朴性厚
2022年09月26日 21:35
王道の光と闇との戦い。呪い、という人生をゆがませる力、に対して、闇祓いをする若い呪術師達。乙骨憂太には、最強の怨霊がついて居り、様々な破壊をもたらした。呪術高専への入学とは、そんな危険を孕んだ憂太を助けるものであったが、テーマのシリアスさに対して、ストーリーのモラルは緩い。皆、自由であり、クールでキャラ立ちをしている。五条悟とか術師の教員も、義務感というよりは、自分の想うままに生きているようであるが、憂太にはそうした自由が無い。それは、彼の若者としての魅力を損ねるものだが、同時に、優しさでもあって、奇妙な事に最強の怨霊に、骨の髄まで惚れ込まれているのが、乙骨憂太という人の不思議であり、カリスマでもあった。果たして、彼は呪術高専にて何を学び、生き延びて行くのだろうか。
まず、怨霊とは、必ずしも、媒体を傷付けたり、命を奪うものでは無いようだ。憑りついて居る事でもあり、また、守って居る守護霊のようでもある。その正体は、憂太にとって何より大事な存在であり、幼くして出逢ったフィアンセであり、死せる折本里香という少女なのだ。この2人の関係は複雑である。何しろ、特級に類されるこの怨霊は、恐ろしい力を秘めており、あらゆる邪を破壊し尽くすからである。
ただ、憂太の素晴らしい事は、彼は呪いを受けているせいか、とても虚ろで、影のある存在であり、同級生からの苛めも受けているが、それを、最強の怨霊が全力を持って返り討ちにするのだから、まるで、赤子の手をひねるように簡単に守護をやってのけるのである。その破壊力とは、いつ、憂太にも降りかかるかは分からないから、この、修羅雪姫のような畏怖すべきフィアンセを、憂太は、心の底から信頼しているのである。それは、小心の裏にある彼の素晴らしい本質が明らかになる前から、分かる事である。
呪術高専に入って、憂太は自らを井の中の蛙、であった、と悟る事に成る。何故なら、そこには、先輩や同級生たち然り、呪いを武を持って抑える、能力と訓練を積んだプロフェッショナルに出逢い、思い知らされるからである。だが、それは、リアルタイムでの彼の弱さの二次証明に過ぎず、彼が絶対的な弱者だ、と言う事では無い。更には、その猛者たちの常識をすら、簡単に突き破り、徹底的な破壊をもたらす、里香の怨霊のインパクトは少しも陰らない。それどころか、天下に届く、その真の力、価値とは、実際に経験を積む事で、いよいよ、「本物である」と言う事が明らかになって行くだけだから、なのだ。
憂太のような普通の高校生が、何故、このような負荷を背負って居るのかは、明らかになって行くが、彼はアキレウスの腱である、最後の弱点であるのかも知れない。つまりは、里香の怨霊の強さに対して、憂太はその唯一の弱点に成るかも知れないのであって、実際に、その矛盾を見付け出して、ほくそ笑み、その「力」だけを欲したのが、ヒールである夏油傑である。力の信奉者であり、テロリストでもある。
だが、憂太は自身の力に対する迷いもあって、まず、「心」を求めて、求道へと歩を進めるからである。これは、一見、遠回りだが、その本質は、里香に対する純愛と一致しており、彼にとっての生命とは、まさにその愛と呪いの絆にあるからである。だから、力と心、とが必ずしも、反撥し合うとは限らないが、それでも、危険な我道に憂太が闇堕ちする事は、今となっては考えられないのだ。だから、彼が武、を発動して、生きる場を求めて行く事は、暗雲の垂れこめる策略を夏油が仕掛けて来る事に対する、生きる意志を開眼したと言えよう。
圧巻の戦闘シーンも、ロック音楽とリンクして、アクロバット満載であるが、リアルにこれは、無双状態であって、リミットが振り切れたような凄いアクションが目白押しである。憂太の守護をする里香とのシンクロは、よくあるような格ゲーの攻撃方法であり、コンビネーションだが、ジョジョのスタンドが最も近いだろうか。様々なケミストリーが垣間見えるが、この見るも恐ろしい怨霊と、美少女である里香との外見の違いは甚大に観えるが、2人のケミストリーには何の矛盾も無い。
美的なメンタリティが重んじられる求道であり、武士道のようでもあるから、このストーリーが古い世界、を基盤として居て、ナチズムの親玉のような夏油が新しい世界のラディカルで、古い世界を破壊し尽くそうとしている。
