花澤香菜
2022年12月06日 14:11
どうにかして、魔法を解く方法は無いものか、ぽつりと空間に降り立った不思議なドア。それを巡っての冒険で、女子高生、岩戸鈴芽と宗像草太との出逢い、巡礼の旅の結果、見付け出した唯一の処方箋はドアを閉めて鍵を懸ける事であった。嘘のような青春SF映画。行ってみれば、架空の物語ではあるものの、日本にあるいくつものドアは廃墟の中にあって、秘密であり結晶のようだが、その秘密を解いて戸締りをするのは、誰かがやらねばならない仕事でもあった。ドアの「閉じ師」であり、陰陽師のような古来からの専門家である草太と共に、謎の猫ダイジンを追い掛けての旅が始まる。
いくつものドアは、思わせぶりであり、誘って居るような不思議な魅力がある。聖なる場であり、とても悪いものとか、そのオーラが漂うような場には観えない。ドアの秘密が、その向こう側にあるのか、こちら側にあるのか、確かなのは、ドアの謎は、最初の鈴芽が暮らす九州の田舎町の、始まりの地、からだけでは観えて来ないという事である。日本古来の存在と言うか、独自の新解釈で聖なるものを捉え直して、可愛くデフォルメして居る背景には、彼らの旅が巡礼であって、それが堅物なだけにならない理由とは、とりもなおさず、草太自身のデフォルメであり、椅子になる事なのであろう。
ここにおいて、草太とダイジンとの追い掛けっ子が、「トイストーリー」のようであり、これは、はっきりと若者や家族層をターゲットに捉えている事がはっきりと分かる。日本の古い聖なる存在、それと、新しい物語を作る事で、今の地域が生きる場となり、その中にあるサークルとか、コミュニティとか、仕事を通した絆がそうなるかも知れない。鈴芽達が出逢う九州のみならず、遠い本土の街の人々、縁があった間柄の中には、何処かに秘密のドアがある、という事を示唆しており、日本を踏破して行くロードムービーであるのと同時に、大宇宙的な普遍性を秘めたSF物語である、という事である。
ドアが何処に繋がっているのか、それが、無限の宇宙というよりは、鈴芽の想像に限りある不思議の国であるのかも知れないが、忘れ得ぬ「天気の子」然り、監督一流の華やぎがあって、それが、SFに情が通じるべくソフトを敷いている事も確かではある。
ただ、気になったのが、他のマスターピースから影響を受けたと思える、悪乗り、というかハイテンションであり、〇〇〇の猫と魔女のアオハル音楽とか、廃墟のような台湾風の街での出逢い、シン・ゴジラのようなオオミミズの背の部分とか、オマージュのオンパレードであって、それは、本作にあるオリジナルの、潤沢な物語や世界観の構築が観られた上での、強かな演出だと、逆に評価は出来るとは思うが、善悪よりも感性に生きて、発する、アーティストの悪乗りという感は否めないと思った。
九州は宮崎から始まって、運命の地に向かって、鈴芽達は流浪の旅をするが、その旅先での縁とか、出逢う人々の温かさにホッとする所があって、それでいて、リアリティがあって、「日本という国は大丈夫」だと、新海監督は言いたいのだろう事が、見て取れる気がした。恐らく、旅を通して監督もそれを実感として得た記憶があって、映画のリソースになっているのだと思う。2人に共通して居るのは、これが、楽しいだけの旅では無いという事だが、草太にとっては、錦を飾る帰郷へのロードムービーであるという事だ。約束の地は、鈴芽の心の故郷であり、また、深い心の瑕疵を付けた許されざる「日本人としての記憶」を、秘密として隠していたのが辛い。それは、人が等しく共感出来るもの、であり、また、ドアの施錠を通して、大きな存在のあしらい方を提唱するものであり、奇妙な事だが、一作のアニメが「日本人の心の瑕疵」のリベンジを果たしているという、細やかな心情への理解と、メディアとして功績のある一作である、と思います。
いくつものドアは、思わせぶりであり、誘って居るような不思議な魅力がある。聖なる場であり、とても悪いものとか、そのオーラが漂うような場には観えない。ドアの秘密が、その向こう側にあるのか、こちら側にあるのか、確かなのは、ドアの謎は、最初の鈴芽が暮らす九州の田舎町の、始まりの地、からだけでは観えて来ないという事である。日本古来の存在と言うか、独自の新解釈で聖なるものを捉え直して、可愛くデフォルメして居る背景には、彼らの旅が巡礼であって、それが堅物なだけにならない理由とは、とりもなおさず、草太自身のデフォルメであり、椅子になる事なのであろう。
