歴史
2022年11月30日 18:36
イギリスの民謡の中の英雄と言うか。義賊として、分配目的での盗みとか、国軍を相手に大活躍をした「お花畑」での、花を摘むあり様をみずみずしく描くよりも、少し違った角度での人物造形である。王とは対立するものの、それが、テイクでは無く、ギブであって、法治主義に基づく英国社会を提唱した、先進的な考え方で、政治的な人物として描いている。そして、歴史スペクタクルの大家たるリドリー・スコット監督のお家芸と言うか、素晴らしいアクションの個々のシークエンスによって、そうした改革に対する大小の抵抗とか、敵意を、義賊がリアリティと対峙する上で、どうやって呑んで行くか、という見物がある。
いずれにしても、これは、一種のメルヘンであって、ロビン・フッドと言う人の変わりようの無い弱者の戦術によって、「抵抗」があって、それは、自身と同じく反逆者と呼ばれた父親から受け継いだ思想であり、改革への叫びであって、二代に渡る血を流して国王を説いて、力では無く、合意の下に賢明なる王侯と国民とが共生する理想郷ではある。
ただ、留意したいのは、そうした合理性のある思想とは、ただ、理想を掲げるだけでなく、リアリズムを知って居て、更には、社会がそういう大勢に無くて、異端者だとしても、英雄とは、必ず周囲には影響を与えるものであって、本流の騎士道たる選ばれた人々というのは、自らがそうした英雄になろうとしたのであって、それゆえに、誤った十字軍という宗教戦争に、国の為に従軍すらしたのであろう。だから、ロビンは王侯というヒトの代表を見切って居るのであって、だが、その叛骨の一方で、自分自身の理想郷を得る為の行動力があって、実現して行く政治的な先見の明もあるのが、英雄ではあるまいか。
だから、ただ、叛乱を画している事で、乱世を煽って不安定を生み出して行く手法は、好まれないのが普通の感覚では無いか。つまり、ロビンが義賊たるゆえんとは、盗み、奪い、遊ぶばかりでは無く、自分の理想郷を得て居て、それを一円の宇宙の元に、自由と繁栄をギブ出来る有能な人物だと思われるのである。ただ、そうした自由とか競争を法の下の平等に具現し得ない愚昧な王というのは、頑固な汚点として、体制側として、ただ、史に汚名を刻んで、後世より侮蔑される主人公になるだけだと思う。
何故、イギリスのリチャード獅子心王の軍下に十字軍に遠征をして、数年来、戦いを経験した精鋭ロビンが、後継ぎのジョン王には仕えない、という判断をしたのか。そして、それは英断であったのか、それらは、ライバルフランスに対して、守勢に回っているイギリスという国をどうしたいのか。先王リチャードですら、そうしたビジョンとか道徳は無いので、帝王学が、カオスの時代に掬われているだけで、それゆえに、カオスが生き延びる為の体制保守を、いわゆる、権力者は望み続けるのであろう。
ただし、面白いのは、ロビンの美学よりも、物語や演出であって、スペクタクルの王として監督の豪腕が良く観える所ではあるのだ。彼にとっては、十字軍という大義の為の戦争は、草莽の志士の足枷であって、エルサレム界隈にまで従軍をしているし、世界中を飛び回って来た蜂のような、鳥のように、とにかく、翔んでいる人物とは、世界が狭く感じられるが、愛国者の片鱗というか、奇妙な気質として、それ以上に、面積としては狭い筈の母国に対する郷愁は、イギリスを守るという、決意によって成り立っているからである。
つまり、ロビンには、仲間達を含めて、イギリスにおける義賊としての冒険とか、理想郷の発見、そして、運命の戦争然り、愛によって清流の流れる豊穣の土地とは、数多の血を流した異国での孤独とか、戦争全般から受けた痛み、長旅で五体不満足になったとか、ダークサイドとの対峙など、多くの負の経験をも受けているし、王の帰還と共に、兵らの生還して来たならば、そうした痛みの元凶たる乱世への蠢動は、是が非でも避けるべきで、守るべき安定があるのでは無いか。
歴史スペクタルとしては、極上である。ただ、お花畑における、多数者達からの現実には空想でしかない物語の展開があって、それが、プロットの強引さからは、やむを得ない展開に過ぎないが、少数者達から夢を見たリアリティに溢れた小さな理想郷の矛盾というか。そうした分断を具現化して居たのが、戦争を先導してしまった封建時代における大きな壁に対する、率直なリアリティなのだろう。
いずれにしても、これは、一種のメルヘンであって、ロビン・フッドと言う人の変わりようの無い弱者の戦術によって、「抵抗」があって、それは、自身と同じく反逆者と呼ばれた父親から受け継いだ思想であり、改革への叫びであって、二代に渡る血を流して国王を説いて、力では無く、合意の下に賢明なる王侯と国民とが共生する理想郷ではある。
ただ、留意したいのは、そうした合理性のある思想とは、ただ、理想を掲げるだけでなく、リアリズムを知って居て、更には、社会がそういう大勢に無くて、異端者だとしても、英雄とは、必ず周囲には影響を与えるものであって、本流の騎士道たる選ばれた人々というのは、自らがそうした英雄になろうとしたのであって、それゆえに、誤った十字軍という宗教戦争に、国の為に従軍すらしたのであろう。だから、ロビンは王侯というヒトの代表を見切って居るのであって、だが、その叛骨の一方で、自分自身の理想郷を得る為の行動力があって、実現して行く政治的な先見の明もあるのが、英雄ではあるまいか。