だが、新と旧、というのは、この主人公の相互的に守り合うパートナーシップにも共通しており、憂太が新、だとすれば、いわずもがな、怨霊は旧であり、現実の死を認めない、生前への未練によって呪い化して居る、と言う事であろう。そして、新と旧との融合とは、マスターピースにも観られ、映画「ラストサムライ」にて、心を呪われたオルグレン大尉が、命を張って時間を掛け、対話の努力を重ねた、その経験によって、熟して木より落ちる果実のような到達点があるのでは無いか。それを、リアリティとして具現するのは、対極の理想であり、その部品に過ぎない美的感傷とか、気の充実にあるのでは無いか。だから、本作における新と旧とは、必ずしもミスマッチでは無いのであって、むしろ、その融合こそが新たなる希望、だと言えるのでは無いだろうか。
まず、怨霊とは、必ずしも、媒体を傷付けたり、命を奪うものでは無いようだ。憑りついて居る事でもあり、また、守って居る守護霊のようでもある。その正体は、憂太にとって何より大事な存在であり、幼くして出逢ったフィアンセであり、死せる折本里香という少女なのだ。この2人の関係は複雑である。何しろ、特級に類されるこの怨霊は、恐ろしい力を秘めており、あらゆる邪を破壊し尽くすからである。
ただ、憂太の素晴らしい事は、彼は呪いを受けているせいか、とても虚ろで、影のある存在であり、同級生からの苛めも受けているが、それを、最強の怨霊が全力を持って返り討ちにするのだから、まるで、赤子の手をひねるように簡単に守護をやってのけるのである。その破壊力とは、いつ、憂太にも降りかかるかは分からないから、この、修羅雪姫のような畏怖すべきフィアンセを、憂太は、心の底から信頼しているのである。それは、小心の裏にある彼の素晴らしい本質が明らかになる前から、分かる事である。
呪術高専に入って、憂太は自らを井の中の蛙、であった、と悟る事に成る。何故なら、そこには、先輩や同級生たち然り、呪いを武を持って抑える、能力と訓練を積んだプロフェッショナルに出逢い、思い知らされるからである。だが、それは、リアルタイムでの彼の弱さの二次証明に過ぎず、彼が絶対的な弱者だ、と言う事では無い。更には、その猛者たちの常識をすら、簡単に突き破り、徹底的な破壊をもたらす、里香の怨霊のインパクトは少しも陰らない。それどころか、天下に届く、その真の力、価値とは、実際に経験を積む事で、いよいよ、「本物である」と言う事が明らかになって行くだけだから、なのだ。
憂太のような普通の高校生が、何故、このような負荷を背負って居るのかは、明らかになって行くが、彼はアキレウスの腱である、最後の弱点であるのかも知れない。つまりは、里香の怨霊の強さに対して、憂太はその唯一の弱点に成るかも知れないのであって、実際に、その矛盾を見付け出して、ほくそ笑み、その「力」だけを欲したのが、ヒールである夏油傑である。力の信奉者であり、テロリストでもある。
だが、憂太は自身の力に対する迷いもあって、まず、「心」を求めて、求道へと歩を進めるからである。これは、一見、遠回りだが、その本質は、里香に対する純愛と一致しており、彼にとっての生命とは、まさにその愛と呪いの絆にあるからである。だから、力と心、とが必ずしも、反撥し合うとは限らないが、それでも、危険な我道に憂太が闇堕ちする事は、今となっては考えられないのだ。だから、彼が武、を発動して、生きる場を求めて行く事は、暗雲の垂れこめる策略を夏油が仕掛けて来る事に対する、生きる意志を開眼したと言えよう。
圧巻の戦闘シーンも、ロック音楽とリンクして、アクロバット満載であるが、リアルにこれは、無双状態であって、リミットが振り切れたような凄いアクションが目白押しである。憂太の守護をする里香とのシンクロは、よくあるような格ゲーの攻撃方法であり、コンビネーションだが、ジョジョのスタンドが最も近いだろうか。様々なケミストリーが垣間見えるが、この見るも恐ろしい怨霊と、美少女である里香との外見の違いは甚大に観えるが、2人のケミストリーには何の矛盾も無い。
美的なメンタリティが重んじられる求道であり、武士道のようでもあるから、このストーリーが古い世界、を基盤として居て、ナチズムの親玉のような夏油が新しい世界のラディカルで、古い世界を破壊し尽くそうとしている。
だが、新と旧、というのは、この主人公の相互的に守り合うパートナーシップにも共通しており、憂太が新、だとすれば、いわずもがな、怨霊は旧であり、現実の死を認めない、生前への未練によって呪い化して居る、と言う事であろう。そして、新と旧との融合とは、マスターピースにも観られ、映画「ラストサムライ」にて、心を呪われたオルグレン大尉が、命を張って時間を掛け、対話の努力を重ねた、その経験によって、熟して木より落ちる果実のような到達点があるのでは無いか。それを、リアリティとして具現するのは、対極の理想であり、その部品に過ぎない美的感傷とか、気の充実にあるのでは無いか。だから、本作における新と旧とは、必ずしもミスマッチでは無いのであって、むしろ、その融合こそが新たなる希望、だと言えるのでは無いだろうか。