ここにおいて、草太とダイジンとの追い掛けっ子が、「トイストーリー」のようであり、これは、はっきりと若者や家族層をターゲットに捉えている事がはっきりと分かる。日本の古い聖なる存在、それと、新しい物語を作る事で、今の地域が生きる場となり、その中にあるサークルとか、コミュニティとか、仕事を通した絆がそうなるかも知れない。鈴芽達が出逢う九州のみならず、遠い本土の街の人々、縁があった間柄の中には、何処かに秘密のドアがある、という事を示唆しており、日本を踏破して行くロードムービーであるのと同時に、大宇宙的な普遍性を秘めたSF物語である、という事である。
ドアが何処に繋がっているのか、それが、無限の宇宙というよりは、鈴芽の想像に限りある不思議の国であるのかも知れないが、忘れ得ぬ「天気の子」然り、監督一流の華やぎがあって、それが、SFに情が通じるべくソフトを敷いている事も確かではある。
ただ、気になったのが、他のマスターピースから影響を受けたと思える、悪乗り、というかハイテンションであり、〇〇〇の猫と魔女のアオハル音楽とか、廃墟のような台湾風の街での出逢い、シン・ゴジラのようなオオミミズの背の部分とか、オマージュのオンパレードであって、それは、本作にあるオリジナルの、潤沢な物語や世界観の構築が観られた上での、強かな演出だと、逆に評価は出来るとは思うが、善悪よりも感性に生きて、発する、アーティストの悪乗りという感は否めないと思った。
九州は宮崎から始まって、運命の地に向かって、鈴芽達は流浪の旅をするが、その旅先での縁とか、出逢う人々の温かさにホッとする所があって、それでいて、リアリティがあって、「日本という国は大丈夫」だと、新海監督は言いたいのだろう事が、見て取れる気がした。恐らく、旅を通して監督もそれを実感として得た記憶があって、映画のリソースになっているのだと思う。2人に共通して居るのは、これが、楽しいだけの旅では無いという事だが、草太にとっては、錦を飾る帰郷へのロードムービーであるという事だ。約束の地は、鈴芽の心の故郷であり、また、深い心の瑕疵を付けた許されざる「日本人としての記憶」を、秘密として隠していたのが辛い。それは、人が等しく共感出来るもの、であり、また、ドアの施錠を通して、大きな存在のあしらい方を提唱するものであり、奇妙な事だが、一作のアニメが「日本人の心の瑕疵」のリベンジを果たしているという、細やかな心情への理解と、メディアとして功績のある一作である、と思います。
2022年09月26日 21:35
王道の光と闇との戦い。呪い、という人生をゆがませる力、に対して、闇祓いをする若い呪術師達。乙骨憂太には、最強の怨霊がついて居り、様々な破壊をもたらした。呪術高専への入学とは、そんな危険を孕んだ憂太を助けるものであったが、テーマのシリアスさに対して、ストーリーのモラルは緩い。皆、自由であり、クールでキャラ立ちをしている。五条悟とか術師の教員も、義務感というよりは、自分の想うままに生きているようであるが、憂太にはそうした自由が無い。それは、彼の若者としての魅力を損ねるものだが、同時に、優しさでもあって、奇妙な事に最強の怨霊に、骨の髄まで惚れ込まれているのが、乙骨憂太という人の不思議であり、カリスマでもあった。果たして、彼は呪術高専にて何を学び、生き延びて行くのだろうか。
まず、怨霊とは、必ずしも、媒体を傷付けたり、命を奪うものでは無いようだ。憑りついて居る事でもあり、また、守って居る守護霊のようでもある。その正体は、憂太にとって何より大事な存在であり、幼くして出逢ったフィアンセであり、死せる折本里香という少女なのだ。この2人の関係は複雑である。何しろ、特級に類されるこの怨霊は、恐ろしい力を秘めており、あらゆる邪を破壊し尽くすからである。
ただ、憂太の素晴らしい事は、彼は呪いを受けているせいか、とても虚ろで、影のある存在であり、同級生からの苛めも受けているが、それを、最強の怨霊が全力を持って返り討ちにするのだから、まるで、赤子の手をひねるように簡単に守護をやってのけるのである。その破壊力とは、いつ、憂太にも降りかかるかは分からないから、この、修羅雪姫のような畏怖すべきフィアンセを、憂太は、心の底から信頼しているのである。それは、小心の裏にある彼の素晴らしい本質が明らかになる前から、分かる事である。