だから、ただ、叛乱を画している事で、乱世を煽って不安定を生み出して行く手法は、好まれないのが普通の感覚では無いか。つまり、ロビンが義賊たるゆえんとは、盗み、奪い、遊ぶばかりでは無く、自分の理想郷を得て居て、それを一円の宇宙の元に、自由と繁栄をギブ出来る有能な人物だと思われるのである。ただ、そうした自由とか競争を法の下の平等に具現し得ない愚昧な王というのは、頑固な汚点として、体制側として、ただ、史に汚名を刻んで、後世より侮蔑される主人公になるだけだと思う。
何故、イギリスのリチャード獅子心王の軍下に十字軍に遠征をして、数年来、戦いを経験した精鋭ロビンが、後継ぎのジョン王には仕えない、という判断をしたのか。そして、それは英断であったのか、それらは、ライバルフランスに対して、守勢に回っているイギリスという国をどうしたいのか。先王リチャードですら、そうしたビジョンとか道徳は無いので、帝王学が、カオスの時代に掬われているだけで、それゆえに、カオスが生き延びる為の体制保守を、いわゆる、権力者は望み続けるのであろう。
ただし、面白いのは、ロビンの美学よりも、物語や演出であって、スペクタクルの王として監督の豪腕が良く観える所ではあるのだ。彼にとっては、十字軍という大義の為の戦争は、草莽の志士の足枷であって、エルサレム界隈にまで従軍をしているし、世界中を飛び回って来た蜂のような、鳥のように、とにかく、翔んでいる人物とは、世界が狭く感じられるが、愛国者の片鱗というか、奇妙な気質として、それ以上に、面積としては狭い筈の母国に対する郷愁は、イギリスを守るという、決意によって成り立っているからである。
つまり、ロビンには、仲間達を含めて、イギリスにおける義賊としての冒険とか、理想郷の発見、そして、運命の戦争然り、愛によって清流の流れる豊穣の土地とは、数多の血を流した異国での孤独とか、戦争全般から受けた痛み、長旅で五体不満足になったとか、ダークサイドとの対峙など、多くの負の経験をも受けているし、王の帰還と共に、兵らの生還して来たならば、そうした痛みの元凶たる乱世への蠢動は、是が非でも避けるべきで、守るべき安定があるのでは無いか。
歴史スペクタルとしては、極上である。ただ、お花畑における、多数者達からの現実には空想でしかない物語の展開があって、それが、プロットの強引さからは、やむを得ない展開に過ぎないが、少数者達から夢を見たリアリティに溢れた小さな理想郷の矛盾というか。そうした分断を具現化して居たのが、戦争を先導してしまった封建時代における大きな壁に対する、率直なリアリティなのだろう。
2022年09月29日 17:36
アメリカ国民の中でも、最大の反逆児とされるマルコムX。何が彼を英雄へと駆り立てたのか。それとも、人であったのか。そのカリスマの真相は、ストーリーの中で明らかにされて行く。どん底を味わった青春時代。熱心な牧師であり、黒人の為に働こうとした活動家の父は殺されているが、これに対して、幼少児であったマルコムは何を想っただろうか。彼は現実に絶望し、また、父とは違う自分なりの道を歩もうと四苦八苦する。果たして、マルコムはどうやって、英雄「X氏」に成ったのだろうか。
だが、彼の生き様から想われる所というのは、彼は、必ずしも、ただの不器用な不良少年では無く、悪い中にも愛されるべき気質があるのであって、そこを、見抜いた人々、大人達との出逢いに、プライドの高い彼は、徐々に気付いて行く。むしろ、彼は才のある黒人であるがゆえに、職業差別などがある現実に直面して、その中で、理想というリアリティに適応しただけでは無いか。つまり、リアリティとは戦い方の変更であり、新たなシフトを敷くという事であり、その意味で、彼の生き方は正しいと言えるのでは無いだろうか。
何故なら、彼は孤児院から始まって、鉄道の給仕、ギャング、泥棒に10年の刑務所行き、という、あらゆるどん底を知って居るからであり、これを、若さ故の剛腕だけで乗り切ったという事では無いし、力ありきゆえに、より、厳しく暗い闇に堕ちる事があるからである。彼は、何によって自分が生き延びる事が出来るか、を、慎重に本能によって見極めて居るように思われるのである。だから、厳しい渡世も、マルコムにとっては揺りかごであり、彼は、父親を白人過激派によって殺され、福を奪われた事によって、確かに一度は白人全体を恨んだ。
それは、イスラム教との出逢い、によって、熱心なムスリムとなる事で、正論のアジールがあった事で、彼は、ギャングスターの大物にも、危険なテロリストにも成らずに、生き場を得る事に成ったのでは無いか。この根底には、社会の多様性があり、シェルターとなる明確な安全地帯も必要であろうが、それよりも、アクティブに、ジャイアントに挑む事が出来る対象が居て、それに対して、フェアプレーによって対峙するチャンスを得た事が、彼を救ったのでは無いだろうか。つまり、巨星というのは、自他を磨き上げる対象であり、ここに、存在性を軽んじる事は、例えば、モラルの不毛を招く意味に成る。
だからこそ、マルコムは自らが大きな存在に成ろうとしたのであって、ここに置いて、ストイックで頑迷潔癖である宗教家の強靭さが、心に響き、また、大きなアイコンとなって、腑に落ちるのである。彼にとっての目標とは、遺伝子的にジャイアントそのものであって、手負いのビーストでは無いし、また、それが立証される事に、パトロンと言う意味で恩人でもあるギャングのボス、アーチーは彼にとっての目指すべき巨星では無かったのでは無いか。
