テーマパークのストーリーなのである。
貴族とは、愚かな子弟や深窓のご令嬢を生む事もあるから、普通の市民階級からは嫉まれる事もあるし、その代表格として、財産を掠め取ってやろうとする強欲の塊がクレイブン夫人であり、その手法は詐欺である。だが、ここにおいて、武器とか悪意に対して無防備なアダムス館が、その本領を発揮する。つまり、テーマパークとは、怒りや悲しみを中和すると同時に、笑いや驚きといった癒しを生み出す源泉の場である、と言う事である。
それゆえに、ストーリーとか舞台仕掛けとしては奇想天外なるも、感情的には、貴族に対する、或いは、大迷惑なホラー家族に向けられる感情的なリアリティは、ほぼ満たされている。だから、それにも関わらず、ファミリーは多くの人々を招いたり、独自の悪戯を交えた持成しをしたり、そういう善性が世の毒を解毒して居るし、めちゃくちゃ面白いのに、彼女は唯一人、強欲である猛毒を保ち続けるのである。これは、観方によっては、誰も彼女を救えないという事になり、大変、哀れではある。
それと同時に、不快に観えるアダムス一家が、本当は快楽を求めている事が対比的にとても際立って、彼らのエクセントリック性が、一種の毒の暗さに対する救いともなるのでは無いか。いずれにしても、快楽家族が世人からのリスペクトなどを受ける事は無いのだが、そもそも、偉大な人物であっても、二枚舌の大詐偽師であっても、同じ事なのでは無いか。当主のゴメズは愚かで、騙され易いが、子供たちは案外しっかりして居るというか。
面白い、破格のコメディではあるので、大変批評し易い内容ではあった。逆に言えば、批評を生む源泉としてのテーマパークには、如何なる恩恵があるか、との事を今一度、熟慮したいものである。
2020年04月01日 17:43
生まれつき、両手がハサミで出来ているという、さながら怪物のような肉体で生まれて来たエドワード。その奇妙ないでたちに対して、心は純粋無垢であり、人を傷付けると言う事を知らなかった。エドは、街外れの古城に住んでいたが、その外観の不気味さから、城は幽霊屋敷と呼ばれていた。ある日、化粧品の販売員であるペグが城を訪れると、その庭園の木々は、綺麗に整備されて、まるで命を吹き込まれたようであった。城内は古びて不気味であったが、その最上階にはエドが一人佇んでいた。彼を恐がることも無く、ペグは自分の家へと連れ帰るが、それは、街の住民達が皆知る事と為っていた。
心の綺麗な怪物というと、何かと悲劇的な存在であるが、ペグにはそうしたハンディを背負ったエドに対する偏見は無く、その才能を理解して、社会に認められる道程を応援しようという善意と好奇心がある。ペグの人を見る眼は確かで、エドはハサミを活かした庭園の整備から、ペットである犬の美容師、そして、街の婦人方の美容師と為り、その多才さを発揮して行く。エドは自身のハンディを、才能によって克服したのであって、そこには、偏見に対する葛藤もあったろうが、そうした悪意というものは、狂信者の女であるエスメラルダなどの変わり種のアンチに集約されている。
エドはマジックによるメルヘンを生成しているが、街は日常からのメルヘンの場所となっている。それは、均整の取れた住宅街が、まるで玩具の箱を並べ置いたようなコミカルな家々に為っているからであり、その個性というのは、街の人々を友好的で好奇心の強い存在である事を飾り立てて居る。つまり、これは一個の理想郷であり、エドが街の人々に理解されたのも、そうした寛容の精神があるからであり、また、アメリカは若い国家ゆえに、中世というノスタルジーの時代が無い事は、中世を彷彿とさせる古城であったり、さながら魔法使いエドに対する甘美な幻想を抱かせ、それが、彼への肯定的な感情の源と為っているのでは無いか。
対する、ジムというのは排他的なレイシスト、差別主義者であり、また、エドが生み出す美の真価を理解しない品格の無い猿のような人物である。だが、彼はまだ年若い青年であり、彼の粗暴さというものは、誰かが抑え得るか、さもなくば衝突を招くものであったのだろう。エドがその人である。ジムは元々、可憐なキムのボーイフレンドであったが、その個性を凌駕する暴力性と、その対立軸となるエドの無上の優しさや善良さというものは、この二者を厳格に分かつものである。キムはいずれと居れば幸福になれるのか、と言う事は、社会における力の位置付けであったり、その真の強によって生み出される価値や、文化、芸術といったものであり、粗暴なジムはそうした技を介する品格も知性も無いのであれば、せめて、自分がそうしているように、他者にも愛を語ったり、それぞれの長所、才能によって生きて行く事に対する干渉を止せば良かったのだ。それは、他者との距離感の取り方であるが、果たしてそれを、まだ青年だから無条件に許すという事で良いのか、というのは教育と法治主義の双方の理想として熟慮されるべきなのだろう。
ともあれ、ペグの一家は皆善良であり、理解もあり、その家において才能を開花させる事によって、街の人々との距離感も埋まり、偏見も緩められる方向へと、この映画は進んで行く。それでも、エスメラルダは頑なな態度を変えないが、それは狂信というものが、社会的に好ましくない事を示す。その意味で、信じるものとは、何も宗教だけの事ではなく、エドが異端者だから、マイノリティであるから、人に対する愛を持たないという単純思考と言うか、排他主義であろう。キムを取られまいとする偏愛から、犯罪に手を染めて行くジム然り、人は恋愛や友情、それから作られる経験や記憶によって成長すれば、退化もするものだ。つまり、心の絆、自由の絆といった感情に対して、常識の絆、礼儀の絆があり、後者は主に、社会生活や会社組織、目上の人とのお付き合いなどで重視される絆だと思う。