呪術高専に入って、憂太は自らを井の中の蛙、であった、と悟る事に成る。何故なら、そこには、先輩や同級生たち然り、呪いを武を持って抑える、能力と訓練を積んだプロフェッショナルに出逢い、思い知らされるからである。だが、それは、リアルタイムでの彼の弱さの二次証明に過ぎず、彼が絶対的な弱者だ、と言う事では無い。更には、その猛者たちの常識をすら、簡単に突き破り、徹底的な破壊をもたらす、里香の怨霊のインパクトは少しも陰らない。それどころか、天下に届く、その真の力、価値とは、実際に経験を積む事で、いよいよ、「本物である」と言う事が明らかになって行くだけだから、なのだ。
憂太のような普通の高校生が、何故、このような負荷を背負って居るのかは、明らかになって行くが、彼はアキレウスの腱である、最後の弱点であるのかも知れない。つまりは、里香の怨霊の強さに対して、憂太はその唯一の弱点に成るかも知れないのであって、実際に、その矛盾を見付け出して、ほくそ笑み、その「力」だけを欲したのが、ヒールである夏油傑である。力の信奉者であり、テロリストでもある。
だが、憂太は自身の力に対する迷いもあって、まず、「心」を求めて、求道へと歩を進めるからである。これは、一見、遠回りだが、その本質は、里香に対する純愛と一致しており、彼にとっての生命とは、まさにその愛と呪いの絆にあるからである。だから、力と心、とが必ずしも、反撥し合うとは限らないが、それでも、危険な我道に憂太が闇堕ちする事は、今となっては考えられないのだ。だから、彼が武、を発動して、生きる場を求めて行く事は、暗雲の垂れこめる策略を夏油が仕掛けて来る事に対する、生きる意志を開眼したと言えよう。
圧巻の戦闘シーンも、ロック音楽とリンクして、アクロバット満載であるが、リアルにこれは、無双状態であって、リミットが振り切れたような凄いアクションが目白押しである。憂太の守護をする里香とのシンクロは、よくあるような格ゲーの攻撃方法であり、コンビネーションだが、ジョジョのスタンドが最も近いだろうか。様々なケミストリーが垣間見えるが、この見るも恐ろしい怨霊と、美少女である里香との外見の違いは甚大に観えるが、2人のケミストリーには何の矛盾も無い。
美的なメンタリティが重んじられる求道であり、武士道のようでもあるから、このストーリーが古い世界、を基盤として居て、ナチズムの親玉のような夏油が新しい世界のラディカルで、古い世界を破壊し尽くそうとしている。
だが、新と旧、というのは、この主人公の相互的に守り合うパートナーシップにも共通しており、憂太が新、だとすれば、いわずもがな、怨霊は旧であり、現実の死を認めない、生前への未練によって呪い化して居る、と言う事であろう。そして、新と旧との融合とは、マスターピースにも観られ、映画「ラストサムライ」にて、心を呪われたオルグレン大尉が、命を張って時間を掛け、対話の努力を重ねた、その経験によって、熟して木より落ちる果実のような到達点があるのでは無いか。それを、リアリティとして具現するのは、対極の理想であり、その部品に過ぎない美的感傷とか、気の充実にあるのでは無いか。だから、本作における新と旧とは、必ずしもミスマッチでは無いのであって、むしろ、その融合こそが新たなる希望、だと言えるのでは無いだろうか。
まず、怨霊とは、必ずしも、媒体を傷付けたり、命を奪うものでは無いようだ。憑りついて居る事でもあり、また、守って居る守護霊のようでもある。その正体は、憂太にとって何より大事な存在であり、幼くして出逢ったフィアンセであり、死せる折本里香という少女なのだ。この2人の関係は複雑である。何しろ、特級に類されるこの怨霊は、恐ろしい力を秘めており、あらゆる邪を破壊し尽くすからである。
ただ、憂太の素晴らしい事は、彼は呪いを受けているせいか、とても虚ろで、影のある存在であり、同級生からの苛めも受けているが、それを、最強の怨霊が全力を持って返り討ちにするのだから、まるで、赤子の手をひねるように簡単に守護をやってのけるのである。その破壊力とは、いつ、憂太にも降りかかるかは分からないから、この、修羅雪姫のような畏怖すべきフィアンセを、憂太は、心の底から信頼しているのである。それは、小心の裏にある彼の素晴らしい本質が明らかになる前から、分かる事である。