彼は、欲望を否定するような聖人では無かったし、宗教性は父が牧師である、というだけで、彼は、唯一人の自分自身には正直に生きて居たと思う。この、英雄色を好むは、多くの人物に共通するものであって、また、何を信じているか、も、憎んでいるかも、大事の前では些事では無かろうか。常識的だとか、モラルが才人の生き様を投影して、スクリーンに映し出す事は出来るだろう。だが、現実に存在したXと、理想の世界で描写されるマルコムとは、唯一人であり、その個こそが、銀幕世界を超える大銀河の漂流者ではあるまいか。
だから、彼は、ストーリーの中で美化されているとは思わないし、だが一方で、彼の遍歴からの劇的な変化とか成長といったものも、リアリティに対応した行動の産物であって、その全てが、聖人君子のような善意によるもの、とは、さほど真実と思われないのである。つまり、彼にとっての「生きる」の意味とは、英雄の道、であって、その過激派とも観える活動を通して、自然発生的に起こったような、善と悪。つまり、彼は邪魔立てするに過ぎないものは諦観して、華麗にスルーしつつ、その受容者となるべく器があってこその、Xでは無いだろうか。それが、彼の異常なる愛と遍歴の拠り所では無いだろうか。
だが、彼の生き様から想われる所というのは、彼は、必ずしも、ただの不器用な不良少年では無く、悪い中にも愛されるべき気質があるのであって、そこを、見抜いた人々、大人達との出逢いに、プライドの高い彼は、徐々に気付いて行く。むしろ、彼は才のある黒人であるがゆえに、職業差別などがある現実に直面して、その中で、理想というリアリティに適応しただけでは無いか。つまり、リアリティとは戦い方の変更であり、新たなシフトを敷くという事であり、その意味で、彼の生き方は正しいと言えるのでは無いだろうか。
何故なら、彼は孤児院から始まって、鉄道の給仕、ギャング、泥棒に10年の刑務所行き、という、あらゆるどん底を知って居るからであり、これを、若さ故の剛腕だけで乗り切ったという事では無いし、力ありきゆえに、より、厳しく暗い闇に堕ちる事があるからである。彼は、何によって自分が生き延びる事が出来るか、を、慎重に本能によって見極めて居るように思われるのである。だから、厳しい渡世も、マルコムにとっては揺りかごであり、彼は、父親を白人過激派によって殺され、福を奪われた事によって、確かに一度は白人全体を恨んだ。
それは、イスラム教との出逢い、によって、熱心なムスリムとなる事で、正論のアジールがあった事で、彼は、ギャングスターの大物にも、危険なテロリストにも成らずに、生き場を得る事に成ったのでは無いか。この根底には、社会の多様性があり、シェルターとなる明確な安全地帯も必要であろうが、それよりも、アクティブに、ジャイアントに挑む事が出来る対象が居て、それに対して、フェアプレーによって対峙するチャンスを得た事が、彼を救ったのでは無いだろうか。つまり、巨星というのは、自他を磨き上げる対象であり、ここに、存在性を軽んじる事は、例えば、モラルの不毛を招く意味に成る。
だからこそ、マルコムは自らが大きな存在に成ろうとしたのであって、ここに置いて、ストイックで頑迷潔癖である宗教家の強靭さが、心に響き、また、大きなアイコンとなって、腑に落ちるのである。彼にとっての目標とは、遺伝子的にジャイアントそのものであって、手負いのビーストでは無いし、また、それが立証される事に、パトロンと言う意味で恩人でもあるギャングのボス、アーチーは彼にとっての目指すべき巨星では無かったのでは無いか。
彼は、欲望を否定するような聖人では無かったし、宗教性は父が牧師である、というだけで、彼は、唯一人の自分自身には正直に生きて居たと思う。この、英雄色を好むは、多くの人物に共通するものであって、また、何を信じているか、も、憎んでいるかも、大事の前では些事では無かろうか。常識的だとか、モラルが才人の生き様を投影して、スクリーンに映し出す事は出来るだろう。だが、現実に存在したXと、理想の世界で描写されるマルコムとは、唯一人であり、その個こそが、銀幕世界を超える大銀河の漂流者ではあるまいか。
だから、彼は、ストーリーの中で美化されているとは思わないし、だが一方で、彼の遍歴からの劇的な変化とか成長といったものも、リアリティに対応した行動の産物であって、その全てが、聖人君子のような善意によるもの、とは、さほど真実と思われないのである。つまり、彼にとっての「生きる」の意味とは、英雄の道、であって、その過激派とも観える活動を通して、自然発生的に起こったような、善と悪。つまり、彼は邪魔立てするに過ぎないものは諦観して、華麗にスルーしつつ、その受容者となるべく器があってこその、Xでは無いだろうか。それが、彼の異常なる愛と遍歴の拠り所では無いだろうか。
2021年02月21日 18:05
ドイツに生まれたユダヤ人哲学者として、ハンナ・アーレントはナチスの残党であるアイヒマン裁判と同時代を生きて、その取材と論評を請け負う。巨悪の権化とされるアイヒマンの凡庸な本質を見抜く。国家権力からすれば、アイヒマン然り、ナチ党員というのは、ホロコーストを起こした極悪人である方が分かり易い。だが、それを敢えて普通の人間だった、と論じ切るハンナは、ナチに協力したユダヤ人をすら公正に論評するが、それは、一般人からすれば分かり辛い善悪のカオスにして、裏切りとも取れる理論であった。同胞としてはナチに協力したユダヤ人などは居て欲しくない。彼女の時代とは、今だ冷戦時代であり、イスラエルにてモサドに捕縛されたアイヒマンの裁判が進めれられた。果たして、ハンナはユダヤの裏切り者としての汚名を晴らし、自由と言論のために道を切り開けるのか。