だが、狂信者というのは、これらの全体主義的な絆への偏愛から、双方の絆のバランスが崩れている人の事だと思う。これが正しければ、狂信とは人としてのあり方とか日常に取る、選ぶ考えや態度におけるアンバランスな傾きの事でもあるのでは無いか。
エドは大変な苦労人であり、その人生において、常人の理解や関与の範疇における、答えというのは中々見つけるのは難しいのだろう。彼はテレビにも出るなど、順風満帆な人生を送る芽もあったのであって、芸術家というのは、他者からの不当な誹謗中傷や排除に対しては、強くあらねば為らないのであるし、その強かさと功績というのは、不当な干渉に価値を置くのではなく、純粋な作品の精度によって評価されるべきではあるまいか。彼は、セーフティネットを生成する公共でもなく、また、コミュ二ティの核である民間でもない、泰然自若、揺蕩う如く自然へと向かって行くのである。その道程には、ドラマも笑えない事件もあるが、追い詰められるのではなく、自ら生きる道を決断して生きて欲しい、と思える根拠というのは、憐憫を誘うエドの才能とカリスマにあると思う。
心の綺麗な怪物というと、何かと悲劇的な存在であるが、ペグにはそうしたハンディを背負ったエドに対する偏見は無く、その才能を理解して、社会に認められる道程を応援しようという善意と好奇心がある。ペグの人を見る眼は確かで、エドはハサミを活かした庭園の整備から、ペットである犬の美容師、そして、街の婦人方の美容師と為り、その多才さを発揮して行く。エドは自身のハンディを、才能によって克服したのであって、そこには、偏見に対する葛藤もあったろうが、そうした悪意というものは、狂信者の女であるエスメラルダなどの変わり種のアンチに集約されている。
エドはマジックによるメルヘンを生成しているが、街は日常からのメルヘンの場所となっている。それは、均整の取れた住宅街が、まるで玩具の箱を並べ置いたようなコミカルな家々に為っているからであり、その個性というのは、街の人々を友好的で好奇心の強い存在である事を飾り立てて居る。つまり、これは一個の理想郷であり、エドが街の人々に理解されたのも、そうした寛容の精神があるからであり、また、アメリカは若い国家ゆえに、中世というノスタルジーの時代が無い事は、中世を彷彿とさせる古城であったり、さながら魔法使いエドに対する甘美な幻想を抱かせ、それが、彼への肯定的な感情の源と為っているのでは無いか。
対する、ジムというのは排他的なレイシスト、差別主義者であり、また、エドが生み出す美の真価を理解しない品格の無い猿のような人物である。だが、彼はまだ年若い青年であり、彼の粗暴さというものは、誰かが抑え得るか、さもなくば衝突を招くものであったのだろう。エドがその人である。ジムは元々、可憐なキムのボーイフレンドであったが、その個性を凌駕する暴力性と、その対立軸となるエドの無上の優しさや善良さというものは、この二者を厳格に分かつものである。キムはいずれと居れば幸福になれるのか、と言う事は、社会における力の位置付けであったり、その真の強によって生み出される価値や、文化、芸術といったものであり、粗暴なジムはそうした技を介する品格も知性も無いのであれば、せめて、自分がそうしているように、他者にも愛を語ったり、それぞれの長所、才能によって生きて行く事に対する干渉を止せば良かったのだ。それは、他者との距離感の取り方であるが、果たしてそれを、まだ青年だから無条件に許すという事で良いのか、というのは教育と法治主義の双方の理想として熟慮されるべきなのだろう。
ともあれ、ペグの一家は皆善良であり、理解もあり、その家において才能を開花させる事によって、街の人々との距離感も埋まり、偏見も緩められる方向へと、この映画は進んで行く。それでも、エスメラルダは頑なな態度を変えないが、それは狂信というものが、社会的に好ましくない事を示す。その意味で、信じるものとは、何も宗教だけの事ではなく、エドが異端者だから、マイノリティであるから、人に対する愛を持たないという単純思考と言うか、排他主義であろう。キムを取られまいとする偏愛から、犯罪に手を染めて行くジム然り、人は恋愛や友情、それから作られる経験や記憶によって成長すれば、退化もするものだ。つまり、心の絆、自由の絆といった感情に対して、常識の絆、礼儀の絆があり、後者は主に、社会生活や会社組織、目上の人とのお付き合いなどで重視される絆だと思う。
だが、狂信者というのは、これらの全体主義的な絆への偏愛から、双方の絆のバランスが崩れている人の事だと思う。これが正しければ、狂信とは人としてのあり方とか日常に取る、選ぶ考えや態度におけるアンバランスな傾きの事でもあるのでは無いか。
エドは大変な苦労人であり、その人生において、常人の理解や関与の範疇における、答えというのは中々見つけるのは難しいのだろう。彼はテレビにも出るなど、順風満帆な人生を送る芽もあったのであって、芸術家というのは、他者からの不当な誹謗中傷や排除に対しては、強くあらねば為らないのであるし、その強かさと功績というのは、不当な干渉に価値を置くのではなく、純粋な作品の精度によって評価されるべきではあるまいか。彼は、セーフティネットを生成する公共でもなく、また、コミュ二ティの核である民間でもない、泰然自若、揺蕩う如く自然へと向かって行くのである。その道程には、ドラマも笑えない事件もあるが、追い詰められるのではなく、自ら生きる道を決断して生きて欲しい、と思える根拠というのは、憐憫を誘うエドの才能とカリスマにあると思う。