呪術高専に入って、憂太は自らを井の中の蛙、であった、と悟る事に成る。何故なら、そこには、先輩や同級生たち然り、呪いを武を持って抑える、能力と訓練を積んだプロフェッショナルに出逢い、思い知らされるからである。だが、それは、リアルタイムでの彼の弱さの二次証明に過ぎず、彼が絶対的な弱者だ、と言う事では無い。更には、その猛者たちの常識をすら、簡単に突き破り、徹底的な破壊をもたらす、里香の怨霊のインパクトは少しも陰らない。それどころか、天下に届く、その真の力、価値とは、実際に経験を積む事で、いよいよ、「本物である」と言う事が明らかになって行くだけだから、なのだ。
憂太のような普通の高校生が、何故、このような負荷を背負って居るのかは、明らかになって行くが、彼はアキレウスの腱である、最後の弱点であるのかも知れない。つまりは、里香の怨霊の強さに対して、憂太はその唯一の弱点に成るかも知れないのであって、実際に、その矛盾を見付け出して、ほくそ笑み、その「力」だけを欲したのが、ヒールである夏油傑である。力の信奉者であり、テロリストでもある。
だが、憂太は自身の力に対する迷いもあって、まず、「心」を求めて、求道へと歩を進めるからである。これは、一見、遠回りだが、その本質は、里香に対する純愛と一致しており、彼にとっての生命とは、まさにその愛と呪いの絆にあるからである。だから、力と心、とが必ずしも、反撥し合うとは限らないが、それでも、危険な我道に憂太が闇堕ちする事は、今となっては考えられないのだ。だから、彼が武、を発動して、生きる場を求めて行く事は、暗雲の垂れこめる策略を夏油が仕掛けて来る事に対する、生きる意志を開眼したと言えよう。
圧巻の戦闘シーンも、ロック音楽とリンクして、アクロバット満載であるが、リアルにこれは、無双状態であって、リミットが振り切れたような凄いアクションが目白押しである。憂太の守護をする里香とのシンクロは、よくあるような格ゲーの攻撃方法であり、コンビネーションだが、ジョジョのスタンドが最も近いだろうか。様々なケミストリーが垣間見えるが、この見るも恐ろしい怨霊と、美少女である里香との外見の違いは甚大に観えるが、2人のケミストリーには何の矛盾も無い。
美的なメンタリティが重んじられる求道であり、武士道のようでもあるから、このストーリーが古い世界、を基盤として居て、ナチズムの親玉のような夏油が新しい世界のラディカルで、古い世界を破壊し尽くそうとしている。
だが、新と旧、というのは、この主人公の相互的に守り合うパートナーシップにも共通しており、憂太が新、だとすれば、いわずもがな、怨霊は旧であり、現実の死を認めない、生前への未練によって呪い化して居る、と言う事であろう。そして、新と旧との融合とは、マスターピースにも観られ、映画「ラストサムライ」にて、心を呪われたオルグレン大尉が、命を張って時間を掛け、対話の努力を重ねた、その経験によって、熟して木より落ちる果実のような到達点があるのでは無いか。それを、リアリティとして具現するのは、対極の理想であり、その部品に過ぎない美的感傷とか、気の充実にあるのでは無いか。だから、本作における新と旧とは、必ずしもミスマッチでは無いのであって、むしろ、その融合こそが新たなる希望、だと言えるのでは無いだろうか。
2019年02月21日 20:00
心から入る、という事があっても、恋愛に形は無い筈である。高校生の秋月孝雄は、都内の庭園に入り浸り、その廂の下で、心地良い時間を過ごしている。文才のある謎の女性、雪野百香里とそこで出逢い、孝雄は絵を描き、百香里は詩を歌う。才能が、対話の根幹を成しており、芸は身を活かす、という典型的な、才人同士の恋と言える。新宿御苑がモデルという庭園は、外の世界との境界を成し、駆け込み寺となっている。人生において、疲れを感じている、百香里と、若く向こう見ずでもある孝雄とは、非常に対称的であるが、それが、優しさに包まれる事によって、不思議な調和を成す。