最初、中年のハンナはパートーナーのハインリヒにも恵まれて、子供は居ないが幸福な人生を送っているし、彼女の周囲にも、ごく平凡な中流階級の友人達に囲まれている。これは、時代は1960年代のイスラエルなるも、戦前と言うのはファシズムという歪な全体主義的思想によって形成された、抜きん出た才能の時代でもあった。だが、それは、突如として現れる優れた指導者の個人的力量とリーダーシップに依存するという意味では、悪に荷担する行為には思考停止と社会常識の衰退があると思う。つまり、当たり前だと思われている事が正義であるという事である。
アイヒマン裁判において、ハンナは悪の権化とされて来た被告人を再評価する。それは、現実としてナチによるホロコーストの忌まわしい記憶とヒトラーの大犯罪における、ネガティブな負のイメージをアイヒマンが一身に背負っているという事でもある。つまり、アイヒマンとはスケールの大きな闇を抱えた大物であるべきだ、と言うのが、多数のユダヤ人、そして、世界の一般国民が抱き、そうしたい、と考えている常識だという事である。ハンナの論評とは、そうしたアイヒマンに対する、更には彼という
一個の被告人を通した、ナチに対する新解釈ではあるまいか。だから、物議を醸すのだが、歴史的な反省にして、また、公正な視点と言う意味では、ハンナの新解釈と言うのは、喩え、ユダヤ人のロビイストが自分達に都合の良い論評を重ねて、アイヒマンを巨悪に堕とした処で、また、別の国、異なる利害を抱える外国人の批評家なりが、提唱する可能性があるもので、ハンナの新解釈が国益に叛くただの異端児だ、という事では無いだろう。
だから、ハンナが勇敢にもアイヒマンの擁護とも取られかねない前例無き新解釈を唱えたとしても、それによって、彼女は一哲学者から女傑への道を自ら切り開いた、と言えるのだ。それは、国家単位での栄誉にも言えることであり、大国を目指した国が権力を持てばろくでもないが、実務と功績を重ねた国が権力を持てば大国として尊重される事になる、という真理に通じるものがある、と思う。つまり、ハンナは、自分自身の仕事として与えられた任務をこなして、試行錯誤を重ねて、新たな論評を提唱した事によって、気付いた時には女傑に成って居たという事では無いか。
だから、ハンナの周囲は、アイヒマン裁判を簡単に終える事を望む、平凡な人々であり、それはハインリヒにも言える事であり、それを気付けば隣にいつも居たハンナが女傑となって世に憚っている事には戸惑うばかりなのである。普通ならば、仕事というのはパートナーや家族、身近な周囲のためにするものだ。それを、国家のための仕事にする事によって、レガシーを遺そうとしている。それは、二度と戦争の惨禍を起こさないという決意であり、博愛主義と言うのは、戦後日本人にも備わって居る、正常な感情であるものの、ハンナは賢者としてナチへの真理を突き詰めて、思考を重ねた結果として、やはり、平和の良さを再認識したという事であり、この彼女の知的サイクルが、一般人としての生活や社交界を満喫する、対極のハインリヒの側の緩やかなストーリーを背景において凌駕して居るのでは無いか。
つまり、パートナーとは求めるものとか、愛の形によって自分自身が臨機応変に応えて行くべき絆であるが、それが、ハンナは女傑としての目覚めと成長、それも、アイヒマン裁判の論評という、酷薄な仕事を通して自分自身の秘められた才能や資質を知る事によって、止まらない高速列車のように、歴史という法廷を貫通するエネルギーを発揮するのである。アイヒマンはイスラエル600万人の原告から厳しく訴追され、裁かれる身にあるが、ハンナもまた歴史の法廷に身を置いており、その公正の証人にして、語り部としての大いなる仕事を、自らの意志で行き着いたのである。つまり、これは、エルサレムを「約束の地」として、個の意志が先達との約束を本物として果たした、と言う未来を見抜いた次世代がハンナであった、という事ではあるまいか。
アイヒマン裁判へのユダヤのヘイトと怒りが吹き荒れる当時においては、何処まで行っても、ハンナはマイノリティである。だが、そんな表面的な根拠だけで異端として、新解釈をこき下ろして良いものだろうか。
最初、中年のハンナはパートーナーのハインリヒにも恵まれて、子供は居ないが幸福な人生を送っているし、彼女の周囲にも、ごく平凡な中流階級の友人達に囲まれている。これは、時代は1960年代のイスラエルなるも、戦前と言うのはファシズムという歪な全体主義的思想によって形成された、抜きん出た才能の時代でもあった。だが、それは、突如として現れる優れた指導者の個人的力量とリーダーシップに依存するという意味では、悪に荷担する行為には思考停止と社会常識の衰退があると思う。つまり、当たり前だと思われている事が正義であるという事である。
アイヒマン裁判において、ハンナは悪の権化とされて来た被告人を再評価する。それは、現実としてナチによるホロコーストの忌まわしい記憶とヒトラーの大犯罪における、ネガティブな負のイメージをアイヒマンが一身に背負っているという事でもある。つまり、アイヒマンとはスケールの大きな闇を抱えた大物であるべきだ、と言うのが、多数のユダヤ人、そして、世界の一般国民が抱き、そうしたい、と考えている常識だという事である。ハンナの論評とは、そうしたアイヒマンに対する、更には彼という
一個の被告人を通した、ナチに対する新解釈ではあるまいか。だから、物議を醸すのだが、歴史的な反省にして、また、公正な視点と言う意味では、ハンナの新解釈と言うのは、喩え、ユダヤ人のロビイストが自分達に都合の良い論評を重ねて、アイヒマンを巨悪に堕とした処で、また、別の国、異なる利害を抱える外国人の批評家なりが、提唱する可能性があるもので、ハンナの新解釈が国益に叛くただの異端児だ、という事では無いだろう。
だから、ハンナが勇敢にもアイヒマンの擁護とも取られかねない前例無き新解釈を唱えたとしても、それによって、彼女は一哲学者から女傑への道を自ら切り開いた、と言えるのだ。それは、国家単位での栄誉にも言えることであり、大国を目指した国が権力を持てばろくでもないが、実務と功績を重ねた国が権力を持てば大国として尊重される事になる、という真理に通じるものがある、と思う。つまり、ハンナは、自分自身の仕事として与えられた任務をこなして、試行錯誤を重ねて、新たな論評を提唱した事によって、気付いた時には女傑に成って居たという事では無いか。
だから、ハンナの周囲は、アイヒマン裁判を簡単に終える事を望む、平凡な人々であり、それはハインリヒにも言える事であり、それを気付けば隣にいつも居たハンナが女傑となって世に憚っている事には戸惑うばかりなのである。普通ならば、仕事というのはパートナーや家族、身近な周囲のためにするものだ。それを、国家のための仕事にする事によって、レガシーを遺そうとしている。それは、二度と戦争の惨禍を起こさないという決意であり、博愛主義と言うのは、戦後日本人にも備わって居る、正常な感情であるものの、ハンナは賢者としてナチへの真理を突き詰めて、思考を重ねた結果として、やはり、平和の良さを再認識したという事であり、この彼女の知的サイクルが、一般人としての生活や社交界を満喫する、対極のハインリヒの側の緩やかなストーリーを背景において凌駕して居るのでは無いか。
つまり、パートナーとは求めるものとか、愛の形によって自分自身が臨機応変に応えて行くべき絆であるが、それが、ハンナは女傑としての目覚めと成長、それも、アイヒマン裁判の論評という、酷薄な仕事を通して自分自身の秘められた才能や資質を知る事によって、止まらない高速列車のように、歴史という法廷を貫通するエネルギーを発揮するのである。アイヒマンはイスラエル600万人の原告から厳しく訴追され、裁かれる身にあるが、ハンナもまた歴史の法廷に身を置いており、その公正の証人にして、語り部としての大いなる仕事を、自らの意志で行き着いたのである。つまり、これは、エルサレムを「約束の地」として、個の意志が先達との約束を本物として果たした、と言う未来を見抜いた次世代がハンナであった、という事ではあるまいか。
アイヒマン裁判へのユダヤのヘイトと怒りが吹き荒れる当時においては、何処まで行っても、ハンナはマイノリティである。だが、そんな表面的な根拠だけで異端として、新解釈をこき下ろして良いものだろうか。
2020年05月30日 11:22
自由を求める人々が、他者の主張や、あらゆる事に対する自由を認めるとは限らない。国家や社会というのは、学術の正しさよりも、力の闘争によって動く事がある。エジプトは、ローマの属州の中でも最有力であり、また、東西に分裂した西ローマよりも長寿であった事が知られている。その繁栄がローマを経済的に支え、食料庫となり、また、カルタゴなど他国の勃興に対する南のアフリカ大陸への備えとなった。キリスト教を国教とする、というのは、エジプトの信仰や学問、表現の自由を明け渡すという事でもあり、それゆえ、エジプトの知識人達は、強大なキリスト教に国家の信仰に対する抵抗感を捨て切れない。若き女性学者ヒュパティアは、学術的探求心に燃えるも、その頑な、かつ先見性に溢れた学説を提唱するがゆえに、権力からは睨まれるのであった。ローマは衰退の現実から逃げる為か、エジプトへのハードグリップを強めて行く。
学術や理論の正しさでは、ヒュパティアに比肩する学者は非常に稀であり、それゆえ、ローマからすれば、正論の人というのは、権力への忖度にとっては邪魔な存在である。知識人が、正論を唱える良心となり、エジプトの論壇を治めて来た事を思えば、ローマの行為は、焚書に等しい弾圧であり、キリスト教の浸透というのは、学者達の立場を危うくするものでもある。最強硬派のキュリロスはどうであろうか。彼は、街頭での演説を通したエジプトの民衆の不満を煽っているが、そうした雄弁たり得るのも、学や見識があっての事であろう。だが、イデオロギーが人を動かす事を思えば、キリスト教勢力がエジプトにおいて、向かって行く方向を理解しており、それを、逆手に取って、布教活動を進めて行くのである。