出逢いは偶然であるが、そこに至るまでには、百香里は相当に苦労している。だが、そうした、人生における浮き沈み、というものを受けて、人は萎れてはいられない。教員を辞職したとはいえ、また、再起出来る為には、それまで、大切に守り育んできた自分というものの、在り処、原点に回帰する必要がある。何が大切で、何で生きて行くか。さしずめ、百香里には、自分の文才を鍛える事であり、メディアの才能というのは、自分の関心に従い、愛好し、学んでいた事が、どこかで、大きなテーマと繋がり、開花する事があるのだ。二人が出逢ったのも、百香里は失敗にもめげず、自分のライフスタイルの中で行動を続け、世界との繋がりを絶たなかったがゆえなのだ。
そして、記憶もまた、個人の中で眠りながらも、生きているものではないか。自分にとって、愛する人を見つけた事によって、人生が好転すると同時に、それまでの自分が押し寄せて来る。記憶とは、家族や学校、仕事など、生まれてから今に至るまでの連続したシークエンスであり、それは、知らず知らず、個人のバックボーンとなり、今に活かされているものだ。だから、それを想起する、という事は、それだけ、今の自分が好きになれる、という事で、その支えとなり、温故知新、新たな心の血となる記憶にすがる、という事でもある。
だから、孝雄にとって、百香里との対話において、過去が思い起こされる、というのは、人生の何処かで会った事が無いか、どこか懐かしさを感じるのは何故か、理由を、自分の中に求めた、という事である。そこには、神秘的な文人女性、という、自分の過去に出逢った人傑たちとも明らかに異なる、新たな愛があった、という事である。つまり、孝雄は、これから始まるストーリーに懸けるのと同時に、新たな出逢いに大いに惑わされている、という事でもある。
共に青春時代、学校生活には葛藤も、若さゆえの悩み、もあろうが、その日常に忙殺される生活の片隅に、この静謐な庭園の異空間は、救いの場所でもあった。そして、それは聖域であって、侵されざる場所である。そこを出る事によって、二人は、元のリアルの生活に回帰しつつ、より実践的な対話を始めるのである。そこには、二重の始まりがある。
出逢いは偶然であるが、そこに至るまでには、百香里は相当に苦労している。だが、そうした、人生における浮き沈み、というものを受けて、人は萎れてはいられない。教員を辞職したとはいえ、また、再起出来る為には、それまで、大切に守り育んできた自分というものの、在り処、原点に回帰する必要がある。何が大切で、何で生きて行くか。さしずめ、百香里には、自分の文才を鍛える事であり、メディアの才能というのは、自分の関心に従い、愛好し、学んでいた事が、どこかで、大きなテーマと繋がり、開花する事があるのだ。二人が出逢ったのも、百香里は失敗にもめげず、自分のライフスタイルの中で行動を続け、世界との繋がりを絶たなかったがゆえなのだ。
そして、記憶もまた、個人の中で眠りながらも、生きているものではないか。自分にとって、愛する人を見つけた事によって、人生が好転すると同時に、それまでの自分が押し寄せて来る。記憶とは、家族や学校、仕事など、生まれてから今に至るまでの連続したシークエンスであり、それは、知らず知らず、個人のバックボーンとなり、今に活かされているものだ。だから、それを想起する、という事は、それだけ、今の自分が好きになれる、という事で、その支えとなり、温故知新、新たな心の血となる記憶にすがる、という事でもある。
だから、孝雄にとって、百香里との対話において、過去が思い起こされる、というのは、人生の何処かで会った事が無いか、どこか懐かしさを感じるのは何故か、理由を、自分の中に求めた、という事である。そこには、神秘的な文人女性、という、自分の過去に出逢った人傑たちとも明らかに異なる、新たな愛があった、という事である。つまり、孝雄は、これから始まるストーリーに懸けるのと同時に、新たな出逢いに大いに惑わされている、という事でもある。
共に青春時代、学校生活には葛藤も、若さゆえの悩み、もあろうが、その日常に忙殺される生活の片隅に、この静謐な庭園の異空間は、救いの場所でもあった。そして、それは聖域であって、侵されざる場所である。そこを出る事によって、二人は、元のリアルの生活に回帰しつつ、より実践的な対話を始めるのである。そこには、二重の始まりがある。