むしろ、ヒュパティアは、弾圧される学者として、学術的探求心に基づく、その慈愛の心において、イエス・キリスト、あるいは、ジャンヌ・ダルクといった聖女のような人物である。ヘイトに駆られ、イデオロギーに傾いたキュリロスの手法が、エジプトの民衆の心を掴み、時代の寵児となって行く。だから、乱世において信仰的カリスマとは、象徴的な聖人では無く、理論や議論に強い狂信者が、信仰の対象に成り得るのである。つまり、ヒュパティアが生きる為には、治世による政治の安定が必須であり、それは、学者や知識人の運命にも広く通じて居る事ではある。
知性が重んじられる社会というのは、治世における平和なのであって、人が殺し奪う事を常とする乱世では無いのだ。
だから、エジプトの責務というのは、国家として、対外的な自衛能力や治安維持能力を守る事であって、ローマの前では豊穣な大国であっても、小国として必要な軍事的能力を持たねば為らない。最も御し難い敵とは、当時においては、フン族であったり、ゲルマン民族のゴート族、ヴァンダル人などの流入であったが、内憂外患、国内の狂信の流れというのも、国家の治安維持を損ねるものがある。だから、エジプトはエジプトらしく、国家の純粋な信仰を保つ事だったのではあるまいか。
図書館への破壊と焚書行為というのは、知識人が言論の自由を守り、政府に提言する知的源泉である事を思えば、その冷遇というのは、エジプトの主権を自ら放棄する振舞いである。なぜなら、軍事小国が、大国に伍して行くには、経済だけでなく、学術的探求心によって、対抗的な理論を提唱して、大国はどうあるべきか、という、学問や心の領域において、大国への提唱が為されるべきである。つまり、学術的探求心を奪い弾圧する行為というのは、宗主国の統治政策が闇に堕ちた、という事でもある。だから、図書館に押し寄せる、キリスト教徒の狂信的兵隊というのは、原理主義者のようであり、また、それを防ぐエジプトの学者や市民たちもまた、侵略を防いでいるのであって、軍団や兵器の活躍は無いが、実質的なローマとの戦争である。
キュリロスは、自身がダークサイドに堕ちている事を理解して居ない。それは、偉大な預言者を処刑するという誤りを犯した愚かな人々と同じであり、光と闇というのは、属性であり、決して偽善によって拭い難いものであるが、その裁きというのは、しばしば国家権力によって書き換えられて来た。つまり、正史における国家側に味方した、隷属した人士を光として、対抗した者を闇とするのは、歴史を冷静かつ公正に見渡す能力は簡単には身に付かず、為り難く、ヒュパティアは身に付けているという事でもある。それゆえ、学術的探求心や技術革新に繋がる研究への干渉こそが、闇と言えよう。
ヒュパティアについて言える事は、頑なでストイックに過ぎた事であり、愛や欲望に率直なのも、人間らしく生きて行く、自然な手法だったのではないか。知識人が重んじられるのは、政治の安定、平和な世の中でしかない、と思う。
学術や理論の正しさでは、ヒュパティアに比肩する学者は非常に稀であり、それゆえ、ローマからすれば、正論の人というのは、権力への忖度にとっては邪魔な存在である。知識人が、正論を唱える良心となり、エジプトの論壇を治めて来た事を思えば、ローマの行為は、焚書に等しい弾圧であり、キリスト教の浸透というのは、学者達の立場を危うくするものでもある。最強硬派のキュリロスはどうであろうか。彼は、街頭での演説を通したエジプトの民衆の不満を煽っているが、そうした雄弁たり得るのも、学や見識があっての事であろう。だが、イデオロギーが人を動かす事を思えば、キリスト教勢力がエジプトにおいて、向かって行く方向を理解しており、それを、逆手に取って、布教活動を進めて行くのである。
むしろ、ヒュパティアは、弾圧される学者として、学術的探求心に基づく、その慈愛の心において、イエス・キリスト、あるいは、ジャンヌ・ダルクといった聖女のような人物である。ヘイトに駆られ、イデオロギーに傾いたキュリロスの手法が、エジプトの民衆の心を掴み、時代の寵児となって行く。だから、乱世において信仰的カリスマとは、象徴的な聖人では無く、理論や議論に強い狂信者が、信仰の対象に成り得るのである。つまり、ヒュパティアが生きる為には、治世による政治の安定が必須であり、それは、学者や知識人の運命にも広く通じて居る事ではある。
知性が重んじられる社会というのは、治世における平和なのであって、人が殺し奪う事を常とする乱世では無いのだ。
だから、エジプトの責務というのは、国家として、対外的な自衛能力や治安維持能力を守る事であって、ローマの前では豊穣な大国であっても、小国として必要な軍事的能力を持たねば為らない。最も御し難い敵とは、当時においては、フン族であったり、ゲルマン民族のゴート族、ヴァンダル人などの流入であったが、内憂外患、国内の狂信の流れというのも、国家の治安維持を損ねるものがある。だから、エジプトはエジプトらしく、国家の純粋な信仰を保つ事だったのではあるまいか。
図書館への破壊と焚書行為というのは、知識人が言論の自由を守り、政府に提言する知的源泉である事を思えば、その冷遇というのは、エジプトの主権を自ら放棄する振舞いである。なぜなら、軍事小国が、大国に伍して行くには、経済だけでなく、学術的探求心によって、対抗的な理論を提唱して、大国はどうあるべきか、という、学問や心の領域において、大国への提唱が為されるべきである。つまり、学術的探求心を奪い弾圧する行為というのは、宗主国の統治政策が闇に堕ちた、という事でもある。だから、図書館に押し寄せる、キリスト教徒の狂信的兵隊というのは、原理主義者のようであり、また、それを防ぐエジプトの学者や市民たちもまた、侵略を防いでいるのであって、軍団や兵器の活躍は無いが、実質的なローマとの戦争である。
キュリロスは、自身がダークサイドに堕ちている事を理解して居ない。それは、偉大な預言者を処刑するという誤りを犯した愚かな人々と同じであり、光と闇というのは、属性であり、決して偽善によって拭い難いものであるが、その裁きというのは、しばしば国家権力によって書き換えられて来た。つまり、正史における国家側に味方した、隷属した人士を光として、対抗した者を闇とするのは、歴史を冷静かつ公正に見渡す能力は簡単には身に付かず、為り難く、ヒュパティアは身に付けているという事でもある。それゆえ、学術的探求心や技術革新に繋がる研究への干渉こそが、闇と言えよう。
ヒュパティアについて言える事は、頑なでストイックに過ぎた事であり、愛や欲望に率直なのも、人間らしく生きて行く、自然な手法だったのではないか。知識人が重んじられるのは、政治の安定、平和な世の中でしかない、と思う。
2020年05月03日 17:00
フランス王ルイ14世の数奇な運命を、ダルタニアンとの秘密、英雄三銃士の献身、生き別れた双子の王弟フィリップとの確執を通して、骨肉の争いの物語を描く。一族同士での権力闘争というのは、醜いものである。如何に王が美服と宝石で身を小綺麗に着飾っても、その本質が悪であれば、悪逆非道のフランス王として、千年の汚名を遺すであろう。これは、王の秘密に関わる、静かなクーデターの物語である。
今だ隊長職にあるダルタニアンはともかく、半ば引退した三銃士は、酒色に耽り、放逸な生活を欲しいままにしている。だが、英雄とはそうした、色を好むという気質は自然なものであるだけでなく、支配こそが、英雄の条件でもある。つまり、欲望を欲しいままにする、それも、両性の同意があっての事であれば、それは恋愛関係と言う事に為る。国家とは理想の蔭に欲望や権力、現実の暮らしがあるから、そうした、二面性のある界隈を治められるのは、やはり、世情に通じており、その競争の中で、権力の威厳を示せる強者が必要であり、それが、歴戦の三銃士だと言う事である。
そして、ルイ14世に、生き別れた双子の弟が居た、と言う事は、必然的に、悪逆非道のフランス王の権力を危うくすると言う事でもある。つまり、双子だから、王弟フィリップは、鉄仮面を被らされて、幽閉されていたのであって、そのルサンチマンは、青春を奪われた事、全てが不自由で、満足な人生を送れなかった事と言った、あらゆるヘイトに波及してもおかしくない。なぜなら、王弟の苦難の上には、豪華絢爛な生活を欲しいままにして、尚、その恵まれた境遇をして暴君たる兄王の跋扈があるからである。
だが、フィリップはそうした私怨を兄王には抱かない。これは、双子でありながら、大きな違いであり、その王としての明暗が分かれたのは、ルイが天上の楽園で甘やかされて育ち、周囲の人間たちの痛みを分かろうとしなかった事であり、これをもって、どんなに素晴らしい逸材でも、教育の受け止め方や、思想の師の存在如何、あるいは、そうした先人達に対して、謙虚に直言を受けて、健強に育つ事が出来るか、と言う事にあろう。王としてルイは失敗作となったが、その蔭で青春を奪われ、長き苦難に塗れたフィリップは、そのヘイトを持たない、光の存在だと言う事が出来よう。そして、その遍歴や経験が人を変えないという意味では、遊びまくって弛緩し切ったアラミス、アトス、ポルトスも、いざとなれば、英雄たる資質を如何なく発揮する頼れる強者ではある。
王子たる双子の内、一人を王子として、もう一人を捨て子とするというのは、父王ルイ13世の大失策と言える。だが、人を見る眼の無さと言っても、赤子であったからしょうがないが、いずれにしても、その人を見る慧眼には、大きな見込み違いがあった事は確かである。そして、三銃士は、その王子ルイが育つのを現役の隊士として仕えながら、間近で見て来た。つまり、そうした長い時間を共にした歴史というのは、ルイに対して、ダルタニアンらに後見役として、父親に近い、深い愛情と忠誠心を培わせたのでは無いか。
従って、その見捨てられた王弟であるフィリップというのは、その捨て子とされた悲運を受けて、ダルタニアンと三銃士が主導する形で、静かなクーデターを構想する事に為る。それは、戦争によって、国家の体制を危機に陥れる革命では無く、ダルタニアンと三銃士ら指導層のみによって為される、穏便な手法にして、最も喪われる血の少ない権力の交代劇ではあるまいか。それは、一握りの志士による平和的な「維新」である、と言う事が出来よう。
だから、そうした王の代替えに積極的に関わると言う事は、ダルタニアンと三銃士が、王に仕える忠烈の士であり、絶対権力を垣間見るのと同時に、個人的なバックボーンとして、王子らを父親代わりに見守って来た、という事でもある。だから、これは、主君にして、我が子同然でもあるからこそ、悪逆非道のルイを覆っていた王の権威がはぎとられる事を受けて、人の子として王の威厳がミクロ化された一瞬の隙を突いたという、一種の魔術的手法によるクーデターだと言える。そして、暴君の闇に対して光と言えるフィリップというのは、権威も威厳も纏っておらず、ただ、彼の高貴たる資質と王族の血を証明するものは、彼一個の資質によるものでしか無いのだ。
つまり、鉄仮面として囚われの身にあった事から、王の器と言っても、弱く小さな一個の存在でしかなく、その薄弱の道を導かれるままに、ダルタニアンと三銃士という、信頼出来る股肱に従ったのである。権力を知らぬ王というのは、最早、王では無く、その特別さというのは、自分自身に宿るものでしか無い。ルイが君臨し続けて、フランスが得られるものは、一個の人間の栄達にすぎないが、フィリップの台頭によって得られるものには、多くの人間の生命が懸かっている。この股肱の臣らの造反と、兄弟に対する母太后の深い慈愛、造反を招いた自身の至らなさをして、尚、悪逆非道のフランス王は変わる事が無い。人と人との対決が、コロシアムでは無く、宮廷という大舞台で演じられる事、ヘイトの応酬は無くとも、華やぎに満ちた彼らの闘争の物語であった。
今だ隊長職にあるダルタニアンはともかく、半ば引退した三銃士は、酒色に耽り、放逸な生活を欲しいままにしている。だが、英雄とはそうした、色を好むという気質は自然なものであるだけでなく、支配こそが、英雄の条件でもある。つまり、欲望を欲しいままにする、それも、両性の同意があっての事であれば、それは恋愛関係と言う事に為る。国家とは理想の蔭に欲望や権力、現実の暮らしがあるから、そうした、二面性のある界隈を治められるのは、やはり、世情に通じており、その競争の中で、権力の威厳を示せる強者が必要であり、それが、歴戦の三銃士だと言う事である。
そして、ルイ14世に、生き別れた双子の弟が居た、と言う事は、必然的に、悪逆非道のフランス王の権力を危うくすると言う事でもある。つまり、双子だから、王弟フィリップは、鉄仮面を被らされて、幽閉されていたのであって、そのルサンチマンは、青春を奪われた事、全てが不自由で、満足な人生を送れなかった事と言った、あらゆるヘイトに波及してもおかしくない。なぜなら、王弟の苦難の上には、豪華絢爛な生活を欲しいままにして、尚、その恵まれた境遇をして暴君たる兄王の跋扈があるからである。
だが、フィリップはそうした私怨を兄王には抱かない。これは、双子でありながら、大きな違いであり、その王としての明暗が分かれたのは、ルイが天上の楽園で甘やかされて育ち、周囲の人間たちの痛みを分かろうとしなかった事であり、これをもって、どんなに素晴らしい逸材でも、教育の受け止め方や、思想の師の存在如何、あるいは、そうした先人達に対して、謙虚に直言を受けて、健強に育つ事が出来るか、と言う事にあろう。王としてルイは失敗作となったが、その蔭で青春を奪われ、長き苦難に塗れたフィリップは、そのヘイトを持たない、光の存在だと言う事が出来よう。そして、その遍歴や経験が人を変えないという意味では、遊びまくって弛緩し切ったアラミス、アトス、ポルトスも、いざとなれば、英雄たる資質を如何なく発揮する頼れる強者ではある。
王子たる双子の内、一人を王子として、もう一人を捨て子とするというのは、父王ルイ13世の大失策と言える。だが、人を見る眼の無さと言っても、赤子であったからしょうがないが、いずれにしても、その人を見る慧眼には、大きな見込み違いがあった事は確かである。そして、三銃士は、その王子ルイが育つのを現役の隊士として仕えながら、間近で見て来た。つまり、そうした長い時間を共にした歴史というのは、ルイに対して、ダルタニアンらに後見役として、父親に近い、深い愛情と忠誠心を培わせたのでは無いか。
従って、その見捨てられた王弟であるフィリップというのは、その捨て子とされた悲運を受けて、ダルタニアンと三銃士が主導する形で、静かなクーデターを構想する事に為る。それは、戦争によって、国家の体制を危機に陥れる革命では無く、ダルタニアンと三銃士ら指導層のみによって為される、穏便な手法にして、最も喪われる血の少ない権力の交代劇ではあるまいか。それは、一握りの志士による平和的な「維新」である、と言う事が出来よう。
だから、そうした王の代替えに積極的に関わると言う事は、ダルタニアンと三銃士が、王に仕える忠烈の士であり、絶対権力を垣間見るのと同時に、個人的なバックボーンとして、王子らを父親代わりに見守って来た、という事でもある。だから、これは、主君にして、我が子同然でもあるからこそ、悪逆非道のルイを覆っていた王の権威がはぎとられる事を受けて、人の子として王の威厳がミクロ化された一瞬の隙を突いたという、一種の魔術的手法によるクーデターだと言える。そして、暴君の闇に対して光と言えるフィリップというのは、権威も威厳も纏っておらず、ただ、彼の高貴たる資質と王族の血を証明するものは、彼一個の資質によるものでしか無いのだ。
つまり、鉄仮面として囚われの身にあった事から、王の器と言っても、弱く小さな一個の存在でしかなく、その薄弱の道を導かれるままに、ダルタニアンと三銃士という、信頼出来る股肱に従ったのである。権力を知らぬ王というのは、最早、王では無く、その特別さというのは、自分自身に宿るものでしか無い。ルイが君臨し続けて、フランスが得られるものは、一個の人間の栄達にすぎないが、フィリップの台頭によって得られるものには、多くの人間の生命が懸かっている。この股肱の臣らの造反と、兄弟に対する母太后の深い慈愛、造反を招いた自身の至らなさをして、尚、悪逆非道のフランス王は変わる事が無い。人と人との対決が、コロシアムでは無く、宮廷という大舞台で演じられる事、ヘイトの応酬は無くとも、華やぎに満ちた彼らの闘争の物語であった。